「母親に返して下さる主」

(ルカの福音書7章11〜17節)

牧師 広瀬 薫

ルカ 7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。

ルカ 7:12 イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。

ルカ 7:13 主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。

ルカ 7:14 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。

ルカ 7:15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。

ルカ 7:16 人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現われた。」とか、「神がその民を顧みてくださった。」などと言って、神をあがめた。

ルカ 7:17 イエスについてこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まった。


  今日は母の日です。私達の家族の母親に、また神の家族である教会の霊的な母親に、感謝致します。

 私達の人生、これは神様から命を頂いたわけですが、その人生のスタートにおいても、成長の歩みにおいても、圧倒的に大きな役割を果たすのは、他の誰でもなく、母親であると言ってよいと思います。母親は(または母親を早く亡くされた方にとっては誰か母親代わりとなる方は)、大きな労苦を担います。

 しかし皆さん、母親の労苦というものは、なかなか正当に評価されないのではないでしょうか。

 子供には親の労苦がわからない。夫も、所詮子供を産み育てることの実感はわからないでしょう。じゃあ、同じ女性の姑や小姑や自分の母親なら、良き理解者になってくれるかというと(もちろんそういう良き人間関係もあるでしょうが)、えてして母親を取り巻く状況は厳しいのだと思います。

 私がこの多磨教会に来て初めての母の日、あるご婦人の方が、「母の日って言ったって、年に一回きりじゃあねえ。」とおっしゃっていたのが、心に残っています。

 また私自身の思い出としても、小学校の頃だったと思いますが、どういう状況だったか全く覚えていないのですけれども、多分私が言うことを聞かなかったのでしょう。母親から、「どうしてお前は母親に対してこういう仕打ちをするのだ。」という意味のことを言われたのが、何故かその「母親に対する仕打ち」という言葉が、以来何十年かたった今に至るまで心に残っています。私は、父を四歳の時亡くしまして、我が家は母子家庭でしたが、自分は母親の労苦の良き理解者ではなかった、という心に重い思い出となっているわけです。

 母親の労苦というものは、なかなか報われないで、理解されないで、むしろ、どうしてこんな仕打ちになって返って来るのだ、私が一体何をしたんだ、と叫びたくなるような不条理を引き受けているのが、母親という存在なのでしょう。

 先日、私達は「ミッションバラバ」(元ヤクザからクリスチャンになった方々のグループ)の三人をお招きして、特伝を行いました。その準備の中で私は、彼らの奥様方の証しが雑誌に連載されていたのを読みました。あの元ヤクザの方々の回心の陰には、妻たちの大変な労苦があったことを改めて知りまして、これはぜひお招きしたいということで、今度の東京西ブロックの連合婦人会にはバラバの妻たち(ある方の造語では「バラ妻」)をお招きすることになったのでした。

 しかし考えてみますと、妻たちも大変だったでしょうけれども、彼らの母親達はどうだったのでしょうか。元ヤクザの方々の母親、またその妻となった方々の母親です。その労苦も並大抵のものではなかったのではないでしょうか。中には幾つかのクリスチャンホームもあったのです。どれほど多くの涙が流されたことだろうかと思います。最初にミッションバラバのビデオが出まして、次にバラバの妻たちのビデオが出ましたが、次はバラバの母たち(「バラ母」?)の出番かなあ、なんて思いました。でも、まずそうはならないでしょう。母親の労苦は評価されない、表に出て来ない。母親というものは、いつも陰で全てを引き受けて行くような、いつも陰で涙を流しているような、大変な役割だと思います。

 さて、そういう母親に、イエス・キリストは何をして下さるのか。・・・それを今日の御言葉から、ご一緒に味わいたいと思います。

(1)今日の御言葉の箇所には、ナインという町で起きた一人の若者のよみがえりの奇跡が記録されています。

 死人がよみがえったという奇跡は、聖書の中にもそうたくさんは出てきません。旧約聖書の中で、預言者エリヤが一回、エリシャが一回、新約聖書の中で、ラザロの復活、そして今日のナインの青年、それからヤイロの娘、これだけです。そして、興味深いことに、女性・母親に関わっている場合が多いのです。

