「いま教会を考える」

――召された者の務め――

(渡辺信夫)


東京基督教学園同窓会(1997.10.20.)にての講演

1

今日の講演の題として私に課せられたのは「いま教会を考える」というものであるが、同じ題の書物があるし、その本の初めにこれと同じ題の講演が収録されている。それを承知の上で、この題に決められたのはどういうことかと考えて見た。もう一度同じ題で語らせて、その語るところを確かめようという主旨であろうかと推量した。

同じ題であるから、同じことしか話せないはずであり、一時的な思いつきで語ったのでないから、歳月が経過しても言うことに変わりはない。だが、私が信州の上田でこの題で講演したのは5年前である。「今」というその時が違う。教会をめぐる状況で、この5年間に良くなったことは一つもなく、全てが悪くなった。真理に関わることを語るのであるから、変わらない面があるとともに、置かれた状況の違いに則して、新しく見えて来たことがあるであろうし、前とは別の言い方もされるであろう。私自身も地上の生を長らえさせられたからには、それなりの歩みをして、生きて来たのであるから、多少の成長の跡をを示して、生きていた証としなければならない。

そこで、先の時とは視点を変えて、召された者として教会を考えることにした。断わるまでもないが、教会のあらゆる問題を一望のもとに捉えようと企てたものではなく、教会を考えるいとぐちであろうと志すに過ぎない。

2

「いま教会を考える」という主題を今また突き付けられるのは、今日、教会について、一種いいようのない不安が我々を覆っているためではなかろうか? その不安は日ましに深まっている。ある人々は教勢の不振というところからこの不安を感じないではおられない。それは多くの人の共通に感じるところであるが、不安の根は教勢の不振といったような表面的現象よりもっと深い所にあると思う。

むしろ、無力感・脱力感・喪失感が教会に漂っていて、教会の勢いをなくしているのがみられる。伝道の不振もその現われの一つである。我々の時代のキリスト教思想もまた貧困になった。教会の掲げるべき真理の問題をめぐって、教会内に真剣な探求や討論がなされることは絶えてない。

救いを求めて教会の門を叩く人が今もいるにはいるが、昔と比べるとズッと少なくなった。それでは、真面目にモノを考える人がいなくなったのであろうか? そうかも知れない。こういう飽食の社会に真剣に考える人は生きられなくなるものである。だが、必ずしも人がいないわけではないと思わせられる局面もある。すなわち、教会の外を見ると、例えば、戦争で身体と心に痛手を受けて未だに癒されない他国の人の名誉回復と癒しのために運動している人がいる。また、明日の世界に少しでも傷つくことの少ない地球を残そうとして黙々と働いている人がいる。それらの運動家が全部立派だとは言わないが、クリスチャンよりも真剣に生きているのではないかと思われる人と出会う場合が事実少なくない。そのように、人はいるにはいるが、彼らは教会に来ない。教会に求めるものが何もないからである。

彼らが真に求むべきものを求めていないと批判することは出来る。その批判は正しいと私も信ずる。終わりの日にそれは明らかになるであろう。しかし、そう言うならば、返す刃で、教会に集まる人は、真に求むべきものを求めて来ているのであろうか? と問わなければならない。これも終わりの日を待たなければ、早まった判断を下せないが、そうでないことが見透かされているから、求める人の目に、教会は引きつける魅力を感じさせないのではないか? 本当に求めている人が聞けば、嫌悪感を催して逃げ出すような、安手な甘い話を喜ぶ程度の人々の集団としてしか教会は見られていないのではないか? 今まで、そういう話に我慢できる人が教会を支えて来たが、そういう素直で我慢強い人がドンドン少なくなっている。

かつて日本全国が戦争に夢中になって、教会でさえ講壇の上から日本軍の勝利を礼賛していた時、救いを求めて教会に来ていた人が躓いて教会を去ったという実例がある。教会はそのことについて戦後もキチンと自己点検せず、去って行った人に問題があったとしか見なかった。こういう教会は、平和と見られている時代の中で、また同じような過ちを繰り返しているのかも知れない。

3

危機は教会だけではなく、全世界を覆うものである。例えば、これまで「お上」と尊ばれて権威を振りかざしていた政府が、信用の置けないものになっていることを人々は見抜いた。実際、全ての問題について政府は責任回避しか考えず、問題への対応は遅れている。NGOという組織でなければ危機に対処出来ない。

また例えば、学校が教育機能を失って崩壊して行く。もはや教育は学校に任せられない、という思いを多くの親たちは持ち始めた。さらに、家庭が崩壊して、これまで人倫の根幹と言われ、そこに信頼の置かれた夫婦や親子の関係が成り立たなくなった事例が急激に増えている。

