1992・07・02
* F.Wendel : Calvin.Source et Evolution de sa Pensee religieuse.1950,19852
* A.Ganoczy : Le Jeune Calvin.1966.
* Q. Breen : John Calvin; A Study in French Humanism.1931.
* W.de Greef : Johannes Calvijn, zijn werk en geschriften.1989
1.カルヴァンの修行時代
幼児期に母親の影響でカトリック的敬虔を身に付ける。少年期に故郷で学び、14歳でパリ大学に入る。学資は教会の教職禄。これを後年福音主義に回心したとき断わる。進歩的なラ・マルシェ学寮でマチュラン・コルディエに学ぶ。この師に後年「Tテサロニケ註解」を献呈する。また、コルディエは後年ジュネーヴに移り住む。ラ・マルシェから間もなく保守的教育のモンテーギュ学寮に転じる。ここで保守的カトリック神学を学んだと思われる。ほぼ同じ時期にこの学寮にはイグナティウス・ロヨラもいた。フランソワ・ラブレーもいた。スコットランドのジョン・メイジャーの感化については分からない。
19歳でパリ大学を卒業し、オルレアンの法学部に移る。法学とはいえ学問的には人文主義であった。ドイツ人教師ヴォルマールからギリシャ語を学び、ルターの宗教改革を紹介される。また、ヴォルマールのもとで、後年、後継者となるテオドール・ド・ベーズと知り合う。ヴォルマールとの関係は続くが、宗教改革に決断することはなかった。
オルレアンからブールジュに移って、そこで法学部を卒業する。もともと法律家になるつもりはなかったので、パリに創立されてまだ新しい王立教授団において人文主義の研究に専念する。セネカの研究が主であったと思われるが、当時の学問は幅の広いものであった。ヘブル語もここで学んだ。
2.人文主義者としてのデヴュー
* Calvin's Commentary on Seneca's DE CLEMENTIA.with introduction , trans- lation, and notes by F.L.Battles and A.M.Hugo. Leiden,1969.
1532年「セネカ“寛容論”註解」を出版する。彼はこの著によって学界で認められて教授の地位を得たいと思ったらしい。これがカルヴァンの最初の出版物であるが、1531年に出版されたニコラ・デュシェミンの「アンタポロギア」の序文を書いている。
セネカの著作は前世紀後半から何度か出版され、1515年と1529年にエラスムス編集のセネカ全集が出版されたが、カルヴァンはそれにも不満があった。カルヴァンはラテン語の古典作家の中でセネカの文体と思想を好む。セネカはこの書を彼の生徒であった皇帝ネロに贈り、王者としての徳を勧めたものである。
この著書におけるカルヴァンの思想、学問の態度はどうであったか。セネカはキリスト教と関係のない思想家であるが、カルヴァンはセネカ解釈をキリスト教的に行なおうとした。セネカの書には帝王の理想、ひいては政治の理想がある。これを示そうとした。
3.コップの演説の原稿
パリ大学学長ニコラ・コップが1533年演説をする。(Concio academica nomine rec- toris universitatis Parisiensis scripta)その内容は福音主義を支持するものであったが、コップは追及され、原稿を書いたカルヴァンも追われる。この時には福音主義への内的転向が行なわれていたが、公表するだけの確信はなかった。
4.オリヴェタン聖書の序文
オリヴェタンと称せられるピエール・ロベールはカルヴァンの従兄弟である。ノワイヨンに生まれ、シュトラスブルクで学んだ。1535年ヌーシャテルで聖書のフランス語訳を出版する。フランス語では最初の原典からの全訳聖書である(ルフェーヴル・デタープルの訳はラテン語からであった)。これの序文をカルヴァンが書いた。訳文の検討もした。この校訂作業は後にジュネーヴの牧師会に引き継がれる。ジュネーヴ版フランス語訳聖書はオリヴェタン聖書をもとにしている。オリヴェタンはワルドー派との関わりを持ち、オリヴェタン聖書は初めはワルドー派の要請によって作られた。オリヴェタン聖書の序文にカルヴァンの神学的特色はうかがえない。これは神学的文章ではなく、散文詩である。
