1992・11・26
* RGG3 Art."Erweckung"(Beyreuther)
* Beyreuter, : Erweckungsbewegung
* RGG3 Art."Reveil"(E.-G.Ruesch)
* EKL1 Art."Erweckungsbewegung"(M.Schmidt) & Art. "Erweckungstheologie" (M.Schmidt)
* EKL2 Art."Erweckungsbewegung"(Gaebler) & Art. "Erweckungstheologie" (Wenz/Ernst)
* TRE Art."Erweckung/Erweckungsbewegungen I" (Benrath/Deichgraeber/ Hollenweger)
* The Mennonite Encyclopedia Art."Revival"
* Torrey,R.A.(ed.): The Fundamentals, the famous sourcebook of foundational Biblical truths.1909,Reprint 1990
* P.Toon : Evangelical Theology 1833-1856, A Response to Tractarianism.1979
* J.H.Pratt (ed.): The Thought of the Evangelical Leaders
* A.P.F.Sell : Defending & Declaring the Faith.Some Scottish Examples,1860- 1920. 1987.
* D.G.Reid et al.ed.:Dictionary of Christianity in America.1990.
* J.B.A.Kessler Jr.: A Study of the Evangelikal Alliance in Great Britain. 1968. Goes Netherlands * バルト「十九世紀キリスト教」
* 井上良雄「神の国の証人ブルームハルト父子」
1.起源
覚醒運動は多様な面を持ち、その総括はまだ出来ていない。重要性に着目する人は次第に増えてはいるものの、綜合的把握が困難なため、全体としてはまだ低く評価されてい る。低く評価されるのが正当である面は事実ある。
「覚醒」とは18世紀の終わりからヨーロッパに起こったキリスト教の再生運動であ る。主たる源流は敬虔主義にある。ラファーターの「神に対する悔い改めと主イエス・キリストに対する信仰への覚醒」(1772) にその名は由来する。ただし、彼がこの運動の推進者であったというわけではない。敬虔を重視する性格は基本的な共通条項であるが、覚醒運動は在来の敬虔主義の枠に納まらない。敬虔主義の地盤と無関係にこの運動は国際的に広がる。キリスト教内部の危機感が呼び起こしたものであろう。キリスト教の危機感というのは、社会矛盾が大きくなり、フランス革命以来の社会革命の要求が大きくなり、民心はキリスト教を離れて唯物的になって行く。キリスト教そのものも合理主義によって弱体化し、人々に呼び掛ける力も失いつつあった。
ドイツでは「エァヴェックング」、英語圏では「アウェイクニング」あるいは「リヴァイヴァル」、フランス、オランダでは「レヴェーユ」と呼ぶ。それぞれの国で独自の展開をする。国際的連携はあるが統一はない。これは本質的に大学の神学者の運動ではなく、教会の運動である。とりわけ田舎の教会における運動である。指導的人物は学者ではなく田舎牧師である。そのため知的・理論的には華やかなところがない。ドイツの覚醒運動家の間で、"Stillen im Lande"という言葉が好まれた。これは詩篇35:25 に「国のうちの穏やかに住む者」と訳されている言葉である。その人たちを中心とした運動である。
覚醒運動の叙述は教会史の課題である。教理史として描くだけの材料がない。しかし、教会史的なことに概観的に触れなければならない。教理に関して言えば、覚醒運動はおおむね正統派の教理条項を踏襲するのであるが、正統派の時代よりも終末論への関心が強くなっている。聖霊論が聖霊の実の観点から強調されるのも特色である。
2.ヨーロッパ・アメリカにおける展開の概観
i. アメリカ───初期から何度か覚醒の強調が行なわれ、第一期グレート・アウェイ
