1997・01・27
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* Paul Fargues : La Renaissance et la Reforme. 1936
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* 渡辺一夫:フランス・ユマニスムの研究.岩波書店
人文主義の宗教改革が教理史に占める位置は小さい。なぜなら、ここから直接に出てきた教理条項はないからである。ただ、宗教改革の気運を醸成したこと、また聖書研究の方法を樹立するに貢献した点は無視出来ない。
1.ルネッサンスの人間観
ルネッサンス期のヒューマニズムは、後の時代のヒューマニズム(人間主義)と同一に扱うことは出来ないので、「人文主義」と訳すことにする。言葉の起こりを述べれば、人文研究をする人、すなわち、studia humanitatis に携わる人を「フマニスタ」と呼んだが、フマニスタのしていることを「フマニスムス」と呼ぶようになった。自由な学芸をhumanitas と呼ぶのはローマ時代からのことである。これに含まれる学科は文法、修辞学、詩学、歴史、道徳哲学であった。
ルネッサンスの人文主義思想は体系を持つ哲学を打ち立てなかった。それは哲学として未成熟であったからというよりも、観念体系を作らない思想、人間を見る見方、物の言い方、生き方、人となり、人作り、としての思想であったからである。それは哲学よりも教育、文学、詩、音楽、美術、建築などに表わされる。これは思想がなかったことを意味するのではない。
ルネッサンスの人間観が反キリスト教的、特に反宗教改革的なものであったという見解が一般に行なわれているが、必ずしも正確な理解ではない。これはルター的見解を引き継いだものと思われる。人文主義が人間に目を向けた思想であったことは確かである。もと古代文芸の復興運動であり、文章や言葉に関心がある。人間の可能性を信じ、キリスト教から自立して行こうとする傾向が一面においてあるとともに、キリスト教への純粋な傾倒も見られるし、人間についての更に鋭利な、したがって人間肯定の思想に批判的な考察もなされるようになる。
そのように、キリスト教に対して否定とも肯定とも即断出来ない態度を取ったのであるが、基本的に食い違う考えがあった。それは、およそ真なるものを啓示にのみ求めるか、啓示以外のものにも求め得るか、である。ルネッサンス思想はギリシャ・ラテンの古典の中に真理への契機を見ようとした。従来のキリスト教の考えでは異教徒的と言われたものに価値を認める思想が起こって来た。この点が解決されねばならなかった。また、宗教改革の生き方と鋭く対立するのは人文主義には「あれかこれか」の決断に馴染まない点である。
新しい思想には不合理な要素を排除しようとする傾向があったと考えられているが、ルネッサンスの思想に不合理な要素も含まれるという事情を無視すべきでない。不合理の要素が排除されるのはむしろ一神教的思想体系の支配が確立した17世紀の特色である。ユダヤ教の神秘思想、錬金術、占星術、オカルト思想などに興味を示す人文主義者は少なくなかったのである。
人文主義の人間観は言葉、それも美しい言葉を手掛かりとする人間理解である。したがって、立派な文体で文章を書く人間が理想的人間像となる。人間形成は言語教育を通して達成されると考えられた。したがって粗野な人間に対する反発がある。そこで大衆の行動や欲求には批判的になる。
2.キリスト教からの自立
古代文芸の研究はキリスト教の影響以前のギリシャ・ラテンの古典から始まったため、キリスト教から自立した精神を追求しようとする傾向が初めからあった。(例えば、ラウレンティウス・ヴァラ(1406-1457))。けれども、その傾向はまだ盛んではないし、人文主義が必然的にキリスト教から自立すると言えるかどうかは問題である。マルシリオ・フィチーノ(1433-1499)のようにキリスト教とプラトニズムの調和を考えた人もいるし、ジョヴァンニ・ピコ・デラ・ミランドラ(1463-1494)のように、有力な人文学者でキリスト教に熱心な人も多い。
ただし、神や宗教から離れて行く傾向が一方にあったことは確かである。例えば、フランソワ・ラブレー(1484-1553)。彼はカトリック教会から司祭の職録を得ていたが、本質は非宗教人であった。人文主義の中にそのような要素を含むことは或る程度自覚され、そのような要素との葛藤がカルヴァンなどには見られる。