制度としての教会も動脈硬化を起こしている。また、教会内の公的機関が十分機能しなくなり、公的機関でない教会内の危機意識を持った有志の運動体のようなものが肩代わりして急場をしのいでいる。これが新しい教会の在り方を示すものか、古い教会の崩壊を食い止める最後のあがきなのか、私には見通しがつかない。とにかく一言で言えば、人間と人類社会の全面崩壊が始まっているのだ。

人間崩壊の時代にこそ教会の本来の使命があると論じることは困難ではない。確かにそれは正論だ。しかし、現実には教会はこの危機と対決するだけの力を失っており、その力を取り戻そうという気力すらなく、ただ成り行きに任せて、流されて行くだけの、アイデンティティーを失った存在である。キリスト教の霊的指導者はもういない。思想的に屹立する指導者も教会にはいない。活動も低迷し、感覚的にも鈍くなってしまった。現代の危機に対する教会一般の感覚は、ノンクリスチャンの間におけるよりもむしろ鈍い。教会は感覚を失い、活力を失い、機能を失ったと言うが、教会としての生命すら失ったのではないだろうかとの恐れを禁じえない。

これまで、教会はキリストの恵みのもとにあるのだ。聖なるもの、永遠なるもの、この世とは別のものなのだ。我々は救われたのだ。という安心感が教会に満ちており、この安心感のことを「信仰」と同じに見る錯覚が通例であった。この安心感が崩れて行ったのである。

政府が頼りにならぬものであると感じた人々は、非政府組織を作って活動を始めた。学校が信頼出来ないと見て取った人たちは脱学校の教育運動を始めた。学校なしで学ぶ人たちが増えている。実際、学校なんかなくても人間は成長する。学校以上の教育機能を持つ人間関係や機関がある。

それでは、教会が頼りにならないから、脱教会のキリスト教的信仰運動を起こして行くべきだということになるか? そういう見解もあり得ると思うが、私の知る限りでは、脱教会は脱信仰にほかならない。すなわち、教会に繋がれることによる訓練がないところでは運動は自滅して行くのである。教会に行かなくても、教会に行く以上の確かさで、自らの救いを捉える機関があると主張する人もいると思うが、余りその声は聞こえてこない。教会に頼らずにやって行けると言うのも、ただの独り善がりの言い分であって、この動きそのものも現代では精神的に沈滞していることは隠せない。既成教会を批判する人も、批判される教会以上にいい加減なことをして、結局は自分が批判されて消滅する結末になるのだ。総じてキリスト教の魅力が失われているから、敢てキリスト教を名乗って新奇な説を唱える人もいない。

世紀末の現象として疑似宗教があちこちで起こり、それで満足できる人々の欲求を一時的に満足させることはあろう。これを時代の新しい兆候ということは出来ない。すなわち、これは一時的なもので、さまざまの偽りを暴かれて消えて行くに違いない。すべてが世紀末的な行き詰まりの様相を呈している。

ただイエス・キリストだけが希望だということは出来る。それは正しい答えである。だが、これが正しい答えだと信じるならば、そう信じているだけの生きざまを示さなくてはならない。ところが、キリストを信じると言う人々は、現実には無力で、無気力なのだ。信仰が観念に過ぎないから、力にならないのだと思う。自分の無気力を知るから、大きいことは言えず、この世の片隅でつつましく生きることしか出来ないと感じているクリスチャンが多いようである。

4

「我は教会を信ず」と教えられ、唱えて来たことが偽りであったのか? そうではない、と我々は言い切らなければならない。だが、このように言う以上は、それが単なる強がりや思い込みでないことを証明しなければならないであろう。だから、教会とは何か、信ずるとは何か、教会を信ずとは何か、これを考えずにおられなくなっている。「いま教会を考える」という課題の前に立つ我々の状況はこれである。

ただ、「考える」だけでは決着しないということを弁えておこう。説明して、納得させることは出来たとしても、ただそれだけであって、病いは癒えないのである。教会論とは教会の説明ではなく、ましてや教会病理の解釈ではなく、教会を癒すこと、教会を本来の教会たらしめる主の御業への奉仕である。

教会を信ず、と言う時の「信ず」が真の意味では捉えられず、観念、しかも極めて曖昧な観念になっている。それで、これまでは余り破綻を感じなかったから、クリスチャンという人々は自分に信仰があると思っていた。だが、全てが崩壊して行く中で、お前には本当に信仰があるのか、信仰があると思っているだけではないか、と問われるようになった。これはまた、教会は信仰を与える務めを果たして来たかという問いでもある。何となく分かったような感じを抱かせる話はしていたであろうが、それは揺るがぬ確認としての信仰ではなかった。