この時期に(34年頃)「プシコパニキア(魂の徹夜)」という後年出版された再洗派反駁の書物が書かれる。キリストにあって死んだ者は再洗派の言うように眠るのでなく、主の前で目覚めていると主張する。再洗派との接触があったと考えられる。
5.回心
カルヴァンの回心の歴史的事実については良くわかっていない。しかし、回心が彼の思想と存在にとって大きい意味を持っていることは明白である。これがカルヴァン理解の鍵になると見て良いであろう。「神は突然の回心によって私を従順ならしめたもうた」と詩篇註解の序文に述べられている。「突然」とは思いがけないこと、予期して待っていたのでないことを表わすであろう。「従順ならしめられた」とは、それまで神を知ろうとし、知ってもいるが、神から自立した姿勢を取って来た。その方向が転換したのである。
カルヴァンの回心は宗教改革への参加を意味していた。コップの講演原稿を書いた同じ頃に回心があり、カルヴァンはプロテスタントの地下活動に参与する。ここで悟ったのはフランス・プロテスタントが熱心な信仰を持ってはいるが、信仰について余りにも教えられていないことであった。そこで教えのための書物を書く。キリスト教綱要である。
6.遍歴
カルヴァンが追及されて逃亡してからしばらくの期間、消息は分からない。迫害のもとにあったフランス・プロテスタントの群れを巡回して説教をしていたと言われる。カルヴァンが聖晩餐を守ったと言い伝えられる洞窟もある。ネラクにルフェーヴル・デタープルを訪ねたとの憶測もなされる。しかし、確かなことは何も分からない。
プロテスタントの実情に触れたことは確かである。当時のフランス・プロテスタントには再洗派の感化を受けた人もいた。知識人は宗教改革に理解を示しても参与せず、比較的下層の人々が宗教改革を担っていた。
1.ルターへの尊敬
カルヴァンは改革者の中でルターを最も尊敬していたようである。使徒職は教会の基礎を据える時代だけの務めであるとしながら、ルターを当代における使徒と見ている。綱要W,4,4参照。ただ、ルターの書物としてはそう広く読んだとも思われない。
2.ルターへの批判
随所に批判が見られる。批判は一定の枠を超えないが、ルターの思想およびルター主義の問題性を随所に見抜いていた。
* Berner Synodus 1532
* 出村彰「スイス宗教改革の研究」
* A.Piaget : Les Actes de la Dispute de Lausanne.1928.
1.フランス語地域諸都市の宗教改革
スイス宗教改革はツヴィングリによってチューリッヒで始まるが、カルヴァンに対するツヴィングリの直接影響はない。チューリッヒの感化のもとにスイス西部で改革を推進しようとしていたのはベルンで、その指導のもとにフランス語地域の改革は始まった。スイスのフランス語地域の都市と周辺地域の改革はジュネーヴが初めであり、それはギヨーム・ファレルによって着手された。ロザンヌ、ヌーシャテルは少し遅れる。
ジュネーヴは当時まだスイス連邦に加盟してもいない。サヴォワ公の領地であって、都市としての発達につれて、市民の中にはサヴォワ公国から離れて自治体となり、スイスの同盟に加盟しようという動きが盛んになり、これが宗教改革と結び付いた。
ベルンの1528年の条項と、1532年のベルン会議がジュネーヴに与えた影響は小さくな い。それはチューリッヒの改革の路線を継ぐものである。
2.ファレルの指導によるジュネーヴ改革
ジュネーヴも宗教改革が始まった段階で指導権を持ったのはファレルである。その指導力はまもなくカルヴァンに移る。ファレルの改革は徹底したものではあったが、旧弊を打破するに急であって、秩序の再建は出来ていない。例えば、礼拝の様式。ファレルは神の言葉の説教を重視し、それに反する要素を悉く却け、全ての画像を撤去するが、詩篇歌の導入については何も考えなかった。カルヴァンが来るまではジュネーヴの礼拝には歌がなかった。ファレルの教会実践は彼の「マニエール」(1533)が示している。
カルヴァンにファレルからの人格的影響があったことは疑えないが、思想的には余り影響は受けていないと思われる。
3.エコランパディウスの影響
バーゼルのエコランパディウス(1482-1531)はカルヴァンに直接影響を与えるには余りに早く死去した。しかし、間接的な影響は与えた。一つはバーゼルに学問のある人を集めておいた学派形成である。カルヴァンはジュネーヴを追われた後バーゼルで研究を続けたいと願った。