3.人文主義のキリスト教研究
ギリシャ・ラテンの古典文学の復興であった人文主義は研究対象を拡大するに及んで、聖書とキリスト教古典が取り上げられるようになり、古代キリスト教会の健全な姿が復元される。その結果、権威を振りかざし、儀式主義に立つカトリックの主流に反発する思想が生まれるとともに、神学概念の論理的操作をこととする在来の神学と違う、言葉に即した思考を重んじる態度となる。人文主義のキリスト教への貢献としては、第一に聖書のテキスト研究と翻訳と釈義がある。新約聖書に関してはエラスムス(1465-1536)があり、旧約聖書に関してはロイヒリン(1455-1522)の影響が大きい。
人文主義の聖書研究には、原典に溯って本来の意味を究める面と、人々の通常語に翻訳して、もとの意味を一般の人々の心に到達させるという面とがある。第2の面は見落とされやすいが、民衆の言葉への翻訳と出版はルネッサンスに始まる新しい傾向である。(ルターの聖書翻訳をルター主義の発展の中だけで見てはならない)。
ヨーロッパでは従来、ローマ教会の用語たるラテン語が規準になる言葉であって、民衆の使う俗語は価値低いものと見られたが、民衆語の価値の発見がなされる(例えば、ダンテ)。また、教会で唯一重んじられるラテン語の意義を低めるために、ギリシャ語とヘブル語の言語としての価値を高く評価することも行なわれる。人文主義者の聖書研究は彼らの文献研究方法を古典としての聖書に適用したに過ぎないと見られるかもしれないが、聖書そのものの持つ力によって、聖書研究は同列の文献研究の一部に終わらなくなる。彼らは聖書の権威についての教理条項を立ててはいないが、心から聖書に信服している。
次に、キリスト教古典としての教父の研究が開拓される。代表的な教父の名はよく知られていた。けれども、教父の名および諸命題が(命題集と教会法典への収録によって)知られていただけであって、書物として一貫した文脈の中で読まれることは稀であった。もっとも、全く無視されていたわけではない。修道院の中で写本作りは行なわれていた。その写本を用いて、人文主義者による教父文献の刊行と研究が行なわれた。重要と思われるものから先に刊行され、それが影響を与える。アウグスティヌスが最大の影響を与え、宗教改革者たちはみなアウグスティヌスを熱心に読んでいた。カトリック側が宗教改革に対する反論として教父の権威に訴えようとしても、当時としては宗教改革の側が教父を良く読んでいたので、古い権威を持ち出すことは有利でなかった。
聖書研究と教父研究によってキリスト教の古代の姿が復元され、それがキリスト教の現状と如何に違うかが意識されるようになると、教会改革と道義の改革が考えられるようになり、その見解が書物となって公布される。宗教改革が教会の改革を主とするのに対し、人文主義者はキリスト者の道徳的改革をも重要なこととして唱えた。
しかし、そこでの教会改革は人文主義的制約を受け、不徹底なものになる。人文主義的制約と言ったのは、次のように纏められよう。1)発想において人間肯定に基礎を置くから、自己否定が要請される場合に立ち至ると思考は停止し、あるいは逆転して反動的となる。2)知的営為としての人文研究は教会改革に理解を示すことが出来るとしても、教会改革の実践とは距離がある。3)人文主義を学ぶ少数の選良である知識人の問題意識は必ずしもキリスト教大衆の考えと結び付かない。概して、当時の人文主義には社会的意識が弱いと見られる。
こうして、不徹底な改革思想を克服して本格的宗教改革に至る線と、教会の改革を唱えつつもカトリックに留まる線とが出て来る。カトリックに留まって殉教した人にトーマス・モーア(1478-1535)がある。もっとも、モーアを処刑した側は、宗教的主張によるのでなく、政治的事情によるものであった。
当時の人文主義思想に影響している哲学思想としては、アリストテリズムよりもプラトニズムがある。(アリストテレスが盛んに読まれたとしても、プラトン的に読まれた。)アリストテレスの哲学が形式論理を軸として展開するのに対し、プラトニズムは現実と理想の相克を弁証法的に捉えて理想を追求する。この思想が時代の中で演じた役割は大きいが、理想主義の思想的限界もあり、ルターの宗教改革の持つ信仰のリアリティーに及ばなかった。
人文主義宗教改革はルターの宗教改革を批判し、もっと穏健な、人間的な方法によって教会を改革しようとする。急進的宗教改革に批判的であったことは言うまでもない。
