1997・03・24

第11講 カルヴァンの同時代人

 * 叢書 Leben und ausgewaehlte Schriften der Vaeter und Begruender der refor-   mierten Kirche.1857-1862.Elberfeld.

 * E.et E.Haag : La France protestante.10 vols.1846-59.

 * A.C.Cochrane ed.: Reformed Confessions of the 16th Century.1966.

(1)総論

 本章ではカルヴァンの教理形成が同時代人の改革派神学者と一致し、かつ相互に影響し合っている点を考察する。カルヴァンは改革派の中でも少し遅れて宗教改革に関与した。良き先輩がいたが、またカルヴァンの出現がなければ、改革派の宗教改革は強力なものとなれなかったであろう。

 彼らが大枠において一致したのは、i)全て聖書釈義を踏まえた教理形成。ルター派では中心原理となる条項をめぐっての争いが起こる。ii)信仰体験よりも聖書を重んじる。iii )各都市の宗教改革に端を発する改革派宗教改革は多様性を互いに認めあい、中央集権的・画一的統一を求めないため却って一致に利した。iv)さらに、改革派においては複数の指導者間の協調が良く行なわれ、確執が少ない。一つは人柄と教養の洗練の問題であろう。一つにはもともと地方分権的であっただけに、一致が求められた。

(2)ブーツァー、カピトとシュトラスブルク宗教改革

 * 宗教改革著作集「ツヴィングリとその周辺 2」

 * メラー・守田、棟居、石引訳「帝国都市と宗教改革」

 * J.W.Baum : Capito und Bucer.1860. Reprint

 1.シュトラスブルクの宗教改革

 シュトラスブルクの改革は都市宗教改革であり、人文主義出身者によるものであってルターの改革とは違い、スイスのケースに似る。また南ドイツの宗教改革との繋りもある。マルティン・ブーツァー(1491-1551)はハイデルベルクの勉学時代に討論(1518) でルターに接し、ルターの側につく決心をした。21年ドミニコ修道会を脱会、23年シュトラスブルクに来て、宗教改革運動を始めていたマテウス・ツェル(1477-1548)と協力し、24年から牧師として働く。シュトラスブルクの教会改革の体制が確立したのは33年である。

 ヴォルフガング・カピト(1487-1541)は1515年神学博士になっていたが、人文主義の学びを続け、エラスムスのサークルに入る。23年シュトラスブルクに来、南ドイツとスイスに亙って幅広い活動をする。

2.マールブルク会談におけるブーツァー

 ブーツァーは人文主義出身者であったからルター=ツヴィングリの対立に際しては後者に同情的で、ルターの側につくことはしなかった。しかし、ツヴィングリを全面的に支持することでもなかった。彼自身信仰的にはルターの立場に近いが、両者の和解をはかることを使命と感じていたと見られる。

 3.アウクスブルク国会に提出された「四都市信仰告白」

 アウクスブルク国会にルター派が信仰告白を提出したのは6月25日、ツヴィングリがフィデイ・ラティオを提出したのは7月8日、四都市の提出はさらに遅れて7月11日であった。内容23章は次の通りである。

 1)説教の主題。2)三位一体とキリストの受肉。3)義認と信仰。4)善き業、これは信仰から出、愛によって働く。5)善き業は誰に帰すべきか。すなわち御霊にである。それゆえ、善き業は必要である。6)キリスト者の義務。7)祈祷と断食。8)断食の命令。9)食物の選択。10)祈祷と断食によって如何なる功績も期待してはならない。11)一なる神はキリストを通じて礼拝さるべきである。12)猿真似、すなわち人間的伝統。 13)教会の仕え人の務めと威厳と権能。14)人間的伝統。15)教会について。16)聖礼 典。見えざる恩寵の見ゆる徴し。17)洗礼について。18)聖晩餐について。19)ミサについて。20)告解について。21)教会の歌と祈り。22)像と絵画。23)官憲について。

 古代教会の基本的教理条項を先に挙げ、次に宗教改革の最重要項目たる信仰義認を掲げるところはアウクスブルク信仰告白に似ているが、全体としての発想は南ドイツの諸条項(アンスバッハ条項、ニュールンベルク条項)を受けている。すなわち、説教者の意識が明確に打ち出されている。

