1992・09・17

第12講 カルヴァンのキリスト教綱要

 * ニーゼル「カルヴァンの神学」

 * F.L.Battles ed.: An Analysis The Institutes of the Christian Religion of

   John Calvin.

 * Paul C. Boettger : Calvins Institutio als Erbauungsbuch.Versuch einer lit-

  erarischen Analyse. 1990.

(1)キリスト教綱要の性格

 1.教理の大要

 綱要と訳される institutio は教育の意味である。ドイツ語では Unterricht と言う。そこで言う教育とは、信仰の教育のことであり、殆どカテキスムスの同義語である。当時「カテキスムス、あるいはインスティトゥーティオ」という名の教理教程の書物が幾つも書かれていた。

 同じものを「スンマ」(summa)あるいは「スンマ・ドクトリナエ」(summa doctrinae) と呼ぶ言い方もあった。スンマは中世においても、例えばトマス・アクィナスのスンマ・テオロギカ(あるいはスンマ・テオロギアェ)に見られるように、壮大な学問体系の総纏めを指す名称として用いられた。同じスンマであるが、カルヴァンはそれとは違った使い方をしている。但し、スンマの語の意味が変わったとは言えない。宗教改革以後のプロテスタント正統主義の中で、トマスに似たスンマが書かれることもあるからである。

 スンマは「全要」、「纏め」である。神からの教えとしては、聖書が完全なものを包含している。しかし、聖書の教えは厖大であって、しかも一見錯雑しているから、初心者にこのまま与えると却って混乱することもある。それゆえ、纏めをつけて教えるのである。いわば、概念図を与えるようなものである。あるいは、山に入るに際し地図を与えるようなものである。すなわち、スンマは特に初心者のために聖書の内容に筋道をつけて教えるものである。(綱要フランス語版の梗概参照)

 したがって、カルヴァンにおいてはスンマは全聖書とつねに関連を持っている。スンマだけを学ぶのではなく、聖書と聖書のドクトリナを学ばなければならない。スンマは特に年少者、あるいは信仰告白準備中の者に教えられるが、信仰告白が終わった者は聖書の釈義の説教と聖晩餐とによって養われ続けるのである。また、スンマを学んだ者は聖書とその釈義を学ばなければならない。

 スンマとロキについて少しだけ述べて置く。メランヒトンを代表者とするロキの方法は教理的な事項を主要概念ごとに纏める。内容的にスンマとロキが矛盾するわけではなく、カルヴァンがメランヒトンのロキの仏訳の序文を書いているほどである。しかし、ロキの場合、諸概念の統一は必ずしも目指されておらず、かつ全項目を述べ尽くさないで終わる恐れは十分ある。スンマは全体の統一を志す方法である。

 2.信仰の弁証

 綱要が信仰の弁証であると言われるのは、巻頭に掲げられたフランス王への献呈の辞が典型的な弁証の書であるからである。しかし、献呈の辞と書物の内容とは別のものであ る。以前から用意していた書物が出来あがった時にフランスでプロテスタント迫害が始まったので、それを王の力で止めさせるために、急遽手紙を書いて添えたのである。

 したがって、弁証の書という意味はなくはないが、それほど強いものではない。フランソワT世への献呈の辞は弁証の書である。これを含んでいることからも弁証の書だと言うことは出来なくはない。

(2)神認識と自己認識

 1.有用で堅固な二つの認識

 カルヴァンにおける認識と信仰の関係を先ず指摘したい。信仰とは認識なのである。単なる認識ではないが、確固たる認識である(3,2,2,14ff.)。すなわち不確かさや曖昧さを含まない認識である。それは認識の源泉の確かさに基く。人間の認識は人間の主体的営為ではなく、客体となることである。

 およそ有用な認識としては神認識と自己認識の二つに帰する(1,1,1)。自己認識はソクラテスの言う「汝自身を知れ」と共通するように見られるが、これはキリスト教思想の中に定着している自己省察である。パウロ、アウグスティヌス、ルターの系列。