クニング(ca.1735-43) 、第二期グレート・アウェイクニング(ca.1795-1830) がある。第一期はカルヴィニストたちの運動であったが、第二期は神学的には明確な線を打ち出してはいない。ヨーロッパの覚醒運動がアメリカに波及したのはその後である。そのような前段階があったから、アメリカの覚醒運動は、ヨーロッパのそれとは少し距離を置いていると見られる。1857/59 にニューヨークの改革派教会でリヴァイヴァルが起こる。リヴァイヴァリズムの指導者では、D.L.ムーディー(1837-99)が有名である。
後述するエヴァンジェリカル・アライアンスは1847年からアメリカで活動し、1867年にはアメリカ支部を開設する。1873年にはアメリカ支部のために、エヴァンジェリカル・アライアンスの教理基礎に前文をつけた。日本伝道への影響は大きい。
ii. イギリス───イギリスには以前から福音派の運動があったが、19世紀のエヴァ
ンジェリカル・アライアンスはイギリスを中心に始まる。英国国教会の中でアングロ・カソリシズムが力を持って来た。これはオックスフォード運動と重なり、ニューマン、ピュジーなどに指導される。ニューマンはローマ・カトリックに転向したが、他の人はローマと一線を画しながら、使徒的継承やカトリック的儀式を重視する。福音派はこれに反発する。また自由主義への反発もあった。
iii.スコットランド───トーマス・チャルマーズの指導するスコットランド自由教会
が近代主義に陥って無気力になったスコットランド教会から分かれた(disruption) のは1843年である。
iv. ドイツ───起こりは南ドイツである。有力な何人かの神学者が覚醒運動に繋りを
持つ。また伝道と奉仕の務めが強調されプロテスタンティズムは宗教改革以来の活気を取り返す。
v. フランス───アジェノル・ド・ガスパラン、フレデリック・モノは自由福音教会
を設立する。
vi. スイス───宗教改革以来教会と国(カントン)は一体になっていたが、それを分
離する動きが出て来る。各地に自由教会が設立される。
vii.オランダ───ナポレオンの占領が終わり、オランダ王家の回復の後、国家の教会
支配と、国家教会の自由主義に反発する人々が分離(afscheiding)をする。第2陣の分離(doleantie)があって合体する。
viii. スカンディナヴィア───デンマーク、ノルウェーではハンス・ニールセン・ハ
ウゲが平信徒の巡回伝道者として迫害されながら影響を及ぼした。
3.福音派のリヴァイヴァリズム
覚醒運動には宗教改革に復帰し、伝統的神学の重視を主張し、自由主義神学と対決するために学問を重視する知的要素があるが、反面、知的単純化や、敬虔主義が崩れて主情的ないし狂信的なリヴァイヴァリズムになる面もあった。この二要素はやがて分裂する。前者は後代のエキュメニカル運動を生む方向に発展し、後者は福音派の運動になる。福音派は伝道を強調するが、神学的には専ら守勢をとり、発展はなくなる。社会的関心も一般的に言って低い。
4.ファンダメンタリズム
近代主義と対抗する神学者のうち、ウォーフィールド、ジェイムズ・オア、メイチェンなどの感化のもとに「ファンダメンタルズ」という叢書が1910年頃に出版されミリオンセラーズになる。この出版を中心とする運動がファンダメンタリズムと呼ばれ、明確な定義はない。ファンダメンタルな教理箇条を受け入れるかどうかで正統的かどうかを決めると言われ、その箇条としては聖書の無謬、処女降誕、代理贖罪、体の復活、キリストの再臨がある。ただし、この人たちは20世紀後期に思考方法を大幅に変更した。保守派とファンダメンタリストは今日でははっきり区別される。
5.日本の教会への影響
日本の教会は覚醒運動の一環としての海外伝道の結果生まれたとともに、内的にも覚醒の神学の影響を強く受けている。罪と和解に特に重点が置かれるのはそのためである。
覚醒の神学として取り上げるに足るものは主としてドイツに見られる。最も重要なのはフリートリッヒ・アウグスト・ゴットロイ・トールック(1799-1877)である。罪と和解の問題を中心的なこととして捉える。その弟子ユリウス・ミュラーも罪についての大きい教義学的著作をし、ヘーゲルやシュライアーマッヒァーと対決する。
1.合理主義的キリスト教への反発
