1996・07・22

第5講 ルター派とツヴィングリ派との聖餐論における決裂

(1)ツヴィングリの宗教改革とルターのそれとの相違

 1.都市の宗教改革

 ルターの宗教改革はドイツの農村を主とした封建社会を背景に行なわれたのに対し、ツヴィングリはスイスの都市チューリッヒで宗教改革を始めた。チューリッヒはドイツ帝国の中のスイスにある都市である。チューリッヒの宗教改革に同調した都市はバーゼル(その指導者はエコランパディウス、1529年に宗教改革)と、ベルン(指導者はコルプとハラー、1528年に宗教改革)である。ザンクト・ガルレンが宗教改革に加わるのは1534年、ジュネーヴは1536年、ロ−ザンヌも同年である。

 スイス中部の山岳郡ウンターヴァルデン、ウリ、シュヴィッツは13世紀末から自治権を与えられ、同盟を作っていたが、これに加盟する地域は次第に広くなり、チューリッヒとベルンが加盟したのは14世紀の半ばである。バーゼルの加盟は15世紀である。これらの都市は中世末期の商業の発展によって生じたもので、市民の代表が統治する。これらのスイス諸都市が発展したのは水陸の交通の便の良いところに位置しているため、アルプスの山越えの貿易の中継地となったからである。都市相互間に連絡があり、多くの都市は宗教改革に加入する。そして山岳郡はカトリックに留まる。

 カトリック時代のチューリッヒはコンスタンツの司教に属する。(コンスタンツは南ドイツの帝国都市であり、スイスではない。スイス都市の同盟には加わらなかった)。スイス人はローマ教会に代々忠誠を尽し、教皇庁の軍隊にスイスの壮丁が提供されていた。コンスタンツも宗教改革に加わるが(指導者アンブロシウス・ブラウラー†1546、1528年にシュトラスブルクの宗教改革に近い関係に立つ)、スイス都市とはやや距離を置く。

 なお、スイスの都市はドイツの帝国都市とは国内における政治的性格が違う。しかし、南ドイツの都市と共通する文化を持ち、宗教改革の運動では似た面を示す。南ドイツの宗教改革は一般に余り重要視されないが、重要である。

 スイスの宗教改革は、ドイツにおける宗教改革が封建制のなお濃厚に残る領邦を地盤として成立したのとはいろいろな面において違っている。すなわち、

 i .住民の政治参加の意識が違う。封建制のもとでは住民は支配層に支配と防衛を委託し、支配者と生産者の間に契約が結ばれる。それに対し都市においては、市民が自ら治める。教会政治にも教会員が参加する形態が生まれる素地がある。

 ii.都市には富とともに情報が集まるので、都市住民の方が知的関心が高い。したがって、都市宗教改革は人文主義の指導下に遂行されることが多かった。スイスの宗教改革は全く人文主義系のそれである。

 iii.都市部と農村部との関係について言えば、スイスでは都市は周辺の郡部と結び付いている。スイスの人民の自治権は都市発生以前からのものである。

 iv. ルターの宗教改革においては初期にはこの世の政治権力との関わりを持たず、ザクセン領主の保護を受けてのち領邦教会という発想が生まれる。都市宗教改革においては、初めから都市の自治的政治機関の決定によって路線が決まるが、都市の政治権力と結び付こうとする企てがあったわけでは必ずしもない。したがって、政治権力と結び付くのが自明のことであると考えるのと、その関係を疑うのと二つの解釈が生まれる。

 2.人文主義の宗教改革であること

 ツヴィングリはエラスムスの感化を受けた人文主義者であった。チューリッヒには彼と同じような人文主義の学者が何人もいた。人文主義者であるから、信仰の理解は合理的かつ論理的である。非合理性や非論理性を受け入れる余地はない。ルターは人文主義とは異なる道を進んだ。ルターも大学人であるから人文主義については知っているが、これを受け入れようとしなかった。人文主義者の側からもルター批判がある。人文主義とルター主義の違いは、エラスムスとルターの決裂において象徴される(1524/25)。チューリッヒに限らず、都市の宗教改革において指導者は例外なく人文主義の出身者である。

