1993・01・14

第20講 バルト神学の周辺 

* バルト著作集 18巻

* バルト説教選集 12巻

* バルト教会教義学 34巻

* オットー・ヴェーバーによる要約

* ヘルムート・ゴルヴィッツァーによる要約

* ジョフリー・ブロミリーによる要約

* T.F.トーランス「バルト初期神学神学の展開 1910-1931 」

* E.ブッシュ「カール・バルト」

* von Balthasar:Karl Barth,1951.

* G.W.Bromiley:An Introduction to the Theology of Karl Barth.1979.

* H.Bouillard:Karl Barth 3 vols.1957.  

* G.C.Berkouwer:The Triumph of Grace in the Theology of Karl Barth.1956.

* ドイツ教会闘争関係文献(略)

I.バルト出現の時代状況

1)自由主義と保守主義

 19世紀はヨーロッパのキリスト教文化が成熟し、花開き、咲き揃った時期である。キリスト教とヨーロッパ固有のものとは長期に亙って融合を完成し、キリスト教的文化世界を現出した。それは頂点であったから、そこから下降が始まる。幾つかの破綻が見えて来た。キリスト教は文化的宗教として完成したが、そのキリスト教に対する根本的な問い掛けがキェルケゴールによってなされた。それに答える人も、問われていることに気付く人もいなかった。また、マルクスが宗教を否定した見地から社会に根本的な問い掛けをし た。ニーチェもこの文化的宗教によって祭り上げられている神について「神は死んだ」と評した。

 キリスト教の活動力はなお盛んであるように見えた。ヨーロッパのキリスト教は非ヨーロッパ世界へ展開していた。しかし、ヨーロッパ内部で戦乱が起こり、それを抑止する力をヨーロッパ・キリスト教は持たなかった。

 20世紀の初め、神学は保守主義と自由主義とに分裂していた。キリスト教の正統な道を守ろうと努力する人々はいたが、聖書の無謬の教理を固守するだけで、自由主義を打破することは出来ず、硬直化し、ファンダメンタリズムになって行く傾向が見られた。

 合理主義的キリスト教はもはやキリスト教であることを止めて一種の世界観に変質していた。それはキリスト教としての生命力も失いつつあった。

 合理主義と伝統的神学の調和を計ろうとする人々もいたが、それはシュライアーマッヒャーのように近代的ローマン主義を取り入れることによってキリスト教の使信を本質的に損なうほかない。

 バルトの出現はこの行き詰まりを打開しようとするものである。しかし、根本的に解決したかどうかの疑問は残る。

 2)終末論 

正統主義のなかで、終末論が次第に大きい位置を占めるようになって来たが、それはキリストの再臨と、千年王国の出現に向けた狂信的なものになり勝ちであった。そこでは終末の接近が強調されるだけで、福音というよりは一種の脅迫になっていた。(19世紀には再臨派(アドヴェンティスト)の分派運動が始まり、分派しない人の間にも再臨への関心は強い)。狂信的にならずに、覚めた目で終末的事態を見ようとするのはブルムハルトの目であった。それは焦点としてキリストの勝利、キリストにおいて到来した神の国を 見、キリストにおいて終末的事態が始まったのを把握する。

 そのほかにも終末的信仰をモティーフとしてキリスト教信仰の全体構造を捕えようとする試みをする神学者があった。フランツ・オーファーベックと、アルバート・シュヴァイツァーである。オーファーベック(1837-1905)はラディカルに終末的信仰に生きないキリスト教の歴史を世俗的教会史とし、それに対しては批判的である。バルトはその影響を受けた。

 シュヴァイツァー(1875-1965)の神学界に与えた影響はイエス伝研究史(1906) であるが、徹底的終末論の立場から、ナザレのイエスは差し迫った終末の意識に生きたのだと解釈した。ただしシュヴァイツァー自身は終末論的に生きたのでなく、生への畏敬を基本原理として生きた。

 第一次世界大戦が起こった時、バルトの教師で、尊敬していた何人ものドイツの神学者が戦争支持の声明をしたことは彼をいたく失望させた。ここにバルトは近代的キリスト教の破綻を見る。

