人は本来、神と交わり、神の愛を受け、神の計画と調和して生きる者として創造されましたが、全ての人は神から離れ、自分の道を進みました。それで神との交わりが断たれたのです。
意識的な反抗にせよ(つまり「神が何だ」「神など信じるものか。従うものか」という思い)、消極的な無関心にせよ(つまり「私には関係ない」「放っておいて」という思い)、神を神と認めず、神に背を向けたこの自己中心を聖書は「罪」と呼んでいます。
「罪」を表わす聖書の言葉(ギリシャ語の「ハマルティア」)の元々の意味は、「的外れ」ということです。
つまり「罪」とは形に現われた犯罪とか不法行為だけではなくて、「本来の姿にない」ことを全て罪と言うのです。例えば、…神を神としない。自分の人生を本来の姿に生かしていない。喜ぶ者と共に喜ぶはずなのに他人の不幸を喜ぶ。夫婦愛を他の異性に向ける。…全ての「的外れ」が私達の人生を傷つけ、神から頂いているはずの本当の命を失わせていることに聖書は気付かせようとしているのです。
人間は、的外れの人生の空しい味わいからの解放を求めて、様々な試みをして来ました。
・・・宗教、哲学、修行、道徳、教育、科学技術、思想・・・人類の歴史の中で、どれだけたくさんのものが試みられてきたことでしょうか。
しかし、そのどれも、「解決」をもたらしはしませんでした。人間に本当の「満たし」を与えはしなかったのです。むしろ、人間はしょせん人間であり、神ではないことを思い知らせ、人間と神との間の越えがたいギャップをきわだたせるだけだったのです。
人間は、神になることはできません。神に人間の側から届くことはできないのです。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ人への手紙3章23節)
「罪から来る報酬は死です。」(ローマ人への手紙6章23節)