理性の権威という考えに反発するには、反理性主義を別として、幾つかの根拠がある。@敬虔の重視。敬虔主義がすでに始めていたことであるが、合理主義とは十分噛み合わない。敬虔派の流れの一部はもっとファナティックな傾向に移って行く。A啓示の重視。具体的には聖書正典の権威を強調する(次項参照)。教義学的には理性に対する啓示の優位を確定し、その確認の上に理性を用いて論証を展開する。ただし、スコラ的な緻密な論法は避ける。しかし、教義学よりも聖書研究の分野で強力な進展が見られた。教義学的には罪の問題が合理主義者に看過されるのと対比される。B歴史研究の重視。合理主義は簡単な図式で割り切ろうとする。実際の歴史に当てはめて見ようとすると破綻を来たす。壮大な歴史は単純な合理主義を却けることが出来る。しかし、歴史研究には事柄を相対化する問題性が含まれる。覚醒運動は罪と救いに重点を置くゆえに、救済史的見地に立つ。C実践の重視。伝道や、奉仕が重んじられる。実践の重視は実践を通じての思想の問い直しとなる。
2.聖書研究の振興
i.聖書の権威、正典性の強調───合理主義が究極の相手としたのは聖書の権威という考えであるから、権威を守る考えがそれに対抗する。
ii.聖書の普及、聖書協会の設立───聖書協会の運動の源流は18世紀初めのドイツ
敬虔派のファン・カンシュタイン聖書協会であるが、世界的な運動になったのは19世紀初めのブリティッシュ・アンド・フォリン・バイブル・ソサイェティーである。この運動は急速にイギリス及びイギリスの植民地に広がる。1816年にはアメリカの聖書協会が設立される。1825/26 年にイギリス聖書協会は経外典を扱わない決定をする。
iii.聖書註解───覚醒運動の中から生まれた聖書註解には、学問的でない霊的講解と
称するものもあるが、学問性も高く、緻密な、テキストに密着し、逐語の意味を噛み締めた註解が多く産出された。覚醒運動以前のものとしてベンゲル(前出) の「グノーモ ン」はこの傾向の先鞭をつけた。ヨーハン・ペーター・ランゲ(1802-1884)編の「ビーベルヴェルク」、トールックやヘングステンベルク(1802-1869)の諸註解、ゴデー(1812 -1900)の註解がこの傾向を代表し、今日も読まれている。
iv. 聖書主義(Biblizismus)───「聖書主義」という言葉が神学用語として一般に用
いられるようになったのはそう古いことではない(M.ケーラー以来)。シュヴァーベンの神学者の中に以前から傾向としてあったが、ベンゲルがその代表者となるであろう。以後のシュヴァーベンの神学者にも受け継がれる。宗教改革に見られる「聖書的」ということと区別される。体系を持った教理主義に対立するから、信仰義認というような条項を最高原理的なものとしては受け取らない。
v.聖書の短い言葉の有効な引用───これは新しい動きではなく古代教会の予型論な
どにも見られた。宗教改革では聖書の研究が進んだため、パッセージを全文脈の中で読むようになる。敬虔主義の聖句瞑想は再び聖句を文脈から切り離して掘り下げるようにな る。ツィンツェンドルフの始めた「ローズンゲン」や、ユンク・シュティリンク(1740 -1817)の「ビーベル・ユーブンゲン」はその代表的なものである。寸言の力を発揮させ る。人間の好みや判断で抜き出すのでなく、無作為に抜き出した聖句から示しを受け、有効に適用しようとする。
3.伝統的・宗教改革的信仰告白への復帰
i.改革派はこの前の時代には宗教改革から遠く離れていた。カルヴァンへの関心も最低であった。オランダの教会分離、ドイツのコールブリュッゲの分離、スコットランドのチャルマーズたちによる自由教会の分離、ジュネーヴのメルル・ドーヴィニェの分離、ヌーシャテルのゴデーたちの分離などはカルヴィニズムへの復帰である。ただし、改革派全体の傾向ではない。
ii. ルター派においても事情は共通する。1817年にクラウス・ハルムス(1778-1855)が近代主義に反対する95か条を発表する。プロイセンの教会合同には一部ルター派が反対し、ルター主義を強調する。ルター研究が復興し、エルランゲン学派が起こる。
4.聖霊と聖潔の強調
メスジスト系統にこの傾向がある。19世紀後期のアメリカでホーリネス派が起こり、これを基盤にペンテコステ派、さらにペンテコステ運動が起こる。
* 北村次一訳「ヴィヘルン著作集」
* E.Beyreuther : Geschichte der Diakonie und der Inneren Mission in der Neu- zeit.1962
* M.Hennig hrsg.: Quellenbuch zur Geschichte der Inneren Mission.1912.
