1996・09・30
* W.Maurer : Historischer Kommentar zur Confessio Augustana,1976,78. (英訳あ
り Historical Commentary on the Augusbug Confession.Fortress 1986 )
* W.Gussmann (hersgg. v.) Qellen und Forschungen zur Geschichte des
Augsburgischen Bekenntnisses. 1911, 1930
* J.M.Reu : Dr.Martin Luther's Small Catechism. A History of its Origine, its
Distribution and its Use. Chicago, 1929.(原文ドイツ語)
* J.M.Reu : The Augsburg Confession;A Collection of Sources with an
Historical Introduction. Chicago,1930. (原文ドイツ語)
* Die fraenkischen Bekenntnisse. Eine Vorstufe der augsburgischen Konfession.
hersgg.v.Landeskirchenrat der ev. -luth. K. in Bayern r.d.Rhs. 1930.
1.ルターの地方巡察
ルター自身の中には、信仰告白の条項を立てて行くのとは違った神秘主義的・直接的・直観的傾向がある。初期においてはそちらの傾向が顕著であった。しかし、やがてその傾向を自ら克服して、信仰の条項を客観的に提示することの大切さを主張する。こうして、教会が建て上げられて行く。
1528、1529年ルターはザクセン地方を巡察し、地方の教会員と牧師の信仰訓練の状態がひどいものであることを知った。これが大小信仰問答を書く動機となったことは良く知られている物語りである。ドイツにおける宗教改革は指導者、また一部の意識ある人によって推進されたのであって、教会員と一般の牧師は十分な理解も認識もなかった。彼らはカトリック教会から横すべりして福音主義教会を名乗るようになっただけである。何を信ずべきかについて殆ど知らないし、牧師もそれを教えることが出来ない。
信仰に認識が伴うことについての自覚は既に25年頃には改革者の間で深められていた。上記の巡察の際のルターの驚きは、実情を初めて知ったというよりは、事態が殆ど改善されていないのを改めて知ったこと、したがってこれを克服する努力の必要を痛感したことを意味する。
2.霊的キリスト教を強調するラディカリズムに対する「言葉」の強調
ヴィッテンベルク騒擾事件によってルターの考えが大きく変わったことを先に述べた。急進派は霊を強調し、霊における自由、霊による改革、霊に基く旧秩序破壊を主張する。ルターたちはそこに危険を見て取る。教会には秩序(職制)があって、神的秩序に則って聖書に基く教理が説かれなければならない、と痛感する。この頃からルターの万人祭司の論調は消えて行く。ツヴィカウの預言者を尊重する急進派の判断の間違いをルターは容易に見抜くことが出来た。職制とは御言葉を中心として理解された。
言葉とは第一義的には神の言葉であるが、神の言葉の強調は信仰告白の言葉、教理規準に則った説教の言葉の強調になる。ルターたちは説教を「外的な御言葉」と呼び、神の言葉の位置に置く。人間の語る言葉が神の言葉の位置を占めるのは、神の言葉を語るべく任職を受けたからである。したがって、務めへの任職、その制度が重要である。
急進派は教理の整備に意を用いない。ルター派は教理を整えることを重要視するようになって行く。以後、ルター派は教理主義的傾向を強める。この点を理解することが大切である。急進派の中でフプマイアーの信仰問答は例外であろう。彼は「すべての人が水の洗礼を受ける前に言えるようになっているべきもの」とこれを定める。再洗派の理解では洗礼は明確な意識をもってなされる誓約を伴うから、洗礼前の教育は重要であった。ただ、彼は本格的にカトリック神学を学んだ神学博士で、再洗派の中でも特殊である。そして彼ほど教育の重要性を考えた指導者は急進派の中には少ない。
3.教会が建ちもし倒れもする条項。Articulus stantis aut cadentis ecclesiae.