 ルターの宗教改革と人文主義の宗教改革との違いの基本的な点は、前者においては聖書的であるとは、聖書的なあるメッセージが特定の教理条項に結び付くことであるのに対 し、人文主義出身の宗教改革者においては、聖書の教えの全般を万遍なく受け入れようとするにある。聖書の扱いがルターにおいては中世的であった。

 人文主義宗教改革についてはフランス系宗教改革を論じる所で再び取り上げるが、ルターのそれとは別個の歩みをする。スイスの人文主義宗教改革は、最初から明快な理論を掲げ、聖書釈義に立ち、また具体的問題についてもはっきりした変革をしている。

 3.ルターの影響およびそれへの反発

 ツヴィングリがチューリッヒで改革を始めたのはルターの勇気ある行動に触発されてであった。しかし、ルターから受けた理論的影響は余りない。ツヴィングリは人文主義的探究によって宗教改革の原理を把握したと言っている。

 けれども、ルターとツヴィングリが思想的に悉く対立的であったと見るのは誇張であろう。対立したことは事実あるが、神学的に見て本質的には一致している多くの点を見落としてはならない。

 と同時に、相当な距離があったことも無視出来ない。カトリック教会の現状に鋭い批判を持ちつつ、ルターへの反発の故に宗教改革に踏み切らない人は当時人文主義者のなかにかなりいたことは事実である。

(2)ツヴィングリの宗教改革の展開 

 * 宗教改革著作集 5、6「ツヴィングリとその周辺」(1)、(2)(教文館)

 * ビュッサー、森田訳「ツヴィングリの人と神学」(新教出版社)

 * Locher:Zwinglische Reformation im Rahmen der europaeschen Kirchen-

     geschichte

 1.チューリッヒ以前

 ツヴィングリの宗教改革的言動は彼がグラールスの司祭であった時、スイスの壮丁がローマ教皇庁の兵隊になることへの反対論説に始まる。教皇軍が敗北してスイス人の兵士が多く死傷した事件(1515) に触発されたのであるが、ここには人文主義的キリスト教に根ざす理想主義的平和主義がうかがえるとともに、教皇が世俗権力を持つことへの反発がある。

 次いでアインジーデルンに移ってからは、その地に来る迷信的巡礼に反対する説教をする。しかし、宗教改革的説教によって教会の改革に着手するのは、1518年の終わりにチューリッヒに行ってからである。

 2.チューリッヒの改革

 チューリッヒの宗教改革は聖書の連続講解説教から始められる。この段階ではツヴィングリの説教はチューリッヒにおける一つの主張に過ぎない。この状態に決着を着けるの が、1523年1月29日の討論会で、このために六十七箇条提題がツヴィングリによって書かれた。六十七箇条は信仰条項のみでなく、教会の具体的諸問題を網羅する。この討論はツヴィングリの一方的勝利に帰し、チューリッヒ当局は宗教改革に踏み切る。ただし、ミサの廃止は1525年3月のことである。

 六十七箇条は聖書を前提とする提題であって、聖書に基く適正な反論によってのみ訂正されると先ず確認された。第一条も、福音が教会に依存するのでなく、教会が福音に依存することを主張している。この67箇条(Schlussredenとも呼ばれる)についてツヴィングリは7月に詳細な解説書を書き上げる。

 都市の宗教改革はどこでも、市参事会すなわち都市における世俗権力の主導権のもとで行なわれる。後年ジュネーヴの宗教改革が行なわれる時には市民総会の決議によって最終決断がなされたのであるが、チューリッヒでは市民総会は開かれていない。第2回の討論会に政治権力に任せることが少し問題になり、第3回討論会が12月に開かれる。再洗派は分離して行く。