 エリヤの奇跡はある母親(ツァレファテのやもめ)の子でした。エリシャもある母親(シュネムの女)の子。ラザロは、マリヤとマルタの兄弟。このナインの出来事も、ある母親の子。ヤイロは両親そろって出てきますが、このように皆、女性に関わります。そのような聖書を見ると、神様は女性に対して、特に母親に対して、特別な関わり方をしているように見えます。母親という存在に対しての、神様イエス様の特別な配慮を感じます。

 ご一緒に見てみましょう。

11〜12節、「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。」

 これはどういう状況でしょうか。・・・人生最悪の不幸がここにありました。

 この女性は、「やもめ」だったとあります。つまり、夫に先立たれていたわけです。これだけでも、当時の社会では大変なことでしたが、更に、「一人息子」だったとあります。

 一人息子、それは、夫亡き後の彼女の望みの綱でした。彼女の希望を一身に担っていた子でした。その一人息子が死んでしまったのだというのです。

 これは、人生最悪の不幸が彼女を襲ったということです。彼女が今まで、労苦を注ぎ込み、望みを置いていたもの、大切な希望、…一切を死がぶち壊したのでした。情け容赦なく、全てを打ち砕したのでした。死の力とはそういうものでしょう。

 これが、お金の問題だったら、…。子供が大きな借金をして、ローン返済が出来なくなったという相談を受けたことがありました。これは、絶望ではありません。お金ならば何とかなります。裸になっても、再出発が出来ます。

 あるいはこれが、子供の非行だったら。アルコール問題だったら。…それぞれがもちろん、滅茶苦茶に大変な課題ですが、しかし、何とか人生再出発、回復の道を求めることが出来るでしょう。

 けれども、死んでしまったら、どうでしょうか。子供の人生は、地上から失われたのです。これは、人間の力では取り返しのつかないことです。再出発も、回復も、人間に過ぎない者には用意出来ません。

 取り返しのつかない不幸、という問題がここにあります。

 以前、横浜の教会で葬儀があった時、棺が教会に運ばれて、郷里から駆けつけた母親が、教会に入るなり、棺にすがりついて泣きました。私は、その時、心底、自分は無力である、と思いました。全てをぶち壊し、全てを奪う死の前に、人間が何をなし得るでしょうか。…取り返しのつかない不幸です。しかし、このどん詰まりから、ここから、イエス・キリストは何をして下さるのでしょうか。

 私達人間が、無力感のどん底に沈む時、絶望の暗闇に沈む時、正にそこから、イエス様は何をして下さるのでしょうか。

 13節から、イエス様がなさったことが、五つ出て来ます。

(I)まず、13節です。「主はその母親を見てかわいそうに思い」…この「かわいそうに思った」という言葉は、言語のニュアンスでは、はらわたが揺り動かされるという言葉です。内蔵がよじれるような、つまり、日本語で言えば「断腸の思い」です。・・・中国の故事でしたでしょうか。小猿を人間に奪われた母猿が、ずっと追いかけて来て、最後は内蔵がずたずたに千切れて死んでしまったという話です。

 「断腸の思い」…悲しみに出会うと、私達も内蔵が敏感に反応するでしょう。イエス様は、子を失った母親の姿を、平然と見ることの出来る方ではありません。断腸の思いで、内蔵が引きちぎれるような思いで、母親の悲しみを共にして下さるのです。

 聖書は、このようなイエス様の姿を描くことで、何を私達に伝えたいのでしょうか。

 泣き悲しむ母親達よ。愛する者を奪われ、望みを打ち砕かれ、労苦を報われずに嘆きに沈む母親達よ。あなた達の傍らには、今もイエス・キリストが、あなた達の悲しみを共に担っておられるのだ。今も行けるイエス・キリストとは、そういうお方なのだ。…と聖書は今日も私達に告げているのです。

