マタイ 16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
マタイ 16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
マタイ 16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
マタイ 16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。
マタイ 16:28 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」
私がこの多磨教会に赴任して参りましてから、ここにしかないユニークなもの思っておりますものの一つは多磨霊園です。
あそこには有名人の墓がキラ星のようにたくさんありますが、特に、キリスト教界の歴史的人物の墓がこれだけ集まっている所を、私は他に知りません。
日本のプロテスタントのルーツには、明治初期、三つの流れがあったことが知られております。
一つは、「札幌バンド」(内村鑑三)
二つ目は、「横浜バンド」(植村正久)
三つ目は、「熊本バンド」(海老名弾正)です。
何しろ、この三つのルーツの、三人のおも立った指導者が、ことごとく多磨霊園に埋葬されているということで、それを知った時には驚きました。
さらに、救世軍の山室軍平。また、日本のクリスチャンで海外にまで最も広く名を知られた賀川豊彦。五千円札の新渡戸稲造。・・・ぞろりとそろっています。中には地上ではぶつかり合い、論争し合った人達もいますが、皆同じ霊園に葬られているのが面白いところです。
先日も、月に一度読書会を持っている多摩友の会の方々と、キリスト者のお墓巡りを致しました。私は四回目位になりますが、彼らのお墓を巡るたびに思うことがあります。
それは、教会というのは、生きている私達だけのものではないのだというこなのです。
聖書によれば、教会というのは、今生きている私達だけではなくて、歴史に生きたクリスチャン達全てによって出来ています。・・・時と場所を超えて、全てのクリスチャン達によって出来上がっている一つの教会があります。
多磨霊園のキリスト者達のお墓を見ると、ああ、この人達も私達と同じ神様を信じ、同じ救い主イエス・キリストに救われ、同じ一つの教会を作っているんだなあ、そして、やがて天の御国でお会いすることになるのだなあ、と思うわけです。
今日私達は、年に一度の「召天者記念礼拝」を行っています。いつものように召天者の写真を持って来て頂きました。この方達も、私達も、同じ神様を信じ、同じ救い主に救われ、同じ一つの教会を作っているんだなあ、と思います。そして、今は地上と天上に分かれて生きているとしても、やがて、天の御国でお会いすることになるのだなあ、と思います。
さて、先日、二冊の本を読みました。
一冊目は、「死ぬための生き方」(新潮社)というのです。
40人余りの各界の識者達が、やがて誰もが必ず迎える死を見据えながら、私達はいかに生きるのかという、人生観をつづっています。
「死ぬための生き方」という題は、やがて死を迎える者として、私達は今をどう生きればよいのかということでしょう。ここに出てくる人生の先輩達が、生と死をどのように受け止めておられるかを読んで、それぞれ大変教えられる思いが致しました。
そして、もう一冊の本は、同じシリーズで、「生きるための死に方」という本です。内容は、全く先程の本の続編で、やはり40人余りの人達が、その死生観をつづっています。
けれども皆さん、この書名、多くの方々にはわかったようなわからないようなものではないでしょうか。・・・「生きるための死に方」・・・
先程の、「死ぬための生き方」ならば、よくわかるでしょう。やがて良き死を迎えるために、今をいかに良く生きるべきか、ということでしょう。
しかしこれが、「生きるための死に方」となると、文字通りなら、良く生きるためには、今どうやって死ねばよいのか、という意味ですから、普通の人にとっては意味をなさないでしょう。実際、本の帯には、『「その日」のために、私達はどう生きればいいのか』と書いてあって、やっぱりこの内容は結局「生き方」であって、「死に方」ではないのだということがわかります。ただ前作の題名をひっくり返してみただけなのかも知れません。
けれども、この「生きるための死に方」というタイトル、これは、聖書の教えから見ると、実にピッタリとした題ではないでしょうか。