1.内国伝道を必要とする社会情勢
内国伝道と訳されるインネレ・ミッシオンは伝道とはいえ、主として奉仕活動、ディアコニアである。産業革命が進み都市化が起こる。農民が農村で生活出来なくなって都市の単純労働者になる。都市の教会は旧市民層からなっていて、新しい都市住民は教会からも疎外されていた。その人たちの間に道徳的退落も多かった。
フランス革命を初めとする社会革命に現われた新しい動向にはキリスト教に対する否定的な傾向があり、これにキリスト教側では答えなければならない。
2.宗教改革のディアコニアの回復
覚醒運動家たちが全て宗教改革に関心を持っていたわけではないから、これが宗教改革の回復だという意識がない場合もある。ルター派の宗教改革にはディアコニアアの志が乏しかったので、ドイツのルター派の内国伝道提唱者には宗教改革への復帰という主張はない。これは後の時代に気付かれたことである。
3.インネレ・ミッシオンの成立
海外への伝道は既に始まっていたが、国内に伝道の再開拓をする必要が生じたため、内国伝道が始まる。すなわち、国内にあって教会から離れてしまった人々に伝道して教会に呼び返す。その際、現に奉仕を必要とする人にはディアコニアの働きを並行して行なう。例を挙げれば、ヴィヘルンが始めた事業(ラウエスハウス)は、家庭のない子に家庭を与えることである。
* K.S.Latourette : A History of the Expansion of Christianity.vol.5-6.
* G.Warneck : Abriss einer Geschichte der protestantischen Mission.1913.
1.プロテスタント外国伝道思想の概観
宗教改革時代にカトリックは盛んな外国伝道を行なったが、プロテスタントでは外国伝道への関心は低かった。植民地経営の盛んになる時代にプロテスタント国はその新しい領土に伝道を試みるが、それは「クユス・レギオ・エユス・レリギオ」の原則に則っただけで、旧プロテスタント正統主義からは海外伝道の積極的働き手は出て来ない。ハレの敬虔主義者の中から初めて伝道者が出る。
それ以後、プロテスタンティズムの伝道の関心は次第に高まり、プロテスタント国がアジア・アフリカに植民地経営をしていた事情もあって、宗主国から植民地への伝道が盛んに行なわれる。覚醒運動の時代に至って、プロテスタントの外国伝道は本格化する。
2.外国伝道による派遣母体の意識変革
初期においてヨーロッパの植民地主義とヨーロッパ文化の優越感がプロテスタント海外伝道の精神に結び付いていたことは否めない。しかし、それは徐々に解消する。非ヨーロッパ文化の固有性とその価値を認める宣教師が増えて来る。そのような意識変革が明確になったのは第二次大戦後であるが、初期から、特にアジアにおいては古い文化の優秀性を認めるヨーロッパ人宣教師が少なからずいた。
したがってキリスト教文化が相対化され、キリスト教の本質的な事柄とキリスト教文化との区別を考える機縁が出て来る。
宣教師の遣わされた先では多くの場合強い王権が存在し、これが伝道を制約する。キリスト教はその王権と権力次元における対決をしてはならないから、自らを権力から切り離すことを学ぶ。すなわち教会と国家の分離の実践をせざるを得ない。
キリスト教は久しく他宗教との対決をしていなかったが、外国伝道によって対決を再開する。相手を知る必要から、宣教師は原住民の宗教を研究し、そこから比較宗教学が生まれる。これがキリスト教の独一性という考えを揺るがす。他宗教の中で容易にキリスト教によって克服されたものも多いが、仏教とイスラム教は強固な反発をする。日本宗教は宗教固有のものによってよりも、宗教以外の要素によってキリスト教に対する対抗意識を持っている。
3.ミッシオロジーの開拓
ミッシオロジーが発展したのは第二次大戦後である。それまでは、各ミッションがそれぞれ記録を纏め、それぞれの歴史記述をしていた。しかし、エヴァンジェリカル・アライアンスが伝道の協力をするようになり、宣教師の協議会も開かれ、ミッションの歴史は総合的に考察されるようになる。これを踏まえて、ミッションの理論が考えられる。
おびただしい種類の外国語に聖書が翻訳される時、その経験は蓄積されて、聖書本来のメッセージを如何に伝達するかの理論が考えられる。
1.エラストゥス主義との決別
覚醒運動は理論的ではないから、教会と国家の分離を理論化することには成功していない。国家と結び付いた教会が殆ど例外なしに寛容の理論を導入して、自由主義的になったのに反発して、国教会を離れるという面が強く出ている。