 聖餐論の条項について言えば、ルター派との相違点を挙げるというよりは、キリストの体と血が真実に食され飲まれて永遠の生命の養いとなるという点に重きがおかれる。そこには積極的主張というよりは誤解に対する弁明の性格が強い。

 4.カルヴァンの3年間の逗留

 1538-41 の3年間カルヴァンはこの市のフランス人教会の牧師として働き、シュトラスブルクを代表して会議に出席したこともあり、この市の宗教改革から影響も受けた。

 ブーツァーたちの方向は宗教改革の再統一である。ヴィッテンベルクの協約、アウクスブルク信仰告白改定版の受容等によってルター派との協調に努めている。

 ブーツァーとカルヴァンの相違点については前述の通りである。

(3)エコランパディウス、ミコニウスとバーゼル宗教改革

 * E.Staehlin : Das theologische Lebenswerk Johannes Oekolampads.1939.

 * E.Staehlin Hrsg.: Briefe und Akten zum Leben Oekolampads.Bd.1 und 2.

 * E.Staehlin Hrsg.: Das Buch der Basler Reformation.1929.

 1.バーゼルの宗教改革

 バーゼルの宗教改革は1529年にエコランパディウスの指導のもとに始まる。

 エコランパディウスは1531年11月に死去した。

 後継者オスヴァルト・ミコニウス(1488-1552)がエコランパディウスの草稿を基にして34年の信仰告白を作ったと言われる。

 2.1534年のバーゼル信仰告白(本文の部分全訳)