 2.二つの認識の結び付き

 中世の神学が形而上学的思考を用いて神から出発し、やがて自明のこととして人間認識に下って来るという行き方をしたのと異なる。自己認識は神認識に付属するものではな い。実存についての理解がある。これは人間を神から自立した固有のものと把握したという意味に解してはならない。人間の主体的意識は罪の意識である。そして、罪とは神からの自立にある。

 3.教えの順序における神認識の優先

 認識そのものの重みから言えば、優劣はつかない。しかし、教えの順序から言うならば、神認識から始めなければならない(1,1,3)。

 この順序を守る時、教えの全体が良く展開する。人間認識を先に立てると展開しない。カルヴァンの考えはスコラ神学のように客体的議論の展開で済むものではなく、実存主義のように主体的議論に中心を置くものでもない。

 「教えの順序」という概念がカルヴァンの教理形成にあたって大きい役割を演じている。教理体系は重要項目を漏らさずに展開すべきものであるが、順序を間違えると体系化に際して十分展開し切れないということにカルヴァンは気付いている。

(3)創造主なる神

 1.創造主なる神の認識と贖い主なる神の認識の順序

 神認識はこのように二重構造をなす。創造主の認識も聖書によらなければ確立しない が、聖書に固有な神認識は贖い主としての神の認識である。そして、ここでも教える順序が大切である。創造主の認識が先に教えられなければならない。この順序を逆にすると、教理を正しく教えることが出来ない。(例えば和解論に先ず重点を置く教え方をしていて、創造論に重点を置く転換を遂げると、和解論は消え失せてしまう。)

 2.被造物なる人間

 被造物なる人間についても上記と対応した認識構造がある。神から創造された人間についての認識と、創造の状態から落ちた、したがって神によって贖われるべき人間についての認識である。その順序も前記と同じである。

 無からの創造であるが、被造物としての人間が良きものであったことは人間論の出発点である。キリスト教的実存主義が虚無、腐敗、不安、死、罪を出発点にするのと違った行き方をする。

 創造論の主要部分は人間の創造についての教えである。人間以外の被造物については天使論があるだけである。それも人間のための神の使いという意味で取り上げられる。人間の創造は神の形に中心を置く。そしてそれは甚だしく損なわれてしまっている。この形の回復はまことの神の形であるキリストによる。それが創造論の眼目である。

 3.神存在

 カルヴァンの神はスコラ神学が形而上学的に捉えたような単なる存在としての神ではなく、圧倒的な意志を持つ人格であり、人間と関わりを持ってくる神である。しかし、神秘主義者が考えるようのな、とらえようのない存在でなく、言葉をもって自己伝達を行なう神である。これは基本的にルターと一致する。

 4.自然的神認識は成立するか

 パウロがローマ書で言うように、神について知るべきことは被造物において明らかに啓示され、それを知らないことについて言い逃れは出来ない。では神認識は自然的に成立するか。カルヴァンはすると言っている。しかし、その逆のカルヴァン解釈が成り立つ。その逆の解釈のほうが正しいように思われる。すなわち、神について知るべきであるにもかかわらず知らないことは、言い逃れられないと言うために自然的神認識を肯定するのではないか。このことについてバルト=ブルンナー論争があった。

 神認識は直観的に把握されるのか。不可能である。言葉によって導かれなければならない。創造主についての神認識にしてもそうである。まして、贖い主なる神の認識は御言葉なしでは成立しない。そこで、創造主なる神に至るためには導き手としての聖書が必要になる(1,6)。こうして聖書論がいわば挿入のような形で入って来る(1,6−9)。すなわち、聖書論を神学体系の出発点としては扱わない。しかし不可欠の確認事項。

 5.聖書についての教理

 宗教改革における聖書論は教会的伝統の主張に対して提示されたものである。「伝承されている」と言うのに対し、「書かれた」、書く行為は完了した、というところに重点が置かれた。従って確定された基準となる。それは明確に対象化される。

 聖書の権威が確信されなければならない。けれども、聖書の権威という基本原理を立てて、それを基に他の教理条項を導き出すという論理的展開方法は取らない。これがスコラ的思考と違うところである。

