1993・01・28

第21講 エキュメニズムの時代

* R.Rouse & S.C.Neil ed: A History of the Ecumenical Movement 1517-1948.1967

* H.E.Fey : A History of the Ecumenical Movement 1948-1968.1970.

* ニーゼル「福音と諸教会」

* J.A.Mackay : Ecumenics,the science of the church universal.1964. 

* MacNeil : Unitive Protestanmtism

* G.Wainwright et al. (ed.) : Dictionary of the Ecumenical Movement.1991.   

* D. G. Reid (ed.): Dictionary of Christianity in America.1990.

I.エキュメニズムの源流

 1.教会に本質的に内在する要素

 「からだは一つ、信仰は一つ」(エペソ4:4)、と言われる。また、「これみな一つとならんためなり」と言われる(ヨハネ17:11,21,22,23)。ニカイア・コンスタンティノポリス信条も「一つの・聖なる・使徒的教会を信ず」と告白して来た。したがって、教会が一つであるべきなのに、そうでないことについて、これまで各教会は弁明し、本質的欠落でないと解釈して来た。また、具体的には如何にすれば一つになれるかを探究して、教会一致の学「イレニクス」を作ろうとしていた。ただし、その動きは鈍かった。

 教会の世界的統合を実施していた最も古い例はローマ・カトリックであるが、東方教会との分離(その後東方教会を吸収する努力はする)、16世紀の宗教改革の分離、19世紀の第1ヴァテヵン会議後のアルトカトリチスムスの分離に対して、ローマを中心とし、ローマ教皇の首位性を建て、その無謬を要請する教会統合原理の主張は、反発を激化させるだけであった。

 宗教改革が起こった時、ローマ・カトリック教会はこれを教会に対する反逆であると捉えたから、帰順させる以外には一致を考えることが出来ない。トリエント会議などに見られる一致への努力は分裂を確定するのみであった。さらに、プロテスタントは主要教派だけでも複数になり、それぞれの教派が各国に教会を建てた。これらの公認教会以外に非公認の教会が事実上教会として存在し、事情は一層複雑になった。

 プロテスタント内部における一致の努力は同一系統の教会の国際的連帯として初期から行なわれている。例えば、ドルトレヒト会議には他国からの代議員が参加している。書物は近代的出版の初期段階から国際的に流通する。学者は出版事情に通じ、他国、他派の書物も読む。交通の発達は他国との交流の機会を増した。

 エキュメニズムという言葉は比較的新しい。しかしエキュメニカルという言葉は古い。これはギリシャ語で人間の住むところを意味する「オイクメーネー」に由来する。古代においてローマ皇帝の召集する世界的会議はエキュメニカルと呼ばれた。

 近代においてエキュメニカルという名を公式に用いたのは、1948年のアムステルダムの世界教会協議会の総会であった。これをエキュメニカル・カウンシルと呼んだ。

 そこに至る幾つもの道があった。そしてエキュメニカルな実践を成り立たせた原因にはキリスト教の危機、人類社会の危機と第二次大戦の戦後世界に対する使命感がある。

 2.エヴァンジェリカル・アライアンス

 前回の講義で見たように、覚醒の運動は教派間・国際間の協力を促し、エヴァンジェリカル・アライアンスを生み出すにいたった。このアライアンスには、福音的という限定があり、したがって覚醒を重視し、福音的教理箇条を重視する者に限られるが、アングリカン、長老派・改革派、バプテスト、メソジスト、会衆派、ルター派にわたる共鳴者を糾合することが出来た。また、これは国境を越えた連帯を作り出した。

 エヴァンジェリカル・アライアンスのしばしばの国際的・超教派的会議は、プロテスタンティズムに久しく絶えていたエキュメニカルな連帯であった。この会議では伝道の精神の鼓舞やその成果の報告に留まらず、原理的な問題についても講演され、協議された。

 エヴァンジェリカル・アライアンスの運動の中で正式に討議されていないようである が、この傾向の人の中に教会と国家の問題を考え、国家から分離した人がかなりいる。ミニストリーを国家から切り離し、国際的な場におくことが始まったのである。

 この系統を受け継ぐ人々はエヴァンジェリカルという点に重きを置き、モダニズムを排除するので、20世紀のエキュメニカルな運動からは離れて行く傾向がある。後述。

 3.国際宣教会議

 宣教師たちが伝道地において具体的な問題について教派を越えて協力することは常時起こる。また、出先の国で各教派の宣教師が集まって協議会を開く必要も大きい。例えば、1907年に中国伝道一世紀を記念して上海に千百七十人の宣教師が会合した。そういうものが派遣母体の協力のきっかけともなる。

