「神の国とこの世の必要」

(ルカの福音書9章1〜17節)

牧師 広瀬 薫

ルカ 9:1 イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。

ルカ 9:2 それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。

ルカ 9:3 イエスは、こう言われた。「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。

ルカ 9:4 どんな家にはいっても、そこにとどまり、そこから次の旅に出かけなさい。

ルカ 9:5 人々があなたがたを受け入れないばあいは、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」

ルカ 9:6 十二人は出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した。

ルカ 9:7 さて、国主ヘロデは、このすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた。それは、ある人々が、「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。」と言い、

ルカ 9:8 ほかの人々は、「エリヤが現われたのだ。」と言い、さらに別の人々は、「昔の預言者のひとりがよみがえったのだ。」と言っていたからである。

ルカ 9:9 ヘロデは言った。「ヨハネなら、私が首をはねたのだ。そうしたことがうわさされているこの人は、いったいだれなのだろう。」ヘロデはイエスに会ってみようとした。

ルカ 9:10 さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。

ルカ 9:11 ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。

ルカ 9:12 そのうち、日も暮れ始めたので、十二人はみもとに来て、「この群衆を解散させてください。そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから。」と言った。

ルカ 9:13 しかしイエスは、彼らに言われた。「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。」

ルカ 9:14 それは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかしイエスは、弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組にしてすわらせなさい。」

ルカ 9:15 弟子たちは、そのようにして、全部をすわらせた。

ルカ 9:16 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた。

ルカ 9:17 人々はみな、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを取り集めると、十二かごあった。


 この写真は、ある時故郷の実家で発見しまして、以来、私の手帳にファイルしてあるものです。・・・ズラッと勲章をつけた軍服姿のりりしい男性です。

 この人は、私の実家に写真があったからといって、広瀬家の先祖なのではありません。実はもっと有名な、郷土の偉人でありまして、そして実はこの人もまた、そこの多磨霊園にお墓があるのですが、これは、山本五十六という人です。連合艦隊指令長官として有名な人です。

 私は、別に個人的にこの人がどうこうというので写真をファイルしてあるのではありませんで、山本五十六の一つの有名な言葉を忘れないために以前そうしたのです。その言葉ももちろん一緒にファイルしてあるわけですが、それはこういう言葉です。

「やってみせ、ゆってきかせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かぬ。」

・・・ぜひ皆さんにも覚えて頂きたい言葉です。

 先ほど暗唱聖句をしましたが、もちろん、山本五十六の言葉よりも聖書の御言葉の方が大切ですから、まず、暗唱聖句を覚えて、そして今日はもう一つ頭のあいている所に山本五十六の言葉を入れて頂くといいと思います。

「やってみせ、ゆってきかせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かぬ。」

・・・これは、人に何かをやってもらうことを期待する時に、忘れてはならない心構えでしょう。私達は、えてしていきなり人に何かをさせようとするわけですが、実はそれではダメなのであって、まず「やって見せ」、それから「言って聞かせて」、そこで初めて人に「させてみる」段取りとなるわけです。それで人を動かして実行して成功かというと、そうではない、さらに、「ほめてやらねば人は動かぬ」。…良くやった、とまずはどんな出来でもほめる、というのでなければ、その人が続けて動いてくれるはずがない。・・・これが、あの連合艦隊を動かした山本五十六司令長官の人間関係の極意だったわけです。

 これは、もちろん、現代の会社の管理職にもそのまま当てはまることでしょうし、それだけではない、子育てとか、あらゆる人間関係に当てはまることでしょう。

「やってみせ、ゆってきかせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かぬ。」

 さて、何故こんな話をしたかといいますと、聖書の中で、イエス・キリストがその弟子達を神の業にあずかるようにと動かして行く時も、まったく同じだったということを、私達は福音書に見るからです。

 山本五十六が見出した人を生かし動かすための極意を、2000年前にイエス様はもちろんご存じでした。今読んでいるルカの福音書においても、まさにそのように弟子達を指導して行かれているのです。

 イエス様は始めから弟子達を遣わして、「さあ、しっかりやってこい」とは決しておっしゃりませんでした。

 まず、「やって見せ」です。・・・初めは弟子達は、イエス様がなさる御業を見るだけでした。そして、見てはびっくりしていたのです。

 そしてまた、「言って聞かせて」です。・・・山上の垂訓を教え、種蒔きのたとえを教え、噛んで含めるように教えます。

 さていよいよ今日の箇所からです。いよいよ「やって見せ」と「言って聞かせて」の段階を越えまして、「させてみて」の段階に入って行くのです。つまり、弟子達が自分で動き実行して行く段階に入るのです。

