1992・11・19

第16講 改革派の正統主義 附:ルター派の正統主義

 * D.K.McKim ed.: Encyclopedia of the Reformed Faith.1992.

 * ヘロン編・松谷訳「ウェストミンスター信仰告白と今日の教会」

 * R.A.Muller : Post-Reformation Reformed Dogmatics.Vol.1 1987.

 * A.Clifford : Atonement and Justification. English Evangelical Theology

           1640-1790 An Evaluation. 1990.

 * J.A.Dorner : Geschichte der protestantischen Theologie,besonders in

             Deutschland. 18672

 * W.S.Reid ed.: John Calvin, His influence in the Western World.1982.

 * J.W.Beardslee III : Reformed Dogmatics.1965.

 * Jill Raitt ed.: Shapers of Tradition.

 * H. Heppe : Die Dogmatik der evangelisch-reformierten Kirche.

 * H.E.Weber:Reformation, Orthodoxie und Rationalismus,

 * F. W. Kantzenbach : Orthodoxie und Pietismus.1966.

(1)概観

 1.正統主義の時代

 正統主義という言葉は普及し定着しているが、その理解と評価はまちまちであり、理解内容も底が浅いのが通例である。プロテスタント・スコラスティシズムと言われたり、アルトプロテスタンティズムと呼ばれたりもする。一般に正統主義は低く評価されるが、内容を把握せずに批評されている場合が多い。ただし、正統主義を高く評価し、これが宗教改革の徹底であるとの見解もあるが、高く評価し過ぎである。

 時代的には宗教改革の時代の次に位置を占める。そして、敬虔主義への過渡期という一面を持つとともに、敬虔主義と一線を画す面を持ち、次の啓蒙主義・近代主義によって変質させられた新プロテスタント主義とは対立する。優勢だった年代は16世紀の終わりから18世紀一杯である。時期の区分は明確には出来ない。保守的立場を理論的に守ろうとするので、其の後も学問上では一定の地位を維持している。現代に至るまで研究家の多くは正統主義を価値なきものとして看過し、宗教改革からすぐに近代に移る。

 ギリシャ語の「オルトドクシア」は言葉の意味としては「正しい見解」であり、2世紀以来キリスト教の正しい信仰を表わす用語として用いられ、異端との対比において主張されるようになる。9世紀にローマ教皇とコンスタンティノポリスの総大主教フォティオスとの論争があり、東方と西方が分かれるが、東方教会はオルトドクシアであると主張して今日に至る。

 プロテスタントにおける「オーソドックス」という語は、すでに宗教改革の主張の中にしばしば現われる。そして宗教改革の後継者の間ではさらに盛んに用いられる言葉とな る。ルター派においても改革派においても正統の目印となるのは、聖書、古代の信条、宗教改革の信仰告白を正しく保持することであった。

 正統主義はいずれの場合も信仰の知的防衛に力を注ぐ。伝統的なものを守ろうとするが、伝統概念を主張することはしない。改革派正統主義の論争の相手としてはカトリックとルター派がある。次の時代にはさらに近代化との対決がある。実践を離れた理論のみを重んじるのではなく、実践も重視する。教えの一環として敬虔を強調することも多い。改革派の正統主義では教会的・個人的なディシプリンを重視する厳粛主義の傾向がある。正統主義には理論の重視という性格があるが、ルター派正統主義は讃美歌も多く作っている(例えばパウル・ゲルハルト)。正統主義は信仰を論理的に整えて叙述するので、教理条項を時に煩鎖なまでに規定し勝ちである。

 改革派正統主義の代表的信条文書としては既に内容を紹介した3文書、ドルトレヒト規定(1619) 、ウェストミンスター・スタンダード(1647) 、スイス一致信条(1675) を挙げることが出来る。第3のものは正統主義の悪い意味の典型と見ることが出来るが、この信仰告白については改革派の間で一致した認知がない。正統主義は宗教改革の教理条項の全般的整備、論証的論理性の充実によって完成し、以後、その体系を維持しようとするものであるが、学派の差異はあり、一様なものとして扱うことは出来ない。