そこで、重要なことは教会の生命そのものの回復であるが、先ず教会の機能回復について考え、そのためには教会の本来の務めは何であるかを明らかにしなければならない。

教会の本来の務めの第一は御言葉を語ることである。単なる宗教的な話でなく、主なるキリストの言葉を語り、キリストの主権のもとに人々を服従させ、悔い改めをさせることである。語るということの中には、聞かせる、すなわち御言葉による支配を聞く人の内面に浸透させる、という意味まで含まれる。言うだけのことを言ったから責任は果たされたと思ってはならない。

一つ、キリストの言葉が語られさえすれば人を引きつけて集めるとは必ずしも言えない点を考えておこう。キリストの御言葉で多くの人が集まったが、また実際、多くの人がキリストのもとから去ったことを聖書は伝えている。それと同じように、我々のもとを去る人々がいる。彼らがキリストによって去らせられたのだと弁明するならば、それは責任回避の詭弁にほかならない。それにしても、人が集まらないこと、また人が福音を真実に聞かない事情を、我々の無能や怠慢だけで説明することは出来ないであろう。――ともかく、我々は「時が良くても悪くても」御言葉を懸命に語れば良く、そうするほかない。

今はその悪しき時代なのだ。悪しき時代であっても、良き時代にあるのと変わらぬ喜びと励みをもって務めを遂行しなければならない。悪しき時代であるために意気沮喪するということであれば、時代の悪を問題にする資格はない。我々自身の問題を検討しなければならないのである。

5

パウロはミレトにエペソの長老たちを呼び寄せて決別する時、「御言葉があなたがたを建てる」と言った。建てるとは、一人一人の信仰を建て上げることであるとともに、教会を建てることでもある。御言葉によらなければ信仰は生まれず、教会は建たない。この「建てる」という言葉が教会を理解するキーワードになる。イエス・キリストも「私が教会を建てる」と言われたのである。

パウロはまた、それに続いて「御言葉には御国を継がせる力がある」とも言う。すなわち、神の国に入れる力は御言葉にこそあると言ったのである。だから、キリストは「私は私の教会を建てる」と言われた時、続いて、あなたに天国の鍵を授ける、と言われた。天国の鍵とは、あなたが地上で解くところは天国でも解かれ、あなたが地上で繋ぐところは天でも繋がれるという、謂わば天国の出先機関のような権能を指すのであるが、それは教会がその権能を振るって、赦される人と赦されない人とを選り分けるということではない。カトリックはそのように理解するが、プロテスタントの我々は、この鍵とはキリストの福音そのものであり、福音の言葉に権能があると信じる。御言葉を語るとは、それによって天国の権能が行われることである。

御言葉を語るとはどういうことか? キリストがこれを語るように我々に託されたのであるから、託したもうた主の御旨にしたがった宣教をしなければならない。それは主の御言葉を間違いなく語ることであろう。主が語らせようとしておられる言葉を曲げず、損なわず、水増しせず、洩らさず伝えなければならない。

しかし、どのように語るのが正しいのか。このことで説教者たちはそれぞれ苦闘していると思う。正しく語ることの中には正しく聞かせることが含まれると言ったが、聞かせるために苦心する人は少なくない。どう語れば良いかについて、私には何も教えるものがない。私として心掛けているのは、誠実な文体で語ることだけである。問題は巧みな話術でなく、中味であると言うほかない。パウロはIコリント2:4で「私の言葉も私の宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によった」と言う。霊と力については後で見るが、巧みな言葉は必要ないのだ。ただ、語るべきことを語らなければならない。

ところが、中味は間違っていないけれども、それで説教になっているわけでないというのが今日の教会の問題の一端であるように見受けられる。教理的に間違っている場合も確かに多い。だが、今日の主題でないから、このことを取り上げない。ただ、教理として何も間違っていないけれども、言葉が上滑りして、聞く人を健全に建て上げていない場合がある。

聞く側に問題があるかも知れない。人々はつねに聞きやすい言葉を好む。人を教会に招こうとして、彼らの耳に逆らうような言葉を語る人はいないであろう。だから、教会に来始めたからには、甘い言葉を期待し続けるということになりやすい。そういう人は健全な教理と聖書の言う教えを聞きたがらない。

人は生来一種の宗教心を持っていて、それと謂わば波長の合った話を聞くと、感動して、それを信仰だと思い込む。だからその波長に合わせるような説教を求める。しかし、イエス・キリストが「汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」と言われた福音は、明らかに彼らの宗教心とは波長が合わない。また「人は新しく生まれなければ神の国を見ることは出来ない」と言われた。新しく生まれるとは、古き人に死ぬことである。以前からの観念を持ったままでは、神の国を見ることは出来ない。古い傾向を捨てさせる説教が行われなければならない。

