神様が用意して下さったイエス・キリストの十字架と復活による救いを私達自身のものとするために、聖書が私達に求めていることは、ただ信仰---イエス・キリストは私の救い主です、と信じること---だけです。
私達は、神様の救いの御恵みへの応答として、信仰によってキリストを受け入れればよいのです。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、 自分自身から出たことでなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ人への手紙2:8〜9)
キリストを信仰によって受け入れるとはどういうことでしょうか。・・・今までの自己中心の生き方(つまり神様ではない方を向いて生きてきた人生)から神様の方に方向転換し(これを「悔改め」と言います。悔い改めとは、方向転換のことです。だから「回心」とも言います。)、神様と共に、神様の導いて下さる本当の人生を歩もうと決めることです。
イエス・キリストが救い主であると頭で認めるだけでは充分ではありません。聖書は、信仰の応答を求めているのです。
信じれば救われる、となぜわかるでしょうか。周囲のクリスチャンを見てでしょうか。自分が新しい人に変わったという実感でしょうか。確かに神様が共におられるのだと示すような体験でしょうか。「救われている」という感情でしょうか。・・・その一つ一つも、人生において大切なことですが、私達の救いの根本的な保証ではありません。なぜなら、人間的なものは、全て時と状況と共に変化していく頼りにならないものだからです。
そうではなく、私達の信仰が裏切られない保証は、神様とその御言葉である聖書にあります。「神様が聖書の中でそう約束しておられる」ということが、永遠に変わらない、どんな時にも揺らぐことのない、私達の保証です。
それは、聖書によれば、次のような神様の御恵みが伴う人生です。