霊的なものを強調する人たちは、心情と行ないに重点を置き、教会の存立がそこに懸かっているかのように説く。信仰のみを強調する立場からは、それをしてはならない。教会が立つか倒れるかに関わるのは、偏に信仰であり、その信仰を表明する箇条、また信仰を教える教理箇条である。信仰は神の言葉から生まれる。言葉の説教がなければ信仰は生じない。この務めの意識が確立して宗教改革になった。
信仰的共同体である教会は御言葉によって建つ、との認識が確立し、御言葉が「霊的」という主張を掲げた主観的着想による教えでなく、それ自体秩序を持った、すなわち規準にのっとった教えでなければならないとの理解が進む。
4.教会の一致のための条項
教会は外面的な制度において一致するのでなく、内的な信仰において一致する。その信仰を確認するのは信仰の条項である。同じ条項を持つことの相互確認が信仰の一致になるという意識が明確になって来る。
さらに、この一致は政治的な意味のプロテスタント領邦の同盟の結束の靭帯でもあっ た。カトリック側からの反撃に対し、プロテスタント領邦を糾合して信仰を守ろうとしたのは自然の成り行きである。そしてそのためには、信仰の一致の文書的確認の必要が感じられた。それは「我(我々)は信ず、または「我々は教える」という形をとる。
1.信仰問答の発展
信仰と教育との関係は本来のものであるが、ルター派の中の人文主義系統の人には、教育的関心が強い。人文主義は人を如何に教育して人間たらしめるかを考え、言語教育に力を入れたが、その考えが信仰の教育に適用された。その意図は最初は問答体の信仰教程の形にはならなかったが、如何なる順序で教えるべきか、またどの項目が初歩において教えられなければならない要素であるかを考察した。これは教会の中の新しい意識である。
ルター派宗教改革における信仰問答の発展は1525年に始まる。チェッコのフス派のドイツ語版「キンダーフラーゲ」(1522)の影響を受けて、アルトハーマーが「カテヒスムスあるいはインスティトゥーティオ」を作る(1525) 。これはルター派また人文主義改革者の間に広がり、次々と信仰問答が作られる。急進派の中からは再洗派のバルタザール・フプマイアー(c.1480-1528 )が1526年に信仰問答を作る。これらの信仰問答は信仰規準というよりは、教育目的のために作られたものであったが、内容的に信仰規準と重なるものであり、教理規準としての信仰告白制定の準備作業になったことは否定出来ない。
ルター派の中で作られた信仰問答ではシュヴァーベンのハルの改革者ブレンツのものが最も大きい影響を持った。これはルターのそれよりも前に出来て、ルターに影響を与えたものである。大小の問答を作ったが、小は23問、大は86問である。内容の順序は小においては洗礼、信条、十戒、主の祈り、聖晩餐、大においては、第一部で信条、第二部で主の祈りの条項と十戒の各項を結び付けて説き明かす。
メランヒトンの「エンキリディオン、すなわち年少者の初歩教程」(1524)は、主の祈り、アヴェ・マリア、クレドー、詩篇66(67)、十戒、マタイ5、6、7 、ローマ12、それに少年のための金言集を添える。
ルターの大小の信仰問答は1529年に書かれた。十戒、使徒信条、主の祈りの順序である。これは教理の最小限の理解を与えるものである。その原型「アイン・ベートビュヒリン」(1522)は、十戒、信条、主の祈り、アヴェ・マリアを収める。
2.ルターの個人的信仰告白
信仰告白でも信仰問答でもないが、ルターは1520年に「十戒、信条、主の祈りの短い定式」を書いている。これが後年の信仰問答に発展したと見ることは出来るが、余りにも簡単なものである。
1528年ルターは「キリストの晩餐に関する告白」(Vom Abendmahl Christi,Bekenntnis)の第三部として個人的信仰告白を加えた。これは使徒信条に基く三一論的構成を持った告白であって、呪詛条項は伴うが、信仰義認の条項も含んでいないほどの基本条項だけのものである。ルターが教理を纏めたのは比較的遅いが、この信仰告白が翌29年のシュヴァーバッハ条項起草の基になる。(Clemen.Bd.3,508ff.)