特にこの日本の国で、人々は曖昧な神観念を持っており、それと波長の合う言葉だけを受け入れがちである。罪を赦す神という観念は受け入れるが、罪を裁く神にはなじまないメンタリティーがある。現代のキリスト教の説いている福音には日本的なものに同調し過ぎている嫌いがあるのではないか? 御言葉、御言葉、と気安く言われているが、慣例からそう呼ぶだけの、悔い改めを呼び起こさないただの言葉である場合が多い。

聞きやすい言葉に惹かれて教会に来始めた人でも、「汝らこれに聞け」との御声に迫られて、キリストの言葉を聞くように切り替えるであろう。その切り替えをさせないで、好まれる言葉を与え続ける説教者は、乳離れさせず、堅い食物を与えずに、子供の成長を止めてしまう愚かな母親のようなもので、聞く人の破滅を準備しているだけなのだ。つまり、聞く人の好みに合わせた話をするのでなく、遣わし、語らせたもう主の御意向に沿った告知を語らなければならない。すなわち、聞く人を救う力のある救いの教えである。

これは教理を間違いなく伝えるということであろうか? それとは少し違うと思う。確かに教理は正しく伝えなければならない。パウロが「もしあなたがたが、徒に信じないで、私の宣べ伝えた通りの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである」とIコリント15:2で言う通り、伝えるべき教えが救うのである。言葉を聞いて信じるのであるから、聞かされていない言葉があれば、その分だけ信仰は空白になる。それでは天国への道がそこだけ切れていて、救われないかも知れない。ただ、今日は教理をテーマにするのではないから、健全な教理が如何に必要か、それが現在どんなに乱れているかについて論じることは省略しなければならない。

しかし、言うことは一応欠けていず、間違いないが、語られる言葉がスーッと魂の底まで届かないという事例がある。ここでも勿論、聞く側の問題である場合がある。しかし、語る側の問題である場合も少なくないのではなかろうか? 非常にハッキリ言うならば、「この説教者はうまい話しをするが、本気で信じてこう語っているのだろうか」との疑念を聞く側に起こさせる説教、あるいはそれに近いものがある。

内容的に間違いのない説教を人に作ってもらって、その原稿を読み上げれば、間違いのない説教になるのであろうか? 朗読説教、あるいは説教集の朗読がある。説教者がいない緊急の場合には悪いとは言い切れないが、説教者の召命について二つのことを考えたい。第一は、キリストが御言葉の仕え人に託したもうた言葉は、厳密に言えば、生きた言葉であって、文字あるいは文書ではない。文字にした限りでは間違いがないとしても、十分な意味では主の託された言葉でない場合があるということを考えなければならない。

第二に、神の言葉は神が御言葉を託すために召したもうた人によってしか語られないが、主は血肉の人間を召してその務めにつかせたもうた。これは人間だから間違いを犯すという意味で言ったのではない。召されたのは人間丸ごとなのであって、人間の存在の一つの部品が召されたのではなく、人間の機能の一部分だけが御言葉の宣教のために割り当てられるというのではない。常住座臥ことごとくが福音を宣べ伝える器に相応しく成りきらなければならない。ということは、召しに関わること以外を徹底的に否定しなければならないということであろうか。そうではないと思う。主は人間を召しておられるのであって、木石あるいは操り人形を立てておられるのではない。謂わば、我々はスピーカーであるが、良いスピーカーは直接音を発する部分だけでなく、一見音響と関係ないと思われる部分にも良質の材料が使われる。すなわち、そのスピーカー全体が最も適切に共鳴するようになっているのである。そのように、福音宣教に召された者は、肉体の全部分と生活の全体を挙げて、福音に最も良く共鳴するように整えなければならない。口は福音を一応語っているけれども、体の方は必ずしも福音に共鳴していないというようなことでは、音響効果が悪くて、声は良く通らないであろう。

このことと関連して、「修練」ということと、「思いめぐらす」ということとを取り上げたい。修練と言うとイカツイ、モノモノしい感じがするかも知れないが、非常に単純なことだと私は思う。平たく言えば練習である。エクササイズである。喩えて言えば、我々が漢字を一つ新しく習ったとする。字の意味、その成り立ち、読み方は分かった。では、書けるか? 読めるけれども書けない場合が多い。どうすれば良いか? 練習すれば良い。今日、ワープロが普及して、練習しなくても字が書けるようになってしまった。そのため、文字の使い方が分からないままに文章を書く人が増え、言葉の使い方も分からなくなっている。現代はエクササイズを疎んじる時代のようである。これも信仰の危機と無関係ではない。

文法でも、数学の公式でも、分かっただけでなく、エクササイズを課せられなければ習ったことは身に付かない。救いの原理も同じではないか? 救いの教理は分かっている。その通りだと信じてもいる。けれども、生活の現実はその通りには動かない。なぜか? 修練がないからである。キリスト教が修練を忘れて久しくなる。これを取り戻すことを真剣に考えなければならない。だが、今は説教者の修練だけを取り上げる。説教者の修練の回復から始めなければ何も出来ないのではないか?