 再洗派の分離はチューリッヒ宗教改革の本格化の時期と重なる。宗教改革の防衛のためツヴィングリには再洗派に対する過剰反応が起こった。

 3.六十七箇条の内容

 最初の部分(1-16) は基本的なことである。17は教皇について。18はミサについて。19-21 は諸聖人の執り成しを否定する。22善き業について。キリストが我々の義であり、キリストから出た限りの業は善く、自らのものである限り悪である。23、キリストの御名において富を己がものとする聖職者の財産を否定。24、食物の禁止の否定。25、祝祭日と巡礼について。26、祭服、聖職者の徴しや服装。27、修道会が父と呼ばれる者を頭とすることの拒否。28-29 、聖職者の結婚。30、貞潔の誓約。31-32、破門。33、正当な占有権のない財産は困窮者のものとなる。34-43、為政者。44-46、祈り。47-49、躓き。50-56、罪の赦 し。57-60、浄罪火。61-63、司祭職。64-67、悪弊の是正。

 教理条項の整備はまだ出来ていない。これらの条項は信仰箇条でなく、多くは実際問題の改正点であり、教理上の改正意見が混じる。この六十七箇条と1524年のアンスバッハ条項23箇条(次回講義参照)、1529年のシュヴァーバッハ条項、マールブルク条項を比較すれば、信仰箇条が整備されて行く経過が分かる。

 4.全面的改革

 チューリッヒの宗教改革は、決断された最初から、基本的原理を踏まえた全面的な教会改革になり、全ての面における整備が急がれる。ツヴィングリ自身多面的な活動をする。説教者、神学者、聖書翻訳家、教会法制定者、政治的指導者、さらに従軍牧師として活躍する。

 ルターの改革は、本質的なものと、さほど重要でないもの(アディアフォラ)を区別する。しかも、外的なものはアディアフォラとして扱われ勝ちである。したがって、外面の変革にはなかなか達しない。改革派は一般にそれと対照的である。

 礼拝形式の改革、教会の外的形態の改革はツヴィングリ派の特色と言えよう。神の言葉に基かない教会法は悉く廃止され、新しくされる。神の言葉にそぐわないものは取除かれる。例えば、修道院、聖像、食物についての規定、独身の規定、讃美歌まで廃止された。神学教育機関は1525年に発足する。これは後年チューリッヒ大学神学部になる。

 「プロフェツァイ」(預言)という聖書研究が毎木曜日に行なわれる。これが積み上げられてチューリッヒ聖書(1530) が完成した。預言と呼んだのは、新約聖書の教会でなされた預言がこういうものだと考えられたからである。

 「エーエゲリヒト」(結婚法廷)という機関が設けられ、結婚の問題を扱う。これは信徒の中のなかのギルドの代表者、それに牧師が加わって構成される。カトリックで結婚が教会法の事項であったのを宗教改革は否定したため、結婚が法的根拠や法的保護をなくしたので、教会的機関が必要になった。これが宗教改革を行なった多くの都市に受け入れられ、コンシストリウムと呼ばれることが多かった。小会の原型である。

 チューリッヒの宗教改革が始まった後、カトリックとの本格的討論が1526年アールガウのバーデンで行なわれ、カトリックからはエックが立ち、スイスの福音主義を代表してバーゼルのエコランパディウスが出た。ツヴィングリは危険なので出席しなかった。

 5.教理の性格

 聖書にしたがった宗教改革であるから、教理条項には特異なものはない。ルターの場合のように信仰義認を特別に重視するということはなく、聖書的教理を万遍なく叙述する。また、古代教会の基本的教理は受け入れている。すなわち、三一論と、キリスト論(両性の位格的統一)、また原罪論である。

 教理上の論争となったのは、洗礼論と聖餐論である。洗礼論は再洗派との、聖餐論はルター派との対決においてその特色を打ち出した。

 ツヴィングリの教理を纏めて提示したものとしては、1523年の「キリスト教信仰入門」(六十七箇条の解説)と1530年のアウクスブルク国会に提出した「フィデイ・ラティオ」(信仰の弁明)が代表的である。