 1)神について。我々は父なる神、子なる神、聖霊なる神、聖なる三位一体、三つの位格にいまし、三つの神にあらず、本質と実体において、一つにして唯一なる、永遠の、全能なる神を信ずる。我々はまた、神は永遠の御言葉、すなわちその独り子によって全てを創造し、万物を創造したもうたように、これらを予め配慮し導くために、それら全てを御霊によって、すなわちその御力によって支え、導きたもうのを信ずる。更に我々は神が世界を創造したもう以前に、永遠の救いの嗣業を与えようと欲したもう全ての者を選ばれたと告白する。 2)人間について我々はこう信ずる。人間は初めに神の義と聖の形にかたどって、神により、良きものとして創造された。しかし、人間は故意に罪に落ちた。この堕罪によって全人類は破滅し、断罪のもとに置かれ、我々の本性は弱められ、神の御霊によって回復されない限り、人間は自らの力では何一つ善を所有せず、それを欲することも出来ないほど罪深いものとなってしまった。 3)我々に対する神の配慮について。人間がそのような堕罪によって断罪のもとに置かれ、神の敵となったとはいえ、神は人類に対する配慮を決して放棄したまわなかった。父祖たちはこのことを証しされ、ノアの洪水前も後も与えられた約束が証しし、同じくモーセを通して神が与えたもうた律法が証しし、聖なる預言者が証しした。 4)まことの神、まことの人なるキリストについて我々はかく信じ、揺るぐことなく告白する。キリストは神の約束によって定められた時に御父により我々に与えられ、かくして神の永遠の御言葉が肉と成りたもうた、すなわち、一つの位格において人間性を合一させた神の子が我々を御自身によって神の嗣業に与かる者とするために我々の兄弟となりたもうたのである。このイエス・キリストについて我々はこう信ずる。彼は聖霊によって受胎せられ、清き汚れを知らぬ処女マリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられて我々の罪のために死に、かくして 我々と全人類の罪を償うために天にいます父なる神に御自身を犠牲として捧げ、我々を神と和解させ、またその死によってこの世と、死と、陰府に勝利し、これらを克服し、さらに肉体をもって葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちから復活し、全き彼であることを示した後、体と魂を持って天に上りたもうた。そこにおいて天の父の右に、換言すれば神の栄光のうちに座しておられ、そこから生ける者と死にたる者を裁くために来たもうであろう。彼はまた、約束の通り弟子たちに御自らの聖霊を遣わしたもうた。この聖霊を 我々は父及び御子とともに信ずるのである。5)教会について。我々は一つの、聖なる、キリスト教的教会を信ずる。これは聖徒の交わり、御霊による信仰者の集まりであり、これはキリストの聖なる一人の花嫁である。イエスがキリスト、世の罪を取除く神の小羊であることを真実に受け入れ、この信仰を愛の業によって証しする全ての市民たちはこの教会のうちにある。この教会では一つの聖礼典が行なわれる。すなわち教会に入るに当たっての洗礼と、時に応じてて行なわれる主の晩餐である。晩餐はきたるべき生についての信仰の確証と兄弟愛の確証のためであって、それは既に洗礼において約束されたものであ る。この教会は平和と愛の絆を一致によって守るべく努力するが、それゆえ、日や、食べ物や、衣服や、教会の儀式の区別に基く分派や修道院規則と何の関わりも持たない。6)主の聖晩餐について我々はこう告白する。聖晩餐を制定したもうたのは主イエスであり、主はその聖なる御苦しみを感謝をもって熟考し、彼の死を告げ知らせ、まことの信仰におけるキリスト教的愛と一致を確証するためにこれを制定したもうた。丁度我々が罪の洗いを受ける洗礼において、ただ父、子、聖霊のみがそれを成就すべきであるが、教会の仕え人によって差し出されるその水は事実上水であり続ける。そのように主の聖晩餐においても、聖晩餐の言葉とともに差し出される主のパンと飲み物は、キリストのまことの御体またまことの御血として教会の仕え人によって提示され、提供されるが、そのものはパンと葡萄酒であり続けるのである。しかし、我々はキリストそのものが信ずる魂にとって永遠の生命に至らせる食物であり、我々の魂が十字架に付けられたもうたキリストを信ずるまことの信仰をもってその御体と血とを食し飲み、こうして、我々は唯一のかしらの肢として彼の体に属するものとなって彼にあって生き、彼は我々にあって生きたまい、それに よって我々は終わりの日に彼によりまた彼にあって永遠の喜びと幸いへと甦ることを信じる。それゆえに我々はまたこう告白する。キリストはその聖なる晩餐において真実にこのことを信ずる全ての者に現臨したもうと。しかし我々は、我々のために苦しみを受け、天に上るために汚れなき処女から生れたもうたキリストの自然的、現実的、実体的な御体を主のパンと飲み物のうちに閉じ込めることはしない。それゆえに我々はまた一般にキリストの体と血の聖礼典と呼ぶパンと葡萄酒のしるしのうちにキリストを崇めることをせず、むしろ天上に御父の右にありたもう彼を崇める。彼はそこから生ける者と死ねる者を裁くために来たりたもうであろう。 7)破門の適用について。キリストの教会の中には雑草が混じっているから、これが忍ぶべからざる悪徳と罪によって主の戒めに対して逆らい立つ時には、教会がその状態をなるべく汚れなく守るために、キリストは彼の教会にそのような雑草を追放する権能を与えたもうた。しかしキリスト教会は善導のためにのみ破門を行なう。それゆえ教会は破門された者が躓きを与える生活を整え、改善したならば、喜びをもって再び受け入れる。 8)官憲について。神はまたその僕である官憲に、善人を庇護し、悪人に報復と刑罰を与えるため、剣と最高の外的権力を授けたもうた。それゆえ に、我々がその数の内に属することを望むところのすべてのキリスト教的官憲は、力を尽してその臣下のものが神の御名を崇め、御国が拡大され、みこころに従って悪徳の根絶を真剣に遂行するようにしなければならない。 9)信仰と行ないについて。十字架に付けられたもうたイエスを信ずる信仰による罪の赦しを我々は告白し、そしてこの信仰は愛の業によって止むことなく修練され、現われ出、証されたとしても、我々は己れの義と罪の償いを信仰の実りであるところの行ないに帰せず、神の小羊の流された血を信じる真の信頼と信仰にのみ帰する。何故なら我々は率直に、我々の義、聖、贖い、道、真理、知恵また命であるキリストにおいて一切のものが我々に与えられると告白するからである。それ故、信仰者の行ないは罪の償いのためになされるのでなく、主なる神がキリストにおいて我々に証ししたもうた大いなる恵みの業にいかほどかでも感謝を表わすものなのである。 10)終わりの日について。我々はこう信ずる。その日最後の審判が行なわれ、その時肉体の復活がなされる。その時各々は裁き主なるキリストから、各々が生きている間に行 なったことに応じて裁きを受ける。すなわち、まことの信仰にもとずいて偽りのない愛をもって信仰の実り、すなわち義の業を行なった者は永遠の生命を、そして信仰なく、あるいは装った信仰をもって、善への愛なく、あるいは悪を行なった者は永遠の火に投げ入れられる。11)命じられたことと命じられていないことについて。我々はこう告白する。キリストが命じられなかったことは、何ぴとも命じることが出来ないし、同じくキリストが禁じたまわなかったことは何ぴとも禁じることが出来ない。この理由で、我々は秘密告 解、40日の大斎、聖人の祝日、及び同様の人々によって慣習として行なわれていることを命じられていないこととし、反面、司祭の結婚を禁じられていないこととする。そこ で、神が禁じたもうたことはいよいよもって許してはならない。それ故、我々は死んだ聖徒たちを呼ぶこと、像を崇めたり、これを建てたりすることを却ける。その逆に、何ぴとも神が許可しておられることを禁じることは出来ない。それ故、我々はいろいろな食物を感謝をもって味わうことを禁じられていないものと主張する。 12)再洗派の誤謬に反対して。我々はこのことをはっきりと言明したい。他の断罪された見解や悪性の意見の間にあって、この徒党を組む精神は奇異な異端説を唱えて言う。子供に(我々は初代教会で洗礼は割礼に代わるものとした使徒の慣用にしたがって子供らに洗礼を受けさせる)洗礼を授けてはならない。同じく、如何なる場合にも、たとい神の栄光と隣人の愛が要求して も、宣誓をしてはならない。官憲はキリスト者になることは出来ない。そのほかキリストの健全で純粋な教理に対立する他の全ての教理を単に受け入れないのみでなく、嫌悪すべきことまた冒涜として却ける。最後に、我々は我々のこの信仰告白を神的な聖書の判決のもとに置きたく願い、上記聖書から更に良きことを教えられたならば、いつでも神とその聖なる御言葉に大いなる感謝をもって聞き従いたいと申し出たのである。