なぜならば、今日の聖書の箇所で、イエス・キリストは、本当の意味で生きたいと思ったら、死になさい、と教えているからです。・・・今日の聖書の箇所にあるのは、正に、「生きるための死に方」であります。
16章24節「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
イエス・キリストはここで、「だれでもわたしについて来たいと思うなら」と言われます。これはどういうことでしょうか。・・・イエス様のように生きて生きたいと思うならば、ということですが、私達はもしかすると、自分は別にイエス・キリストのように生きたいとは思わない、自分には自分の生きる道があるのだと思うのかも知れません。
けれども、この言葉は、私達にわかりやすく言い直すならば、「誰でも、本当に生き甲斐のある人生を生きたいと思うなら」ということです。
「誰でも、意味のある人生を生きたいと思うなら」「誰でも、価値のある人生を生きたいと思うなら」・・・やがての死で全て空しく消えてしまう人生ではなく、滅びに向かって進む人生ではなく、そうではなく、死をもってしても終わらない永遠の命を持って、天の御国に向かって、神様が本来人間に下さっている愛と喜びと平安を持って、神様と共に生きる人生を生きたいと思うならば、ということです。
なぜ、イエス・キリストは、こんなことをわざわざ言うのでしょうか。誰だって、本当に生き甲斐のある人生を求めているに決まっているでしょう。
しかし、イエス様はここで、私達に一つのことを気付かせたいのです。それは、人生には逆説があるのだということです。
25節「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
人生にはこういう逆説があるから、気を付けなくてはならないのです。
つまり、「いのちを救おうと思う者はそれを失い」・・・自分の人生を大切にしたつもりで、生き甲斐のある人生を過ごしたつもりで、成功した人生・価値ある人生を生きたつもりで、実は、それを失っている。人生で一番大切なものを失っている。生き甲斐も価値も全てを失っている、ということが、一方で起きるのだというのです。
他方、その続き、「わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」・・・わたしのため、つまりイエス・キリストのために、「いのちを失う」とは、必ずしも文字通り死ぬこととは限りません。自己中心を捨てて、自我への執着を捨てて、あるいは、今までこれが人生で大切なことだと思って握り締めていたものを一旦手から離して、イエス・キリストを求めてみると、実は、「それを見いだすのです。」・・・かつてあれほど求めて、手に入らなかったものが、実はそこに、イエス・キリストの所にあった、と気付く。ここに人生の逆説があるのです。
この逆説は、決して、気付く人は気付くけれども、気付かなければ別にどうということもなく幸せな一生を終えることが出来るのだという程度のことではありません。
26節「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」
実際に、全世界を手に入れるほどの成功を収めたかに見えても、一番大切な「まことの命」・・・本当の人生・・・を失っていると、誰でも、愕然とすることになるのだというのです。その時には、何とかしてそのまことの命・永遠の命・本当の人生を取り戻そうと思っても、人間にはたった一度の人生しかありません。もう何も差し出すものが残っていない。そういう恐るべき事態が、誰の人生にも有り得るのだというわけです。・・・聖書は、全ての人の人生を神様の御前に正当に精算する最後の審判があるのだと教えています。
ヘブル人への手紙9章27節「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」・・・誰にでも訪れる死。そして、全てに正当な評価を下す最後の審判で、人生の逆転を食って愕然としないように備えなさいということでしょう。
26節「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」
人生にはこのような逆説があるのだということは、何も最後の審判を待つまでもなく、私達は現実の中でもたくさん見聞きして知っているでしょう。