 「フィデイ・ラティオ」も信仰告白としては十分に整った構成を持っていない。内容項目を概括すれば次の通りである。 

 1)神の唯一性と三一性、一位格における両本性。2)自由意志の否定。3)和解と救いの唯一の道キリスト、御子によって救われんがための選び。4)原罪。5)信ずる者の子は罪の呪いの中にいるのではない。6)教会、永遠の世継、普遍的で可視的。7)聖礼典は恩寵を運搬するものではない。証しであり比喩である。8)聖晩餐について。9)儀式、聖像。10)説教の務め。11)為政者について。12)浄罪火は作り事である。

 6.他のスイス都市への影響

 当時スイス諸都市の中ではツヴィングリが最も大きい影響力を持っていた。バーゼルおよびベルンが加わる。後にザンクト・ガルレンも加わる。ただし、諸都市は同盟関係であって、支配関係ではない。そのように、ツヴィングリの指導力も他の都市を支配するものではなかった。他の都市には実力のある指導者がいて、それぞれ或る程度独自性を持ちながら協力していた。

 7.チューリッヒ宗教改革における教会と国家

 * 出村彰「スイス宗教改革の研究」(日本基督教団出版部)

バーゼル(エコランパディウス)とチューリッヒ(ツヴィングリ)の違いがある。教会と国家の関係の把握の違いである。チューリッヒでは国家が教会を丸抱えする方式を取 り、バーゼルでは教会が国家から自立して教会固有の職責を履行しようとする傾向を有する。ベルンはチューリッヒに倣う。後年、ジュネーヴはベルンに反発し、バーゼルの路線を行こうとする。チューリッヒのこの方式は後年、この都市の出身者であるトマス・エラストゥスによって各国に広められる。

 8.ツヴィングリの洗礼論

 洗礼論では、サクラメントの象徴的理解が作用しているため、弱い。しかし、キリスト教的共同体維持の上での小児洗礼の意義が大きいので、ツヴィングリはこれの伝統を固守する。その際、旧約における契約の印たる割礼を継承するものとしての新約の洗礼を強調し、契約概念を強調する。以後、改革派の神学においては契約が重視される。ただし、契約概念は急進派から示唆されたもののようである。

(3)聖餐論における分裂の過程

 * 文献、渡辺信夫「カルヴァンの教会論」pp.178-194にある「補説十六世紀聖餐論争史」を見よ。重要な文献はそこに挙げられる。漏れている文献として次のものがある。著者はルター派の立場を堅持するが叙述は平明である。

 * H.Sasse:This is My Body; Luther's Contention for the Real Presence in the Sacrament of the Alter. Minneapolis,Augsburg.1959.

 ツヴィングリはルターと聖餐論の一点で対立した。この一点は全体における相違を象徴的に現わすのであるが、我々は教理条項を取り扱うのであるから、この条項を主に見たい。先ず、聖餐理解の幾つかの型を見よう。

 1.カトリックの聖餐理解

 i . 本来の聖晩餐がミサに置き換えられる。ミサ(ミサ聖祭、あるいはミサの犠牲)とは、キリストの十字架の犠牲の継続であると言われる。キリストの体なる教会はキリストの体を捧げ続けることによってキリストの体たり得ると主張される。すなわち、キリストの犠牲の一回性・完結性は否定される。また、聖晩餐における杯は信徒には与えられなくなる。

 ii. 古代教会においては聖餐のパンと葡萄酒がどうしてキリストの体また血になったかの議論はなされない。人々は素朴にパンをキリストの体、葡萄酒をキリストの血と受け取った。そこには迷信の忍び込む余地があり、人々は聖晩餐のパンを不死の薬だと受け取った。