今一つ、エコランパディウスはツヴィングリと違った教会と国家の関係を考えており、それがカルヴァンに引き継がれているように思われる。カルヴァンがジュネーヴから追放されたのは、ベルンと同じ路線を行こうとするジュネーヴ市当局と対立したからである が、ここにはツヴィングリ型の思想とエコランパディウス型の思想との対立がある。
4.ベルンからの影響と反発
i)1528年のベルン条項(特に第1条)、1532年のベルン会議(第34条)はジュネーヴの初期改革に大きい影響を与えている。教理教育を重んじる改革として始まる。
ii)教会と国家の関係についてのベルンの考え方はチューリッヒのツヴィングリの型である。分離の考えがない。スイスでもバーゼルのエコランパディウスは教会と国家の分 離、教会の自立に傾く考えで、ジュネーヴの牧師たちはその傾向であった。したがって、市当局との衝突が1538年に起こる。
5.ローザンヌ論争、その条項
1536年のロザンヌ論争ではカルヴァンが活躍する。この論争における勝利はスイス西部の宗教改革を確定的にした。論争の条項はファレルによって準備されたのであろう。以下の如くである。
「ベルンの新しい管区となったロザンヌにおいて討論されるための問題点」1536年10月1日。1)聖書は義認の唯一の道を教える。すなわち、ただ一度捧げられたもうたイエス・キリストを信ずる信仰による義認である。これ以外の償罪、犠牲、潔めを罪の赦しとする者はキリストの一切の力を空しく持つのみならず、これらを破壊するのである。
2)この聖書は、死人のうちより甦って天上に御父の右に座したもうイエス・キリストをその教会のための唯一の真の大祭司、最高の仲保者、まことの代弁者であると認める。
3)聖書が神の教会と言うのは、ただイエス・キリストの血によって受け入れられたことを信じ、一貫して揺るぎなく信じ、かつ御言葉に立ち、これに支えられて信ずる全ての者のことである。キリストはその肉体の現臨においては我々から隔てられているが、にもかかわらず聖なる御霊の力により一切を支え、治め、生かしたもう。
4)上述の教会はただ神の目によってのみ知られる者たちからなる。教会はキリストから命じられた儀式、すなわちバプテスマと主の晩餐を常に持ち、それによって見えるもの知られるものとなる。これらの儀式がサクラメントと呼ばれるのは、これらが隠された事 柄、すなわち神の恵みの現われ、また印だからである。
5)上述の教会は神の言葉を宣べ伝え、サクラメントを執行する以外の職務を認めない。6)さらに、この教会は神に向けてなされる以外の告白、神によって罪の赦しのために与えられ、それのみが己が過ちを告白する者たちの罪の赦しとなるもの以外の赦免を受け入れない。
7)さらに、この教会は神の言葉によって霊的に定められた域を越えて神に仕える全ての他の手段・方法を否定する。すなわち、神を愛し、隣人を愛することからなる以外の道である。従って、教会は、像その他同類の、宗教を堕落させる諸儀式の無数の悪ふざけを全く退ける。
8)また教会は社会の平和と静穏を維持するために必要なものとしてただ神によってのみ立てられた官憲を認める。教会はこの目的のために、全ての者に、神に反して命令されるのでない限り、官憲に従順であれと願いかつ定める。
9)次に、教会は結婚が神によって全ての人のために相応しいこととして定められたのであって、何ぴとの聖性を損なうこともないと確認する。
10)最後に、どちらでもよいもの、例えば、食物、飲み物、日の守り方などについて は、教会は信仰者である限り、常に自由に用いることを許す。但し、知恵と愛をもって用いるのでなければならない。(CR9)
6.シュトラスブルク滞在中に受けた影響
1538-41 年の約3年間シュトラスブルクで亡命フランス人教会の牧師、神学寮の教師として過ごした。この間、ブーツァー、カピト、ヘディオ、等の改革者から影響を受けたことは当然と思われる。はっきり分かるのは次の点である。
i)信仰問答を問答体で書くようになる。
ii)教理体系上、律法から福音へでなく、福音から律法への順序を取る。
iii)牧師、教師、長老、執事の務めを教会規則に入れる。
iv) 礼拝式文が影響を受ける。 ただし、その影響について意見は分かれる。実質的には余り影響されなかったかもしれない。カルヴァンとブーツァーは基本的に違うところを持つ。ブーツァーには霊の神学の傾向がある。カルヴァンは言葉の神学に徹する。
1.語学
i. ギリシャ語・ラテン語
