1996・12・09

第8講 ルター派における正統主義の成立

* RGG3 Konkordienbuch, Konkordienformel.(Ernst Wolf) 

* TRE Konkordienbuch, Konkordienformel.(Ernst Koch)

* EKL3 Konkordienformel, Konkordienbuch.(J.Baur)

(1)一般的状況

 1.ルターの死

 ルター派においてはルターその人の存在の意味、したがってそれへの依存度が大きい。ルター派の中では「マルチン・ルター博士」という名が独特の響きをもって語られる。これは改革派の宗教改革における地方分権的指導性と全く違う点である。

 1546年、ルターが死亡し、ルター派教会を纏めて行く指導者がなくなった。それによって直ちに混乱が起こったわけではないが、スケールが一まわり小さくなり、固定化によって教会を防衛しようとする姿勢になる。

 2.メランヒトンの妥協的性格

 メランヒトンは人文主義の出身者であるから、人文主義系統の宗教改革と関係を保てるし、協調的性格の人であった。しかし、その反面、妥協的なところがあり、ルター派における第二位の立場にあるにもかかわらず、ルターの後継者として全教会を率いる力量と信用がなかった。

 メランヒトンへの反発は彼自身の欠陥が招いたものばかりではない。ルター派には人文主義的なものへの反感がある。メランヒトンとその追随者を「フィリピステン」と呼んでこれを排斥する風潮があった。ために、この人たちが改革派に流れる。

 3.ルター派神学者の思想の硬直

 人文主義系統の改革者と比べてルター派の神学者には思考の柔軟性が不足し、閉鎖的であり、ルターが持つスケールの大きさがない。したがって、生産的でない論争が起きやすい。後述する諸種の論争が起こった。

 論争としては発展性が乏しいが、これに収拾をつける努力は誠実に重ねられた。教会の一致ということが重要事項として把握されている。南ドイツの神学者が主に働く。和協信条はこうして成立したのである。

 その誠実さを評価しなければならないが、論争を終息させる論理は形式論理であった。形式論理の導入によって、正統主義が比較的早い時期に出来上がってしまう。さらに、和協信条の成立後、一切の論争の終結を宣言し、以後の論争の発生を封じ、教理を凍結させた。

 したがって、これ以後は教理の発展はなく、神学の営みは既に成立した教理条項を祖述し、解釈を加えるだけのものになる。ただし、それなりの神学的発展は続く。

 4.シュマルカルデン同盟の苦境

 アウクスブルク信仰告白に立つルター派のプロテスタント諸侯は1531年ヘッセン方伯フィリップの主唱のもとにシュマルカルデン同盟を結んで、帝国の権威に対抗しようとし た。それに加わったのはザクゼン、ヘッセン、マグデブルク、ブレーメン、リューベッ ク、シュトゥットガルトである。 

 この同盟の精神的支柱となったのが1537年の初めにルターによって書き上げられたシュマルカルデン条項である。初めこの条項はシュマルカルデン条項という名ではなかった。単に「信仰箇条」と呼ばれた。同盟のための条項でもなかった。むしろ、公会議が開かれることになっていたので、そこに提出し、出席のプロテスタント諸侯の立場をはっきりさせるためのものであった。1537年2月シュマルカルデンに会合を開いて、この条項と、メランヒトンの「教皇の権威と首位権についての小論」とともに採択した。

 条項は3つの部分からなる。第1部は「神の主権の崇高な箇条」と呼ばれるが、むしろ古代教会の信仰箇条である。第2部はキリストの御業と我々の贖いについての条項であ る。第3部は、学識ある人々と議論すべき条項であって、そうでない人とは議論にならない箇条である。罪、律法、悔い改め、福音、小児洗礼、鍵、懺悔、破門、聖別と任職、司祭の結婚、教会、人はどのようにして神の前に義とされるか、修道誓願、人間的規定、以上がその内容である。

 1546-47 年のシュマルカルデン戦争は皇帝軍の勝利に帰した。翌年、皇帝は勝利の勢いに乗じてアウクスブルク・インテリムを課してくる。これについては後述する。

 5.アウクスブルク和議

 プロテスタント側は苦境に立たせられたが、脱落する者はなく、対立関係は膠着状態になる。皇帝側も妥協せざるを得ない。

 1555年のアウクスブルク和議は領邦君主の宗教がその国の宗教となるという原則を確認した。Cujus regio, ejus religio.あるいは、一人の主君のあるところ、そこに一つの宗教がある。Ubi unus dominus, ibi una religio.教会と国家の未分化状況を典型的に示す標語である。

 この原則は1648年のヴェストファーレンの和議で再確認されるものであるが、1555年段階では、認められた宗教はルター派とカトリックだけであった。1648年では改革派も認められる。

(2)トリエント会議

* H. Jedin : Geschichte des Konzils von Trient.I-IV, in 5 Bdn. 1950ff.