しかし、自由主義的にならなければ国教会で良かったと見るわけではない。理論化されなかったが、教会と国家の分離を直観的に把握していたのではないかと思われる。16世紀以来、エラスティアニズムとの対決が何度かあったが遂にはっきりした決別になる。
2.国教会の自由主義化
どの国においても国教会は権力との結合に加え、前の時代の合理主義を受けて自由主義に陥っていた。国家の権力と結び付いた教会にはメッセージの弱体化を是正する力も意図もなかった。
国家による教会支配の行き着く所は教会統合である。国家による教派合同が推進されたのはプロイセンとヴュルテンベルクであるが、その事の危険性に気付いた人はドイツでは少ない。けれども、合同に加わらない人々がルター派にはいた。改革派は異議なく合同に加わるが、また後で合同した国家教会から分離する人もいる。
3.教会のアイデンティティー
教会と国家との分離が徐々に自覚されて行く。すでにフランス革命において分離が遂行され、アメリカにも分離の原則が確立したが、それらの分離思想がヨーロッパのプロテスタントに直接影響を与えたとは思われない。むしろ、教会の内的自覚として、国家と本質的に違うものがあると捉えられた。
この内的自覚を促したきっかけは、教会規則、礼拝式文、讃美歌、伝道、教理条項などへの国家の介入に対する反発である。
4.各国の自由教会
a.オランダの分離運動(afscheiding と doleantie)
これは国教会との分離の典型である。ナポレオンの占領後のオランダ政府の宗教政策の不手際と教会的伝統の破壊に抗して少数の保守的な牧師たちが結束し、ドルトレヒト的秩序を回復し、詩篇歌を礼拝の中で用いるためにヘルフォルムデ教会を去り、1834年ヘレフォルムデ教会を再建した。指導者はヘンドリック・デ・コックである。
後でアブラハム・カイパーの指導する一団の教会が1886年これに加わる。doleantie なお、初期の分離派の指導者の一人ファン・ラールテは移民を率いてアメリカに行き、その移民はアメリカで古いリフォームド・ダッチ・チャーチと一緒になるが、移民のかなりの部分がクリスチャン・リフォームドに分裂する。ファン・ラールテ自身はリフォームドに留まる。
b.スコットランドの自由教会
トーマス・チャルマーズ(1780-1847)の指導のもとに1843年国教会から分離する。分離派は伝道に関して国教会よりも遥かに熱心であった。
c.ジュネーヴ
国教会の自由主義的傾向に反発して、1817年にはロバート・ホールデーン(1764-1842) の影響で正統主義の教会が独立した。ジャン・アンリ・メルル・ドービニェ(1794-1872) がジュネーヴの宗教改革の精神の回復を訴えた。
d.ヴォー
アレクサンドル・ヴィネ(1797-1847)はシュライアーマッヒャーの影響を受け宗教体験を重んじる文学感覚の優れた神学者で、覚醒運動の指導者ではないが、教会と国家の分離を主張し、1847年自由教会を設立した。
e.ヌーシャテル
自由主義の浸透によって国教会が正統主義から自由にされたことに反発して、正統派は1873年独立教会を建てた。聖書学者フレデリック・ゴデーが有名である。
f.フランス
フランス革命以後フランスでは国家と教会の結び付きはなくなる。したがって、国家教会からの分離ということもない。ただ、覚醒運動の中で、正統教理を掲げる人々が自由派から分離することはある。
g.ドイツ
プロイセンのフリートリッヒ・ヴィルヘルムV世は国内のルター派・改革派を合同させた。この時ルター派の一部は反対し、国家はその教会を認ざるを得なかった。(合同については最終講で触れる)。
ヘルマン・フリートリッヒ・コールブリュッゲ(1803-1875)はルター派に属するドイツ系オランダ人でルター派牧師になったが、信仰的煩悶の末改革派に転じた。エルバーフェルトの町で合同教会の礼拝式にどうしても馴染めない人々が、国教会を離れて非公認の改革派礼拝を守り、その牧師としてコールブリュッゲを招く。10年の後、当局はこの教会の礼拝を認可した。
宗教改革以来ランデスキルヘの形しか知らなかったドイツ教会にイギリスからのバプテストとメソジストの伝道が行なわれ、自由教会が建てられる。
h.北欧諸国
ハウゲの分離運動があったが、これは移動する説教者によるムーヴメントであった。神学的なものは何もない。
5.超教派的、国際的協力の始まり
教会活動は神学を別としてこれまで国の領域内に留まっていたが、もっと広い範囲で活動しなければならなくなる。これを遂行したのは下記のエヴァンジェリカル・アライアンスである。
* Voigt,K.H.: Die evangelische Allianz als oekumenische Bewegung.1990.