 聖書の権威と信憑性を証しするのは聖霊と聖書自身である。

 6.創造と摂理

 創造の教理は信仰の問題である。世界解釈の必要上、世界の存在を無からの創造として説明するのでなく、創造の順序から示される通り、神は一切のものを人間のために作られたのであるから、創造論は人間認識に関わる。

 創造と摂理を不可分のものとして把握する。したがって、偶然的な、秩序にそぐわぬ、不合理なことは起こり得ないという確信になる。これは17世紀以後の近世の思想に大きい影響を及ぼしたと考えられる。ただし、近世思想はカルヴァンの考えから離れて、自然科学的整合性で世界を捉えようとした。

 7.人間の創造

 創造された初めの人間がどうであったかを先ず把握する。人間本性の原初の完全が先ず確認される。imago Dei として人間は創造された。そのイマゴは残っているかどうか。破壊され、倒錯した形では残っている。

 人間理性は神との関わり、したがって救いに関しては全く意味を持たない。しかし、それ以外のところでは人間の地上的生活にとって有用性を持つ場合がある。例えば、数学、論理学、法の制定、等の基礎的学問は有用である。

(4)三一論

 1.古典的三一論の継承

 セルベトが三位一体を否定した時、カルヴァンはこれを徹底的に攻撃した。セルベトは「キリスト教の回復」を志し、そのためには三位一体論を否定しなければならないと考えた。彼なりにキリスト教の回生を目指した。それは宗教改革が目指したのと全く別のものである。

 セルベトは人文主義的思考から合理化を目指したのであろうか。そう受け取られることが多いようであるが、事実はそれと違い、彼は人文主義者の中で最も進んだユダヤ教研究者であって、キリスト教をユダヤ教的に再解釈しようとしたのである。カルヴァン自身もユダヤ教やラビの聖書解釈は学んでいるが、キリスト教神学として守るべき一線があることを知っていた。

 「信仰の手引き」を書いた時、そこに三一論が明確に説かれていなかったために、カルヴァンは三一論否定の異端であると訴えられたことがある。その時、彼は三位一体の信仰の告白を書いて弁明しなければならなかった。三一論否認者であると見られることを恐れて、疑いを晴らしたというよりは、人を躓かせる悪い結果を引き起こしたくなかったからであろう。

 カルヴァンが古代教会の教理を教会にとって基本的なものとして重んじていることは明白であるから、三一論が重視されたのは当然である。そのように、古代教会の信仰の継承という観点からカルヴァンの三一論を理解する必要がある。

 2.啓示に基く三一論

 カルヴァンの三一論は詳しいものではない。キリスト教綱要における三一論は大きい場所を取らない。三一論の独立した著作をすることをカルヴァンは考えなかった。詳しく論じて自己充足的な理論になることを差し控えたのである。

 三一論を推論の展開としてでなく、啓示に即した思考に留めることが肝要であった。

 3.三一の神の業としての救済史

 古代の三一論が主たる契機として存在論的であったのに対し、カルヴァンの三一論は救済史的、あるいは経倫的であり、三位格の存在と本質についてよりも、その働きに重点が置かれる。

(5)仲保者キリスト

1.まことの神、まことの人

 カルヴァンのキリスト論は古代教会のそれ、特にニカイア=カルケドンのキリスト論を受け継いでいる。カルケドン的といっても両性を単純に論じるに留まる向きもあるが、カルヴァンは両性の混同なく変化なき関係を厳密に扱おうとした。したがって、ルターのように「属性の交流」の思想を重視し過ぎることはなかった。

 人性は受肉という出来事によってマリヤから摂取され、この時に人となりたもうた。その際、神性は何の変化も傷害も受けなかったのである。そしてキリストは今もまことの人でいます。

 2.永遠の仲保者

 神と人との間にはつねに仲保者が必要である。なぜなら神と人との間には無限の隔たりがあるからである。キリストの受肉以前においても仲保者は必要であったし、現実に存在した。それは神の言葉の位格においてである。仲保者的な言葉があるから神と人との関 係、特に契約関係はあったのである。