 3.1536年の第2バーゼル信仰告白

 これは「第1スイス信仰告白」とも呼ばれるものである。バーゼルの会合で決まったためバーゼルの名が付いたが、この市の教会のために作られた告白ではない。バーゼル市では19世紀に至るまで上述の信仰告白が有効であった。

 第1スイス信仰告白と呼ばれるのは、スイスの諸教会が集まって作ったからである。起草者はブリンガーが主となって、グリナエウス、ミコニウス、レオ・ユート、メガンデルであった。先の第1バーゼル信仰告白よりも詳しくなる。項目だけを挙げる。

 1)聖書について。2)聖書解釈について。3)初期の教父について。4)人間の教えについて。5)聖書の目指すもの。6)神について。7)人間について。8)原罪について。9)自由意志について。10)神の永遠の計画による救い。11)主なるキリストについて、また我々が彼から受けるものについて。12)福音的教理について。13)キリストの恵みはどのように伝達されるか。そこから受ける実りは何か。14)教会について。15)神の言葉の仕え人、そこから受ける益は何か。16)教会の権能について。17)教会の教職者の選任について。18)教会の牧者また頭は誰か。19)教職者と教会の務めは何か。20)聖礼典の力と効力について。21)洗礼について。22)主の晩餐について。23)聖なる集会について。24)アディアフォラについて。25)偽りの教理によって教会を分裂させ、あるいは教会から分離する者について。26)地上の政治について。27)聖なる婚姻について。

(4)ブリンガーとチューリッヒ宗教改革

 * A.Bouvier : Henri Bullinger, reformateur et conseiller oecumenique, le      successeur de Zwingli.1940.1979 Reprint

 * P.Rorem : Calvin and Bullinger on the Lord's Supper.1989.

 * The Parker Society : The Decades of Henry Bullinger.4 Vols.1849,1968(Rep.) 

 * 全集は刊行中

 1.ブリンガーの立場

 ブリンガーはツヴィングリの後継者であるが、ツヴィングリの単なる模倣者ではない。彼はケルンで学びチューリッヒに帰って牧師になる。しかし、ツヴィングリから受けてそれを継承するというよりは、己れの道を歩んで神学を築いた。人文主義的宗教改革の第二世代に属すると言えると思うが、第一世代を越えた第二世代である。ケルン時代にルターの書物を深く読んだ。

 それゆえ、聖餐論においてジュネーヴと一致し、さらにルター派とも一致点を見出して行くことを求めていた。その実りが1549年カルヴァンとの間に結ばれたチューリッヒ一致信条(consensus tigurinus)である。

 2.チューリッヒ一致信条(Consensus Tigurinus)