 2.正統主義の諸傾向

 正統主義は一枚岩のように扱われることが多いが、学派の違いがあり、個人個人の違いもある。学派の差異は教え方の違いから来る。それぞれの神学校の置かれた国の学問的伝統や学風の違い、受け入れている哲学の違いがそのもとにある。最も顕著に作用するのはそれぞれの国で影響を持っていた哲学と論理学である。その哲学はおおむねアリストテレス系統の哲学であった。しかし、国際的交流が神学者の間ではなされていたので、必ずしも狭く固まることはない。

 正統主義の神学が近時高い評価を得ていないのは当然であるとされるが、正統主義に対する固定した先入見に基づいた割り切った評価が行なわれ、各学派の特色の把握もまだなされていない。

 3.宗教改革と正統主義

 宗教改革と正統主義の違いは、理論の問題よりも先ず信じ方の違いにあり、ついで啓示の把握、人文主義的学問に対する態度に現われる。両者の区別は当然なされなければならないが、正統主義までは古プロテスタントとして一括され、以後の時代と区別するのが適当である。

 初代の改革者と二代目との間に既に段差が出来ていると一般に認められるが、その差は正統信仰を受け継ぐために信仰の叙述における論理性を強化したところにある。

 4.主要な学派

 個々の神学者の違いがあるとともに、学派的特色がある。また、学派には時代によって栄枯盛衰があり、一様ではない。

 i.スイス、これはさらに次の2系統に大別される。

a)ジュネーヴ・ロザンヌ・ヌーシャテルのフランス系。

b)チューリッヒ・バーゼル・ベルンのドイツ系。

 ジュネーヴではド・ベーズ、ラモー、トゥレッティーニ、などがいる。

 バーゼルでは聖書語学の研究で優れていたブックストルフェ父子がいる。ハイデッガーによって書かれた「スイス一致信条」はスイスの正統主義の典型と見られるが、50年後にジュネーヴのトゥレッチニ、バーゼルのヴェレンフェルス、ヌーシャテルのオステルヴァルトによって破棄された。

 ii.ドイツで改革派教会が建てられた所は少なく、従って改革派神学の拠点となる所は少ない。東フリースランドと低ラインはオランダの感化のもとにある。大学ではハイデルベルクとマールブルク、ヘルボルン、ブレーメン、フランクフルト・アム・オーデル、ドゥイスブルク、ノイシュタット等がある。このうち、ハイデルベルクの位置はプファルツ選挙侯領をルター派の領主が継承することがあって、しばしば不安定であった。

 iii.フランスでの学派として知られるのはセダンとソーミュールである。後者の所謂アミローの異端についてはすでに述べた。

 iv. イギリスでは、中世から二つの大学があったが、オックスフォードよりも、ケンブリッジがカルヴィニズムの牙城となった。イギリス教会の宗教改革はローマから分離し、国王を教会の首にする、というだけの内容をもって始まったが、実質的宗教改革を達成しようとする要求もあって、カルヴィニズムが取り入れられる。その結果、教会の制度を司教制のままにして信仰を宗教改革的にしようとする人と、制度をも改革しようとする傾向とが生じ、制度として長老制を望む者と会衆制を望む者が対立する。一般にピュリタニズムと呼ばれる思想がイギリスにあった。後述。

 カルヴィニズムの影響が強かった時代は短かったため、厚みのある神学的伝統を残すには至らなかったが、17世紀の中期は圧倒的にカルヴィニズムが優勢であった。

 v.オランダでは、レイデンが最も古く開かれた大学であり(1575)、有力であった。ほかにフラネケル(1585)、フロニンヘン(1614)、ユトレヒト(1634)等がある。