 1.トリエント会議の概要

 宗教改革に対するカトリックの反動としては、先ず1520年6月の教皇勅書「エクススルゲ・ドミネ」があるが、これはルターを一方的に誤謬と決めつけるだけのものであった。公会議を開催して宗教の分裂状態に決着をつけようとする要求は改革者からも、帝国側からも、ローマ・カトリック側からもあったが、会議が実際に成立したのは1545年のことであり、参加するのはカトリック側だけであった。プロテスタントは既にカトリックとの話し合いを断念しており、カトリック側には会議を開くやり方と思想への不信感があったから開催準備が遅れた。

 会議を推進した人たちは、カトリック内部では改革的意見を持つ人文主義的傾向の人たちである。しかし、カトリック的改革は改革というよりは反動的なものとして終わり、以後、近世カトリシズムという独特なものを作り上げた。第2ヴァティカン会議以後のカトリックはトリエント会議を修正しようとしていると見られる。

 会議は何度も中断され、1563年まで続く。大きく分けて4つの会期からなる。

  i. 1545-1547 総会第1−第8、聖書論、原罪論、義認論が取り上げられ、宗教改革的理解と真っ向から対立するカトリック的ドグマを確定する。

  ii. 1547-1548 総会第9−第10、会議場をボローニャに移して討論がなされたが結論は一つも出なかった。

  iii.1551-1552 総会第11−第16、聖体、告解、終油、について反宗教改革的ドグマを確定する。

  iv. 1562-1563 総会第17−第25、教理的なことは取り上げられていない。

 2.ルター派教会内の反応

 公会議の開催はルター派が初めはむしろ望んでいた。しかし、会議を開いても宗教改革の断罪しか目的にないことを知って、これに冷淡になる。そして宗教改革的教理に対する反駁がなされても、教理は基本的に確立していたから教会内に動揺は起こらない。

 神学者の間にはカトリック理論に対する新しい反論が呼び起こされる。ケムニッツの反論については先に触れた。特に聖書の正典に関する新しい議論が呼び起こされる。ルター派では聖書のみの権威、その規範性、その真実という条項は和協信条で確認されるが、聖書正典目録は教会の教理条項の中に加えられなかった。これは教会にとっては重要な項目であったはずである。

 なお、改革派においても神学者の反論が行なわれる。教理の公的な表明としては聖書正典の目録を信仰告白に掲げることが1559年の「フランス信仰告白」に始まる。これは改革派についての章に後述する。

(3)インテリムの強制

 1.インテリムという言葉の意味

 ラテン語「インテリム」は「・・・ の間に」という意味である。確定的なものが出来るまでの間に、暫定的に、仮に、定めておくものという意味である。仮信条ないし暫定信条、あるいは仮信条協定と訳せば良いであろう。帝国の信仰的一致を保つために皇帝が発布したものである。

 2.アウクスブルク・インテリム

 * Das Augsburger Interim von 1548.Deutsch und lateinisch. hersg.von Joachim   Mehlhausen.1970.Neukirchen.

 シュマルカルデン同盟を打破した皇帝はその翌48年、26条の仮信条をプロテスタントに課して来た。これは皇帝の命にもとづきナウムブルクの司教で人文主義者でもあるユリウス・フォン・プフルーク(1499-1564)によって作られた。宗教改革側からはヨーハン・アグリコラ(1494-1566)が参加する。アウクスブルク国会で可決されたのでこの名がある。内容26条は次の通りである。