 iii.アウグスティヌスがプラトン哲学を用いて、聖晩餐における徴し(signum) と事柄そのもの(res) を区別する。しかし、哲学的思考に馴染まない人々にとってはこの理論は難解であった。

 iv. 中世初期における化体説、あるいは実体変化(transsubstantiatio) の教理の確 定。

 トゥールのベレンガリウスはアウグスティヌス理論を継承しようとした。そして、パンと葡萄酒がキリストの体また血であるのは、サクラメントの中だけのことであると主張した。そのために非難に曝され、自説を撤回させられ、「サクラメントのみでなく、サクラメントの後もキリストの体と血である」と認めた。これが 1059 年のローマ会議である が、1079年のローマ会議では更に明瞭に「祭壇に捧げられたパンと葡萄酒は我々の救い主の祈りと言葉によって、主イエス・キリストのまことの生ける肉と血に実体的に変化す る」と認めさせられた。

 transsubstantiatio とは、属性は変わらないが実体、本体(substantia)が変化するという意味である。

 2.ルターの初期見解

 初期の聖餐論は1519年の「キリストの体の貴いサクラメントについての説教」に示される。このサクラメントの意味と働きは「コンムニオ」(交わり、与かること)であり、このコンムニオによってキリストの賜物は我々のものとなり、我々は兄弟への愛に結び合わされる。キリストの現臨は強調される。それは聖変化によるとする。しかし、この現臨の目的は彼の死によって御体が与えられたことの記念である。1520年から化体説を否定し、transsubstantiatio ではなく、consubstantiatio(共在)を説いた。すなわち、キリストの肉体の本質がパン及び葡萄酒とともにあるという。1522年以後、制定語を象徴的に解釈することをしりぞけるようになる。すなわち、キリストが語られたままにこの言葉を受け取るべきだとする。

 共在という概念はオッカムにあり、ルターの発案ではない。また、この概念がルターの固有性と関係するとも思われない。

 3.ツヴィングリにおけるホニウスの影響

 ツヴィングリは初め聖餐論に関して特に見解を持っていなかった。ホニウスの影響によって象徴説と一般に称せられる見解を抱くに至った。

 ホニウス(フーン)( †1524 )はオランダの人文主義の法律家である。ルターとエラスムスの影響を受ける。1520年頃「キリスト教的書簡」を書き、「これは私の体である」は「私はまことの葡萄の樹である」の「である」と同様に解釈されなければならないと説いた。

 この書簡がヒンネ・ローデの手でルターに齎らされ、ルターは拒絶し、さらにローデによってエコランパディウスとツヴィングリに示される。ツヴィングリは非常に興味を示 し、25年にこれを出版する。ツヴィングリの見解はこの書簡を読むまでは、カトリックの見解と異なっていなかったが、ここで急激に変化する。それが24年のマテウス・アルバー宛の手紙に表われる。

 ホニウスの見解はツヴィングリを介して再洗派に広まるほか、カールシュタットにも支持され、これがルターには挑戦的なものと受け取られて、以後この見解に対し徹底的な対決をするようになる。

 4.論争

 論争は最初友好的に進められたが、次第に激しくなった。

 ツヴィングリはキリストの体が天に昇られたのであって、ここにはなく、その現臨は contemplatio fidei(信仰の直視)によるのであって per essentia et realiter (本質により、現実に)ではないとする。したがって、聖晩餐は記念(Wiedergedaechtnis)、事柄ではなく徴し、比喩(アナロギア)、かつてあった出来事の想起である。