 レイデンの4人の神学者(Polyander,Rivetus,Walaeus,Thysius)が作った所謂レイデン・シノプシス1624は教科書として重んじられた。これは52の項目について二人ずつの神学者が討論して神学命題を確定したものである。一つ一つの命題は短くて読み易い。

 フラネケルは後の時代にデカルト哲学を受け入れて近代主義になり、19世紀にナポレオンの占領時に大学は廃止されるが、初代ルッベルトゥス、マコヴィウス、アメシウス、コッツェユス等の正統派神学者が教え、ドイツ、ハンガリー、スカンディナヴィアから多くの学生が訪れた。

 フロニンヘンの初期(1618より)の神学教授にゴマルスがいた。その後を継いだのはハインリッヒ・アルティングである。

 ユトレヒトの初代神学教授ヴォエティウス(1589-1676) はゴマルスの弟子で、アリストテレス的・スコラ的論理の一貫性をもって正統主義を擁護したが、学問的・実践的に幅広い活動をし、敬虔主義にも大きい影響を与える。

 vi.スコットランド教会は神学的特色を維持し、イングランドとは全く別である。イングランドと多くの共通点を持ち、国王も共有する場合が多いが、スコットランド人は別のネーションであることを意識し、宗教的・文化的にも別の道を行く。しかし、ウェストミンスター会議の後、イングランドとの間の「厳粛なる同盟また契約」(1643)に則ってこの信仰告白を受け入れ、それまでのスコットランド信仰告白は忘れられる。

 神学部の古いのはセント・アンドルーズ、グラスゴー、アバーディンで、これらは15世紀に開設された。エディンバラ大学は1580年代に始まる。神学的には正統主義であるが、後の時代には経験主義の哲学を生み出す。

 5.聖書釈義の方法

 正統主義においては神学研究の中心は教義学に置かれる。従って聖書を重視すべきことを教義学的に述べる聖書論は盛んであるが、聖書釈義はそれほど盛んではない。

 聖書の権威。聖書の霊感は正統主義の重要な主張であるから、その理論の証明のためには聖書釈義が重んじられる。信仰告白ないしは神学的図式(例えば契約神学における救済史的図式)が釈義の原理として重んじられるようになる。 

 釈義方法は宗教改革時代と異なる。人文主義的なテキストに即した釈義は後退し、スコラ主義的な概念展開になる。フランスのソーミュール学派が図式化を避け、釈義的方法を比較的重んじた。

 この時代、言語学や歴史学に著しい進展はなかったが、それでも若干の進歩はあり、釈義におけるそれの反映が見られる。例えばコッツェユスがそうである。

(2)正統主義の性格

 1.対論と協調

 正統主義が論理を緻密にして行こうとするのは、自己の理論的満足のためという面もあるが、それよりは他派との対論の動機のためである。改革派、ルター派、ローマ・カトリックの三派が自説の正しさを主張していた。改革派の立場から言うならば、ルター派が和協書の完結によって異なる信条を排除したので、その行き方と違うことを明言せざるを得なかった。(ローマ・カトリックにおいてはイエズス会がこの傾向を代表する。再洗派その他の急進派はこの時代には論争の相手になれないほど弱められていた。したがって、宗教改革期に見られるような再洗派に対する論駁はこの時期にはない)。

 教派間の協調としては、少なくとも改革派とルター派との間には、細々とではあるが続けられた話し合いがある。その実例として1631年の「ライプツィッヒ会談」がある。ザクセン選挙公、ブランデンブルク選挙公、ヘッセン侯領の神学者の会談である。項目は主としてキリスト論に関する10か条であった。この会談は不成功に終わった。 