この修練の中で大きい部位を占めるのが、第一に祈りであることは言うまでもないが、祈りそのものも修練を積まないと、祈りは大切だということが分かっただけで終わる。修練に関連して、「思いめぐらす」ということも重要ではないだろうか? 聖書の中にも「思いめぐらす」という言葉はしばしば用いられている。例えば、主イエスの生まれたもうた時、ベツレヘムの羊飼いが御使いの告知を聞いて飼葉桶の嬰児を訪ねて語った夜、マリヤはこれらのことを悉く心に留めて思いめぐらした。これは心の中で反復したという言い語である。

思いめぐらすとは、みだりに、取り留めもなく、あれこれ考えることではなく、与えられた御言葉について、繰り返し思い起こす、沈思・瞑想する、その意味を問い、かつ掘り下げる、内面化する、確認するという意味を含む。聞いただけでは、忘れることもあろうし、せいぜい聞いた内容でなく聞いた時の印象が記憶に留まるに過ぎない。御言葉を聞いた感動を回想しても何にもならない。

主イエスはヨハネ伝14:26で、「助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、私が話しておいたことを悉く思い起こさせる」と言われた。この「思い起こさせる」は「思いめぐらす」と全然別の言葉であるが、内容的にはかなり似ている。同じものとして扱って良いと思う。キリストが弟子に語って下さった昔を回想して懐かしむのではなく、その教えが内に力を発揮するということを約束されたのである。それは御霊によって行なわれる。

思いめぐらすことはそれだけで内面のエクササイズである。そして、思いめぐらすことによって、語られたことを現実化し、我々の生活の全面に適用するのである。こうして、御言葉が我々の全存在に浸透し、我々の体の各部分が御言葉に良く共鳴するように整えられる。だから、説教者は語る言葉を先ず自分自身の内面に思いめぐらさなければならない。

思いめぐらすことは、そのまま教会についても適用される。「教会を考える」とは主として思いめぐらすことである。教会について哲学的に思索することではない。イエス・キリストの口から出た「教会」という言葉、使徒の語った「教会」、そして世々の聖徒たちが「我は教会を信ず」と告白しつつ語った教会、これについて思いめぐらすことによって教会論は準備される。このことは、あとでさらに論じる。

6

御言葉を語ることについてもう少し続ける。

我々の体と全生活を御言葉を最も良く鳴り響かせる謂わば共鳴板とする修練は御言葉を語る備えに属していて、語ることそれ自体ではない。語ること自体については、新約聖書の中に屡々出てくるのであるが、御言葉を、憚らず、ハッキリ、大胆に、公然と、思い切って、あからさまに、語ることである。ここには「パレーシア」というギリシャ語が用いられているが、これは蛮勇を振るってというような人間的な態度ではなく、御霊の働きである。

先程、巧みな知恵の言葉によらず、霊と力の証明によった、とのパウロの言葉が引用された。福音は人間の言葉の巧みさによって受け入れられ、聞く人の心に浸透するのではない。さらに言うならば、語る人の誠実さの引き起こす感動のゆえに信ぜられるものですらない。(もっとも、語る人間が誠実でなくて良いという意味ではない)御霊の力により、証しを伴って、聞く人が信仰の服従をせざるを得なくされるのである。

神の業はイエス・キリストを世に遣わすところまでで、それから先は、神の恵みに答える人間の努力だという分担があるのではない。神の恵みを人の心に刻む業も神の業としてなされる。神が福音の仕え人を立て、これを遣わし、語らせ、その言葉を神ご自身の御霊によって証明し、定着させたもうのである。こうして、神ご自身の業として信仰が生じる。

さて、教会について考えるとは、どのように考えることであるかを見たい。先ず、「信ずる」ことと「考える」こととの関係はどうであろうか? 「ただ信ぜよ、ただ信ぜよ」と教えられたために、考えることは不信仰であると思うようになっている人がいるが、先程見たように、思いめぐらすことは信仰生活にとってむしろ必要なのだ。考えることによっては信仰に到達出来ない。けれども、信仰を与えられた者は考えることによって恵みを追認し、信仰の修練を積むのである。考えることが深ければ深いだけ、御言葉の適用が行き届く。考えることが浅ければ、不信仰とまでは言えないとしても、御言葉をよく適用していないままの人生を生きることになる。

教会について考える時も、「我は教会を信ず」という信仰告白を越えることは出来ないが、信ずと言っていることを内実化するのである。

ついでに、考えることと学ぶこととの関連はどうなっているかに触れておく。学ぶことも必要である。学んでいなければ考えることも出来ない。しかし、学ぶことと考えることは別であって、学んだけれども考えない人もいる。では、教会について学ぶとは何を学ぶのか? 第一に聖書が教会について語った言葉である。第二に世々の教会が教会について語ったことである。