(II)そして、イエス様がなさった二つ目のことは、棺にすがりつかんばかりにして泣き叫んでいる母親に向かって一言おっしゃったのです。…それは、驚くべき言葉でした。

13節、「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい。』と言われた。」

 これは、人間には言えない言葉です。これを人間が言えば、趣味の悪い気休めになってしまいそうです。

 「泣かなくてもよい。」…イエス様がこう言われたのは、気休めではありません。この言葉のニュアンスは、「私が、泣かなくてもよい状況にしてあげよう。」ということでしょう。

 皆さん、私達は、涙に沈む人々に、「泣かなくてもよい」と、どれだけ言いたいことでしょうか。けれども、人間にはそう言うことが出来ません。しかし、イエス様が、私達には言えないこの言葉を、御言葉として、語りかけていて下さいます。

 気休めではない、力ある御言葉として、実質と権威がある御言葉として、「泣かなくてもよいのだ。」と、今も語りかけていて下さるのです。

(III)イエス様がなさった三つ目のことは、

14節、「そして近寄って棺に手をかけられると」…これは、当時の常識では、驚くべき行為です。

 何故かというと、当時の宗教的な常識としては、死は汚れと結び付いていました。死んだ者は汚れている。それに触る者も汚れる、ということになりますから、触ってはいけないのです。

 私達日本人は、そういう彼らの考え方を笑う資格はありません。今日でも一般の葬儀に行けば、塩を差し出されるわけです。つまり日本でも死は汚れたもの、忌むべきもの、タブーとして、扱われているのです。しかし、イエス・キリストは、棺にわざわざ手を触れるのです。

 前に(覚えておられるでしょうか)、らい病の人を癒した時もそうでした。

 イエス・キリストは、御言葉だけで癒せる方なのに、わざわざらい病の人に触って癒します。誰も触ってはいけない汚れた者とされていたらい病の人に、イエス様はわざわざそのタブーを破る形で、彼を縛り付けていた差別の鎖を引きちぎるようなやり方で、癒しの御業をなさったのを私達は見たのでした。

 今日の箇所でも同じように、イエス様はわざわざ棺に手をかけます。

 この青年は、汚れた所に行ってしまったのではない。もう触れることが許されなくなったのではない。もしも人間の死に汚れがあるのならば、それは全て私が引き受けよう。やがての十字架に、全ての罪汚れを処分しよう。・・・常識もタブーもものともせずに、イエス・キリストは介入します。泣き叫ぶ母親の涙をぬぐうために。

(IV)そして、イエス様がなさった四つ目のことは、

14節、「そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい。』と言われた。」

 これは、驚くべき呼びかけです。一体誰に呼びかけておられるのでしょうか。

 「青年よ。」・・・これは、死人への呼びかけです。 人間にはもはや語りかけることが出来ない、いくら語りかけても、もう言葉が届かない。しかし、そんな死の壁も、イエス様にとっては邪魔にはなり得ないのです。主は語りかけることが出来るのです。

 母親の皆さん、皆さんの言葉は、子供達に届いているでしょうか。

 生きている子供に語るのでも、自分の言葉が本当に届くことの困難を感じます。

 子供に言葉が届かない。一体あの子はどこへ行ってしまったのか。言葉が見えない壁にはね返って来るような、自分の言葉の無力、空しい思いを私達はしないでしょうか。

 しかし、どんなに子供達が遠くへ行ってしまったように思われても、たとえそれが、死という巨大な隔たりの向こう側であったとしても、イエス・キリストの呼びかけは届くのです。

 「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」

 すると、何が起きたのでしょう。

15節、「すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた」

 イエス様の御言葉には、力があるのです。イエス様がおっしゃれば、その通りになるのです。

 私達なら、こうは行きません。生きている子供に呼びかけたって、そう簡単にその通りにはなりません。「あなたに言う、起きなさい。」なんて言っても、起きやしません。「起きなさい、起きなさい、もう遅刻するでしょ。」と何度も叫ぶのが朝の風景でしょう。