 2.正統主義の基本的条項

 正統主義は宗教改革の線を正しく守ろうとしている。宗教改革の中で既に出ていた線を伸ばして確定するのが主たるねらいである。宗教改革期よりも若干行き過ぎた点があるとしても、基本的にはそれを越えないようにしている。ただ、論理の立て方が違うので、強調の仕方が変わって来る。すでに見た通りであって、アリストテレス的論法が教理体系全体を纏める。したがって、全体を総括する原理が重要視され、予定論が体系の原理として位置付けられるのが普通である。聖書の権威に原理を求める行き方もある。これらを原理的なものとして位置付け、理論的整合性を追求する体系を立てる。

 3.宗教改革以後に付加あるいは強化された項目

 (1) 契約神学的思考は宗教改革初代にはなかった付加である。

 (2) さらに、契約の歴史を段階的に見る時、終わりの時の意識が明らかになる。そこで、宗教改革期になかった再臨の強調が現われることがある。

 (3) 聖書の権威を論証するための聖書の霊感と聖書のそれ自体の自己証明の理論が以前よりも強調される。宗教改革時代に強調された、書かれた書と生ける声との両立の理論は後退し、聖書の権威だけが突出するようになる。聖書霊感論はむしろルター派正統主義で盛んに唱えられ(ケムニッツ、フンニウス)、それが改革派に入って来る。

 (4) 正典と経外典の区別は古くからのものであるが、後者を排除する傾向が進む。

 (5) 予定論は改革派の正統主義で最も重んじられた部門である。聖徒の保持(堅忍)、堕落前予定か堕落後予定かの議論を発展させる。

 (6) 敬虔、良心、回心などの実践的項目が教理の中で次第に重要視されるようになって来る。救いの確かさ、ないし選びの確かさを問題にする時、関心がここに向かざるをえないからである。善き行ないをしているかどうかによって選ばれているかどうかを吟味する教えも説かれた(Syllogismus practicus)。後述。

 (7) ルター派との対論においては聖餐論が焦点となるが、改革派ではルター派から「エクストラ・カルヴィニスティクム」と呼ばれる立場を取る。 

 4.ピュリタニズムと改革派正統主義

 ピュリタニズムはカルヴァンの流れを汲むものと見られることが多いが、宗教改革の改革派と違うものを持っている。すなわち、宗教改革期のラディカリストの持つ要素をかなり受け入れている。教会論や生活面においてその違いが顕著になる。会衆主義に傾き勝ちである。さらに、一般政治との関わりにおいてラディカルな姿勢を取る。ピュリタニズムが一般的関心を集めるのは国王を法によって処刑する革命を遂行したこと、宗教的自由を求めてアメリカ植民地に移住したことなどによってであるが、これらの通俗的関心は必ずしもピュリタニズムの理解とは結び付いていない。そして、ピュリタニズムが改革派正統主義の一環であるとされるのは異例の事態である。

 ピュリタニズムは英国国教会の宗教改革が王室主導の中途半端なものであることを激しく批判する非国教徒の運動である。彼らの多くは迫害を逃れてヨーロッパに行き、その地の宗教改革を見て来ている。そして、徹底的宗教改革の模範をジュネーヴに求める。ド・ベーズが指導に当たり、またブリンガーの指導も受け、その線に沿って、中心教理としての予定論を受け入れる。しかし、当然の結果として大陸の改革派と違ったものになる。

 ピュリタニズムにも細かく分ければいろいろな傾向がある。会衆派が中でも有力であるが、長老派、バプテスト派もある。パーキンズとオウエンはどちらもピュリタンのカルヴィニストであるが、神学的には違うところがある。ピュリタンが清い生活を追求したのは事実であるが、本来目指したのは清潔な教会であった。

 5.教会の形態に関する論争

 17世紀のイギリスでは、会衆派、長老派、監督派の対立があった。この違いは必ずしも教理上の相違に結び付かない。一つの派から別の派へ変わるケースも珍しくない。この論争は十分突っ込んでなされず、またまとまらなかった。