 1)堕落前の人間の状態。2)堕落後の人間の状態。3)我らの主キリストによる贖 い。4)義とされること(justificatio)について。これは単に罪の赦しだけでなく、御霊による更新が結び付いたものとして捉えられる。5)義とされることの益と必要性。 6)義とされる方式、それは悔い改め、信仰、そして希望、愛である。7)愛と善き業である。8)罪の赦しへの信頼。9)教会について。教会は信仰者の交わり、一つの洗礼・一つの信仰によって一つなるものである。これはキリストが首である体、キリストが聖化したもうもの、そこに永遠の救いがあって、教会の外には救いはない。この教会に耳で聞く神の言葉、サクラメント、繋ぎかつ解く鍵、破門権、任職権、教会の職務への召し、規範の制定が属する。ここには聖徒のみでなく悪人も含まれる。10)真の教会の目印、それは金や銀の器ばかりでなく土の器もあり、尊いことにも用いられ卑しいことにも用いられるが(Uテモテ2:20) 、純粋な教理、サクラメントの正しい執行とともに、第3として愛と平和の絆に結び合わせられる一致である。第4に普遍的であること(カトリカ)であ る。終わりの2点が特に大切だとされる。11)教会の権能と権威。聖書に権威があるが、教会はそれを解釈する。また悪人を除外し、人を正しい道に強制する。また疑わしい問題については判定する。12)教会の職務。神から伝えられた教えを人々に説き明かす。その職務のために器を聖別する。13)最高の監督とその他の監督。14)サクラメント一般。 15)洗礼。16)堅信礼。17)悔悛のサクラメント。18)祭壇のサクラメント。19)聖なる塗油。20)叙任のサクラメント。21)婚姻のサクラメント。22)ミサの犠牲。23)ミサにおける聖人の記念、彼らによる執り成しの祈願、要するに聖人への祈り。24)キリストにあって死んだ者の記念。25)ミサに伴う聖体拝領。26)諸儀式と諸サクラメントの実行。祝祭日の規定も含まれる。

 初めの部分は宗教改革の教理的見解を幾分取り入れるが、実際的なことではカトリックの実践の全面肯定である。そして、後段でカトリックの実践を肯定できるように前段の教理には曖昧さを残している。

 3.改定されたライプツィッヒ・インテリム

 ルター派からの抵抗が予想以上に大きかったため、皇帝側は後段については若干の改定を加える。しかし、依然として同意を得ることは出来なかった。

 4.妥協と反発

 妥協したのはメランヒトン派またザクセンの人たちである。その理由付けとして持ち出されたのは、アディアフォラ理論である。アディアフォラとは神の言葉によって命じられもせず、禁じられもせず、それ自体善でも悪でもない無記なものとしての儀式や慣習を言う。この概念はストア学派が言い出したものである。ルター派宗教改革でもこの領域を設定している。ルター自身も礼拝形式の改革を遅らせたし、カトリック時代の服装をなかなか改めなかった。

 妥協した人たちはインテリムの強制する諸事項はアディアフォラであるから、従っても差し支えないというのである。

 反発した代表はアムスドルフ(1483-1565) やフラツィウス(フラツィッヒ)(1520-1575) である。神学的論争としては後述するアディアフォラ論争がある。

 インテリムに対する具体的行動として、彼らは「マグデブルクの告白」によって抵抗の正当性を主張するが、これまたルター派の宗教改革にこれまでにあった傾向に基くものである。すなわち、下級権威が上級権威に対抗することを正当付けるのがシュマルカルデン同盟であった。

 抵抗権の思想はルター派内ではそれ以後発展せず、むしろ改革派の中で受け継がれる。テオドール・ド・ベーズが抵抗権に関するその著作を公刊した時、危険を避けるため、マグデブルク刊行と偽って標記したが、これはマグデブルクの告白の路線を引いていることを表わしたものである。

 仮信条はプロテスタント側から反発を受けるのみでなく、カトリックからの教会に対する皇帝の干渉であるとの反発があって、52年に停止された。

(4)ドイツにおける改革派の浸透

 1.クール・プファルツの改宗

 上述のアウクスブルク和議の項にあった通り、ドイツでは改革派は公認されていなかった。クール・プファルツの領主は領内の聖餐論争の調停のために自ら神学を学んで、カルヴァンの聖餐論を採用し、従ってルター派を離れて改革派に改宗する決断をする。この時に作られたのが「ハイデルベルク信仰問答」(1563)である。