 9章1〜2節、「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。

ルカ 9:2 それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」

 弟子達の派遣です。他の福音書を見ると、二人一組で派遣されて行きます。

 今までイエス様にくっついて歩んでいた弟子達にとって、これは、いよいよ自分の手でやってみよ、という、ドキドキするような場面です。

 そしてこれは、弟子達だけのことではなくて、私達のことでもあります。

 私達は、神様から二つのことをして頂いています。

 一つは、私達は神様によって呼び集められています。

 神様は、放っておけば滅びの道に進んで行く私達を愛して、救いの道へと呼び集めて下さいます。私達は今日も呼び集められて、こうして共に神様を礼拝し、神の家族の中に生かされ、神の国の民とされている喜びを味わうのです。

 もう一つは、私達は神様によって派遣されています。

 私達がイエス・キリストによって救われて終わりではありません。まだまだこの世界には、主の救いを必要としている人々が沢山残っているのです。そして神様は、この世界全体を神の御心が満ちる神の国にするという遠大なビジョンをお持ちです。その神様の御心にあずかるために私達神の民とされた者が使命を担ってこの世へと遣わされて行くのです。それは、今日の箇所で弟子達が遣わされていったのと同じです。

 えすから、今日の弟子達への教えは、私達も学ぶべきものです。私達も、遣わされた者として、「させてみ」させて頂く、という所に歩みを進めたいものです。

 さて、派遣する弟子達に、イエス様は、ていねいに「言って聞かせて」います。

 9章3〜5節、「3 イエスは、こう言われた。「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。 4 どんな家にはいっても、そこにとどまり、そこから次の旅に出かけなさい。 5 人々があなたがたを受け入れないばあいは、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」

 ここから、私達も遣わされる者として何を学ぶのか。・・・三つのことを考えておきたいと思います。

 まず、遣わされる、という場合には、一番重要なことは何でしょうか。それは、誰が何を任せてその人を遣わしたのか、ということです。

 遣わされるということは、自分で勝手に来たということではないのです。遣わした人があって、何かをその人に託して遣わしているわけです。

 例えば、現代で、遣わされた人の代表例は、大使です。大使は勝手によその国に行って好きなことをするのではありません。母国から遣わされて、委ねられたメッセージを伝え、母国の代表として委ねられた権限に基づいて行動するわけです。

 クリスチャンは、聖書によれば、皆福音の大使、神の国からこの世に派遣されている大使です。ですから、この点に関する限り、一人一人がどういう人であるかよりも、誰から、どういう権限を委ねられて遣わされているかが第一の重要性を持っています。

 つまり、遣わされる私達が学びたい一つ目のことは、誰から遣わされたのか・・・主イエス・キリストから。・・・これが大切です。

 私達は皆、イエス・キリストから尊い使命を頂いて、この世で生き甲斐のある、やりがいのある仕事に派遣されているということを忘れないようにしたいと思います。

 パウロは、こう言っています。(ローマ 14:7〜8)「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」

 死ぬとか生きるとか言うと、何か悲壮な感じがするかも知れませんが、私達が一人で勝手に生きて行くのではなくて、私達を用いて尊い御心を実現しようとしておられる派遣主・・・神・・・がおられるということは、とても心強い、励まされることであります。

 次に二つ目のことは、何を委ねられて遣わされたのか、ということです。・・・9章1〜2節をご覧下さい。

 9章1〜2節、「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。

ルカ 9:2 それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」

 遣わされる者の使命は何でしょうか。・・・ここに二つ書かれています。

 一つは、神の国を宣べ伝えること。つまり人々の救いにつながる伝道活動。

 もう一つは、病気を直すこと。悪霊を追い出すこと。つまり人々のこの世のニーズに応えることです。人々のニーズは、病気とは限りません。食べ物の無い人に食べ物を提供する。困っている人のそのニーズを共に担う。…色々なことがあるでしょう。

 私達の教会でも、賛助献金を用いて、あるいはバザーの収益金を用いて、あるいは教会学校でもタイの子供達に、あるいは有志による国際飢餓対策機構への献金、あるいは日常的な色々な関わりが、(いつも足りないなあと思いつつですが)なされています。先日は、その有志の方による援助で里親の対象に選ばれたモザンビークの子供の写真を見せて頂きました。「かわいいなあ、幸せになってほしいなあ」と思いますね。