人文主義においては古典語が読めるだけでなく美しく書けなければならない。そういう教育を受けた。ギリシャ語はヴォルマールやビュデから学んだ。古典ギリシャ語と聖書のギリシャ語の区別が知られていない時代であった。
ii. ヘブル語・アラム語
王立教授団でヴァタブルから学んだのが最初。オリヴェタン聖書の翻訳の点検が出来る程度の力があった。当時の旧約研究家たちはアラム語でタルグムを読むことを始めているので、カルヴァンはそれを始める。独学である。バーゼルのヘブライスト、セバスティアン・ミュンスターと連絡を取って独学で学んだと考えられる。
iii.フランス語
学問的な書物をフランス語で書いた最初の人はカルヴァンである。これは単に思想の普及のためではない。知識を民衆の所有にするという思想がある。民衆語をラテン語と同格に扱う。ナショナル・ランゲージを樹立する気風が起こっている。
2.諸学芸
カルヴァンが一般教養としてどういうものを重要視していたかは、1559年のジュネーヴ・アカデミーの規則にある6学年のカリキュラムから推察される。
1学年では前半に言葉の変化、後半でフランス語とラテン語を比較しつつ品詞とラテン語初歩練習を教える。第2学年ではヴィルギリウスの田園歌から範をとってシンタックスの基礎を教え、子供に書くことを教える。第3学年ではシンタックスの規則を仕上げ、キケロの書簡集を用いて教え、その文例に倣って作文をさせる。また音節の長さの規則、オヴィディウスの悲歌、デ・トリスティブス、デ・ポントを読ませ、終わりには子供にギリシャ語を読ませ、変化を教える。第4学年ではギリシャ語文法を更に詳しく教え、子供がラテン語とギリシャ語の規則を注意深く守って文章を書くことが出来るようにする。彼らに読ませる著者は主としてキケロの書簡、友情論、老年論、ヴィルギリウスのエネイド、カエサルの戦記、イソクラテスの講話である。第5学年でラテン語の歴史としてはティトゥス、リヴィウス、ギリシャ語の歴史としてはクセノフォン、ポリビオス、あるいはヘロドトス。詩としては時々ホメロスを読ませる。また弁証法の初歩を教える。そして彼らが読んだ書の範例に倣って論文を書くことが出来るようにする。何よりもキケロの逆説、講演の最も短いものを、修辞の技法をもてあそぶことなく学ぶ。土曜日には3時から4時までルカの福音書をギリシャ語で読む。第6学年では弁証法の基礎として、範疇論、トピ カ、論駁を教え、修辞学初歩を教えて良い文章を書くようにし、月2回弁論会を開く。土曜日には3時から4時まで使徒の書簡の何かを読む。
以上の過程を終えた者が神学過程に入る。ヘブル語が始まり、神学の講義以外に哲学書講読、自然学、修辞学の講義がある。
3.聖書研究
i.本文研究
当時の聖書本文研究は学問的にはようやく緒についたばかりである。しかし、前世紀に始められた本文比較研究があり、カルヴァンの弟子ド・ベーズはベザ写本の発見と研究で写本研究の先端を行く。カルヴァンも本文研究には関心が深かった。
旧約聖書に関してはマソラ・テキストを重んじるが、タルグムとの比較を行ない、註解で必要と認めた時はそちらのほうを採用している。
ii. 註解
註解については人文主義の聖書註解方法が確立しつつあった。(ルフェーヴル・デタープルの項参照)。ルターの聖書註解と違った言語の本来の意味を読み取るやり方である。カルヴァンは聖書註解の原則の一つとして簡潔性を挙げている。ということは、註解そのものが厖大になって、それ自体の存在を主張するようなものになることを差し控えたのであろう。すなわち、テキストに対する控え目、説教に対する奉仕の姿勢を持とうとしたのであろう。
自身の註解に際して多くの註解書を読んでいることが詳しく調べると分かる。それは註解にとって必然的ではないから、カルヴァンは黙っている。旧約に関してラビの註解をかなり読んでいる。
4.神学
スコラ神学についてはパリのモンテーギュ学寮で手ほどきを受けたと考えられる。教会法についての学識は自ら修得したものであろう。新しい神学は書物によったのであろう。カルヴァンの神学は体系的であるが、体系的思考を展開するのでなく、聖書を熟読し聖書の教えを最も適切な順序に整えるものであるから、神学研究の実質は聖書研究であった。 教えの叙述の順序としてカルヴァンが考えついたのは、一つには神の救いの歴史に即する順序であり、一つには分かりやすい順序である。後述する。
5.教会の歴史、回復すべき古代