3.アンスバッハ条項(1524年)
南ドイツはドイツの先進地域であり、文化も高い。アンスバッハ=クルムバッハ辺境伯領とその地域にある都市ニュールンベルクはドイツの中で人文主義が進んでいる地域であった。宗教改革ではツヴィングリ派でなくルターの側にくみするが、少しく違う神学形成をする。ルターの改革への好意的決断が1519年に市の書記シュプレンガーによって示されている。1520年にはオジアンダーが司祭になる。またスイスの宗教改革との連絡もあり、1512年以来バーゼルのフランツ・コルプ(1465?-1535) がニュールンベルクの修道院にいて影響を与える(彼は後にベルンの宗教改革をハラーとともに指導する)。この地方の宗教改革の特質は聖書への忠実であった。南ドイツに今もある聖書主義はその時以来のものであろう。
1524年夏、23箇条のアンスバッハ条項が作られる。1523年のチューリッヒの67箇条の影響を受けたのではないかと思われる。その内容は以下の通り。1)七つのサクラメントへの反論。2)告解の規定の廃止。3)罪を赦しあるいは繋ぐ教皇と司教の権能の否定。 4)免償の否定。5)二品による聖晩餐。6)キリストの体のサクラメントをみだりに持ち回ることへの反対。7)ミサにおけるキリストの体の奉献の廃止。8)ラテン語典礼の廃止。9)洗礼をドイツ語で行なう。10)司祭の結婚禁止を廃止。11)血族結婚その他についての教会の許可権を廃止。12)修道士の誓願の撤廃。13)説教と聖礼典の務めのためでない司祭の絶対的任職の廃止。14)救いのためにはキリストへの正しい信仰と信頼のみが必要なこと。15)人間の意志が善でも悪でも自由に行なうことが出来るという見解に反対。16)マリヤ、使徒、及び他の聖人が執り成しをするという教えに反対。17)教会に聖像を置くことへの反対。18)教会において行なわれる諸儀式の検討。19)ローマ教会が定めた祝祭日の検討。20)金曜日に肉その他を食べることを禁じる規定に反対。21)まことの教会は御霊と信仰に立ち、キリストの体であり、キリストのみを頭とする。22)神の言葉に基かない規定に従う必要なし。23)聖書が教会によって説き明かされなければ誤りになるという主張への反論。
同年9月30日、福音主義側とカトリック側とから意見書が出され、対論がなされた。
4.ニュールンベルク条項(1525年)
翌年2月ニュールンベルクの牧師たちによる12箇条の条項が作られる。上記のアンスバッハ条項の改定ではなく、これに含まれる大部分の条項は聖句そのものである。そして、条項は説教者に関するものばかりである。この二つを纏めてフランケンの条項と呼ぶ。
その条文を挙げると、1)主キリスト自らヨハネ16章で言われる。聖霊が来たならば、罪と義と裁きについて世を罰するであろう。罪についてというのは彼らが私を信じないことである。義についてというのは私が父のもとに行き、あなたがたは私を見なくなることである。裁きについてというのは、この世の君が裁かれることである。それゆえに、聖霊の器であるべき全てのキリスト教的説教者は初めに先ず、罪が何であり、人々が罰せられることを示すべきである。2)パウロはローマ書3章で、律法によっては罪の認識が来るのみである、と言い、7章に、律法によらなければ私は罪を知らなかった、という。しかも、理性は律法によって義が来ることを理解する。それゆえ正しい説教者はなにゆえ律法が与えられたか、如何に用いるべきかを示さなければならない。3)聖霊は次に、世を義について罰するのであるから、如何なる義が神の前に認められるかを熱心に示さなければならない。4)パウロはローマ書1章で、神の前で通用する義は福音を通じて現われ、その義は信仰から来て信仰へ至らせると言うのであるから、キリスト教的説教者は福音が何であり、いかにして義に役立つか、すなわち、それが人のうちに生じる実りが何かを示さなければならない。それは信仰と希望と愛である。5)聖霊は第三に、世は裁きについて罰せられ、この世の君はその全ての属する者とともに罰せられると言われる。