 1910年、エジンバラにインターナショナル・ミッショナリー・カンファレンスが開かれた。この種の会合は小規模ながらこれまでも5回あった。さらにさかのぼればインド伝道者ウィリアム・ケアリーが超教派的な十年ごとの会合を提唱しており、具体的に1810年にケープタウンでの会合を計画したが、機が熟さなかった。それは1世紀のちに実現した。エジンバラの会議の準備を推進したのはレーマンであるジョン・R・モットとJ・H・オルダムであった。

 エジンバラの会議は8つの分科会に分かれた。(1)非キリスト教世界への福音伝達。(2)ミッション・フィールドにおける教会。(3)国民生活のキリスト教化との関連における教育。(4)非キリスト教的宗教との関連における宣教師のメッセージ。(5)宣教師の準備。(6)ミッションのホームベース。(7)ミッションと政府。(8)協力と一致の促進。この会議は十年後スイスでモットの指導のもとに会合する。翌1921年インターナショナル・ミッショナリー・カウンシルが組織される。この組織の会合が1923年にはオックスフォード、1928年にはエルサレム、1938年にはタンバラム(マドラス)で開かれた。

 このような会合を積み重ねて行った成果に関し疑問を感じる向きはあると思う。確かにこのような会議からクリエイティヴな思想が生まれた実例はない。しかし、問題の展望を十年ごと、あるいはそれよりもっと短いサイクルで更新して行くことは必要であろう。

 4.フェイス・アンド・オーダー

 これは神学的問題に関するエキュメニカルな組織である。1910年のエジンバラの宣教会議の中でこれの必要が感ぜられた。信仰と職制の違いが教会一致の支障となっているからである。1916年アメリカのガーデンシティーで準備の会合が開かれ、次の5つの主題を研究して行くことになった。(1)教会、その本質と機能。(2)教会の信仰の保護としての公同的諸信条。(3)恩寵と聖礼典一般。(4)職務、その本質と機能。(5)宣教師やその他、教会の管理機能に関する実際的問題。

 1927年ローザンヌ、1937年エジンバラで会合を開き、継続委員会が1920年ジュネーヴ で、1928年プラハで開かれる。フェイス・アンド・オーダーの推進者はチャールズ・ブレント(カナダ聖公会)、ロバート・ガーディナー(レイマン)である。

 WCCが成立した後は、フェイス・アンド・オーダーはその中の一つの部局となって活動を続ける。一致を性急に主張する嫌いがないとは言えぬが、違いについて開かれた心で話し合いをするようになっている。

5.ライフ・アンド・ワーク

 1914年第一次世界大戦が始まった時、キリスト教の国際的会合は戦争を食い止められなかった無力と、その存在意義を問い直された。そこで、キリスト者の社会行動、平和に対する責任が自覚される。社会的活動としては19世紀のインネレ・ミッシオン(ホーム・ミッション)、ディアコニアとしておこなわれていた。平和運動もキリスト教の一部では行なわれていた(メンノナイト、クェーカー等)が、その枠を越えて出なければならない。1914年の初めローザンヌの教授ルイ・エメリーはヴォーの教会が主催するキリスト者の国際平和会議をベルンで開くよう提唱したが実現に至らなかった。

 1914年8月1日、コンスタンツにおいて、ワールド・アライアンス・オヴ・チャーチェズ・フォー・プロモーティング・インターナショナル・フレンドシップが開かれる。開戦の翌日で予定しただけの人々は集まらず、3日には代議員は急遽帰国した。この会議は翌年ベルンで開かれ、名称をワールド・アライアンス・フォー・プロモーティング・インターナショナル・フレンドシップ・スルー・チャーチェズと改めた。戦後1919年ハーグで会議を開く。下記ライフ・アンド・ワークの運動を援助し、31年以後は一体となって作業する。29年プラハで会議を開き500 人が集まる。