 ドイツにおいてプロテスタンティズムはインテリムによって大いに動揺していた。スイスのドイツ語圏とフランス語圏の宗教改革の統合は大きい意味を持つ。要点を挙げれば下記の通りである。

 1)教会の全ての霊的統治は我々をキリストに導く。2)聖礼典の正しい認識はキリストを知る認識である。3)キリストを知る認識とは何か。4)祭司、また王たるキリス ト。5)キリストはいかにして御自身を我々に伝達したもうか。6)霊的伝達、制定された聖礼典。7)聖礼典の目的。8)聖礼典が真に表わすもの、主が真に現臨したもう、感謝。9)徴しと表わされる事柄とは区別される。10)聖礼典において主として顧慮されねばならないのは約束である。11)物的要素に畏敬してはならない。12)聖礼典はそれ自体では何らの効力も持たない。13)神は道具を用いたもうが、全ての力が神に帰せられるように用いたもう。14)[標題なし]「それゆえに我々は内的洗礼を真に授けたもうキリストが、晩餐において我々を御自身に与かる者とし、それゆえ聖礼典が示しているものを成就し、これら補助手段を用いつつその効力のすべてが御自身の御霊のうちにこそあるようにされた」。15)聖礼典はいかにして強められるか。16)聖礼典に与かる者の全てが事柄自体に与かるわけではない。17)聖礼典は恵みを付与するものではない。18)神の賜物は全ての者に差し出されるが、信仰ある者だけがそれを受ける。19)信仰者は聖礼典の執行の前にもそれから離れてもキリストに与かる。20)恵みは聖礼典執行の行為に拘束され ず、その実は時として執行の後に体得されることがある。21)場所的現臨の表現は拒否される。22)「これは我が体なり」の御言葉の解釈。23)キリストの肉を食うこと。24)化体説とその他の愚かな理論。25)キリストの体は場所としては天にある。26)キリストはパンあるいは聖礼典のうちに崇めらるべきではない。

 キリストのリアルな現臨を強調するが、場所的現臨は否定される。

 3.第2スイス信仰告白(1566)

 これはブリンガーが個人的に神学的遺書のつもりで纏めたものであるが、広く公的文書として認知されるようになった。改革派の信仰告白としては穏健かつ正統的で最も広い支持を得ている。内容は第1スイス信仰告白をもとにして、それを精密にしたものであり、この系統の信仰告白文書の発展がほぼ頂点に達したものと言うことが出来る。

(5)ベルンの宗教改革

 * Der Berner Synodus von 1532.2 Bde.1984,1988.

 1.ベルンの宗教改革の始まり

 ベルンはスイスのドイツ語圏では最も保守的として知られたカントンであったので、宗教改革はチューリッヒ、バーゼルに遅れる。22年頃から改革の気運が起きる。リーダーは政治家であり教養人であるニコラウス・マヌエル(1484-1530)である。

 1526年にはアールガウでカトリックとの討論会が行なわれた。

 2.1528年の討論

 十か条の提題をめぐって1月6日から26日に亙って開かれた討論会に集まったのは、プロテスタント側では、ベルンからのハラー、コルプ、マイヤー、他地区からはツヴィングリ、エコランパディウス、ペリカン、メガンデル、ブーツァー、カピト、フランス語圏からファレルが参加する。

 カトリック側からは4人の司教(コンスタンツ、バーゼル、ロザンヌ、シオン)は出席しなかったが、ロザンヌ司教の派遣したソルボンヌ出身の4人の神学博士が出席し、これに対してはファレルが対論した。