 さてこの二つの使命を、つまり、永遠の救いにつながる伝道と、この世のニーズに答える奉仕との二つを、今のキリスト教会の言葉で言うと、「伝道と社会的責任」と言うのです。この二つの両方が(決して片方ではなく両方が)私達にとって大切な委ねられた使命なのだと、よく受け止める必要があります。

 さて、遣わされる私達が学びたい三つ目のことは、遣わされて行くために、何を備えるべきなのか、ということです。

 9章3〜5節、「3 イエスは、こう言われた。「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。 4 どんな家にはいっても、そこにとどまり、そこから次の旅に出かけなさい。 5 人々があなたがたを受け入れないばあいは、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」

 ここに、備えるべきものと、そうではないものがあげられています。特に強調されているのは、備える必要のないものの方でしょう。それは何でしょうか。・・・杖、袋、パン、金、二枚目の下着、そして宿。これらは備える必要がない。何故でしょうか。・・・すでに備えられているからです。詳しく一つ一つについては考えませんが、要するに、これらは神様が行く先々で必要に応じて備えて下さるので満たされるから、弟子達はあらかじめ備えて行く必要がない、というわけです。

 私ならば、あらゆる事態に備えて万全にしようとするでしょうか。(いや実は、先日の旅行の時も、家内に、「荷物作っておいて〜」とか言ってお任せで、実にていたらくなのですが)

 しかし弟子達は、そんな気楽な旅行に行くのではありません。これから真剣勝負。何が待っているかわからない所へ出て行くのです。イエス様は、別の福音書では、「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」(マタイ 10:16)とおっしゃったのです。…では、狼に対抗するために何を用意するのか。・・・私達なら、困難が予想される重大な使命に向けて歩みを進める時、何を考えるでしょうか。何が人生に必要だと思うでしょうか。・・・イエス様は、物ではない、神に対する信仰・信頼だ、とここで教えられたのです。天の父なる神様は、私達の必要を全てご存じで満たして下さるから、委ねて安心して行け、と言うのです。

 私達は、今週もここから神様によって遣わされて、この世に向かって出て行きます。その私達にはそれぞれ必要があります。何もなしでも信仰があれば大丈夫だなんて主イエスは言われません。そうではなくて、その必要を神様は全て満たして下さるから、その神と共に平安に進め、と言われるのです。これが神から、イエス様から遣わされる者に約束されていることです。

 以上、私達は、誰から、何を担わされて遣わされているのか、そしてどのような供えが保証されているのか、考えました。これは私達の人生の歩みに直結する教えです。

 さて、そのように、出かけていった弟子達の活動によって、何が起きたのか。

 この世に対して、大きなインパクトを与えたのです。

 9章7〜9節、「7 さて、国主ヘロデは、このすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた。それは、ある人々が、「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。」と言い、 8 ほかの人々は、「エリヤが現われたのだ。」と言い、さらに別の人々は、「昔の預言者のひとりがよみがえったのだ。」と言っていたからである。 9 ヘロデは言った。「ヨハネなら、私が首をはねたのだ。そうしたことがうわさされているこの人は、いったいだれなのだろう。」ヘロデはイエスに会ってみようとした。」

 国主までもが、心を騒がすことになった。世間の人々も、「ある人々」「他の人々」「別の人々」と書かれているように、イエス様と弟子達の話で持ち切りになったわけです。じゃあ、人々は信じたのか、と言うと、イエス・キリストについて、ああだと思う、こうだと思う、と言うばかりで、そして、国主ヘロデも「この人はいったいだれなのだろう」と言って、「イエスに会ってみようとした」とありますが、それは好奇心から、自己中心の思いからであって、決して自分を反省して神の方に歩みを向けようというのではないのです。

 今でも、イエス様についてああだと思うこうだと思うという人、あるいは教会について色々言う人、あるいはクリスチャンについて論評する人、…色々いますが、結局は、自分自身が、このイエス様という方をどう受け止めるのか、ということが最重要ポイントです。そこをよけては何を論じていても本質をはずれたままなのです。

 私にとって、イエスとは誰なのか。…「この人はいったいだれなのだろう」

 この質問に、自分の人生をかけて答えることが求められているわけで、それに弟子達が何と答えて行くのか、というテーマが、この後次回の聖書箇所でも扱われて行きます。・・・弟子達は、自らの信仰をもって答えるのです。それは、世間のひと事のような関わり方とは極めて対照的なのです。