 1566年のアウクスブルク国会でクール・プファルツ領主であるフリートリッヒ3世は改革派への改宗を事実上認めさせる。

 インテリムの後、ドイツではツヴィングリ派と四都市信仰告白派は排除され、シュトラスブルクもルター派に改宗し、ブーツァーは追放された。ドイツのルター派にとってはクール・プファルツの改革派への改宗は大きい脅威と受け取られる。

 (なお、クール・プファルツはその後君主の死去によって再びルター派に戻り、改革派でなくなる。)

 2.改革派神学の影響力

 改革派には学問的訓練を経た指導者が多いため、学問的水準は高く、その理論は論理が明快であって、説得力がある。特に聖餐論と予定論についてルター派神学は改革派の影響を恐れた。これについては後述する。また、1549年にカルヴァンとブリンガーの間に聖餐論の一致が確認されたことは改革派の統一を意味し、ルター派の脅威となった。

 3.メランヒトン派の改革派への接近

 人文主義的傾向の強いメランヒトン派はフィリピストとも言われたが、ルター主義右派との確執に失望して改革派に移る人たちがいた。例えば、V.シュトゥリゲル(後出)、ウルジヌス、オレヴィアヌスがそうである。

 

(5)諸論争

 1.論争の分類

 ルター派内部の正統主義化の過程における論争であるから、主としてルター主義右派とメランヒトン派の間でなされるが、更に詳しく分類すれば以下のようになる。

  i. ルター主義の本質に関わる論争−この分類に入るのは、アディアフォラ論争、反律法主義論争、オジアンダー論争である。

  ii. ルター派対フィリピストの論争−アディアフォラ論争も一部これに属するが、次項の対改革派論争と重なる部分もある。マヨール論争、神人協働論争、キリスト論論争がある。

  iii.ルター派対改革派の論争−聖餐論争、予定論論争である。

2.アディアフォラ論争

 前述の通り、インテリムの強制からこの論争が起こった。受諾する人々(メランヒト ン、ブーゲンハーゲンなど)が礼拝形式はアディアフォラであると弁明したのに対して、フラツィウスは「真のアディアフォラと偽りのアディアフォラ」(1549)において「告白と躓きの事態においてはアディアフォラは存在しない」と主張した。

 ◎和協信条第10条。「外的にはアディアフォラの名と見せ掛けのもとに提示されても、結果的に神の御言葉に逆らう時には、自由な、アディアフォラと考うべきではなく、神に禁じられていることとして避けなければならない」。

 3.マヨール論争

 ヴィッテンベルクの教授ゲオルク・マヨール(1502-1574) 、ユストゥス・メニウス  (1499-1558) はともにメランヒトン派であるが、「善き業は救いに不可欠である」(not-wendig fuer die Seligkeit)と主張し、アムスドルフ、フラツィウスは反発。アムスドルフらの言い分は「更新と義認とは全く別のこと」であり、善き業は有害ですらあると言った。不可欠、必要、必然、せざるを得ないとの主張に対し、善き業が自由、自発的であるとの主張があった。

 ◎和協信条第第4条。「善き業をするようにキリスト・イエスにあって造られる(エペソ2:10) 。・・・・良き業をすることは不可欠であって、それは信仰と贖いに必然的に続く。・・・・しかしここで、業が義認や救いの条項の中に引き込まれ、混同されないよう、十分注意しなければならない。だから、善き業なしに救われることは不可能であるとの見解が却けられるのは当然である」。

 4.反律法主義論争

 1527年に第一期の論争があった。ヨーハン・アグリコラは悔い改めは律法によらず福音のみによると主張する。ルターもメランヒトンも反駁しアグリコラは自説を撤回する。

 第二期は1556年、アムスドルフ、J.メルリン(1514-1571) 、J.ヴィガント(1523-1587) などのルター主義右派の主張に律法の第三用益を無視する議論となって現われる。

 第三用益とはメランヒトンがロキの中で整理した概念であるが、第一用益はウスス・ポリティクスと言い、粗暴な者、不従順な者に外的規制を加えること。第二用益はウスス・パエダゴグス、で人に己れの罪を悟らせ、キリストに連れて来る養育係(ガラテヤ3:24)の機能である。第三用益は御霊によって再生した者における機能である。