 十か条は討論の上更に整理されて、シュルッスレーデンとして纏められた。これが有名なベルン条項である。

 i)その唯一のかしらがキリストでいます聖なるキリスト教会は神の言葉によって生まれ、そこに居続け、他の者の声に聞き従わない。ii) キリストの教会は神の言葉から離れて律法や戒めを定めることはない。それゆえ、神の言葉に基礎付けられず、それによって命じられもしない教会の戒めと呼ばれる全ての人間的規定はもはや我々を義務付けない。iii)キリストこそ我々の唯一の知恵、義、贖い、全世界の罪の償いでいましたもう。それゆえ、救いに至るための彼以外の救いと償いの功績を告白することはキリストを否定することである。iv) キリストの体と血が本質的にまた身体的に聖晩餐のパンに含まれるとは聖書から証明されない。v) 今日行なわれているところのミサは、そこにおいてキリストが生ける者と死にたる者の罪のための犠牲として父なる神に捧げられるとされるが、聖書に反し、キリストの最も聖なる犠牲、苦難、また死を冒涜し、その誤用のゆえに神の前に忌むべきものである。vi) キリストのみが我々のために死にたもうたごとく、ただ彼ひとりが父なる神と我々信仰者の間の仲保者また執り成し手として崇められべきである。それゆえ、他の全て世を去った仲保者や執り成し手を立てて呼び求めることは神の言葉の基礎に矛盾する。vii)この世の生の後に魂が浄罪に与かる場所なるものは聖書に見出されな い。それゆえ、通夜、死者のためのミサ、七日祭、十三日祭、命日、など死者のための全ての勤行、灯明、蝋燭などは無益なものである。viii) 崇めるために像を作ることは旧約・新約聖書に反する。それゆえ、像を拝む危険があるならば撤去されなければならない。ix) 聖書では結婚はいかなる立場の人にも禁じられておらず、むしろ淫行と姦淫を避けるために全ての立場の人に命じられ、かつ許されている。x) 聖書によれば、明らかな姦淫は破門されねばならないから、したがって私通、不貞はその躓きのゆえに、司祭の立場にある者は他の立場の人よりも厳しく断罪されなければならない。

 討論の結論に基いて2月7日、当局は14条からなるベルンのカントンの宗教改革を布告し、教会は司教の支配を離れ、政府に属するものとなった。神学校も設立される。

 3.1532年のベルン会議

 ベルン会議をリードしたのはシュトラスブルクのヴォルフガング・カピトである。会議の条項も彼が準備した。非常に特徴ある条項で、信仰告白と規則が一体になり、教理の部分ではキリスト論的性格が強い。

 全44条は次の通りである。1)我々は御霊の仕え人、神の奥義を管理する者として務めに励まねばならない。2)教えの全体は神の言葉以外の何物であってもならず、それはイエス・キリストである。3)神はキリストによってのみ御自身をその民に示したもう。 4)キリストこそ霊の建物の基礎である。5)恵みの神はただキリストによって知られ る。6)キリスト教的説教は徹頭徹尾キリストによる。7)キリスト教的教理と生活はキリストの死と復活に基きそこに帰する。8)我々の罪はキリストから理解すべきである。9)律法によらずキリストによって罪を理解すべきである。10)パウロは何故異邦人に対して律法を詳しく論じたのか。11)律法のもとにあるユダヤ人は律法なき異邦人と同じように信仰に来る。12)異邦人の間にある説教者とユダヤ人の間にある説教者の相違。13)偽りの使徒は何に由来するか。14)悔い改めと罪の赦し、恵みの進展。15)キリストのうちにある悔い改めこそが基本である。16)世から隠されていた奥義とはキリストが律法なしに異邦人に宣べ伝えられることである。17)キリスト教的悔い改めは預言者からも学ぶことが出来る。18)キリストを知ることにおいて常に成長し、各自その信仰を追求すべきであること。19)聖礼典と洗礼一般。20)洗礼の個別問題。21)洗礼の執行。22)主の晩餐。23)律法と預言者の用益。24)説教における教皇主義批判。25)訓戒と譴責。26)どういう時に譴責さるべきか。27)聖書に何か付け加えたものに依り頼まず、官憲の命令によらずに、真理を説教すべきこと。28)牧師は普通の人を味方にしてはならない。29)如何なる時に罪人に対して峻厳にあるいは温和に対すべきか。30)ベルンの官憲への勧告。31)民衆はどういうことについて勧告され譴責さるべきか。32a )官憲に対する従順が説教さるべきこと。また、世俗的統治と霊的統治。32b )主権者の命令を守り、特に教会のうちにはびこる悪徳を懲らしむべきこと。33)若年者の教育と信仰の教理、あるいはカテキズムについて。34)十戒について。35)信条、主の祈り、十戒。36)説教者・牧師の生活と敬虔。37) 牧師は研究しまた、聖書を読まなければならない。38)牧師たちは友好的に聖書を比較考察すべきこと。39)説教を如何に瞑想すべきか。40)世俗的な書物は節度をもってを読むべきこと。付、説教は如何になすべきか。41)全ての説教日を厳守しなければならない。42)説教者は公に説教するだけでは十分でなく家々を訪問して個別に語 り、悔い改めを宣べ伝えなければならない。43)病人の訪問。44)牧師は己れ自身と家族の生き方を導かなければならない。

(6)ピエール・ヴィレ(1511-1571)との交流

 * Georges Bavaud : Le Reformateur Pierre Viret.(1511-1571).Sa Theologie.1986

 * D.Nauta : Pierre Viret. Medestander van Calvijn.1988.