フランスにおける前宗教改革(プレレフォルム)を別として、人文主義系の宗教改革の始まりはチューリッヒである。ツヴィングリについては先に述べたところをここに繰り返さない。
人文主義系の宗教改革はルターのそれとは別の歩みとして始まるのであるが、次の段階において人文主義的要素が克服されて行く。ブーツァー、ブリンガー、カルヴァン等の人文主義出身の改革者による。カルヴァンによる人文主義批判としては「ニコデモ派駁論」がある。日和見主義が批判される。
人文主義者の中から出て、これを克服した代表的人物はカルヴァンである。
4.人文主義的教育と宗教改革
人間に関心が持たれ、理想の人間像が把握されているところでは、人間の教育の実践が盛んである。人文主義者はみな教育に関心があった。それは言葉の教育を中心とするものであるが、教育的関心は信仰教育とも関わって来る。カトリックのような、サクラメントによって信仰が養われるという考えはなくなって行く。
教育観は人文主義のそれであるから、自然の素質を引き出すのが教育であるというような考えはない。また伝承は人文主義教育においては大きい意味を持たない。信仰は言葉によるというキリスト教本来の考え方と、言葉を重んじる人文主義的教育とは良くマッチする。宗教改革においてカテキズム教育を進展させたところでは、人文主義的教育観が地盤整理をしていた。
1.エラスムスの影響
デシデリウス・エラスムス(c.1469-1536)はその思想と学問的業績を通じて宗教改革に大きい刺激を与えている。だが、その影響をどのように評価するかについては、意見は分かれる。彼の思想に近い立場のプロテスタント学者は彼の当時における感化力を絶大なものと見、彼を宗教改革の先駆と見る。一方、ルターとの決裂を重視する人たちは彼が反動的な役割を演じたときめつける。その見方はあながち偏狭とも言えない。次に述べるルフェーヴル・デタープルの方が宗教改革に余程真剣に取り組んでいる。我々は後に挙げた見解に近い立場を取るが、それでも、エラスムスを無視して宗教改革を語ることは出来ないと考える。
エラスムスが与えた影響として、思想と存在そのものによる感化(彼の弟子の中にはエラスムスの弟子であったことを墓碑銘に書いた人がいる程である)と、彼の学問業績やその出版物による影響とを挙げることが出来る。
i.思想的には必ずしも改革的と言えないが、当時のカトリック教会に批判的であったこと、カトリックの従来の理論を蒸し返しているだけでは新しい事態に対処出来ないと 人々に感じさせる存在であったことは確かである。「エンキリディオン」(Enchiridion militis christiani.1501/03) はその面の代表的著作である。
ii. 彼のギリシャ語新約聖書出版(1516年) が及ぼした影響は大きい。聖書原典の出版準備は彼よりもスペインの枢機卿ヒメネス(1436-1517)の方が早く取り掛かっており、編集完了も早かったが、出版は遅れた。その間にエラスムスのギリシャ語新約聖書初版が出版された。これは急いで出版したもののようで、校訂は厳密ではなかった。ヒメネスの編集作業が終ったことを知って、急いで出版したからであろうと言われる。
聖書を原典で研究出来るようになったことの意義は大きい。すなわち、翻訳を通してではなく聖書本来の意味に迫ることが出来るようになった。したがってまた、教会の解釈を介してではなく、直接に聖書の意味を問うことが出来るようになり、教会の権威が空洞化するきっかけともなる。引いては、在来のように教会の権威を基にして聖書を重んじるのと逆に、聖書を基礎として教会の在り方を問うて行く。
2.自由意志の問題
エラスムスの考える宗教改革はルターの考えとは別であった。最初はルターの改革に好意的であったが、次第に批判的になり、「自由意志論」(1524) を書いてルターを論難する。ルターも「奴隷意志論」(1525) を書いて対立する。
エラスムスは自由とは人間がその能力によって自らを救いに導くあらゆるものに専念させることが出来もし、救いから遠ざけも出来る力である、と言った。
両者の対立点が自由意志をめぐってはっきりしたことは意義深い。人間の自由選択を認めるか否か。換言すれば人間の可能性を認めるかどうかは、宗教改革と人文主義の特色を最も明快に示す点であった。メランヒトンの「ロキ・コンムネス」(1521) も自由意志を否定していた。