 それとは一応別に、スウェーデン、ウプサラの大監督ナータン・ゼーダーブロームは宗教学者としても国際的に名をしられていたが、1914年平和アッピールをし、中立国の教会人に呼び掛ける。17年それをフォロウアップするための会合を主催した。20年にジュネーヴで準備の会合を開き、1925年ストックホルムで正式にキリスト教の機構を代表する人によってライフ・アンド・ワークの世界会議を開いた。そこではキリストが王であることが強調され、福音を、産業、社会、政治、国際の全領域に適用して行く教会の任務、そしてその任務はあらゆる国家原理よりも上にあることが語られた。開会式に臨んだスエーデン国王は1600年の昔ニカイアで開かれた会議に思いを馳せつつ挨拶した。しかし、ストックホルムでは信条も行動規定も作られなかった。

 ライフ・アンド・ワークは継続委員会を挙げて作業を続け、次に1937年オックスフォードに会合を開いた。425 人の議員が集まったが、すでにナチス・ドイツは出席を許さず、出席すべき人の幾らかは牢獄にいた。ドイツからはメソジストとバプテストの牧師が計3人出席したに留まる。教会と国家の関係の問題がこの活動を通じて実践的にも問題意識に昇って来る。

 今日、NGOが国際的な諸問題の解決に関して重要な意味を認められているが、教会はNGOの最古の、そして今も最大の、実行力の最も大きい組織である。カトリックが国の上に国を作ろうとするのに対し、プロテスタントは教会の権力化を避ける。NGOはこの線で行くほかない。

6.同一系統の教派間(Confessional family) の世界的連合組織

 この連合組織を作るに当たって神学的な問題はなかった。しかし、国際的な組織になるのであるから、国家から自由な発想を必要とする。非政治的組織であるが政治的な力を発揮することも出来る。例えば、台湾長老教会の総幹事高俊明氏が投獄された時WARCが尽力した。南アフリカのアパルトヘイトに対してもWARCの反対運動は大きかった。

 コンフェッショナルな教会連盟はローマ教会がそうであるような一つの世界教会になり得るか。中央集権的な世界統合は出来ないが、フェデラルな統合は可能であろう。宗教改革以来、教会はナショナル・チャーチの形を取るのを自明としてきたが、これしかあり得ないのか。

 この種の世界連盟で、ヨーロッパ、アメリカ以外の地域の教会代表の発言が重要性をまして来ていると言われている。実際その通りであるが、非ヨーロッパ・アメリカ的であれば良いというものではない筈である。ヨーロッパを相対化することによって福音の本質を明らかにするのでなければならない。ともあれ、アジアの一角の日本の発言責任があることを忘れてはならない。

 世界組織の主なものは次の通りである。

 i. ルター派の世界連盟が結成されたのは1947年であるが、もっとゆるい結合であるルーセラン・ワールド・コンヴェンションは1923年に出来ていた。第二次大戦後難民問題に取り組んだ。

 ii. 改革派では世界改革派連盟(WARC)が1877年最初の会合をエジンバラで開く。1970年会衆派世界連盟を併合した。会衆派の世界連盟は1891年に出来たものである。

 iii.アングリカンにはアングリカン・コンミュニオンというゆるい組織がある。またカンタベリー主教の主催するランベス会議に世界中からアングリカンの主教が集まる。1867年以来十年毎に集まる。

 iv. メソジストはワールド・メソジスト・カウンシルを1951年に作った。数年置きに会議を開いている。

 v. バプテスト教会は国ごとにコンヴェンションを持って結合しているが、バプテスト・ワールド・アライアンスは1905年に組織された。これはヴォランタリーな組織で、これに加入していない会員が三百万程いる。加入している単位コンヴェンションのうち最大のものはサザン・バプティスト・コンヴェンション(U.S.A.)で会員数一千万、ワールド・アライアンスの経費の3分の2はこれが賄う。

 7.同一系統の教会合同(Intra-confessional)

 信仰告白が共通であるか、類似している教会の間の合同は原理的には簡単である。支えるミッションが違うだけで教派が違う場合は最も簡単である。実例は非常に多い。

 長老派では、1920年アメリカ北長老教会とウェールス系カルヴィニスティック・メソジストが合同し、前者の名称を用いることになった。1929年スコットランドの国教会と自由教会が合同した。1986年アメリカの南北長老教会が合同した。改革派では1938年フランスの2つの改革派教会の合同(この時メソジストも合同に参加する)。

 ルター派では、1917年アメリカのノールウェイ系の3つの福音派が合同。アメリカのルター派は細分化されて乱立していたが、次々統合されて来ている。

 8.ドイツ教会闘争における共同の戦い

 * W.Niesel : Kirche unter Wort Gottes.Der Kampf der Bekennenden Kirche der altpreussischen Union 1933-1945.1978.