教会を考えるとは、教会に関するさまざまな経験について考えることではない。もし、こういうことなら、教会について余り経験のない若い伝道者は何も思いめぐらす材料がないではないか? 確かに、経験は時に考えるに有利な条件ではあるが、正しく考えないなら、むしろ不利な条件になる。私は年数から言えば50年近い牧師の経験を積んでいるが、今日の講演ではこのような経験については一切触れないで置こうと思う。

私はまた理論的に考えることについては余程慎重を要すると言っておきたい。先程、哲学的に教会を考えることは要らないと言ったが、社会学的に考えることも不必要である。教会は一種の社会であるから、社会学の理論にのっとって考えることは出来る。教会が社会学の理論で説明される一面を持つことは確かである。しかし、社会学理論によって考えることは我々の今日の課題ではない。社会学は救いを論ずることが出来ない。

そのように、考えるべき第一のことは、教会について聖書の語る数々の言葉である。わけても、主イエス・キリストが「私はこの岩の上に私の教会を建てよう」と宣言された事実である。主が「私が建てる」と言われる。「私の教会を」と言われる。教会について考えることは、一から十までキリストに関わることである。キリストの手から離れた教会を考えることは出来ない。

「あなたの教会を建てなさい」と言われたのではない。「あなたが建てなさい」と言われたのでもない。キリストの教会がキリストによって建てられるという点が最も重要である。この点を見落としたなら、教会論にならないで、教会ならざる何物かについて論じるだけである。

7

キリストの来臨は旧約の中で予告されており、彼は予告された通り肉体をとって来臨され、苦しみを受け、三日目に甦りたもうたのであるが、彼の来臨の一連の出来事の中には、彼ご自身による教会の建設が含まれている。だから、ルカ伝24:47-48にはそのことに続いて「そして、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である」と語られる。あなたがたはこのことの担当者になる、と言われたのではなく、証人だと言われた。旧約の書に預言されていた一連のこと、すなわちキリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中から甦り、そしてその名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって全世界に及ぶことは、キリストによって成就され、あなたがたはその証人なのだと言われるのである。

使徒が主の復活の証人であることは、使徒行伝1:22でペテロが言う通りであるが、それと主イエス御自らが「これらのことの証人である」と言われたことと矛盾するものではない。「私は教会を建てる」と主の言われた言葉を覚えているだけでなく、主が建てたもう事実を見て証言するのである。

教会は旧約から新約に至る一貫した約束に基づいて建てられた。そうでなければ、預言者が来たるべき日のエルサレムの栄光について語ったことは意味をなさなくなる。教会が建てられること自体が約束の成就である。我々はそれを見、それに奉仕するために召されている。教会をこのように神の救いの御業の中で捉えることが欠けると、教会形成の営みが人間の事業になってしまう。人間の事業はどんなに栄えて見えたとしても、終わりの日に滅びるのである。

我々は聖書に基づいて説教をしている。聖書は我々の上にある権威である。聖書を参考にして我々が判断する資格があるわけではない。だから、ある面では、聖書の言葉は雲の上の言葉で、我々の語る言葉は地上の言葉だと言うことが出来る。しかし、もう一面、今の時代に神は我々を用いて救いの御業を遂行しておられるのであるから、我々が聖書の続きを行くということもまた正しい。我々が聖書に書き足すのではなく、預言は完結したのであるが、御言葉を語ることは完結していない。神は世々に亘って御言葉によってその民に語っておられ、今の世については我々の説教を通して語りたもうのである。聖書は神の言葉であるが、聖書の説き明かしである説教も神の言葉であると宗教改革者が語ったことは深い意味を持つ。そのことを軽々しく、あるいは身勝手な権威付けとして受け取らないためには、この光栄ある使命が何であるか、語る器が何であるか、語る方法がどうなければならないか、について絶えず思いめぐらすことが必要だと思う。

さらに、今日は時間がないので触れることが出来ないが、説教に聖礼典が結び付いていることについて思いめぐらす大切さを一こと訴えて置きたい。教会の中に持続される生命を確認させるために、洗礼と聖晩餐は不可欠なのである。「主の死を示して、その来たりたもう時に及ぶ」と言われる連続性があり、そこで明らかにされるのはキリストの十字架と再臨である。