 しかし、イエス・キリストの御言葉には、その御言葉通りの現実を引き起こす力があります。

 皆さん、ここで死人のよみがえりという驚くべき奇跡を引き起こしたのは何でしょうか。

 今日の箇所には、「母親の信仰」というようなことが、一言も書いてありません。母親は何をしていたのでしょうか。ただ、嘆き悲しみ、泣き叫んでいただけです。(もちろん、その中から、彼女の信ずる神に叫び求めたかも知れません。)

 とにかく、奇跡の御業は、ただ、そんな母親を見てかわいそうに思い断腸の思いに心動かされたイエス様の御心と、その権威ある御言葉の力によって引き起こされていると思います。

(V)そして、イエス様がなさった五つ目のことは、

15節、「すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。」

 出来事は、「イエスは彼を母親に返された。」という、大変印象的な言葉で結ばれています。

 この出来事は、母親が失った大切なものを、イエス様が母親の手に返して下さる出来事だったのだ、と聖書はまとめているわけです。

(2)皆さん、これは、私達のことであります。

 母親というものは、色々な労苦を引き受けるばかりでなく、色々なものを奪われて行く存在であると思います。

 死が大切な者を奪って行く、というばかりではありません。聖書によれば、全て、本来あるべき所からいなくなるのは、死の状態です。生きていても、本当には生かされていない、死の状態です。

 例えば、あのよく知られた放蕩息子のたとえで、親元を離れてさまよっていた弟息子が帰って来た時、「死んでいたのが、生き返った」と言われていました。

 生きていても、本当の道からさまよい出て行く子供達。親子のつながりが傷付き、心は遠く引き離されて行く。…そのような事態は、母親にまた女性に、一番つらくひびくものでしょう。

 そんな事態を、私達は、もう取り返しのつかないことだ、もうどうすることも出来ない不幸であると、思うかも知れません。しかし、そんな母親に女性達に、主は同情され、悲しみを共にし、あらゆる妨げを打ち壊して介入し、権威ある御言葉によって、御業をなさって下さるのです。そして、もう永久に失ったと思っていたものを、母親の手に返して下さるのです。ここに私達の希望があります。

 一ヶ所、聖書を開いて頂きたいのですが、ヘブル人への手紙11章35節です。

「女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。」

 なぜ、「女たちは」なのでしょうか。私にはわかりません。しかしとにかく、母親達は女性達は、主の特別な顧みの中に置かれているのだという聖書の証言を、私達はここに見るのだと思います。

(3)最後に、私達は今日の箇所で、主イエスが、人間を縛る死の力を打ち破って下さるのを見たのですが、それは何によって実現したのかということを、改めて確かめておきたいと思います。それは、十字架によって実現したのでした。主は、私達が受けるべき死を、全て身代わりに負って、十字架に死んで下さいました。死すべき私達に、「私が代わりに死のう」と、主がおっしゃって下さったから、私達は永遠の命に生かされているわけです。死から解放されているのわけです。ですから、たとえ地上では死をもって引き離されても、しかし天の御国でまた神の家族と再会することが出来ます。それは、イエス・キリストの十字架の死によって、そして復活の命によって、保証されていることです。

 この十字架と復活を根拠として、私達にもたらされる救いの確かさのゆえに、また、必ず私達を顧みて下さる主の憐みのゆえに、私達はどんな状況にあっても、たとえ何を奪われたように見えても、希望を主において歩みたいと思います。

 主は、母親の手に返して下さいます。それは地上においてか、天上においてか、主イエスは母親の手に返し、涙をぬぐって下さいます。その主の御業への信頼を確かめて、希望をもって、主に祈り求めて行きたいと思います。 お祈り致します。・・・


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