例えば、私自身の経験を申し上げるならば、先日、今ご結婚準備中のY先生とH先生が、私と家内の結婚関係の資料を見にいらっしゃいました時、私は久々に、自分達の結婚式の写真を見ました。その頃私は某大手建設会社の社員でしたので、結婚式に会社の上司が来ているわけです。そこで高々とグラスを差し上げて乾杯の音頭を取っている私の部長は、実に優秀な、出世街道を若くして上り詰めていった人だったと思いますが、しかし、私が会社を辞めて神学校へ進みましてほどなく、いわゆるゼネコン汚職で、その元上司が逮捕されて行くのを私はNHKのニュースで見て、ビックリすることになったのです。
どんなに成功しているように見えても、たとい全世界を手に入れても、自分の人生を生かすことが出来なかったという逆説が、人生にはあります。せっかくの人生が、自らの落ち度によって、あるいは病によって、あるいは事故によって、あるいは死によって、思いもかけない結末に至る有様を、私達はいくらでも見ているのです。ただ、それを自分のこととは思わず人ごとと思ったり、また、今のこととは思わずずっと先のことと思っているのは、私達に、それを自分の身に引き寄せて考えるだけの想像力が欠けているからではないでしょうか。
こういうことを、自分のこととして、我が身に引き寄せて考えることの出来る人は、人生観が一つ深まるのだと思います。
先程の二冊の本ですが、これを読んでいると、気付くことが一つありました。それは、こういう所に書く人達は、もちろん私から見れば人生の大先輩達で、かなりお年を召した人達です。そういう方々は、たいてい、何らかの形で戦争体験をお持ちなわけです。そして、多くの人が、自分はあの戦争体験によって、死生観が変わったとか、人生観が定まったとか書いておられることに気付くのです。
つまり、戦争をくぐった人達は、死を間近に見たわけです。そして(ここが大切な所だと思いますが)、死を身近にした人達はそこで、何が価値あるものであり、何は価値の無いものであるか、否応なしに思い知らされたわけでしょう。
この世で私達が大切にしているもの、例えばお金や地位や評判、権力、肩書きといったたぐいのものが、実は死という現実を前にした時には、何を差し出してもまことの命を買い戻すことは出来ない、正にここでイエス・キリストが言われる通りであることを、実体験したのだと思います。だから、あの世代の人々の死生観・人生観は、それなりに一本芯が通った所を感じさせるのでしょう。
死を目の前にする時、あるいは、死という不可避の現実を自分の身に引き寄せて考える時、私達に、ものごとの本当の姿がだんだんと見えて来るのではないでしょうか。
だから、中世のある修道院では、修道士達は互いに「メメントモリ」と挨拶したのです。「メメントモリ」とは、「死を覚えよ」という意味です。あなたも死すべき人間であることをゆめゆめ忘れるな、ということです。彼らはそうやって、いつも死を意識に置くことで、人生に本当の価値あるものを探し求めたのでしょう。
また、古代マケドニアのある大王は、奴隷の一人に面白い役目を担わせていたそうです。それは、毎朝、大王に向かって、大王がその時何をしていてもお構いなく、「大王、あなたもやがて死ぬべき人間であることを今日もお忘れになりませんように」と告げる役目であったそうです。
死を忘れた人生は、物事の本当の価値を忘れた人生になります。死を忘れてはならないと、賢い人達は知っていたのです。
だからと言って、明日から例えば、毎朝ご主人に、「あなたも死ぬのよ」なんて言い始めたら、「おい、何だよ、縁起悪いこと言うなよ」と気味悪がられてしまうでしょう。しかしそういう風に死について、悔いの無い生涯について、自然に話せるようになれば、私達の人生も変わるのではないでしょうか。とにかく、まず自分から、自分がやがて死すべき者であることをわきまえることでしょう。
考えてみますと、私達が今日こうして、召天者記念礼拝で覚える方々の多くも、あの戦争を経験した方々でしょう。死を身近に人生を考えた方々でしょう。私達は今日、彼ら人生の先輩達から、メメントモリという言葉を聞くのだと思います。
では、私達死すべき人間が、本当に生き甲斐のある人生、意味ある人生、価値ある人生を自分のものとするためには、どうしたらよいのでしょうか。ここで、イエス・キリストは、三つのことをせよと、24節で教えています。
24節『それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』
ここで、イエス・キリストは、人生を旅にたとえています。
人生というたった一度の引き返すことのできない旅路を歩むには、三つのことをわきまえる必要があるのです。