1.エヴァンジェリカル・アライアンスの成立と発展
イギリスでこの動きが始まった原因として三つのことがある。リベラリズムと、カトリックと、アングロ・カソリックである。アングロ・カソリックについて言えば、これは英国教会の中にカトリック的要素を強めて行こうとするもので、ピュゼイがその代表的人物である。これは聖公会の中のハイチャーチ派となる。これに対抗して、エヴァンジェリカルであることを確認しようという人たちが立ち上がった。初期には英国教会のエヴァンジェリカル派とスコットランドのフリーチャーチ派から発起人が出ている。
第1回の会合を1845年リヴァープールで開き、第2回はロンドン、第3回はパリ、ついでベルリーン、ジュネーヴ、アムステルダム、ニューヨーク、バーゼル、コペンハーゲ ン、フィレンツェ、というふうにイギリス以外の国で開く。それらの国でも支持者が増える。
2.ドクトリナル・ベーシス
この運動は教会合同運動ではないが、運動を一致させるためには基本的な教理において統一が必要であると考えられた。そこで、1845年の会合で8項目の教理基礎を確定した。これは教会の信仰告白ではない。
(1)聖書の神的霊感、権威、充足性。(2)神の唯一性と位格の三一性。(3)堕罪の結果としての人間本性の全き腐敗。(4)神の御子の受肉と人類の罪のための贖罪の業。(5)信仰のみによる罪人の義認。(6)回心における聖霊の業と罪人の聖化。(7)聖書解釈における個人的判断の権利と義務。(8)キリスト教的職務は神の制定であり、バプテスマと主の晩餐の定めの権威と永続性。
3.日本伝道への影響
横浜公会の成立は連続祈祷会の結果であったが、その祈祷会はエヴァンジェリカル・アライアンス(万国福音同盟会)の初週祈祷会に続くものであった。
横浜公会の信条としては政府の諜者によって伝えられて残った最初のもの、同年中に改定されたと思われる第二のもの(山本秀煌「日本基督教会史」付録1)、翌年改正された第三のもの(1874年、明治7年)、これは山本の書物では最初のものとして紹介されているが(p.24) 上記ドクトリナル・ベーシスの借用である。すなわち、
(1)聖書は神霊の示す所、また権能とその信ずべき事を充実せる事。(2)聖書を読みかつ伝ふるとき自己の決心に任ずべきは正理なる事また務むべき事。(これはドクトリナル・ベーシス第七項に該当する。以下)(3)神は唯一にして三位なる事。(4)始祖の原罪に因て人皆罪を犯す者となれる事。
4.アライアンスの成り行き
アメリカでは奴隷制度の問題で南北に分裂し、勢力は弱まる。第二次大戦後エヴァンジェリカル・アライアンスは活動を再開するが、1948年エキュメニカル・カウンシル・オヴ・チャーチズ(WCC)が結成され、福音派はそれと別に1951年にワールド・エヴァンジェリカル・フェロウシップを結成する。ロザンヌ派と呼ばれることもある。
1.聖書的使信としての終末と再臨
宗教改革は聖書に忠実であろうとしたが、終末に関する聖書の教えを聞き取ることには十分でなかった。一つには、当時、急進派の中に、またセルヴェトのような自由思想家の中に現われた終末の教説に警戒したためでもあろう。
終末・再臨の教理を重要なものとして取り上げることは、コッツェユスに始まり、ベンゲルに受け継がれる。特に後者は千年王国説を説いた。
2.覚醒の使信としての終末
覚醒を促すために、終末の教理が強調されるようになった。これは人間の可能性を信じる思想を抑制するのに有効であった。終末教理の強調はキリスト再臨の強調でもあるが、単純化された千年王国説になって行く傾向が一部にある。終末論的思考を神学の主軸としたのは、ブルムハルトの感化を受けたバルトを代表とする所謂危機神学である。
3.ブルームハルト父子における再臨のリアリティー
ブルームハルトはバルトに大きい影響を及ぼした。キリスト教全体としてはそれほど重視されていないが、注目に価する。これを歴史の流れの中で考察することが重要であっ て、ヴュルテンベルクの敬虔主義を受け継いだものであり、その終末思想はコッツェユスの契約神学の影響を受けた敬虔主義の千年王国説(ベンゲル)の流れを汲み、19世紀の覚醒運動のつながりのなかで成立した。