ヒトラーの政策に対する反対運動は初め改革派とルター派と別々に進められている。それが1934年のバルメン会議では一つになった。この戦いの中で、改革派とルター派の本質的な一致点が見出される。その経験を踏まえて、戦後、両派の共同の神学作業が続けら れ、アーノルツハイン・テーゼを作り、宗教改革以来の聖餐論における分裂に終止符を打った。この文書は信仰告白並みの扱いを受けている。

 

II.プロテスタントの再一致運動

 1.国家権力による教会統合

 19世紀のドイツにおいて国家の要請による教派合同が数か所で行なわれた。プロイセン、ヴュルテンベルク、バイエルン、ナッサウ、ヘッセン等の領邦である。

 問題が四つある。(1)教会のアイデンティティーの侵害ではないか。(2)合同に加わらない者も結局認めなければならなくなる。したがって、合同派と反合同派が生じて、教派の数は多くなる。(ルター派、改革派、ウニエールテ)(3)合同とはいえ、従来の教会伝統は温存され、形式的には一つ、信仰的には別々という形になる。(4)合同推進者が一つの神学的傾向(多くの場合自由主義)を代表しているため、反対傾向の者は合同に反発することが多かった。

 同様の、権力による合同の実例として、日本基督教団、中国の三自愛国運動などがあ る。インドネシヤにおける教会統合(PGI)は権力の要請によるものではないが、政教分離の行なわれていない国であり、国家主義的傾向にのっとって教会の統合が図られている。これは本来の教会合同ではない。

 2.教会間の自覚的合同

 上述した同一系統の教会の合同についてはここでは述べない。別系統の教会の間での (Trans-confessional)合同を扱う。日本基督教団は各派を打って一丸とした合同を行なったとして、戦後しばらくは世界的に持てはやされた。しかし、国家権力の強圧のもとにおける妥協であったことが広く知られ、教会自体のアイデンティティーがないことが明らかになって、問題にされなくなる。

 インドでは1924年11のミッションが北インド合同教会を作る。しかしルター派系ミッションは合同に加わらない。アイデンティティーの失われることを嫌ったからである。

 南インド合同教会は1901に改革派の二派の間で始まり1947年に各派を糾合した。

 カナダ合同教会は1925年に成立する。長老教会(スコットランド自由教会に近い人たちは加わらない)、メソジスト、組合、単立教会が加盟する。聖公会は加わらない。

 オーストラリアでは、1977年ユナイティングチャーチが出来、メソジストと長老派からそれぞれ一部が加わった。

イタリーのヴァルドー派とメソジストの合同は1979年に行なわれた。 

 これらの合同に当たって、信仰告白と教会規則を整備して行なう行き方と、合同はするが各個教会がそれぞれ在来のやり方を継続する行き方とがある。

 3.合同に対する反発

 i. ドイツにおける合同反対

 プロイセン、メクレンブルク、バイエルンでは、かなりの数のルター派が合同を拒否した。政府はこれを弾圧したが、弾圧し切れないので、公認するほかない。ドイツで圧迫を受けたこの派の一部はアメリカ移民を行ない。ミズリー・ルーセランを建てる。

 改革派においては合同への抵抗は少ない。しかし、コールブリュッゲの指導を仰ぐ改革派の伝統主義者のグループは、合同教会のリタージーを拒絶して別の非合法集会を開く。これも10年後に政府は公認せざるを得ない。このほか西北部にアルト・レフォルミールテが少数残る。シレジエンにも残る。これらはオランダの分離派と連携する。

 ii. インドにおいては南でも北でもルター派は合同に加入しなかった。各種のルター派ミッションを背景とするルター派は合同する。

 iii.カナダではスコットランド・フリーチャーチ系の人たちは合同教会に加わらないで長老教会を守る。

 iv. 合同と関係なく、福音派の分裂は依然として進む。

 4.覚醒に基く分離傾向と一致傾向の調和

* H.Zwaanstra:Catholocity and Secession.1991.                  