 3.旧約における贖い主

 神御自身が贖い主として自らを啓示しておられる。神認識は世界創造に関するだけでなく永遠の生命に関する神認識でなければならない。それは仲保者の位格において啓示される。旧約においても神は贖い主として自己を啓示しておられ、それゆえに旧約の民も贖いを知り、犠牲を捧げていた。

 旧約の父祖たちに対する神の顕現は仲保者の位格における顕現であるとの教父の見解が受け継がれる。

 4.律法とその用益

 律法は契約の大枠の中で先ず把握される。神はイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放して、御自身の民とし、契約を結び律法を与えたもうた。

 律法の「用益」usus という考えはメランヒトンがロキの中で最初に示した。用益は務め、機能と同義である。メランヒトンによれば、第1用益はウスス・キヴィリス(ポリティクス)。政治権力の強制によって正義を守らせられること。第2用益はウスス・テオロギクス(パエダゴギクス)。これが神学的であるというのは、自分の罪を自覚させキリストに連れて行くからである。教育的と言われるのはガラテヤ3章に言う「養育係」から来た。第3はテルティウス・ウスス、これは再生した者における用益である。カルヴァンはそれを踏襲する(1と2は順序が入れ替わっている)。カルヴァンの特色は第3用益の強調である。これこそ律法の主要用益であると言う。

 5.キリストの御業

 これは服従という一言で纏めることも出来る。人なるキリストが人のために代わって服従を全うされた。それは完全に果たされた。一回的ということが強調される(ヘブル書の主張)。その頂点として十字架の死がある。

 十字架の死が苦難のみでなくむしろ勝利であるという点がカルヴァンの主張の特色になっている。苦難を強調して、これを罪ある人間のカタルシスとして見る見方はカルヴァンにはない。

 同時にキリストの復活と昇天が強調される。人性における復活・昇天である。

(6)キリストとの交わり

1.聖霊によって、信仰を通して

 キリストが全ての賜物を持っておられても、我々の外に留まっておられる限り、我々にとっては益がない。キリストが我々のものとならなければならない。それを成し遂げるのは聖霊である。聖霊によってキリストと我々が一つになる。ウニオ・クム・クリスト。

 信仰の固有の対象はキリストであって、キリストをそのもろもろの賜物と約束とともに受け入れるのは信仰を通してである。

 2.信仰とは何か

 信仰とは確固たる認識である。認識を排除したローマ教会の所謂含蓄的信仰は拒否される。霊的能力、異能も本来の意味の信仰ではない。

 信仰が推論的要素を含むとするカトリックの理解をカルヴァンは激しく攻撃する。カトリックでは宗教改革の言う信仰義認は信仰についての自信のあり過ぎる見解で、信仰には不確定な要素があるから、推論としての信仰を妥当なものとするためには良き行ないが必要であると主張する。信仰義認の教理のためには信仰そのものの確固たる把握が必要である。信仰はキリストを齎らす導管ないし容器であり、それ自体は空である。信仰は聖霊の業である。そして、信仰は聞くことにより、聞くことはキリストの言葉による。

 しかし、御言葉にはつねに御霊が伴い、共に働いて信仰を成り立たせる。

 3.信仰の実は何か

 信仰はキリストを受け入れる。キリストは一切の恵みを持っておられる。それが我々のものとなる。キリストとその恵みが信仰の実である。「キリストは神に立てられて、我々の知恵となり、義となり、聖となり、贖いとなられた」(1コリント1:30)。

 4.信仰と愛の業

 信仰は愛の業を伴う。しかし、信仰だけでは足りないから愛の業が必要というのではない。信仰のみで救われる。しかし、信仰は聖霊の業であり、信仰の内実はキリストそのものであるから、愛は神からの贈り物として成立する。

(7)義認と再生

 1.義認

 義認についてはルターの線を踏襲し、徹底させている。信仰が義とするのではなく、信仰が功績となるのでもない。信仰はいわば容器であって、この容器にキリストを受け入れ、キリストの義が信ずる者の義に転嫁される。義認は義と認められ、義と宣言され、義人として受け入れられることであって、義となること、成義あるいは義化ではない。