そのうちには古きアダムがあり、これは既に裁かれた。また我々がいるが、我々はUコリント3章のいう死に同意する死の務めを帯びる律法によって罪を知り、それによって罪から義と認められたのであり、また、ローマ書6章にいうように、洗礼によってキリストの死のうちに葬られたのであるから、学識ある説教者は洗礼が何であり、何を意味し、我々のうちで如何なる働きをするかを示さなければならない。6)洗礼は我々をキリストの死に合せて葬り、それによって古き人は死に絶え、数々の試みをなす禍いな分派はこの死によって葬られるのであるから、福音的説教者は神の言葉がこの死について何を教え、また分派を避けなければならぬことを最も純粋に、最も明快に、最も勤勉に示さなければならない。7)義はキリストのみが御父の前に得たもうたもののうちにあるのであるから、我々は彼にあり彼は我々にあらねばならない。見ることも把握することも出来ない御父には他の方法では行くことが出来ない。それ故彼はまた、あなたがたは間もなく私を見なくなると言われる。しかし、彼とのそのような交わりの徴し、また信仰者における確証として祭壇の聖礼典がある。それゆえ、勤勉な説教者はこの聖礼典が如何なるものであり、我々のうちに如何に働くかを示さなければならない。8)キリストはヨハネ伝15章で、私にとどまる者、私がそのうちに留まる者は多くの実を結ぶ、また、あなたがたは人々をその実によって知るべきである、と言われる。それ故、注意深い説教者は、正しい実が何であり、良き行ないが何であるか、また行ないによって義に至るのか、義によって良き行ないに来るべきかを熱心に示し、かつ明らかにしなければならない。9)キリストはマタイ伝15章で、人間の教えに過ぎぬものを教えるのであるから、彼らは私をむなしく礼拝する、と言われた。それ故、有益な説教者は、人間の教えが何であり、それをどこまで守るべきか、また守ってはならないかを勤勉に示し、かつ明らかにしなければならない。10)不幸な人たちが弁えある人々の間にある人の立てた制度を一切却け、神によって定められた公権力を侮っているゆえに、平和な説教者は公権力に人はどこまで服従すべきかを熱心に教えなければならない。11)我々は神の言葉を単に説教によって教えるだけでなく、範例をもって教えねばならず、人は偽りの説教によって惑わされないのみならず、禁じられたことを強く退けなければならないから、注意深い説教者は躓きとは何であり、如何にしてそれを避けるかを最も熱心に示さなければならない。12)パウロは、姦淫者や淫蕩の者は神の国を継ぐことはない、と言い、キリストは純潔の言葉を全ての人が受け入れるのではない、と言われたのであるから、教会の仕え人は結婚して良いし、姦通した者の夫になることを避けるならば、再婚することが出来る。
5.フランケンの宗教改革の影響
初期に教理条項を何も持たなかったルター派宗教改革が、それを持つようになった要因の一つとして、アンスバッハとニュールンベルクの条項の影響を考えなければならない。(南ドイツにはその理解があるが、ルター派では一般にそれは重要視されていない)討論のために提題を整理することは中世以来の学問のしきたりであって、ルターの九十五箇条提題が既にその方法を取っていたが、教会改革の条項を提題とするものはなかった。改革すべき点を列記する条項はチュ−リッヒとフランケンから来た。
アンスバッハ条項にはチューリッヒの六十七箇条の影響がある。また、ニュールンベルクの十二箇条が後年のベルンの条項(1528) につながることは確実である。ドイツとスイスの宗教改革は別々のもののように見られるが、南ドイツを媒介とした相互の影響があ る。
6.シュヴァーバッハ条項