その第一は、捨てるべきものがある。
第二は、持つべきものがある。
そして第三は、向かうべき道がある。この三つです。
私達が旅に行く時も、同じです。旅に何でも持って行くことは出来ません。そして持つべきものがあり、行くべき方向を明確に知らなければならないでしょう。
さてイエス・キリストがおっしゃる内容は、しかし、驚くべきものです。
第一に、何を捨てるのか。・・・24節、何と、自分を捨てよ、とあります。 本当の人生の旅路を歩むためには、自分へのこだわりを握り締めて離さず引きずって行くと、大変な邪魔になるから捨てよと言うのです。
第二に、何を持つのか。・・・24節、何と、自分の十字架を負え、とあります。
十字架というのは、当時の死刑の道具です。自分の十字架というのは、自分を殺す道具です。
そして第三に、向かうべき道。どこへ行くのか。・・・24節、わたしについて来なさい、とあります。
自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてイエス・キリストについて行く。 さてそうすると、どうなるのでしょうか。
そうすると、三つのことが起きる、とイエス・キリストはここで教えています。
第一は、25節。
「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
・・・命を見いだす、というのです。ここでいう「命」とは、ただ生きているという命とは違う、本当の命、永遠の命、死んでもなくならない命ということです。
第二は、27節。
「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。」
・・・やがて世の終わりに、神様から報いを受ける、というのです。
ここでイエス・キリストは、ご自身のご生涯を指差しておられるように思います。イエス・キリストは、正にご自分を捨て、ご自分の十字架を負って歩んで行かれた方でした。そしてその行き着く先は、十字架の死を越えて、27節、栄光の天の御国の扉を開くことになったのでした。ですから、私達が同じ道を、自分を捨て、自分の十字架を負って、イエス様について行く時、そこに待つのは、やがて来る天の御国の栄光という巨大な報いなのです。
そして第三に、28節。
「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」・・・この御言葉は、色々に解釈出来る所ではありますけれども、自分を捨て、自分の十字架を負い、イエス様について行く者にとっては、死の意味は変わるのだということでしょう。
その人々にとっては、もはや死は滅びではなく、消滅ではなく、全ての終わりではありません。そのような絶望の死を味わうことはもはやない、むしろ、生きる時も死ぬ時も、主イエス様と共に永遠の命を味わい、今地上でも神の国に生き、やがて召された後も天の御国に生きる、ということでしょう。
以上三つのこと、本当の命を見いだす、神の報いを受ける、そして今も後も死から解放されて永遠の御国に生き続ける。
今日の箇所で、イエス・キリストは私達に、人生を間違えるなと警告しておられると思います。
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」
これは警告の言葉です。私達が、たった一度の人生を間違えて進まないようにとの、注意の標識のような御言葉です。本当の人生を生きたければ、私について来なさいという、招きの御言葉でもあります。
キリスト教の歴史の中で、多くの信仰の先輩達が、今日のこの招きの御言葉によって、空しい人生から献身の人生に進む決心をして来たのです。
召天者記念礼拝というのは、このイエス様の招きに応えて、イエス様の後について生きた先輩達を思う時です。
多磨霊園には、キリスト教の大先輩達が眠ります。そして、そこにある多磨教会の墓にも、私達の先輩達が眠ります。あるいは、別のお墓に眠る私達の信仰の先輩達もあり、また、地上の人生では信仰を公にしなかった方々であっても、ご家族の思いによって神様の御手に委ねられた方もあるでしょう。全て、私達より先に地上の旅路を歩み切った先輩達です。今日私達は、彼らの姿から、メメントモリの語りかけを聞きつつ、主イエス様の招きの御言葉に耳を傾けたいと思います。
私達自身の生と死、生きることと死ぬことをよくよく考え、人生の軌道を確かめ、必要な修正をほどこし、今日、一人一人が本当の人生に歩みを進める決心を確かめることが大切だと思います。