 ◎和協信条第6条。「律法がキリスト者や正しい信仰の者に課せられたのでなく、不信仰者や非キリスト者や悔い改めのない者だけに課せられると教えるならば、我々はこれを有害な誤りとして断罪する」。・・・・しかし、この条項において、第三用益の意義はなお不分明なものを残す。すなわち、「信仰者が内に住みたもう聖霊によって、この生において完全にされているならば、律法を必要としない。・・・・・ だが、信仰者はこの生にあっては決して完全に新しくされているのではない。・・・・それゆえ、律法の日毎の教え、勧告、警告、威嚇を必要とする」。

 5.聖餐論争

 聖餐論に関しては、厳密に言うならばルター派の中に種々の見解が併存していた。アウクスブルク信仰告白もヴァリアータを取るかインヴァリアータを取るかで意見は分かれたままであった。ツヴィングリ派とカルヴァン派が聖餐論の統一をつけたことはルター派に大きい刺激となり、諸説の論争になる。メランヒトン派はカルヴァン派寄りであった。

 ◎和協信条第7条は在来のルター派と異なる聖餐理解を却ける。制定語の一切の象徴 的、比喩的解釈を却ける。キリストの体が昇天によって天上に限定されるようになったとの見解も却けられる。キリストの体を口で受け取るのだと取られる。しかし、粗野なカペナウム的解釈は取らない。

 6.神人協働論争

 メランヒトンは回心の原因として、説教され・聞かれた御言葉、聖霊、人間の意志の三つを挙げた。ライプツィッヒのヨーハン・プフェッフィンガー(1493-1573)は人間は純粋に受動的に回心するのではないとし、フィクトーリン・シュトゥリゲル(1524-1569)は自由意志がなくなってしまったのではなく、歪められたのであると論じた。外にもヴィッテンベルクとライプツィッヒの神学部の教授たちが同様の見解で、アムスドルフやフラツィッヒの攻撃を受ける。

 ◎和協信条第2条。

 7.オジアンダー論争

 アンドレアス・オジアンダー(1498-1552) は1550年「義認論」を著わしてルターやメランヒトンの義認論を克服しようとする。それはキリストの神的本質である義が人間に内在するという理解で、もはや義と認められることではなく、義になることである。

 これに対してキリストは人性によってのみ神の前における我々の義であると主張するフランツィスクス・シュタンカルス(c.1501-1574 、当時ケーニヒスベルクの教授) のような人々がいた。

 ◎和協信条第3条。「キリストは神性にしたがってのみでなく、人性にしたがってのみでもなく、両性にしたがって我々の義である」。

 8.キリスト論論争

 これは上記聖餐論争におけるキリストの遍在(ubiquitas)から発展したものであって、メランヒトンに近い人々(P.エーバー(1511-1569) など)からフラツィウス派への反論があった。1568-69 年のアルテンブルク討論会では対立が大きくなった。1571年にはケムニッツが関わる。

 キリストの体が天にあると同時に地にあるならば、天にあるとともに地にあるような体はまことの人性に属さないではないかという。

 ◎和協信条第8条は位格における統一を強調する。そして、カルケドン的キリスト論を援用つつ自説を擁護する。「全能、永遠、無限、本性と本質との属性に応じて、同時に至るところに存在し、自ら現在し、全てを知ることは神性に本質的な属性であって、これらは人性に本質的な属性には決してならない」。・・・・「神性と人性とはキリストの位格において一つとなり、互いに真の交流を持っている」。・・・・「こうしてキリストにおける人性はキリストの職務の遂行に対して、その程度と仕方に応じて併せ用いられ、その効力を持つ」。 

 9 予定論論争

 ルター派部内では論争は起こっていない。1561年、改革派のヒエロニムス(ジロラモ)・ツァンキ(1515-1590)とルター派になったシュトラスブルクのヨハンネス・マールバッハ(1521-1581)の間で争われた。

 ◎和協信条第11条。ルターがエラスムスとの論争において示した強烈な予定論はルター派においては消えている。ルター派の予定論は予知に基く予定、と定義される。

10 ハデス論争

 ハンブルクのヨハンネス・アエピウス(1499-1553)が1544年公刊した詩篇16篇の講解の中でキリストの陰府下降について、これをキリストの究極の受難とし、詳細な詮索をしたため地元ハンブルクで論争が起こった。反対者は陰府下降を陰府に対するキリストの勝利として捉えようとしたのである。