ルター派宗教改革はザクセンに始まり、ザクセンの領主の支持のもとに発展したが、他にも宗教改革を意図し、着手している領邦があった。これらの領邦を糾合して統一をつけるためには、信仰を規定した文書を作る必要があった。1529年6月、コーブルク近郊ローダッハで会合を開き、そこで同盟を結ぶ予定であったが、ヘッセンの反対があって8月にシュヴァーバッハで開くように延ばされ、この時はまたザクセン側の要求で更に10月迄延期された。この会合のために用意されたものがシュヴァーバッハ条項と呼ばれるもので、7月には出来ていた。この文書が正式の文書として認められたかどうかは不明である。ザクセンとブランデンブルク、アンスバッハは同意し、ヘッセンは加わらなかった。シュトラスブルクとウルムはこの条項を拒絶した。ザクセン侯はこれを自分の信仰の表明として皇帝に提出した。
この条項作成に携わったのはルターとメランヒトンを主とするヴィッテンベルクの神学者たちである。ツヴィングリ派の意見は排除された。ルターの1528年の「キリストの晩餐に関する告白」に加えられた個人的信仰告白とメランヒトンの「キリスト教教義の提要」が取り入れられている。
内容は次の通りである。1)神について、三位一体について。2)神の子の受肉について。3)神の御子の苦難について。4)原罪と全ての罪を苦難を通して取り去りたもうたことについて。5)義認について。6)そのような信仰が説教を通じて与えられることについて7)信仰が神の恵みの賜物であることについて。8)洗礼と聖餐の外的な徴しが説教とともに信仰を養うことについて。9)洗礼について。10)聖餐について。11)懺悔告白について。12)教会について。13)キリストの再臨について。14)この世の主権について。15)修道院について。16)ミサ、祝祭日について。17)カトリックの儀式の否認。
これの第10項を挙げておく。
聖餐あるいは祭壇のサクラメントは、二つの部分からなる。すなわち、(1)
パンと葡萄酒のうちにキリストのまことの体と血が「これは私のからだであ
る」、「これは私の血である」との御言葉にしたがって、真実に現臨するの
であって、反対側の者らが今主張しているように、単なるパンと葡萄酒では
ない。(2) またこの御言葉は、このサクラメントを願いそしてこれに逆らわ
ない者に、信仰を促しかつ齎らす。丁度、洗礼がこれを願う者に信仰を齎ら
しかつ付与するのと同じである。
7.マールブルク条項
ヘッセンの領主はツヴィングリ派をも包含する同盟を考え、その基礎となる信仰の条項を作ろうとし、1529年10月ヘッセンのマールブルクに両派の会談を招請する。会談は決裂に終わったが、聖餐論の1条項を除けば、後の点では一致出来たのである。マールブルク条項はシュヴァーバッハ条項をもとにして、ルターによって作られ、14項目を引き継いでいる。
マールブルク会談が喧嘩別れのようになったと語られることが多いようであるが、それは余りに大きい誇張である。ルターとツヴィングリが握手しなかったことは事実らしい が、彼らはみな署名したのである。一致出来なかった第15項も幾つかの点では一致している。署名したのは、ルター、ヨナス、メランヒトン、オジアンダー、ブレンツ、エコランパディウス、ツヴィングリ、ブーツァー、ヘディオである。
内容は次の通りである。1)唯一にして三一の神、ニカイア信条への同意。2)御子の受肉。3)イエス・キリストが苦しみを受け、死して葬られ、復活し、昇天し、神の右に座し、生ける者と死ねる者を裁くために来たりたもう。4)原罪の故に全ての人はキリストの助けなしには永遠の死に渡されている。5)神の子キリストが我々のために死にたもうたことを信じる者は永遠の死から救われる。この信仰以外、如何なる業も地位も罪から解き放つことは出来ない。6)そのような信仰は神の賜物であり、我々の業や功績によって獲得するものでなく、聖霊が与え、創造したもうものである。7)この信仰が神に対し我々の義であり、これの故に神は我々を義、敬虔、聖なる者と算定したもう。8)聖霊は先行の説教、あるいはキリストの福音なしには信仰あるいは霊の賜物を与えたまわず、口頭の御言葉を通じてまたそれとともに働いてその欲したもうところに信仰を作り出したもう。9)洗礼はそのような信仰に対し神によって制定されたサクラメントである。これは単なる合言葉や徴しでなく、我々を新たに生まれさせる神の業の徴しである。