「この岩」の上に建てると言われた。これは主がシモン・ペテロに対して「あなたはペテロである。岩である」と言われた言葉に続くのであるから、岩であるペテロを土台として教会が建てられると受け取る人もある。しかし、ペテロが土台であると言うなら、それよりも、キリストが土台であると取る方が遥かに適切である。実際、キリストが隅の首石だとペテロ自身が使徒行伝4:11で語っている。さらにペテロは旧約のこの言葉に彼の第一の手紙2:4で言及したのに続いて、「あなたがたもそれぞれ生ける石となって霊の家に築きあげられる」と言う。このようにペテロは主が尊い石であり、それが隅の首石であるとともに、あなたがたも生ける石となるのだと言って、自分が特別な石であるということは取り上げなかった。

確かにペテロの上に教会が建てられることはない。彼の告白した信仰にこそ注目すべきである。ピリポ・カイザリヤの時、ペテロに向かって「岩」と言われたのは、その直前に彼が「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白したのに対するキリストからの応答である。キリストが約束に基づいて来たもうたとの信仰のないところには教会は建たない。

教会は信仰によって立つのだから、「教会は聖徒の交わりである」と世々の教会は言って来た。すなわち、聖徒とは、信仰者、神の子として再生され、聖別され、義とされた者のことである。この人たち一人一人がどういう恵みの状態に置かれているかを把握することも教会を考えることの一部である。

8

教会は聖徒の交わりであるという言葉についても思いめぐらさなければならない。どこの教会でも「交わり」が強調される。それは当然である。しかし、和気藹々とやっているというだけでは、悪いことではないとしても、それは「我は信ず」と言っている教会の交わりではない。仲良くするだけなら、悪党たちもしている。バベルの塔を建てようとした人たちは心を合わせて一つの仕事に邁進した。神はこれを却下された。

交わりという言葉は一つのものを共有するという意味であるが、我々は何を共有しているのか? キリストを共有しているのである。キリストが御言葉によって伝達されるから、キリストを共有することになる。そして、キリストを共有することによって、キリストにある全ての祝福を共有することになる。

「キリストは神に立てられて、我々の知恵となり、義となり、聖となり、贖いとなられた」とIコリント1:30に言われるその知恵、その義、その聖、その贖いを我々は共有する。それが教会なのだ。ただ霊的な恵みだけでなく、この世で受ける物質的な恵みも偶然に来たのでなく、キリストから受けたものである。だから、キリストから受けたものを互いに分かち合う。

信ずる交わりは目に見える範囲を越えるのである。見える範囲で仲良くしていることは、交わりを信じる信仰の証しとしては足りない。遥か遠い国の、見ていないどころか聞いてもいない信仰者のいることも信仰によって捉えなければならない。したがって、身近なところにいる人への奉仕だけを考えてはならない。

まだこの世に生まれて来ていない信仰者との信仰における繋がりも信じなければならない。

すでに世を去った信仰者との交わりもある。ということは死人と交流すると謳っているオカルトの問題ではない。具体的には過去の時代からの信仰の遺産を受け継いでいる事実を大事に考えることである。「教会を考える」という場合、この面が重要視されねばならないのではないかと思う。過去に囚われてはいけないのであるが、過去から多くの学びを得ている点も忘れるべきではない。

プロテスタント教会はカトリックに対抗して教会の伝統を却け、聖書の権威を重んじる。それはそれで正しいのであるが、それは伝統は基準にならない、まして人間の言い伝えは人の良心を拘束することは出来ない、という意味である。実際、教会の中に世代から世代へと信仰が伝えられてきた事実を軽んじるならば、それは独善であって、信仰そのものがおかしくなっているのではないか?

ヘブル書の著者が、我々は雲のような証人に見られながら、馳せ場を走ると言うが、これらの証人の列はキリストの時代で終わったわけではない。使徒時代の次の時代も、古代も、中世も、宗教改革の時代も、その後の時代も、証人の列は続く。我々もその列にやがて加わる。彼らは世にいないのであるから、我々は彼らと言葉を交わすことは出来ないが、彼らの残したものを学ぶことは出来る。

勿論、彼らの残した物は書物だけでも膨大であって、それらを全部学ぶことは実際問題として不可能だし、彼らの残した言葉の中には学ぶに価しないものもある。それらを絶対視したり、無批判に崇めたりしてはならない。けれども、過去の時代に人々の考えたこと行ったことは、今日を生きる我々にとって決して軽んじてはならないものである。それが聖書に代わる権威を持つことはないが、聖書に対する我々の姿勢を正す助けになる。鏡を見て姿勢を直すように、過去を鏡として姿勢を正すことは必要なのである。

9

このように論じて来ると、教会のこれまでの伝統が立派なものであって、それから逸れた所にいる人は伝統に回帰しなければいけないと説いているように受け取られるかも知れないが、それは今日学ぶことの核心部ではない。私はむしろ、伝統を誇った教会が誇れなくなっている現状をどう乗り越えて行くかを問うているのである。