◎和協信条第9条は陰府下降は埋葬の後の段階と受け取る。ただ、下降がどのように起こったかについては理性と感覚によっては捉えられないから、単純に信じる以上に詭弁を弄して論じることはしない。

 11. 原罪論争

 この論争は論争史に言及されない場合が多いが、6の項であげた神人協力論争と本質的に同じである。

 ◎和協信条第1条。

 12. 隠れカルヴァン派論争

 カルヴァン派に好意的なメランヒトン派への悪意をこめた呼び名である。これも独立して論争として扱うべき項目ではない。

 ◎和協信条第7、第8条。

(6)和協信条へ向けての努力

* Spitz/Lohff ed.: Discord, Dialogue, & Concord. 1977.

* Th. R. Jungkuntz : Formulators of the Formula of Concord.1977.                                              1 一致への推進者たち

 ドイツ・ルター派の混乱状態は悲惨なものであったので、それを憂える人も少なくなかったが、収拾をつける学的な力のある人は多くなかった。人材は南ドイツに比較的多い。ザクセン選帝侯アウグストは神学者に要請して教会の一致を回復しようとする。

 ヤーコプ・アンドレーエ(1528-1590)はヨーハン・ブレンツ(1499-1570)の弟子であってその志を継ぎ、一致回復の推進者となり、マルティン・ケムニッツ(1522-1586)、ニコラウス・ゼルネッカー(1530-1592)たちはメランヒトンの感化を受けた人であるが、協力して教会の一致のための神学的努力をした。彼らの努力目標は和協(コンコルディア)すなわち一致と、ルター派教会の純粋教理である。1555年頃から推進される。

 1558年フランクフルトに会合を開き、71年までに6回集まったが成果を見なかった。

 2 一致のための諸条項

 i.アンドレーエによる信条草案「シュヴァーベン・ザクセン和協信条」が74年に書かれ、ケムニッツの改定を受ける。これは長すぎる。

 ii. シュヴァーベンの神学者、ルーカス・オジアンダー、バルタザール・ビデンバッハによって起草されたマウルブロン信条は75年に出来る。これは短かすぎる。

 iii.前二者をもとにしてアンドレーエにより12項からなるトールガウ書が76年に出来た。これが翌年の和協信条第一部になる。

 3.和協信条の成立

 トールガウ書をもとにして6人の神学者が77年の3月と5月にベルゲンの修道院に集まって和協信条を作り上げる。

 この信条が正式に署名されて発効するまでに3年かかっている。アウクスブルク信仰告白50周年記念の年である1580年に和協書(コンコルディエンブーフ)の一部として発刊された。

 

(7)和協信条の内容構成と論理形式 

 1.梗概(エピトメー)と根本宣言(ソリダ・デクララティオ)

 重複した二重構造になっている意味は良く分からない。エピトメーの部分が先に出来、恐らくそれに飽き足りない人がいて、もっと詳しく論証しようとしたのであろう。ソリダ・デクララティオの「ソリダ」は肯定的の意味であろう。すなわち、ここでは否定形で誤謬を述べることなく、肯定的に教理を詳述する。

 エピトメーは各章とも、1)論争の説明、2)肯定、すなわちこの条項に関する正しい教理、3)否定、すなわちこの条項についての誤った教理、という構成になっている。

 肯定・否定とも番号を付した幾つかの短い命題によって構成される。肯定の項においては聖書、教父、そして特にマルティン・ルターの著作からの引用を典拠にしている。

 2.項目とその配列

 1)原罪について。2)自由意志もしくは人間の能力について。3)神の前での信仰の義について。4)善き業について。5)律法と福音について。6)律法の第三用益について。7)聖晩餐について。8)キリストの位格について。9)キリストの陰府下降について。10)人々がアディアフォラと呼ぶものについて。11)神の永遠の予知と予定につい て。12)他の党派と分派について。アウクスブルク信仰告白を受け入れなかったもの。−ここでは、再洗派、シュヴェンクフェルト派、新アリウス派、反三一主義者が挙げられる。改革派に対する非難はここにはない。

 配列は一見雑然としている。体系をなしていないことは確かである。この配列は文書の成立事情によるものであり、このようになったについては理由がある。

 3.論述の形式

 エピトメーとソリダ・デクララティオは論理形式が同じでないが、教理が正しいことを論証しようとするものである。その論証方法はアリストテレス論理学に即する。


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