10) そのような信仰は聖霊の働きによって来たり、それによって我々は義また聖と認められ、またそのようになる。聖霊は我々を通じて良き業すなわち、隣り人への愛を行なわせ、神に祈らせ、さまざまな迫害を忍ばせる。11)懺悔あるいは牧師との相談は自由である。12)上にある権、この世の法律、裁判、秩序は良きものであって、ある教皇主義者や再洗派の説くように禁じられるものではない。キリスト者はキリストを信じる信仰によって召された所において祝福されてあることが出来る。父、母、主人、主婦等の立場についても同様である。13)神の言葉にあからさまに反する人間的制度を伝統からは自由である。14)小児洗礼は正しいことであって、これを通じて小児は神の恵みとキリスト教的宗教に受け入れられる。15)聖餐論。これについては前回の講義で述べたから、ここでは繰り返さない。
8.トールガウ条項(1530年)
ザクセン侯は顧問官ブリュックの助言に従って、実際に行なわれている改革の神学的根拠付けを条項とするよう、ルター、ヨナス、ブーゲンハーゲン、メランヒトンに命じ、主にメランヒトンが作成した。これがトールガウ条項で、アウクスブルク信仰告白の第二部の材料となる。ニュールンベルクの条項が影響したと考えて良いであろう。
内容は大きく8つの部分に分けられる。1)信仰と業とについて(この部分はCA20の原型であるとの説と、本来トールガウ条項の一部ではなかったという説がある)。2)聖徒達に祈ることについて。3)聖晩餐の二品について。4)聖なる結婚について。5)懺悔について。6)人間の教理と人間の秩序について。7)修道士の誓願について。8)鍵の権能について。
1.神聖ローマ帝国はその存立の根底を神に置くという思想に基いて立っているから、領民が如何なる宗教を信じるかは大きい問題である。しかも帝国と結び付く宗教としてはローマ・カトリックしか考えられていない。宗教的分裂は帝国の存立を危くする。
2.急進派は国家と教会の分離を主張するのであるから、自己の信仰の認定を帝国から得たいとは考えない。しかし、ルター派、ツヴィングリ派、ブーツァー派はまだ国家と教会の分離を考えるところに至っていない。彼らは自分たちの信仰の正当性を帝国に認めさせようとする。
近代的国家観においては、国家権力には宗教上の事柄についての判断機能がないとする原則が立てられている。したがって国家に宗教の正当性を認めさせることは全く期待しない。宗教改革時代には、国家にその機能があるのは自明と考えられていた。
3.帝国の権力に自己の信仰を認めさせようという考えには克服されなければならない問題性が含まれる。(近世の思想は教会と国家の分離という原理によってこれを克服しようとした)だが、同時に考察して置きたいのは、権力との関わりを失うことによって、権力に対し、真実の主権がキリストにあることを知らせる働きかけを止めて良いかという問題である。
4.帝国に対して信仰を表明することは、信仰の問題に関しても帝国に服従することを示すかのようであるが、それだけではない。服従の規定は服従の限界の規定を含まずにはおられない。また、帝国の権力に告白を提示することはプロテスタント諸侯の帝国に対する抵抗の権利を含蓄するものである。
1.ルターは帝国追放中の身であるから、アウクスブルクに行くことを差し控え、メランヒトンが代表して行く。
2.メランヒトンは前年のシュバーバッハ条項、マールブルク条項、トールガウ条項をルターとともに作成したのであるから、ルターの意図と全く一致して新しい信仰箇条を書くことが出来た。メランヒトンはルターと文通して連絡は良く取れている。
3.信仰告白の提出に対して帝国は対応が出来なかった。いずれプロテスタントも加わった公会議を開いて決着をつけるほかない。しかも、公会議は当分の間、到底開ける状況ではなかった。したがって、この文書は宙に浮いたのである。提出された原文も失われてしまった。