宗教改革はアウグスティヌスのペラギウス論争の路線を継続している。この点がエラスムスとの論争によって比較的初期にはっきりして来た。自由意志論を肯定するならば、宗教改革を認めることが出来ない。自由意志論を乗り越え、人文主義の感化のもとにある人に納得させるだけの理論が生まれなければならなかった。
3.決裂以後
エラスムスはルターと決裂して宗教改革に対する批判勢力として残るが、この段階では人文主義と宗教改革との全面的決裂には至らない。エラスムスの目指した改革はフランス人文主義に引き継がれ、その中で実現されようとしていた。
ルターの宗教改革としては人文主義者たちを味方から失うことは不利であった。エラスムスとの対応はもっと洗練された理論によってなされなければならなかった。
4.ギヨーム・ビュデ(1468-1540) 上記のように、ドイツにおいては宗教改革と人文主義の関係は不幸な結果になる。イギリスでは人文主義者は大体カトリックに残り、宗教改革に反対するのであるが、この国の宗教改革そのものは宗教改革としての特質を示してはいないので、人文主義もその特質を発揮したとは言えない。フランスでは人文主義がその特色を発揮して、独自の改革の道を行こうとしていた。
フランスの人文主義を代表するのはビュデである。ギリシャ語学者として傑出してい る。フランソワT世に勧めて王立教授団を作らせ、これがフランスにおける新しい学芸の中心になる。当然、ソルボンヌからの攻撃を受けていた。
思想家であるよりも古典学者であろうとしたから、思想的感化を与える書物は余り書かなかったが、晩年の「ヘレニズムからキリスト教への移行」(1534/35)は人文主義と調和したキリスト教を志向し、フランス人文主義の典型的書物となる。
宗教改革にもある程度の同情を示した。カルヴァンとの関係もあった。彼の息子はジュネーヴに亡命して牧師になる。
1.フランスの事情
16世紀においてルネッサンスが栄えた中心地はフランスであって、その発祥の地イタリーではない。特に思想と文芸においてはフランスが先端を行く。そのなかから宗教改革的な志を持つ人も出て来る。人文主義からの宗教改革思想の先駆的地域はフランスであった。しかし、種々の事情によってフランスの本格的宗教改革はドイツやスイスに遅れる。一つはカトリック保守主義の本拠もフランスにあったことである。もう一つは、政治的要因の複雑な絡み合いである。
パリ大学ソルボンヌ神学部はカトリックの保守主義の牙城であって、中世のスコラ神学を受け継いで、改革を封じ込めるのに熱心であった。その代表的人物はノエル・ベダ、ジョス・クリクトヴ(1472-1543)、ギヨーム・デュシェーヌである。これらのカトリック保守派と結び付くのがパリの高等法院であった。
フランスの王室は人文主義の保護者であった。そのため、人文主義者の間に宗教改革的な志があり、保守派から追求される場合は、王室に保護を求めることが出来た。ただし、檄文事件までである。
フランスはまだ統一王国を作るに至っていないが、ドイツのような多数の領邦に分かれてはいない。ドイツにおける帝国の権威が領邦の主権の連合によって制限されたのと比べて、フランスの王権は地方権力の上にあって、後年の絶対主義王政に繋る方向を持っていた。帝国と諸侯との確執がドイツ宗教改革の一つの要素になっているような事情はフランスにはなかった。
2.ルフェーヴル・デタープルの生涯
死去の年は1536年であるが、生年は不明である。殆ど百歳で死んだとの報告もあるが、疑う人もいる。
生まれたのはピカルディーのエタープルという港町である。パリに出て、カルディナル・ルモワーヌ学寮で学び、その学寮の教師となる。1508年学校を辞して、門下生のブリソンネが修道院長をしているサンジェルマン・デ・プレの修道院に行き、聖書研究に専念する。次にモーに行って実際改革に携わる。モーの改革に弾圧が下って後は改革活動から身を引き、南フランスのネラクに隠棲し、その地で没する。
3.ルフェーヴル・デタープルの思想
i)ルフェーヴル・デタープルは最初古代哲学の研究家である。彼自身が自分の思想を築き上げた哲学者であるというよりも、哲学文献の研究家であった。哲学とともに種々の古代文献を研究し、広範な学問的関心を抱く。彼の関心事には神秘主義文献(偽ディオニシウス、ヘルメティカ文書等)、神秘主義、古代キリスト教哲学(ダマスコのヨハネ(c.675-750)の「正教の信仰」)、ピコ・デラ・ミランドラの思想、自然哲学、等も含まれ る。