 3)世紀末的混迷と社会変革

社会矛盾が累積して行くことを見た人々は社会主義に解決を求める。イギリスには国教会の中にキリスト教的社会主義の試みがあったが、これは18世紀の実利主義や自由放任の資本主義経済理論に対する反論であった。キリスト教的原理による変革を個人にみでなく社会に適用しようとする。この穏健さは社会問題の大きさを見ている人々にはもどかしい。

 ドイツでは脱宗教の唯物論的社会主義がさかんになる。これは宗教に立つ社会主義を空想的社会主義と非難し、労働者による革命を目指す共産主義運動を展開する。この唯物論的社会主義を否定しつつ、社会主義思想を取り入れて社会を改革しようとする人は社会民主主義を目指す。そのような社会主義を受け入れたキリスト者もいる。

 バルト自身社会主義者であった。しかし、社会主義に次第に懐疑的になる。

 4)バルトの出現

 バルトの名が一般に知られたのは1919年の「ローマ書」の出版によってである。ローマ書を講解するに当たってバルトは近代的な、歴史的・批判的な釈義をせず、神学的に釈義しようとした。

 聖書についての厳密に学問的であろうとする書物は19世紀から20世紀の初めにかけて多く著わされた。しかし、それらは聖書本文が本来持つインパクトを伝えるものではなかった。バルトのローマ書はそのインパクトを伝える数少ない書である。

 5)バルトに対する反応

 i)「ローマ書」の出版はセンセイショナルであったから、反応は混乱している。学問性の否定を危ぶむ人もあった。

 ii) 人間主義化したキリスト教に対するバルトの攻撃に反発する人がいた。

 iii)保守的神学者からの反発があった。

 iv) それでも少なからぬ人はこれを評価し、これに望みを託した。

 5)バルトの脱皮と成長

 ローマ書のままであればバルトの主張は一時的衝撃に終わったであろう。しかし、彼は大学の教授として招聘され、教義学の講義をしなければならなくなったため、猛烈な勉強をする。教義学の講義に一番良い参考書として発見したのはヘッペの改革派教義学であった。カルヴァンとルターからも、プロテスタント・スコラ主義からも多くのものを学び取った。

II.初期における実存主義の影響

 1)キェルケゴールのキリスト教批判

 キェルケゴール(1813-55)晩年の既成教会批判は、その時代には受け入れられなかったが、20世紀になって追随者が増えて来た。この批判は、教会が人間の要求に適合しようとして、キリスト教的啓示を見失っていることを衝いたものである。

 キリスト教はヨーロッパにおいてキリスト教文化を生み出したが、文化と融合して文化的次元のものになってしまった。

 キェルケゴールのキリスト教批判はそのような文化的キリスト教の中に安住するキリスト信者の生き方にも向けられる。危機的存在である自分自身を知ろうとしないキリスト教になってしまっている。バルト及びそれに同調する神学者の運動は、初期においては危機神学と呼ばれることが多かった。

 2)実存の不安

近代のキリスト教の合理主義は人間主義と結び付いており、人間を肯定的に見る。人間の中にある否定的要素は無視する。キェルケゴールはソクラテス的対論によって人間についての肯定的見解を崩し、人間の実存の不安を暴き出す。

 このような人間理解をするキリスト教は宗教改革の、特にルターの理解である。キェルケゴールはルター派の出身である。キェルケゴールは在世当時は理解されなかったが、時代の不安は徐々に深まって、理解者が増えて行く。

 実存主義について少しく触れて置くが、従来の神学は存在論の思考とある程度近い関係を持っていた。それゆえ本質的思考の方向を取り、人間を全く抽象的な本質存在において知的に捉え、論理的に論じれば十分であると考えた。実存は哲学においては古くから取り上げられているが(実存とは存在が現実の中に投げ出されている状態だからである)、実存よりも本質を重視した。しかし、人間に関しては実存こそが重要であるとキェルケゴールは考える。

 3)弁証法

キェルケゴールは「真理は主体的である。主体性こそ真理である」と繰り返す。したがって、キリスト教的真理が客観的教理体系によって言い表わされることを拒否する。合理主義が合理性に信頼を置いて議論するのみならず、正統主義もキリスト教の使信を擁護するためにアリストテレス的論理を積み上げて行くのを却け、否定と肯定の対立によって真理を言い表わそうとする。キェルケゴールの時代にはヘーゲルの弁証法が哲学界には優勢であったが、この弁証法は逆立ちしたものとキェルケゴールには見えた。バルトたちの神学運動は初期には弁証法的神学とも呼ばれた。