 ルターがツヴィングリの見解を危険視したのは、カールシュタットが同じ見解を持っていたため、他の点でも同じであると見た点が多分にあるからである。

 ルターもツヴィングリも論争は下手であったため、実りなしに終わる。

(4)マールブルクにおける決裂

 1529年9月、ヘッセンの領主によってマールブルクに信仰箇条制定のための会談が要請され、ルター、メランヒトン、ヨナス、クルーツィガー(ヴィッテンベルク)、ミコニウス(ゴータ)、ユストゥス・メニウス(アイゼナッハ)、オジアンダー(ニュールンベルク)、アグリコラ(アウクスブルク)、ブレンツ(シュヴァーベン)、ツヴィングリ、ルードルフ・コリン、フンク(チューリッヒ)、エコランパディウス、ルードルフ・フライ(バーゼル)、ブーツァー、ヘディオ(シュトラスブルク)等が集まった。この箇条においては、聖餐論のほかの全ての箇条で一致したが、聖餐論では調整がつかなかった。むしろ、決裂が決定的となる。ただし、マールブルク条項の14箇条については同意したのであり、聖餐論の1条についても全面的な対立と見ない方が正確な理解ではないかと思われる。マールブルク条項については次回にもう一度論じる。

 この会談の公的記録はないが、私的覚書は幾つか残され、会談の内容を復元することが可能である。(H.Sasse の書を見よ)

1.ルターの主張

 ルターの主張は「これは私の体である」とのキリストの御言葉をそのままに受け取ろうとする。すなわち、「神は全能である。その神は『これは私の体である』と言われる。それゆえ御体はパンの中になければならない」。

 しかし、カトリックの化体説を受け入れているのではない。ルターの主張は trans-  substantiatio ではなく、consubsutantiatio である。すなわち、キリストの体の本質がパンの本質とともにある。彼はこれを「ウニオ・サクラメンタリス」と呼ぶ。

 したがって、聖晩餐におけるキリストの体の現臨は場所的・肉体的現臨である。

 聖晩餐においてパンを噛むのはキリストの体を噛むことである。

 キリストの体は天にいますのみでなく、どこにでもいます。ubiquitas 。神の右の手がどこにもあるように、キリストの体もどこにもある。その根拠は、キリスト論で昔から言われて来た「属性の交流」( communicatio idiomatum )によって、神性の属性が人性の属性と交流し、神性の遍在が肉体の遍在となるからである。

 では、キリストの体がパンとともにあり始めるのは何時からか。制定語が語られる祝聖(consecratio)の時からである。これはツヴィングリから見れば、カトリックの考えの名残にほかならない。が、ルターによれば言葉があってサクラメントになる。この御言葉の力によって御体と御血は真実に聖晩餐の中に現臨する。

 2.ツヴィングリの主張

 「これは私の体である」の「である」は「を意味する」、「を象徴する」という意味である。丁度「私は葡萄の木である」の「である」が「を表わす」を意味するのと同じである。

 「我が記念として・・・・ 」と言われるではないか。

 キリストは地上におれれない。天におられる。

 「食べ」、「飲む」とキリストが言われるのは、「信ずる」ことである。

 3.決裂の実情

 マールブルク会談は決裂したと言われるが、参加者は署名して別れたのであり、この会談のための15条の条項の一項以外では一致していた。最後の第15項も幾つかの点では一致し、一致出来なかった点についてはどういうふうに一致出来なかったかを記述した。 

 「我々一同は皆、我々の愛しまつる主イエス・キリストの晩餐について、かく信じ、主張する。二品がキリストの制定に従って用いられなければならない。ミサは、死んだ人であれ、生きている人であれ、他の人のための恵みを請い求めるための業ではない。祭壇のサクラメントはイエス・キリストのまことの御体と御血のサクラメントであり、このまことの御体と御血を霊的に食することは、各々のキリスト者にとって特に必要である、と。同様にこのサクラメントを行なうことについて、我々は次のように一致する。御言葉がそうであるのと同じく、このサクラメントも全能者なる神から与えられ、かつ命じられて、弱き良心の者を聖霊によって信仰に進ましめるためのものである。キリストのまことの御体と御血が体をなして主の晩餐のパンと葡萄酒の中に現臨することについては、今の時、我々の間では同意が得られなかったが、それでも、一方は他方に対し、それぞれの良心の耐え得る限り、キリスト教的愛を表明し、また双方ともに全能者なる神が御霊によって真実の理解を我々に授けたもうよう熱心に祈る者である」。

 4.調停的な人たちの考え

 マールブルク会談にはブーツァーも参加した。彼はルターにもツヴィングリにも同調しない。どちらに対しても批判し、距離を置く。それはまた両者の橋渡しになるという含みを残すことになる。

(5)爾後の経過

 * ニーゼル「福音と諸教会」(改革社)

 * McNeil : Unitive Protestantism.