ii)その次に彼の関心の中心になって行ったのは聖書である。1509年、詩篇の5種のテキストを比較したもの(Quincuplex Psalterium)を出版する。ルターがこれを丹念に読んだことが分かっている。聖書の諸種の本文の比較は聖書研究の不可欠な一部であるが、昔オリゲネスが行なったような本文比較は長く廃れていて、ルネッサンス期に復興したのである。同じ時期の同様のものとしてスペインのヒメネスの推進したコンプルテンシス多重聖書がある。
次に1512年パウロ書簡註解を出版する。これは註解の根本態度においてまた内容において、宗教改革の先駆的書物と言うことも出来る。
ルフェーヴル・デタープルの聖書釈義の原理は次のようである。i)聖書の第一義的著者は神である。ii)聖書の本来の意味は、人間である著者を神が霊感によって導いて語らしめんとされたところが何であったかに帰する。iii )この意味は、文字の意味であると同時に霊的意味である。iv)この文字的−霊的意味は、テキスト固有の意味と、それと一致した歴史的、寓喩的、比喩的、類比的意味である。−更に単純に言えば、歴史的あるいは比喩的な意味である。v)聖書を理解する真の鍵はキリストであり、キリストを信じる信仰こそ聖書の真の目的である。vi)テキストを解釈するさいに信仰の尺度(analogia fidei) に応じてなすことを守らなければならない。聖書全体の調和と完全を維持するために、聖書は聖書によってこそ解釈される。
このパウロ書簡註解の中でローマ書3章を註解する中でルフェーヴル・デタープルは行ないによらず「信仰による義認」、「律法の行ないによっては誰一人義とされず、ユダヤ人も異邦人も神の恵みと憐れみによってこそ義とされる」、さらに「信仰のみ」をすでに説いている。これはルター派が信仰義認の教理を掲げるよりも遥かに早い。
1522年には福音書の、1527年には公同書簡の註解が出版された。
また早くからイグナティウス書簡を紹介している(1498)。
4.モーの改革
モーはパリの東方にある司教区である。1515年ギヨーム・ブリソンネが司教に指名され、17年赴任する。彼は当時の一般の司教のやり方と違って、司教区に住み、自ら会堂で説教する。モーの司教区が当時のカトリック教会の中で特に堕落していたとは言えない が、司祭たちはその職務を守ることを知らない。ブリソンネは司教区内の全ての聖職者が適任かどうかを点検し、大量の不適格者が出る。それらに1年の猶予をおいて再試験し、不適格者を追放した。これには相当の反動があった。このように、モーの改革は高位聖職者による上からの改革であった。
ルフェーヴルは18年モーを訪問し暫く滞在した後、ブリソンネの要請もあって、21年夏最終的にパリを捨てて、その理念に基く改革を実践するためにモーに行く。その時、ギヨーム・ファレル、ジェラール・ルーセルなどの弟子たちを連れて行く。最初の地位は癩病院の職員であった。1523年に司教代理になる。
その改革はモー司教区の各会堂において聖書に基く福音的説教を行なうことである。ルフェーヴルとその門下生たちが説教を担当した。「一年52回の日曜日のための書簡と福音書」(1525) はこの説教を編集したものである。
これに対してソルボンヌの神学者からルター主義者であるとして攻撃がなされた。ブリソンネはこの企てが反ルター主義のものであり、ルターのしているような教会秩序の破壊でないことを司教区内に通達していたが、改革は進み、勢いを得、ルフェーヴルは諸聖人の崇拝を否定し、ついに浄罪火をも否定する。ブリソンネの見解も次第に後退する。
5.モーの改革の挫折
1525年事態は最悪となり、ルフェーヴル・デタープル、ルーセル、カロリを裁判に掛ける令状が高等法院から出される。ルフェーヴルはシュトラスブルクに逃れる。翌年王家の保護のもとにブロワの王室図書係となり、のちにナヴァル女王マルグリットの保護を受ける。ファレルもすでにこの地を去っていた。
指導者が四散したけれども、福音的信仰に目覚めさせられた民衆は後退することが出来ない。彼らの中からは焚刑に処せられる者も出る。
6.フランス人文主義の理想
フランス宗教改革はドイツのルター主義的宗教改革と一線を画そうとしていた。ルターのやり方はフランスの人文主義者から見て余りに粗野・下品であった。すなわち、ことごとに過激な対立的になり、闘争になる。
フランスではもっと知的な洗練された穏健なやり方でキリスト教を本来の姿に回復することが出来るし、すべきであるという考えが強かった。