 弁証法(ディアレクティーク)というのは、カトリックおよび正統主義の神学が取るシロギスムス(形式論理・三段論法)に対する対抗意識をこめたものである。この場合弁証法と訳すよりは対論と言う方が適切ではないかと思う。それは、ヤーとナインの対論である。真理はこの論法によってでなければ言い表わし得ないとバルトは信じた。

 神と人との断絶、絶対差、というようなことが重要問題になる。

III.宗教改革の復権

 1)改革派

 バルト自身は改革派の神学者であることを余り言わない。若いときには改革派の影響を受けていないと見られる。カルヴァンやカルヴィニズムの影響を大きく受けるようになったのは教義学の講義を準備する過程においてである。神学活動を始めてからの講義や著作においては改革主義を強調することはせず、むしろ、福音主義的であろうとする。ルターとカルヴァンをともに並べ、しばしばルターを高く持ちあげる。伝統的改革派神学に距離を置こうとしていることは、例えば予定論や小児洗礼論に見られる。

 しかし、彼はルター派からは改革派神学者と見られ、カルヴァンの影響を濃厚に受けたと見られている。例えば、福音と律法、義認と聖化、二つの王国の関係について論じるところはまさに改革派的と言うほかない。

 2)神の言葉の神学

 バルトが神の言葉の神学に徹するようになるのは30年代になってからであるが、神の言葉ということは初めから言っていた。これは人間の内なる宗教性や、既存のキリスト教が持つ文化的宗教性と対決し、超越的に、垂直に人間に臨む。

 神の言葉の神学は、哲学的・思弁的神学、人間学的神学、文化的神学を拒否して、神の言葉に即することのみを目指す。

 ローマ書の中で、聖書を解明する歴史的方法を神学の補助学に過ぎないと位置付けたことは科学的な学としての神学をしているつもりの人々を怒らせた。

 神の言葉の三様態として後になってバルトは、啓示された言葉、書かれた言葉、説教された言葉を挙げる。これは独創的ではあるが、宗教改革の神学、例えばブリンガーの十部作説教などから示唆を得たものである。

 3)自然神学

 これも教会闘争が始まって後であるが、自然神学あるいは自然的神認識と自然的啓示への鋭い拒否があった。それはブルンナーとの対決である。ブルンナーが人間の側に神との接触点があると考えるのに対してバルトは断乎として否定する。

 この否定は行き過ぎではないかと見られることがある。例えば、カルヴァンには自然的神認識の可能性また、それゆえの責任性があるとの議論がある。(ただし、自然神学が可能であるとか、必要であるというのではない。)しかし、自然神学的思考の否定はバルトのその時の戦いにとって不可欠であった。それを認めることによって、神の言葉以外の原理を教会に導入することになり、ドイツ・キリスト者と同じ道を取ることになる危険があった。

 4)キリスト一元論的傾向

 従来の神学が三一論を基調とし、したがって神論から出発し、神論中心の傾向があったのに対し、バルトはキリスト論に中心を置く。それも宗教改革からの影響である。

IV.教会闘争

 1)ヒットラーの台頭

 1934年に政権を取ったヒットラーの率いる、国家社会主義者党は、暴力的主張を持つのみでなく宗教政策を持っていた。それはドイツ民族によるプロテスタント・キリスト教の完成である。

 ドイツ民族の血をうけていること、ドイツの土地に生きることに、聖書と並ぶ、あるいは聖書を解釈する原理となるべき、神の啓示を見ようとする。

 この考えに対して自由主義的キリスト教は抵抗する力を失っていた。確固たる立場を持たないからである。キリストにおける啓示の唯一絶対性を見失っていたからである。

 2)改革派の抵抗

 1933年にデュッセルドルフで改革派の会議が開かれ、デュッセルドルフ提題が可決される。1934年1月にも改革派のバルメン会議が開かれる。それらの動きの代表的指導者はバルトであった。このころすでにバルトは神学的立場を確立している。改革派は殆ど全部この動きに共鳴する。(ドイツ・キリスト者と関係を若干持った改革派神学者としてはオットー・ヴェーバーがいる。彼は積極的ではなかったがナチに協力させられた。彼が戦後神学者として復帰出来たのはバルトの口添えがあったからである)