 さて、伝道と社会的責任を「言って聞かせて、させてみて」、弟子達はどうなったのでしょうか。

 その結果が一つの例のようにして、以下に書かれています。いわゆる「5000人の給食の出来事」です。

 9章10〜17節、「10 さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。 11 ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。 12 そのうち、日も暮れ始めたので、十二人はみもとに来て、「この群衆を解散させてください。そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから。」と言った。 13 しかしイエスは、彼らに言われた。「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。」 14 それは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかしイエスは、弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組にしてすわらせなさい。」 15 弟子たちは、そのようにして、全部をすわらせた。 16 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた。17 人々はみな、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを取り集めると、十二かごあった。」

 11節に、「イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。」というわけで、また「やって見せ」があります。

 伝道と社会的な責任を果たす、イエス様の模範的な姿があります。

 そして、イエス様は、また「させてみる」のです。

 空腹な人々の群を前にして、

 13節、「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」・・・「あなた方で、この必要に対しての働きをやってみなさい」と言われたのです。

 こういう言葉というのは、弟子達を育てていくイエス様の導きの言葉だと思います。ご自分でやってしまうことは簡単だったでしょう。しかしあくまでも、弟子達に教える場としてこれを用いるのです。そして弟子達にも参加させる。例えば、14節、弟子達を用いて群衆を組分けさせて座らせ、弟子達を用いて増えたパンと魚を配らせる。・・・神の御業の実現の輝かしさ・喜び・確かさを実体験させるのです。

 神様は今も、ご自身で御業をなさることも出来るでしょう。しかし、その御業に関わるように、参加するようにと私達を招きます。私達がそこで用いられて、私達の存在が生かされて、私達がその体験によって成長して行くようにと導くのです。そのようにして神様は、私達を喜ばせたいのだと思います。

 この5000人の給食という出来事は、奇跡ですが、ただ人を驚かせるだけの奇跡ではない、これは、聖餐式を暗示する出来事であり、また本当に喜びに満ちた出来事であります。

 さて、弟子達はどのようにして成長へと導かれたのでしょうか。

 「あなた方で」と言われた弟子達の反応は、しかし、「ダメです」というものでした。

 13節後半、「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。」

・・・ダメです。なぜダメなのか。・・・

 14節、「それは、男だけでおよそ五千人もいたからである。」

 現実を見ると、ダメです。計算すると、ダメだという答えが出てきます。常識では、解決はなさそうに見えたのです。

 しかし、先ほど弟子達は、必要は神が備えて下さるというレッスンを受けたばかりではなかったでしょうか。そこで、神に信頼し、神の満たしを味わったのではなかったでしょうか。・・・味わったのです。しかし、新しい事態にはそれは生かされませんでした。

 人のことは言えません。私達だって、何度も、困難の中で必要を満たされて、神様の御業に感謝感激しながら、しかし次の困難に出会うと、「今度はダメだ」と言うのでしょう。弟子達も私達と同じ、成長の歩みの遅い、霊的にも鈍い人達だったのです。もしも、信仰の目が開けていたらどうだったのか。弟子達は何と答えるべきだったのか。・・・ある人はこう書いています。「彼らは、『主よ、あなたの力を信じます。私達の手で配るものを下さい』と言うべきであった。」・・・なるほどそうかも知れない。そうなのでしょう。彼らはそう言うべきであった。何でそう言わなかったのだろう。そう言えばよかったのに。

 しかし皆さん、私達はそう言えるのでしょうか。必要に直面した時に、そして現実が困難に見える時に、『主よ、あなたの力を信じます。私達の手で配るものを下さい』と言えるでしょうか。…そのことは後で考えることに致しまして、

 私は、ここで聖書が言いたいことの中心は、弟子達の鈍さを非難すること…弟子達は何が出来なかったかということ…ではなくて、イエス様は何をして下さるのかということ、の方にあると思います。

 イエス様は何をして下さるのか。イエス様はどなたなのか。

 この奇跡的な出来事を見て、人々はまた先ほどのように色々と言うのです。

1、ある方々は、イエス様は偉大な道徳の教師だと言います。

 この時、人々は皆自分の食べ物を持っていたのだ。けれどもそれを出すと、回りの人にも取られてしまうので、惜しく思って出さないでいた。けれどもイエス様の教えを聞いて心広くされ、最後には小さな子供がその持ち物を捧げるのを見て、私も私もと出し始めた。すると皆が出した物を食べると、皆が満腹してなお余ったのだ。つまりイエスは偉大な道徳の教師だというわけです。