ルネッサンスの歴史観は古代を輝ける時代、中世を陥没時代、そして今を復興の時代として性格付ける。この理解と並行したものが宗教改革の歴史観にある。この歴史把握は余りに図式的である。宗教改革の歴史学習は教父研究に向かう。論争が始まると、カトリックの論者は教父を論拠として持ち出す。教父を権威付けるカトリックの見解に対し、宗教改革側も教父を論拠として持ち出すことが出来た。そこでは、厳密な理解や引用が必要とされる。改革者の間では古代教会史研究や教父研究が盛んになる。
1.最初の段階
インスティトゥーティオという題名を定めた時この書の性格が定まった。これは教理を教えるための書物、スンマ・ドクトリナエである。教理条項は体系化されたが、体系化そのものに目的があるのではなく、教えるために順序付けたのである。
構成はルターの信仰問答に倣ったのではないかと推測される。ただし、ルター以外に同様の信仰問答を作っている人はおり、その題名が「インスティトゥーティオ」となっている場合もあるので、ルターからの影響だけであったと見ることは差し控えたい。しかし、ルターの言い方に倣っているところもあるから、影響がなかったとは言えない。
構成は十戒、信条、主の祈り、の順序に構成要素を並べる。信仰の手引きも同じ順序である。綱要の後年の版は違うが、初期の版ではこれらの主要文言の逐字の講解を述べる。 1536年のジュネーヴ教会信仰告白、これはカルヴァンの筆になるものではないという説があるが、その順序では「神の言葉」が最初に来る。これはスイスの宗教改革に現われ始めた順序付けである。先ず、1528年のベルンの条項がある。
2.体系の再構成、聖書からの再出発
体系的神学として宗教改革以前に成立していたのはスコラ神学であった。宗教改革はこれを徹底して拒絶したのではないが、低い評価しか与えない。すなわち、神の言葉に導かれたのでなく、人間の頭で考えたものだからである。この神学を転用することが出来ないのであるから、聖書に基く教理を新しく体系化しなければならない。
綱要の構成は第二版で少し変わり、第五版で全面的に変わる。信仰問答も第二のものは全面的に順序が変わっている。順序の変更に関しては、他の影響も受けたであろうし、彼自身の考えの深まりもある。
(1)教理は断片であってはならない。全体を網羅し、簡潔であって、偏りがあってはならない。 (2)さらに教える順序が重要である。この点でカルヴァンはルターと非常に違う。
(3)教理は聖書から聞き取るのであるが、聖書では同一用語が必ずしも同一内容を表わしてはいない。スコラ神学においては聖書の語彙を一義的に規定して体系化するが、聖書を釈義的に学んだ者にとっては一語彙を一概念で割り切ることが出来ないのを知っている。教理の体系化は体系それ自体の論理を原理として展開するのでなく、終始聖書のテキストに即して進められなければならない。
3.三一論的構成
教える順序としては神認識から自己認識に、神認識も創造者なる神の認識から贖い主なる神認識に、という方向を取る。これは伝統的な三一論と結論的に同じに見えるが、伝統的三一論が存在論的に構成されたのと原理は別である。
4.人間論
存在論的に論じられたスコラ神学では人間論は神論のいわば続きとして、アナロギア・エンティスに基いて考えられる。この思考は宗教改革の神学には全く無縁である。
すでにルターがスコラ神学の枠を離れて人間の実存を見詰める思考をしていた。それはアウグスティヌスの思想の復活であると言われる。アウグスティヌスの影響が宗教改革に大きいことは多くの人の指摘する通りである。しかし、アウグスティヌスなしでも聖書そのものから人間の有限性、罪の現実は明らかになる。
さらに、人文主義の人間省察は聖書的洞察を遂行させる。こうして、アナロギア・エンティスと無関係な人間論が成立する。その表現は「意志の不自由」として述べられる。
5.教会論
ルターの宗教改革が信仰の革新をなしとげたが、教会の革新にはまだ十分達していなかった。カルヴァンは改革の原理を教会に及ぼす。
* 渡辺信夫「カルヴァンの教会論」1976
1.礼拝
スイスの宗教改革は礼拝の改革、すなわちミサを廃止し、神の言葉を説教する礼拝の確立から始まる。カルヴァンがジュネーヴに初めて来た時、福音の説教は行なわれていた が、まだ十分に神礼拝にふさわしい秩序を整えるに至っていないとカルヴァンは気付く。そこで、礼拝の充実のために最初の教会規則が取り上げたのは詩篇歌であった。ファレルの礼拝指導では詩篇歌は用いられていない。彼はそれを知らなかったのであろう。カルヴァンはフェラーラでクレマン・マロと知り合って詩篇歌の価値を知ったのであろう。