これまで、プロテスタント教会の中には、伝統を大事に考える流れと、伝統について何も考えない流れとがあったと思う。ところが、近年、教会はこれで良いのか? 間違ったことをして来たのではないか? と考える人が出て来る一方、教会はこれで良かったのだと固持する人と、全面衝突というほどではないが、二つの流れになっている。これで良いのか、と言う発想は戦争罪責の意識から来ているように思う

アジア侵略では政府が罪を犯しただけでなく、国民全体が罪を犯し、その罪責が次の世代まで引き継がれるということが国民の間で大きい課題になっている。しかも、教会も国民的な罪の中に巻き込まれ、のめり込んで、キリストの教会としてあるまじき罪を犯した。しかも、その清算がついていない。

初めに言った方の二つの流れのうちの、伝統を大事に考える人たちは、伝統を傷つけないという気持が自然に働くからかも知れないが、教会の罪というようなことは考えないようにして来た。これはカトリックにもプロテスタントにも共通している。

しかし、戦争中教会のしたことは、後世の人が見れば弁護の余地はあるかも知れないが、明らかに間違いであった。特に、キリスト者が神社参拝や天皇礼拝をしたことについては弁護の余地もない。朝鮮のキリスト教会に神社参拝を強制する官憲の行為に日本の教会が協力したというような事例は全く言語道断である。一体、日本の教会のうちで本当に神礼拝が行われていたのであろうかと疑わずにおられない。キリスト者の良心を支配したのは唯一の生ける神であったのか? 私はその時代を潜って来た者であり、名前は一応キリスト者であり、キリスト者であることを捨てないよう努力していたが、内実は決してキリストに属する者に相応しくなかった自分の罪を告白せずにおられない。

「あの時は間違っていた」と言わない人は先ずいない。が、少なからぬ人は「已むを得なかった」と言う。つまり免責されるというのである。厳しく問い詰めることは出来ないというのである。誰がその罪をあげつらうことが出来ようか。神は赦して下さるではないか、というのである。

ヨハネ伝8章を思い起こせ、と彼らは言う。主イエス・キリストのもとに姦淫の女が引き立てられて来た。「あなたがたの中で罪のない者が先ず石を投げ打て」と主は言われる。人々は己れを省み、老人から始めて、一人一人、こっそりとその場を立ち去った。確かに、石を投げ打つ人はいなかった。そのように人の罪を責められないのだと言うなら、それは間違いではないか。人が去って行ったことだけを見て、主がそこにおられることを見ていないからである。彼は「私は罪を赦す。再び罪を犯してはならない」と宣言された。罪は自動的に赦されるのではない。罪の赦しには悔い改め、すなわち再生が結び付く。

確かに神は赦したもう。しかし、神はまことの悔い改めをなす者を赦したもうのであって、悔い改めの実を伴わず、口先で悪かったと言うだけで良いのであろうか? まことの悔い改めは修練を伴う。そのような、まことの悔い改めを戦後の教会はついに修練しなかったではないか? 悔い改めたならば新しくなるはずである。悔い改めていないから、戦争中流れに身を任せていた状態と何も変わらないままで、教会は今も流されているのではないか?

戦争中の教会の実態を知る人はもう少なくなったが、今も以前のままに流されていると言われると、その通りと思う人は少なくないのを私は知っている。そういう人たちは教会を考えるという時、過去に遡って教会を考えずにおられなくされている。過去において間違いがあり、その間違いが考え直されることなしに引き継がれているではないかと思われて来るのである。伝統についてはプラスの遺産として考えるのが正常なのかも知れないが、マイナスとして伝統を負うということを今の我々は考えずにおられない。

教会についてキチンと考えないままに、過去の日本の教会はキリストの教会と殆ど言えないものになり下がった。それは国家権力の前に屈服し、国家に呑み込まれて、教会のアイデンティティーを失ったということである。教会と国家の関係について何も思いめぐらしていなかった結果の大損失、破産である。謂わば負の教会、マイナスつきの教会なのだ。しかし、教会に与えられている約束は決してマイナスではない。今、教会を考えることによって、我々は根源へと立ち返る。

あのように大きい過ちを犯した教会を信ずるのか? 然り。教会の犯した大きい罪にも拘わらず、「我は教会を信ず」という告白を我々は受け継ぐのである。それは、教会の今あるがままの肯定ではない。あるがままの教会を、本来あるべき教会、キリストの教会へと回復させること、それが「我は教会を信ず」との信仰の現実化である。

終わり


お問い合わせ、ご意見ご要望は...
〒183-0002 東京都府中市多磨町1−14
Tel: 042-334-1564
牧師:広瀬 薫
E-Mail(メイルはこちらへ): tamach@jcom.home.ne.jp

  • 「インターネット・ミッション・クラブ(IMC)」のホームページへ