 イギリスに長老主義教会を建てようと先ず努力したのはトーマス・カートライトであったが、成功しなかった。ついでイギリスでは会衆派が次第に勢力を持つ。長老教会の成立はメルヴィルによりスコットランドにおいて遂行された。ウェストミンスター会議では長老派の指導力が大きかったが、信仰規範も政治規準も遂に行なわれず、長老派だけが採用することになる。(会衆派はサヴォイ宣言を信仰告白として採用する。内容的にはウェストミンスター信仰規範によく似ている)。イギリス長老教会は1692年になるまで教会としては確立しない。

 6.ルター派の正統主義

 ルター派は改革派よりも早く正統主義化した。すなわち、1580年代の初めには和協書によって閉鎖的に教理を維持するようになる。メランヒトン派は締め出され、和協書が奉じられる。しかし、神学的な営みを停止したわけではない。厳格な正統主義の主な学派はヴィッテンベルク、チュービンゲン、シュトラスブルク、グライフスヴァルト、ギーセン、ダンチッヒ、ハンブルク、リューベック。代表的神学者としてはヨーハン・ゲルハルト、ヤーコプ・アンドレーエ等がいた。

 厳格な正統主義に対立する学派としては、ゲオルク・カリクスト(1614-1656)を代表とするヘルムシュテット、ケーニッヒスベルク、アルトドルフ等の大学神学部がある。善き業の必要を説く。中間派はイェーナ、ライプツィッヒ、コペンハーゲンである。

 ルター派正統主義は和協書を守るのであるから、新しい教理条項を建てることはしないが、聖書霊感説とキリストの二つの位置についての議論に若干の進展が見られた。これらの神学者の著作は主に教義学の書であり、その方法論はロキの方法であった。

 7.カトリックの正統主義

 カトリックの教理を述べるのはこの講義の課題ではないが、正統主義的思考方式が一般的な時代思潮であることを見るため、カトリックにも言及しておきたい。カトリックにおいてもプロテスタントのそれと共通したスコラ的学問が盛んになる。それを最も強力に支持したのはジェスイットである。ジェスイットと他の修道会の間に軋轢が生じることは多く、ためい一時解散させられたほどである。

 ジェスイットの態度に根本的な異論を突き付けたのはジャンセニストでこれは異端として葬られた。その論争についてはパスカルの「プロヴァンシァル」を見よ。

(3)回心と信仰

 1.ピュリタニズムの論理

 正統主義が客観的な面を強調するのことについて、問題を感じる人は正統主義の内部にもいた。その人たちは主体的な面をも強調しなければならないと意識する。客観的には予定から聖徒の堅忍(保持)の教理の確定によって論理は完成するとしても、自分が選ばれているかどうかの問いは残る。そこで、回心、救いへの信仰、良心、敬虔、というものに注意が向けられ、それらについて以前よりは詳しい叙述がなされる。 

 ピュリタニズムにおいてこの傾向が特に強い。それはラディカルな変革を目指すピュリタニズムに独特の主体的要素があったからであろう。

 ピュリタニズムの神学者として挙げられるのは、トーマス・カートライト(1535-1603)や、ウィリアム・パーキンズ(1558-1602)その他で、パーキンズの影響が大きかった。

 2.セイヴィング・フェイス

 宗教改革では「信仰による義認」は最も重要な教理条項をなす。その信仰は三一的信仰として客観的に規定されたのであるが、客観的な信仰(信じられる信仰)と、主体としての信仰(信じる信仰)については、カルヴァンは信仰を認識として定義することによってルターよりも明確かつ詳細に説いたが、教会の教理条項において信仰論を明確にすることはなかった。ために、一般的にいって混同が起きる余地があり、主観的信仰の強調が敬虔主義のもとで行なわれる準備になる。

 一時的な信仰もある意味で信仰であると聖書に書かれており、しかしそれは救いに至るものではない。選ばれた者に与えられる信仰と遺棄された者も持ちうる一時的信仰を区別すべきであるとの主張はカルヴァンにある(キリスト教綱要V,2,11) 。パーキンズは選ばれた者に与えられる信仰を「セイヴィング・フェイス」と規定する。