覚醒運動は多くの国において教会分裂を引き起こした。それは正統的・福音的教理と活発な伝道活動を守るため、また教会と国家の区別をつけるためであった。この傾向はその後も続く。日本基督教会もその傾向を帯びると言えよう。

 この傾向は単純に肯定されてはならない。思考が固定化し、思考のパターンが陳腐になり、古きは良し、という悪しき保守主義に陥り、そこに安住する。また、他と協調することを嫌い、独善になる。盛んな伝道活動をする場合は良いが、そうでない場合、活性を失って衰退する。

 もう一方で、覚醒によって国内超教派的・国際的に協力し合うことも始まる。この傾向もその後に続く。

III.カトリックの再一致運動

 1.東方教会との統合

 15世紀の改革会議は東方教会との一致を目指した。これは完全な失敗に終る。ヴァティカンはその後も東方との再一致を目指し、東方教会が固い統一を持つ組織でないことを利用して、その一部を典礼や司祭の妻帯はそのままにして、ヴァティカンのもとに置くことに成功した。この教会をカトリック用語では東方帰正教会という。

 この措置によって教会機構が複雑になり、ローマと関係を持つ教会と持たない教会との関係をこじらせる結果になった。

 2.プロテスタントとの一致 

 ローマ・カトリック教会にとってプロテスタントは長い間異端者、アナテマに当たる者であった。アムステルダム会議にもカトリックは代表を送らなかった。WCCの成立後カトリックはエキュメニズムに目覚め始める。

 3.第2ヴァティカン会議

 * 第2ヴァティカン会議の参考書については、ニーゼル「福音と諸教会」398 頁の文   献目録を見よ。

 * エキュメニズムについては1964年11月21日の「エキュメニズムについての教令」が   ある。

                                         1962年−65年に行なわれた第2ヴァティカン会議はカトリックの姿勢と、他教会に対するカトリック教会の関係を抜本的に改めるものであった。

 ローマ・カトリックにおける大きい変化は教会が聖書に聞くことを務めるようになった点である。

 従来はキリスト教の他派をローマからの離反として見ていたため、ローマへの帰順なしではその存在を肯定しなかったのであるが、第2ヴァティカン会議では他の教会のことを兄弟と呼び始めた。

 4.ローマの首位性の問題

 ローマ・カトリックはローマの首位性という主張を東方に対しても、プロテスタントに対しても掲げることを止めない。言い方が柔軟になっただけである。

                                        

IV.東方教会におけるエキュメニカルな志向

 1.コンスタンティノープル総大主教のエキュメニカル志向

 東方教会は古代に成立した総大主教座、すなわち、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンテオケ、エルサレムを中心にそれぞれ自立しているが、順位は今挙げた順である。コンスタンティノープル総大主教が筆頭になり、西方のローマに対峙する。これが東方教会をまとめて代表するということではないが、全体の傾向を代表することは事実である。 

 コンスタンティノープル総大主教のエキュメニカル志向は、1931年アルト・カトリチスムスとの教理についての連合委員会をボンにおいて開き、本質的な点での合意を確認して居る。

 アングリカンとの間の話し合いは1930年以来続いている。

 プロテスタントとの関係としては諸種の会議に代表者を出席させていた。そこでは正式の関係を結ぶものではなかったが、対話が始まっていた。

 東方教会の神学生や神学者が西方の神学校に留学するケースが増えて来た。

 2.ロシア革命による亡命者の教会                        

ロシア人は宗教的である。共産主義政権の60年の抑圧のもとでも民衆の信仰は失われなかったが、同じく、西欧に亡命したロシア人も信仰を失わない。さらに、共産主義政権とは関わりなしにアメリカに移住した東欧圏の人たちに伴って東方教会がアメリカにも多くなる。これらの東方系教会は西欧的教会と接触する機会を多く持つことになる。接触を最も積極的に行なったのはロシア正教である。

 亡命者教会が教職養成のために神学教育を行なう時、西欧語による教育をしなければならず、西欧語で神学書が著作されることになる。神学者レヴェルでの交流が始まる。

 このような神学者として着目しておくべき者はフロロフスキー、ゼルノフ、エウドキモフ、ロスキー、マイエンドルフ等である。

 3.西欧の神学者にとっての東方教会の魅力

 エキュメニカルな会合に東方教会から出席する人がある。その人々との接触によって西欧の神学者は新しい刺激を受ける。

 聖書と古代信条において基本的には一致するが、その解釈の論理においては大幅に違う。西方教会はキリストの贖罪の行為に重点を置いているが、東方の神学はキリストの受肉に重点を置く。

                                      