 1934年5月のバルメン会議には合同派・ルター派にも呼び掛ける。

 ルター派の中にもバルトに同調する人はいるが、全員がそうであったのではない。教派意識から同調しなかった人もいるし、神学的な距離感を感じた人もいる。

 初期にバルトと協力していた神学者の少なからぬ部分は、神学的に袂を別かった。例えばゴーガルテン、アルトハウスなどのルター派神学者。彼らとは神学的に異なるのみでなく、政治的にも異なる道を行くことになる。

 3)バルメン宣言

 バルメン市のゲマルケ教会は1702年に正式には建設されたが、エルバーフェルト地区の改革派の伝道は1552年に始まり、この地方では中心的な教会である。

 バルメン宣言は従来の意味と機能を持った教会的信仰告白ではない。しかし、これは教会が置かれている現実に御言葉による解明を与えて、それによって教会の在り方を真に告白的なものとする機能を果たした。

 4)ドイツからの追放

 1935年、ヒトラーに対する忠誠の誓約を拒否してドイツを追放し、スイスに帰り、バーゼル大学に迎えられる。

 5)教義学の講義

 ドイツ追放以後のバルトの活動は多面的であるが教会教義学の講義と出版が特に歴史的意味を持つ。

V.教会教義学

1)教義学の試みと行き詰まり

 教義学の著述は初期のバルトの思考から大きく踏み出すものであったが、キリスト教教義学(1927) を第1巻だけ出版して放棄し、絶版にした。それは神学的思考の中に取り入れられている実存主義的哲学思想を廃棄する転換をしたということである。

 実存主義と決別して、御言葉の客観性に立って教義学を述べなければならない。

 2)アンセルムス研究

 アンセルムスの「プロスロギオン」を研究する。これは神の存在の存在論的証明の古典的著作である。「それ以上のものが考えられないものは存在する」。すなわち、考えられはするが存在しない単なる概念は究極のものではない。

 バルトはその線で神の啓示の客観性を確認し、実存主義の哲学を越える。そして、この基本的立場から教義学を構築する。

 バルトはこの著作を自らの最も重要な書物であると考えている。

 3)教義学の構築

 教会教義学(1932ff.)は次のような内容をもっている。

第1巻 序論

I/1 

§1 教義学の課題

§2 教義学序説の課題 

神の言葉についての教説

1)教義学の規範としての神の言葉

§3 教義学の素材としての教会的宣教 §4 神の言葉の3様態 §5 神の言葉の本質 §6 神の言葉の認識可能性 §7 神の言葉、教義、教義学

2)神の啓示 

第一部 三一の神 

§8 啓示における神 §9 神の三一性 §10 父なる神 §11 御子なる神  §12 聖霊なる神

I/2 

第二部 言葉の受肉 §13 人間に対する神の自由 §14 啓示の時 §15 啓示の秘義 

第三部 聖霊の発出 §16 神に対する人間の自由 §17 宗教の止揚としての啓示 §18 神の子らの生活 

3)聖書 §19 教会に対する神の言葉 §20 教会の権威 §21 教会における自由

4)教会の宣教 §22 教会の委託 §23 聞く教会の機能としての教義学 §24 教える教会の機能としての教義学

                                             

第2巻  神についての教説            

II/1 

5)神認識  

§25 その遂行における神認識 §26 神の認識可能性 §27 神認識の限界

6)神の現実性

§28 自由において愛する者としての神存在 §29 神の完全性 §30 神の愛の完全性 § 31 神の自由の完全性

II/2

7)神の恵みの選び § 32 神の恵みの選びの正しい教理の課題 §33 イエス・キリストの選び § 34 教会の選び § 35 個々人の選び 

8)神の戒め § 36 神論の課題としての倫理 §37 神の要求としての戒め §38 神の決断としての戒め § 39 神の審判としての戒め

第3巻  創造論

III/1

9)創造の御業 § 40 創造者なる神に対する信仰 § 41 創造と契約 § 42 創造者なる神の然り 

III/2

10)被造物 § 43 教義学の問題としての人間 § 44 神の被造物としての人間 § 45 神の契約者への限定における人間 § 46 魂と肉体としての人間 § 47 時のうちにおける人間