 * Jean Barnaud : Pierre Viret, Sa vie et son oeuvre.1911, Reprint 1973.

 1.知られざる改革者

 ヴィレはカルヴァンの蔭に隠れてしまったが、その有力な協力者であり、カルヴァンの教理を広めるのに力があった。最近、重要視されるようになった。彼は人文主義出身であり、フランスとスイスのフランス語地域とで宗教改革のために働いた。著作は大小取り混ぜて36冊ある。対話形式で書かれた実践的また通俗的な著作が多いが、彼自身は学問を深くおさめた人であった。

 2.カルヴァンとの対話

 協力者であり、論争はなかったが、思想的には同じでない。やや会衆派的、やや聖霊の強調が大きい。ロザンヌを追われたのはベルンの支配に抗し切れなかったためだが、国家との関係が弱かったからでもある。

(7)ノックスとスコットランド信仰告白

 1.ジュネーヴのスコットランド人教会

 1555年ジュネーヴに亡命イギリス、スコットランド人のために場所が与えられて教会が開かれる。(亡命イタリー人の教会と同じ場所を使って礼拝をしていた)

 この教会が1556年に4部からなる信仰告白を作っている。起草者はノックスであると言われて来たが、今日ではホィッティンガムであろうと考えられる。カルヴァンは草稿を閲読して賛成したのであろう。第1部、神について。第2部、イエス・キリストについて。第3部、聖霊について。第4部教会について。

 今、第1部の全文を引用する。「我は信ず、我が主にます神は、永遠、無限、測り得 ず、把握し得ず、不可視であり、本質において一つ、位格においては父、御子、聖霊の三つにいます。神はその全能の力と知恵により、無のうちより天と地とそれに含まれる一切のもの、更に御自身の形に似せて人を創造し、人において御自身の栄光が現われるようにしたもうたが、それのみならず、その御意志の目指すところにしたがって父としての摂理によってこれらを統治し、維持し、保持したもう」。

 これはスコットランド信仰告白に発展して行くものを持っている。教会の目印を三つとするスコットランドの主張はこの告白に既に表われている。

 2.スコットランド信仰告白(1560)

 項目だけを挙げる。

 1)神。2)人間の創造。3)原罪。4)約束の啓示。5)教会の継続と増大と保持。6)キリスト・イエスの受肉。7)何故仲保者はまことの神、まことの人とならねばならなかったか。8)選び。9)キリストの市、受難、埋葬。10)復活。11)昇天。12)信仰と聖霊。13)善き業の原因。14)神の前に良しとされる業。15)律法の完全性と人間の不完全性。16)教会。17)魂の不死。18)まことの教会を偽りの教会から区別する印、また教理の判定者は誰か。19)聖書の権威。20)総会、その権能、権威、その召集の理由。 21)聖礼典。22)聖礼典の正しい執行。23)聖礼典は誰に与えられるか。24)この世の官憲。25)教会に与えられた賜物。

(8)ア・ラスコと東フリースランドおよびロンドンの亡命者教会

 Johannes a Lasco(1499-1560) はポーランドの貴族の出身。ボローニャで学んだ後司祭になり、バーゼルで人文主義を学ぶ。エラスムスの影響が大きい。1543年東フリースランドの監督としてエムデンに来(東フリースランドは1528宗教改革を始めた)、49年にクランマーの招きによってイギリスに行き、オランダ人亡命者の教会を建て、1553年迫害によって追放。ドイツに(フランクフルト)、また晩年ポーランドに改革派教会を建てる。チューリッヒ系の宗教改革であるが、エキュメニカルな志向が強く、ジュネーヴからの影響も大きかった。

 実践面での貢献が大きく、教会論、教職論、教会法、教会規律、聖書研究の普及、ディアコニア、等にわたって特にオランダの教会に影響を残した。              


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牧師:広瀬 薫
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