 2.義認と再生の順序

 義認だけでは足りないから聖化をも説かなければならないと考えられることが良くある。ところが聖化を強調すると義認が手薄になる。義認に固執すると聖化は軽視される。このプロテスタント的ジレンマをカルヴァンは解決した。再生が先で、再生における第一の処置が義認なのだ。これは教えの順序の問題ではない。事柄そのものの理解である。

 3.行ないによって義とされるのではないが、行ないも義と認められる

 義認は行ないによるのではないが行ないを欠くのでもない。これがカルヴァンの義認論の特色の第一点である。

 信仰を義と認めたもう神は信仰においてなされる業を、不完全であるにもかかわらず義と認めたもう。これが信仰者に励みとなる。このことの強調はカルヴァンの特色の第二点である。

(8)信仰と悔い改め

 1.悔い改めとは再生である

 ルターの宗教改革は真の悔い改めを求める熱意から始まった。だが、九十五か条提題ではその悔い改めの主張は真実な痛悔の要求に終わる。悔い改めをそのように消極的に、罪を悔いる行為として理解することが一般に多い。カルヴァンは悔い改めを再生として捉える。したがって、悔い改めを論じる論は積極的に展開される。

 2.信仰から悔い改めが生じる

 悔い改めて、福音を信ぜよ、という聖句があるため、先ず悔い改め、それから信仰という順序が考えられることが多い。しかし、ルターの宗教改革の中からも、福音を信じ、それから悔い改めるという順序が提唱されたことはある。ルター派でそれが定着しなかったのは、律法によって罪を知らせられ、悔い改め、それから信ずる、という順序が一般化したからである。カルヴァンははっきり信仰から悔い改めへという順序を説く。

 3.行ないの功績の否定

 神は慈しみをもって報いを約束したもうが、報いということをもとにして信仰者の奉仕と信仰に価値や功績を考えてはならない。恵みは全て価なしの贈り物である。

 4.再生の実行としての自己否定

 信仰者の生涯には敬虔な修練が必要である。祈りが第一の修練である。それに伴って十字架を負うことが重要である。これは隣人愛との関連において実行される。

(9)永遠の選び、二重予定

 1.カルヴァンにおいて予定論は出発点ではない

 後世のカルヴィニストは予定論あるいは聖定論を神学体系の公理のように、これを先ず確定して、そこから他の教理条項を導き出そうとした。カルヴァンはそうではない。予定論の位置も最初ではなく、救いについて論じた後である。これだけの豊かな救いが差し出されているのに、なお滅びのうちに留まる人があるのは何故か。それは、予定があるからである、と考えるほかない。

 では、予定論は経験的事実から割り出した理論であるか。カルヴァンはそのような推論による教理の定立はしない。これは神の言葉からの帰結である。したがって、積極的に説かれなければならない。

 2.予定は神の秘義に属する

 論理上の問題として、ましてや好奇心の対象として予定を扱ってはならない。この取り扱いは慎重を要する。しかし、秘めて置くべきものではない。学ぶことによって大きい益がある。救いの確信は予定の確認があってこそ成り立つ。また、ここにおいてこそ神の前での徹底的なへりくだりがある。カルヴァンの教理の特色である確信と謙遜の基礎。

 他者の選びについては詮索してはならない。それは神の大権に属する。知るべきでなく、知ることも出来ないから、他者については御言葉を信じるように働きかけるほかない。予定論の誤用は殆どこの点から起きている。

 3.救いの計画と実施の全関連の中での予定

 選ばれた者が召しを受け、召された者が御言葉を聞き、信じ、義とせられ、ついに栄光に入らせられる、この一貫性が重要である(ローマ8:30)。人は、今御言葉を聞かせられ、救いの保証としての御霊を与えられているという事実に立って、選びと召し、そして救いの完成を信ずべきである