 3.良心

 良心概念は中世から取り上げられて来ているが、宗教改革において良心の自由が大きく取り上げられるようになる。宗教改革における良心の自由は、教会法によって悔い改めが強いられることからの自由、心に信じることを妨げられずに告白する自由である。正統主義の時代における良心の問題は、選ばれているかどうかの良心の葛藤の問題である。

 良心を教理条項の中に規定することは一般信者には難解になるからそれはされなかっ たが、キャッチフレーズとしては以前の時代よりも良く使われることになる。なお、良心は自然法の関心からも注目され、抵抗権の基礎付けにも用いられるようになる。

 4.有効召命

 選びから救いの最終段階まで一貫性があると主張されるのであるが、現実に教会に召されているにもかかわらず救いに至らないケースがある。したがって、予定論の枠内で召命が論じられ、召命に2種類あること、すなわち、外的な言葉の宣教によって全ての者に与えられる「普遍的な召命」と、選ばれた者にのみ与えられる「特殊な召命」があることがカルヴァンによって論じられていた(キリスト教綱要V,24,8)。

 有効な召命という言葉はカルヴァンも用いるが、有効なという言葉は単なる形容詞を出ない。この意味がドルトレヒトの規定により更に強められ、「有効召命」という術語になる。

 5.シロギスムス・プラクティクス

 自分は選ばれているかどうかの問いが良心の大きい問題となるので、選ばれているかどうかを確認する手段として、実践的方法が提唱された。すなわち、選ばれた者ならば良き業をするはずだから、自分が良き業をするかどうかを見れば選ばれたかどうかが確認出来る。これもカルヴァンがきっかけを作った理論である。選びは御霊による更新を伴う(綱要V,24,8)。この理論が独り歩きすると行ないによる救いと同じことが起こる。

 6.制限的贖罪

 救わるべき者が決まっているのであるから、キリストの血は効力を伴わずに流されることなく、定められた者のためにのみ流されたとする見解が予定論者のうちに強くなって行く。

 7.堕落前予定か、堕落後予定か

 予定を究極原理として措定する時、アダムの堕落の前に予定があったと考えるようになり、その難点も考えられる。論争は多く行なわれたが、全体としてはこの問題に決着をつけないようにした。

(4)正統主義と福音伝道

 1.伝道の熱意

 神学的に正統主義であっても、非国教派は福音伝道によって教会を集めて行かなければならないから、伝道への関心と熱意が深い。この点が特色である。

 ピュリタンである会衆派のジョン・オウエン(1616-1683)はアルミニウアウ派に反対したが、ウェストミンスター会議やパーキンズの行き方とは異なる広い線を取る。

 リチャード・バクスター(1615-1691)も同様である。

 これらの人たちの見解は予定論を支持するが制限的贖罪という考えを拒否する。

 2.正統主義

 この人たちのブロードな考え方は、厳格な正統主義の線を行こうとする人から批判される。ただし、この人たちは宗教改革の線を貫こうとしたのだという解釈がある。狭い正統主義が宗教改革にいろいろの要素を付け加えるのに対し、もとの線を守るのだと言われ る。フランスにおけるアミローの場合と似ている。

 

(5)デカルト方法論

 1.デカルトの影響

 デカルト(1596-1650) の哲学がオランダの神学者の間に影響を与えた。レイデンのヘイダヌス、ユトレヒトのブルマン、さらにヴィッティッヒ、ブラウン、アリンガが一学派をなした。厳格な正統派はこれを禁止し、オランダのみでなく、ベルン、マールブルク、ヘルボルン等もこれを排除した。

 デカルト派は少数であって影響もそれほど大きくはなかったが、次の時代の合理主義による動揺の前段階と見ても良い。デカルトに心を引かれる人がいたのは、正統主義自体が一種の合理性を追求していたからである。