III/3 

11)創造者と被造物 § 48 摂理論、その根拠と形態§ 49 被造物の主としての父なる神 § 50 神と無 § 51 天上の王国、神の使い、その反対者

III/4 

12)創造者なる神の戒め § 52 創造論の課題としての倫理 §53 神の前での自由 § 54 交わりにおける自由 § 55 生への自由 §56 制約下における自由

第4巻 和解論

V/1 

13)和解論の対象と問題 § 57 和解者なる神 § 58 和解論(概括) 

14) 僕としての主イエス・キリスト § 59 神の御子の従順 § 60 人間の高慢と堕罪 § 61 人間の義認 § 62 聖霊とキリスト教会の結集 § 63 聖霊とキリスト教的信仰

V/2

15)主としての僕イエス・キリスト § 64 人の子の高挙 § 65 人間の惰性と悲惨 § 66 人間の聖化 § 67 聖霊とキリスト教的教会の建設 § 68 聖霊とキリスト教的愛

V/3 

16)まことの証人イエス・キリスト § 69 仲保者の栄光 § 70 人間の偽りと断罪 § 71 人間の召命 § 72 聖霊とキリスト教的教会の派遣 § 73 聖霊とキリスト教的希望

V/4 キリスト教的生活の基礎                         

VI.戦後の影響の拡大

1)英語圏における影響 

イギリスとスコットランドでは早くからバルトは知られていたが、アメリカでは学ぶ人が少なかった。また、アメリカでの評価は初期バルトの見解やアンティ・ファンダメンタリズムの面を強調するものが多かった。

 第二次大戦後、バルト自身、否定的な言い方を余りしないようになり、アメリカに受け入れられ易くなり、彼自身アメリカ講演旅行をして絶大な人気を得た。アメリカの保守神学者がバルトによって神学的思考を変えた実例が少なくない。

2)エキュメニカルな影響

1948年アムステルダムで世界教会協議会の総会が初めて開かれた時バルトは「神の計画と人間の無秩序」という主題講演し、エキュメニカル運動への関わりを持った。W.C.C.の初期指導部の中にもバルトの影響は強かった。

 バルトの感化は改革派の中に特に顕著であるが、ルター派にも共鳴者は少なからずあ り、カトリックの神学者の中にも少なからずいる。最も幅広い神学者と言うことが出来 る。思想的幅広さのゆえに他の思想的立場の人からも尊敬される。ただ、無教会派の人たちにはバルトよりもブルンナーの方が好まれている。

 90年代においてはバルトの影響は低下した。

3)バルト後の神学

晩年は絶大な影響力を持つに至ったが、その死後、影響が継続しているとは言えない。比較的忠実なバルト派の神学者はバルトの後を追って世を去り、その後継者はいない。ドイツの神学界にはバルト的神学思考を継承する人は少ない。明らかにバルトの線に反するような神学が横行しても、それを克服する営みは生まれていない。

VII.バルトは何を残したか

 1)伝統の問題

 バルトは伝統については積極的な理論も実践も残さなかった。改革派の伝統を強化した面があるが、それを解消したとも見られる。

 2)体系の問題

 バルトは教義学の体系化を成功した方法によって行なったと見られるが、着想の奇抜さを越える教理体系の堅固さや、教理の要約という点では必ずしも成功していない。したがって、彼の意図した方向に神学は再編成されず、特に彼以後の神学はそれて行く傾向がある。バルト以後、世界のキリスト教は彼の出現の時と同じ混迷に戻ったのではないか。

 3)キリスト論の問題

 バルト神学のキリスト論的モチーフを我々は評価しなければならない。これに対する批判は考えられないのである。しかし、キリスト論的に神学を方向付ける際なお欠けたところがあったのではないか。

 バルト自身が最も大切な思考と考えたアンセルムス的神存在の考えからキリスト教の大勢はどんどんそれて行く。それは余りにキリスト論的であり過ぎたからであると批判する人がいる。おそらくそうではなく、それ以上のものが考えられない程のキリスト論に未だ到達していないからである。キリスト論は当然二つの本性から考える。その思考が徹底しないから無神論の根が取り切れなかった。

 4)バルトが果たそうとしたことはまだ果たされていない

 バルトなき後、キリスト教はますます混迷を深めた。この混乱の助長にバルトがその意図に反して関わっていると言えなくもない。世界の不安を自覚させた人が、世界について肯定的に見る見方を奇妙な形で残したため、あるべき不安がなくなっている。危機神学をもう一度やりなおさなければならない。                      


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