V.WCCの成立   

1.アムステルダム会議

 会議は1948年8月22日から9月4日まで開かれ、44か国、145 教会から351 人の代議員が出席した。

      キリストは我々を御自身の民としたもうた。彼は分かたれたまわない。我々は彼を尋ね求めることにおいてお互いを発見しあうのである。ここアムステルダムにおいて我々は新しく我が身を主に委ね、WCCを組織することによって互いに誓いあったのである。

 1948年という年は戦後まだ3年しかたたない時期で、戦争の破壊の跡は国中にも人の心の内にも残っていた。例えば、ドイツ側の準備委員がアムステルダムに行った時、ドイツ語を使うことを許されなかった。そのような状況にあるだけに、この国際会議を開く必然性があり、会議が与える希望が大きかった。私はたまたまこの会議の記事をタイムで読み、強い衝撃を受けたことを覚えている。 

 初期の推進役はヴィッサートゥーフトであった。彼は48年から66年までWCCの総幹事を務めた。

 2.トロント・ステートメント

 1950年トロントで開かれた委員会はWCCの性格を決定するステートメントを作る。まだ諸教会はエキュメニカルな経験を積んでおらず、WCCの制度的・法的性格もつかめなかった。

VI.エキュメニカル運動の限界と問題性

 1.福音派の離反

 エキュメニカル運動を成り立たせるための寛容の精神を危険視する人々もいる。福音派はまた別の国際組織を作る。ローザンヌ派とも呼ばれる。ローザンヌ派は社会意識が乏しいと批判されることが多かったが、今日においては必ずしもそうでなくなっている。

 WCCを構成する主流派教会は教勢が低下し、福音派は教勢が上昇しているという批判は保守的な人々から絶えず差し向けられている。その批判には耳を傾ける必要はないかもしれない。ただ、世界の問題を論じているが、伝道をしないということがあれば問題であろう。もっとも、伝道とは必ずしも人を増やすことではない。

 2.自由派の離反

 エキュメニズムは正統的教理を重んずる人には物足りないが、それでも一応の線は守ろうとしている。ところがもっとリベラルなキリスト教もある。その傾向の人はWCCにも寄り付かない。

 3.政治的保守派の離反

 これはWCCが容共的であるとの非難に現われる。極端なのはアメリカの右翼的キリスト教である。この批判には聞く価値はない。ではあるが、容共派の行き過ぎもあったようである。キリスト教は寛容な心で共産主義を見て来たし、共産主義政権下にある人々の安全のために批判的発言を差し控えた。その判断は間違っていなかったと思う。しかし、昨今の情勢の変化の中で、共産主義の見直しが必要であろう。

 4.キリスト教の固有性喪失の危険

 教派あるいは信仰告白の伝統の固有性が見失われる危険が非常に大きい。こうして教会が自己規定できなくなる。アイデンティティーの喪失である。

 教派性の無視に続くのはキリスト教の固有性の喪失である。自己規定出来なくなったキリスト教は他宗教との関係において自己を見失い、宗教多元主義の流行とともに、混合宗教、中間宗教のようなものが提案されはじめている。

 5.WCCは法的機能を持つか

 エキュメニカルなボディーとしてのWCCは教会ではないし、スーパー・チャーチでもない。これは確認されている。教会でないのだから、法的な自己規定が出来なくなる。国家の行き詰まりが自覚され始めた時代に、NGOが新しい解決の道を示唆しているのであるから、WCCで話し合われたことが今日一定の意味を持つことを認めるが、それが歴史のなかに体をなして残り得るかどうかは疑問である。別の言葉で言えば、情報や評論としては良質のものであるが、思想化出来ないのではないか。

 教会が教会について考えるとき神学が成立するが、WCCは教会ではないからそこに神学は成り立たないし、WCCについて神学的に考えるということも成り立たない。

VII.ロシアのキリスト教のソヴィエトに対する勝利

ロシアのキリスト教が1600年記念を祝った直後、ソヴィエト政権は崩壊した。これをロシア正教の勝利と見る人は多い。ロシア正教はソヴエト政権と争いはしなかったが、少しも妥協しなかった。この点は高く評価されなければならない。けれども、共産主義の堕落を救済し得なかった落ち度、共産主義革命によってしか是正出来ないロシア帝国の社会矛盾を放置していた問題が教会側にあるのではないか。それは正教の本質に関わる問題である。ソヴィエト政権下で教会は平和宣伝に協力したが、どれだけ意義があったか疑わしい。


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