 この考えは、一面の真理をついています。今の世界において、全人類が食べるだけの食料はちゃんと出来ていると言われます。しかしそれが全体に配分されないために、もっと具体的に言えば、先進諸国がそれを大量に買い込み、分け与えず、大量に消費しているから、他方に食べ物がない人が大量に出るという矛盾が生じているのだと言われます。それは多分本当のことでしょうが、ここで聖書が言おうとしていることではありません。

2、またある方々は、これはイエスは、今で言う聖餐式をやったのだと言います。つまり、5つのパンを小さく小さく分けて皆で食べたのだ。しかしイエス様の素晴らしい教えで心満たされ、皆が一体感を持ったので、「満腹」したのだというわけです。 これでは、余ったパン切れが12のかごにいっぱいにあったということが説明できませんし、いくらここから聖餐式が想像されるといっても、聖書が言おうとしていることではないでしょう。

3、もっとひどいある方は、この地方には洞窟が沢山あるのだと言います。そしてイエス様はあらかじめそこにパンを大量に用意しておいたのだと言います。そして12節に「日も暮れ始めた」とある。つまり、薄暗くなってきた。それを待っていたイエス様は、洞窟の前に立った。感謝しながら洞窟から出す。薄暗いから手元はよく見えない。どんどん出す。そして皆が満腹したのだと言う。これではイエス様は手品師かペテン師です。

 色々ご紹介致しましたが、要するにイエス様とは誰なのか。・・・今申し上げた人達は、合理的に説明したいのです。科学的に、合理的に、自分の経験に反しないように、常識でもわかるように、説明を作りたいのです。

 しかし聖書がここで言っていることは、まさにその正反対のことではないですか。

 弟子達は、科学的に合理的に常識的に自分達の経験に沿って計算した。考えた。その結果答えは、「不可能」だった。「ダメです」と答えた。しかし、そんな人間の考えをはるかに越えて、イエス様は実際に人々の必要に答えて下さったのだ。奇跡を起こしてまでして、満たして下さったのだ。このイエス様の御業の故に、弟子達の手は、自分の能力を越えて人々の必要に仕えることが出来たのだ。・・・ということではないですか。

 これを経験した弟子達は、また一歩、信仰の成長を遂げたのでそう。

 そしてこれを見る私達は、どうでしょうか。先ほど、「彼らは、『主よ、あなたの力を信じます。私達の手で配るものを下さい』と言うべきであった。」という言葉をご紹介しましたが、私達はそう言えるのか。

 例えば、考えてみましょう。

 私は、10月に取手聖書教会の伝道会に招いて頂いたのですが、聞けば、集会は金土日と6回。そのうち5回が伝道集会ということです。・・・こういうのは、(皆さんはひと事だ、牧師なら何とかするだろう、と思うかも知れませんが)まさに、「主よ、私には5つのパンと2匹の魚しかありません。」…「持っている物が足りません」という状況なのです。そこで、『主よ、あなたの力を信じます。私の手で配るものを下さい』と言えるのか。・・・これが、現実の私達の課題でしょう。

 あるいは、来年また一人働き人が与えられる方向に進んでいると、先日の信徒懇談会でご報告致しました。青木神学生が卒業後来て下さると。これから役員会で話し合うことの一つは、そのための必要の満たしです。計算したらどうなるのでしょうか。もしかすると、「私達には5つのパンと2匹の魚しかありません」という場面にぶつかるのかも知れない。その時に、『主よ、あなたの力を信じます。私達の手で配るものを下さい』と言えるのか。・・・これが私達の現実の課題でしょう。

 こういう例は、生きて行く上で、幾らでも出会うことであります。皆さん私達に、幾らでも具体例を挙げることが出来るでしょう。

 鍵は、イエス・キリストとはどなたであるかを知ることです。

 私は何を持っているか、以上に、イエス様は何をさせとおっしゃっているのか、イエス様は何をして下さる方なのか、イエス様は私にとって、私達にとってどなたであるのか、知ることです。そしてそのイエス様に信頼する安心を知ることです。

 今日の説教題は、「神の国とこの世の必要」と致しましたが、イエス様は、私達の生きる場に、神の国をもたらして下さいました。そして私達の生きる場にある必要、この世の必要を満たして下さることもして下さいます。しかも、私達の手を通してそれをして下さる。私達の手の中に、この世の必要に答えて配るためのパンを渡して下さるのです。それを私達に託して、さあ、神の国のために、そしてこの世の必要のために、遣わされて行け、と私達を派遣して下さっているわけです。

 


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