 カトリックでも、ルター派の和協信条でも、予定は予知に基くと説くことによって、予定を秘義でなくしている。カルヴァンは予定は予知に基かないと主張する。

 4.予定論がカルヴァンの教理の特色であると見ることは出来ない

 宗教改革当時の神学者は殆どみな予定を強調しているから、カルヴァンだけが説いたのではない。むしろルターの「奴隷意志論」の方が予定を強調している。

(10)真の教会と偽りの教会

 1.教会の目印

 教会は信ずべきものであるから、見えない。ただ目印によって識別される。目印のあるところに教会があると信じなければならない。その目印は、1)神の言葉が正しく説教され、かつ聞かれていること。2)聖礼典が主の制定に則って行なわれ、受けられていること。この二つである。(第三の規律を上げる人もあるが、本質的な印ではない)。

 二つの印はアウクスブルク信仰告白の規定を踏襲したものと見ることが出来るが、そこでは聞くこと、受けることには触れていない。

 目印の一つである聖礼典について、適切な教えがなされなければならない。

 2.務め(ミニステリウム)

 教会の務めが客観化されている。それは主からの委託である。主の委託が主観化されないよう教会の公の確認がともなう。委託は忠実に履行すべきものである。

 カルヴァンの務め理解の特色の一つはその多様性を聖書に従って認めたことである(1コリント12)。ルター派では務めは説教職だけであった。

 ただし、信仰者のすべてに務めがあるとは論じていない。召されて務めを託された者だけがこれを担う。

 3.特に重要な御言葉の宣教の務め

 説教をしない聖職者はありえない。御言葉の宣教には公の集会におけるものと個別的なものとがある。御言葉が各人に適用され、罪の赦しと再生の確信を持たせるためには、公の説教だけでは足りない場合がある。個別的適用を行なうのが牧師の務めである。

 4.教会において首位に立つ人はない

 職能において全体を指導する人はいるが、それは教会のかしらではなく、教会に仕える人である。人を上に立てないためにカルヴァンの重視したのは職務の客観的把握と会議を通じての権能の行使である。

 5.教会の秩序

 カルヴァンは教会の秩序を強調した。それは神の民に相応しくあるためである。その秩序は自由と両立する。カトリック教会が要求するような良心の拘束となる立法権を宗教改革は持たない。ただし、神の言葉の規制は全面的に受けなければならない。これに従うことは拘束にはならない。

(11)教会と国家

 1.神の二つの秩序

 国家論は教会論の外延ないし付録として展開される。国家は教会の外にある教会のための神の秩序である。それは秩序、法的制度として意義を認められる。したがって、裁判と治安維持が政府の務めであり、それのためにこそ権力が委ねられている。

 カルヴァンは16世紀的観念に基いて教会と国家を理解するから、その理解を今日そのまま適用するには無理がある。けれども、基本的な考えは今も妥当する。

 2.二つの秩序の相違

 ルターが神の右手の支配と左手の支配として捉えた考えをカルヴァンは基本的に継承する。けれども、ルターのように余りにも対照的に、すなわち、福音による神の赦しと律法による裁きの対照に基いて説明することはしない。政府も神の慈しみとして与えられているのであって、時には神の怒りの器となるだけである。

 国家と教会の分離の思想はカルヴァンにおいてはまだ成熟していない。しかし、当時、教会の自律を考える人とそれを否定する人との対立が始まっていた中で、カルヴァンは教会の自律のために苦闘した。教会と国家の次元の違いを意識したからである。

 3.地上的支配に対する服従とその限界

 公権力の支配には満足出来ない場合が多いから、不満を忍ばなければならない。しか し、神の意志に背く命令には従う事は出来ない。その際は不服従が許され、否義務付けられる。それは殉教でなければ、亡命か、反抗かであるが、剣をもってする反抗は剣を委託された人でなければ出来ない。一般民衆には抵抗する権利は認められない。人民主権の思想はまだない。それゆえ、上級権威の過ちに対しては下級権威の反抗が認められ、さらに義務付けられる。これがカルヴィニズムの特色といわれる抵抗権思想であるが、必ずしも新しい考えではない。

 公権力のなすことが良いか悪いかを判定する規準は何か。公権力が立てられたのは人民のためであるとカルヴァンは言う。もっとも、これは彼の後継者がもっとはっきり言うことになる。カルヴァンにはまた公権力と人民の間に契約関係があると見る。契約違反をする王は王の資格を失う。


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