この穏健なヒューマニスティックな姿勢は、現実に露骨な反動的攻撃を浴びると、品位を保ちつつそれに立ち向かうことが出来なくなる。反動に妥協し、結果的に反動を利するか、せいぜい沈黙を守るほかない。さもなくば、中立的立場を捨てて対立姿勢を取ることになる。
フランス人文主義のこの立場が成り立たないのを最終的に証明したのはカルヴァンの 「キリスト教綱要」の出版(1536) であった。これ以後、フランスでは中間的な立場を取る人はなくなり、宗教改革か反動か、二者択一になる。
しかし、フランス人文主義から出た宗教改革はドイツのルター主義の宗教改革とは違った路線を行く。すなわち、出来るだけ合理的に考えようとするから、対決相手との対話を見出そうとする。
7.ドイツ宗教改革のフランスにおける影響
ルターの宗教改革がフランスに紹介されていた。幾つかのルターの著作はフランス語に訳される。ルイ・ド・ベルカンが翻訳をした。その影響は広く行き渡らなかった。
教養ある人たちの間ではルター主義への批判が強かったが、下層の人たちの間では過激な行き方への共感があった。しかし、彼らの間にはルターの書物は普及しなかった。
8.フランソワ・ランベール・ダヴィニヨン(1487-1530) フランシスコ会の修道士であったが、ツヴィングリとルターの影響を受けた。この改革者は若くて死んだため残した著作は少ないが、ヘッセンで行なおうとした宗教改革の構想(1527)は注目に価する。マールブルク大学の聖書釈義の教授であった。
* Guillaume Farel (1489-1565).Neuchatel.1930
* D.Nauta : Guillaume Farel.1978
* C.Schmidt:Wilhelm Farel und Peter Viret.1860.
1.ルフェーヴル・デタープルの弟子として
南フランス、ドーフィネのガップで貴族の家系に生まれ、1509年パリに出てカルディナル・ルモワーヌ学寮で学ぶ。この時ルフェーヴルはこの学寮からサンジェルマン・デプレ修道院に移っていたが、そのもとで学び、聖書講義によって教皇主義から福音的信仰に目が開かれる。それは1510年代のことである。
大学を卒業してからはルモワーヌ学寮で教え、ルフェーヴル・デタープルの門下生として、ファレルはフランスの人文主義的改革思想の担い手の一人であった。
師がモーに赴く時、ファレルもパリにおける地位を捨てて随行する。22年に一時ガップに帰郷する。ここで福音主義の伝道をした。
2.妥協の拒否
モーの改革の挫折の後、ルフェーヴルとその弟子たちは沈黙する。それが人文主義の限界であった。ファレルは沈黙へと後退せず、1523年バーゼルに行き、エコランパディウ ス、ヒンネ・ローデと交わる。ドイツ語圏の宗教改革と最初に接触したフランス人改革者はファレルである。この地でフランス宗教改革の最初の教理の書「ソンメール」(要項)を書き上げる。またシュトラスブルク、チューリッヒ、コンスタンツを訪ね、モンベリアールにはしばらく滞在して福音主義の伝道をする。1526年からベルンに行き、28年のベルン討論に加わり、スイス西部で改革に従事する。
ベルンはスイス西部で大きい勢力を持つ都市であったから、これを宗教改革に引き入れることを改革者たちは考えた。ファレルは1532年のベルン会議にも出席したいる。また、北イタリーのワルドー派とも連携を取った。
3.ジュネーヴの改革
ジュネーヴに最初に来たのは1532年であるが、この時は改革に成功せず、1535年再び来て、討論会に勝ち、翌年改革を市会に決議させる。また同年のロザンヌの討論は西部スイスの宗教改革を決定的なものにした。
ファレルはスイスの多くの都市で宗教改革を指導し、成功しているが、ジュネーヴでは戦いの困難さを悟っていたらしい。彼がカルヴァンをこの地に引き留めたのは事態を良く認識していたからである。
4.ヌーシャテルの改革
カルヴァンとともにジュネーヴを追われたファレルはヌーシャテルに行き、終生その地に住む。この地はかつて1529年から31年まで教会改革に携わった地である。宗教改革は成功していたが30年の終わりから31年春にかけてカトリックの反動があり、それに対して宗教改革の確定的な勝利が収められた。
5.ファレルの歴史的意義
彼はフランス人文主義の宗教改革からカルヴァンへの橋渡しとしての意義を持つ。著作が少ないので、神学的評価はしにくい。しかし、無視出来ない人物である。
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