1.ルター派とツヴィングリ派は以後平行線をたどる。ルター派がアウクスブルク信仰告白を帝国に差し出した時、ツヴィングリ派(チューリッヒ、バーゼル、ベルン)は別の信仰告白を提出する。「フィデイ・ラティオ」。

 2.ルター派にもツヴィングリ派にも同調しない南ドイツの四都市(シュトラスブルク、コンスタンツ、メミンゲン、リンダウ)は別行動を取り、「アウクスブルク信仰告白」とは別にブーツァーの書いた「四都市信仰告白」(コンフェッシオ・テトラポリターナ)を帝国に提出する。

 ブーツァーは初期にはツヴィングリに近かった。しかし、聖晩餐におけるキリストのリアル・プレゼンスが重視されるようになって行く。それでも、ルターと同じにはならない。

 3.ブーツァー派とルター派の間に1536年「ヴィッテンベルク協約」が結ばれる。これは一致の確認書ではなく、聖餐論において一致出来る点と一致出来ない点とを挙げたもので、歩み寄りであることは明らかである。

 4.ルター派のなかの調停的立場をとる人たち、特にメランヒトンンによって、アウクスブルク信仰告白は改定され(1540)、改革派側にも受け入れ易くなるが、ルターの晩年この告白は再び改定前に戻された。

 5.聖餐論の一致のためのカルヴァンの働きは特記しなければならない。彼はルターの立場もツヴィングリの立場も批判する。その批判の根幹はこうである。「このように考える人は、先ず第一に問わねばならぬことに心を留めていない。すなわち、キリストの御体が我々のために渡された時、どうして我々のものとなり、御血がどうして我々のものとなるか、という問題である。これは十字架につけられたもうた全キリストを所有すること、並びに彼の全ての賜物に与かる者となることを指す。ところが今人々は、かくも大切な事柄を差し置き、いや無視し、殆ど埋没させて、どのようにして御体が我々によって食されるのかという難解極まる一つの問題をめぐって争うのである」(「キリスト教綱要」初版W章)。

 これは発想を転換し、御霊によってキリストが我々のものとなりたもうことから問題を解決しようとするものである。1537年、ベルンに集まったブーツァー、カピト、ヴィレ、ファレルと共にカルヴァンが作った「聖餐についての信仰告白」は場所的・肉体的現臨を却け、「キリストが我々に与えたもう霊的生命は、彼の霊によって我々が生かされるということの中にだけあるのではなく、彼のいかしめる肉に、御霊の力によって与かる者としたもうことのうちにある、と我々は告白する」という。

6.ツヴィングリの後継者ブリンガーと、ブーツァーの線を発展させたカルヴァンとの間に「チューリッヒ一致信条」(1549)が成立し、改革派の聖餐論は統一を見た。これ以後ルター派からの改革派攻撃、特にカルヴァンに対するものは激烈になる(ティレマン・ヘスフーゼン†1588、ヨアヒム・ヴェストファル†1574)。

 7.改革派とルター派との間には聖餐論の一致のための話し合いが、この後も続けられる。それは場所を改めて論じるようにするほかない。

 8.第二次大戦終結後、ナチスに対して一致して戦ったという経験を踏まえて、ドイツではルター派・改革派の間の話し合いが進み、基本的一致を認め合うに至った。確認の文書としては、アーノルツハインのテーゼ(1957)とロイエンベルク一致条項(1973)がある。聖餐論争は神学的には終結したのである。


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