詩篇歌はルネッサンスの文化運動の一環である。しかし、カルヴァンが詩篇歌を採用したのは時代の先端的文化的を評価したということではない。聖書をもって神を讃美すること、すなわち、人間の気持を表わした創作讃美歌でなく、神から与えられた文書にある讃美歌を歌い継ぐべきであるとの主張が一つある。また、旧約のイスラエルの礼拝の歌が新約の民の礼拝の歌であることの意味の大きさを彼は考えていた。
礼拝が神の言葉を聞くことに中心点を定めるべきは勿論であるが、その中心を中心として位置付ける秩序が必要である。すなわち、礼拝式文が大切である。これもファレルの気付いていなかった点である。礼拝式文はシュトラスブルクから学んだのではないか。
礼拝に関してカルヴァンが聖晩餐の意義を重視していたことをも挙げなければならな い。本当は全ての礼拝に聖晩餐が伴うべきである。それが実行出来なかったのはジュネーヴ市当局がそれを認めなかったからである。聖晩餐の重視はカルヴァンとツヴィングリとの違いを示す重要な点である。
2.説教と説教者の修練
説教は聖書講解説教である。これは人文主義宗教改革において確立した型に則ってい る。カルヴァンの始めたものではない。聖書講解説教のほかにカルヴァンが実行していたカテキズム説教があるが、これは信仰告白準備中の子供に聞かせ、大人には聞くことを義務付けていない。大人は聖書によって養われるべきで、聖書によって養われる準備としてカテキズムで筋道を学ぶという考えであった。
説教者が聖書を正しく説き明かすためには、神の言葉を神から遣わされて語る召しの確認が第一に必要である。しかし、その召しに応じる備えが第二に必要である。それは神の言葉の学びと、敬虔の修練である。この学びが説教者同士の共同修練として行なわれた点も見逃してはならない。ジュネーヴの牧師会は毎週このための会合を持っていた。
3.カテキズム
カテキズムは教会が教会であるために不可欠なものの一つである。これは教育のためであるとともに、教会の教理規準の意味を持つ。宗教改革期のカテキズムは教育的関心を主として発展して来たものである。カルヴァンがこれを教会の告白として把握し直してい る点が重要である。
4.教会秩序
教会は良く整えられた教会でなければならない。そのために規則を持ち、それを運営する。キリストの教会は恵みに相応しくなければならないからである。
教会規則は試行錯誤を経て作られたのではなく、御言葉に基いて、信仰告白とともに書き上げられる。教会規則は信仰告白と同じ重さを持つものではなく、しばしば改正されるのであるが、それは信仰告白と別の原理を持つことを意味するものではない。
5.職務の多様性と執事職
カトリック教会においては教会の務めは司教職に集約される。そして司教職は初めは教える務め、教導職であったが、裁治職に置き換えられる。この裁治職に司教の上と下の系列が加えられて、職階制度が出来上がる。職階制度そのものが教会の本質とされた。
宗教改革は教える務めを回復したが、カルヴァンは教える務めだけでなく、多様な務めを回復しようとする。1コリント12:5参照。
信徒の担う長老職と執事職は直接にはブーツァーの影響であると見られる。長老職は多くの改革派教会が踏襲し、今日も続いているが、執事職は必ずしもそうでない。
6.教会と国家
カルヴァンの考えが政教の分離にあったと言うのは正確ではないであろう。彼はまだ分離以前の時代に属する。彼は急進派が政教分離を考えたのを危険と見る。彼にはこの世の政治支配が悪であるという考えはない。これは神の支配の一部なのである。
しかし、彼は「クユス・レギオ・エユス・レリギオ」の持つ矛盾をすでに感じていた。二つの面から考えられた。一つは政府に対する教会の自立の必要である。教会の規律の原理は国家の原理ではない。彼はこれを或る程度実行した。
今一つ、教皇主義の政治権力の支配のもとにある福音主義の信仰者に、福音主義信仰を捨てて権力者の宗教に一致せよと勧めることは出来なかった。「上にある権威に従え」との原理は制約を受けている。福音的信仰は真理に適っているからである。支配者と信仰が異なる時は亡命が勧められる。生まれた国よりももっと大きい意味を持つ共同体がある。 しかし、譲歩するだけでなく、主張すべき点もある。そこで抵抗権の考えが出て来る。これを発展させたのはカルヴァンの後継者である。すなわち、教会の自律から考えて行く考えと、良心の自律から考えて行く方法が総合される。
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