4.アウクスブルク信仰告白のテキストは正本としては失われ、流布本はメランヒトンの記憶に基く復元になるものである。したがって、国会に提出されたものと完全に同じでないことがあり得るし、テキスト批判の問題は何時までも残る。教理史の課題としてはそこまで負わせられていないと考えるのが妥当であろう。ただ、メランヒトンの性格とし て、一旦書き上げた文書を比較的自由に書き換えることが出来たという問題は考慮して置いて良い。
正本はラテン語とドイツ語の二本ある。両者の表現が厳密に言って一致しない個所は少なからずある。アウクスブルク信仰告白の内容は次回に触れることにする。
1.6月25日、この告白は会議場で、ドイツ語で読み上げられた。反対側の人々のうちにも、これが真理以外の何物をも含まないと感じた人もいるが、皇帝はこれを否認し、カトリック神学者二十人に反論を書くことを命じた。
2.アウクスブルク信仰告白に対し、ヨハン・エックを代表とするカトリック神学者が「コンフタティオ」を書く。
3.今日のカトリックはアウクスブルク信仰告白を認めるようになっている。
1.確定の手続き
アウクスブルク信仰告白がルター派の宗教改革の告白として自他ともに認められ、広く普及したのは確かであるが、教会の正式文書としての確認の手続きはどうであったか。
帝国国会に提出された時、七つの領邦の君主と二つの帝国都市の代表とが署名した。これらの政治的首長は教会を代表しているのであるから、この文書は教会の公的文書とな る。教会会議による確認ではなかった。
2.ヴァリアータ
メランヒトンはアウクスブルク信仰告白の表現が人文主義系の改革者に受け入れられ ず、これを改正すれば受け入れられると知ったので、改訂版を作る(1540) 。彼はこれをカトリックとの対論に用い、南ドイツの都市宗教改革との協定にも用いた。1541年のレーゲンスブルクの会議ではカルヴァンはシュトラスブルクを代表してこれに署名する。
訂正個所は夥しいが今は全てに触れることは出来ない。第10条を比較して見よう。
□ インヴァリアータ □ ヴァリアータ
主の晩餐については、次のように教えら 主の晩餐については、次のように教えら
れる。キリストの御体と御血は主の晩餐 れる。キリストの御体と御血はパン及び
において、食する者たちに、真実に現臨 葡萄酒によって、主の晩餐を食する者た
し、また分配される。これと異なる教え ちに真実に示される。
をする者は否認される。
聖餐の条項の比較は以上の通りであるが、これだけでは改定点は明白でない。改定本文はメランヒトン流に全面的に書き改められている。ヴァリアータは、ブーツァー、カルヴァンの説を受け入れたわけではないが、彼らが受け入れることが出来るように表現を改めた。特に後半において著しい。保守的ルター派にとっては反発を感ずる点が多かった。
3.改定以前への逆転
ヴァリアータに対する反動があらわになったのは、1560年以後、改革派の進展への対抗意識から、ルター派の中に正統主義が強まり、反メランヒトンの傾向が起こってからである。1580年の「和協書(あるいは一致信条書)」では「インヴァリアータ」が規準であるとされた。爾来、ルター派ではヴァリアータは研究対象としても殆ど顧みられず、ただ、ドイツの改革派はこれが一時的であったにもせよ、改革派の信仰告白であったことから、無視できないと見る。
1.ツヴィングリ派の「フィデイ・ラティオ」
ツヴィングリの項で述べたとおりである。聖餐論ではルター的見解に対する攻撃的な批判が記される。国会では問題にされなかった。
2.ブーツァー派の四都市信仰告白
これもまた十分な準備なしに書かれた文書であって、アウクスブルク信仰告白が出来てから、それを踏まえて作られた。四都市とはシュトラスブルク、コンスタンツ、メミンゲン、リンダウである。その同盟は緊密ではなかった。シュトラスブルク自身が1548年のインテリムの後、ブーツァーを追放し、改革派宗教改革から脱落してルター派に転じるほどであるから、生命の短い信仰告白であった。
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