 2.方法論と思考の本質

 排斥の主たる理由は、デカルト的思考が疑うことを最も必要なものとして取り入れる点であるが、デカルト派はさらに進んで精神の本質は思考にあるとし、キリストにおける神性と人性の一致は思考の中にのみ可能であると考えた。さらにデカルト派は外的啓示と客観的権威に対立する。外的な言葉も聖書も教会も意味をなさなくなり、理性が重んじられる。

 3.反発

 ヴォエティウス(1588-1676)は神学には如何なる意味においても疑うという方法は用いられないと反駁した。 

 

(6)正統主義時代の教会と国家

 1.ドルトレヒト会議における教会と国家

 アルミニウス派の見解は教会と国家の関係において国家が優位に立つエラストゥス主義である。アルミニウス派の有力信徒オルデンバルネフェルトが死刑になり、指導者が追放になっているため、国家に対して批判的であったかのように見られるが、実情はその反対である。アルミニウス派の見解は国家の優位を認め、しかし、それゆえに教理においては緩やかにしておくという考えである。

 2.ウェストミンスター会議における教会と国家

 ウェストミンスター会議の召集者である国会は、革命的であり、王権に反対であるが、国会の権力が教会を指導するという考えを持っていた。

 会議の参加者のうちには王党派こそいなかったが、教会と国家の考えについては各種あった。エラストゥス派もいた。

 ウェストミンスター信仰告白の「会議について」の項に、教会会議は共同社会(res  publica)に関することに介入してはならず、教会に関することだけを扱うべきであるとの規定がある。教会の会議が国政に関わるのは、異常事態のもとにおいて、謙虚な嘆願という形を取ってでなければならない(31,5) 。教会から国家への干渉が禁止されるのみでなく、国家が教会の職務を行なうこと、すなわち御言葉の宣教と聖礼典の執行、鍵の権能の行使、も禁じられる(23,3) 。まだ国家と教会の本格的な分離には至っていない。国家条項はウェストミンスター信仰告白がアメリカ長老教会で改正される時に変更された。

 3.スコットランドのカヴェナンターの場合

 宗教改革の時代にスコットランドには王と人民の間に契約があるという観念が顕著であった。これは抵抗権思想に共通する要素である。

 スコットランドにおいては国王チャールズT世が1581年に「国王の信仰告白」をし、国内で宗教改革を遂行し、ローマ・カトリックをなくし、ローマの反キリストの権威が神の聖書と、教会と、世俗の政治的権威と、人々の良心の上に立つことがないようにすると国民に契約する。

その契約が実行されないので、再度1638年に「国民契約」が結ばれ、その実行を促す。この人たちはさらに繰り返し国王に契約の実行を迫り、国王と戦って遂に追放になる者も出て来る。この人たちをカヴェナンターと呼ぶ。(もう一つの今日カヴェナンターと言われるものがあるが、これはスカンジナヴィア起源のものでスコットランドのそれとは関係がない。) 今日のアメリカのリフォームド・プレズビテリアンがこれを継ぐ。ただし、政治の見解は受け継いでいない。

 4.フランス改革派における教会と国家

 抵抗権思想はフランス改革派の中に浸透する。モナルコマキと名付けられる思想家たちが改革派の中にいて、カルヴァンの考えたよりもさらに積極的な抵抗思想が生まれる。人民のために王があるという考え、さらに人民主権の考えが発展する。しかし、これは教会の教理とはならない。

 教会は政治的見解を統一することはなかった。したがって、フランス革命の時、教会の構成員の政治的見解は三つに分かれた。すなわち、革命派、王党派、中間派である。


お問い合わせ、ご意見ご要望は...

〒183-0002 東京都府中市多磨町1−14
Tel: 042-334-1564
牧師:広瀬 薫
E-Mail(メイルはこちらへ): tamach@jcom.home.ne.jp

  • 「インターネット・ミッション・クラブ(IMC)」のホームページへ