第一コリント3:1〜:9
气Rリント 3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
气Rリント 3:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
气Rリント 3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
气Rリント 3:4 ある人が、「私はパウロにつく。」と言えば、別の人は、「私はアポロに。」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。
气Rリント 3:5 アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。
气Rリント 3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
气Rリント 3:7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。
气Rリント 3:8 植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。
气Rリント 3:9 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。
教会総会が来週に近づきました。多磨教会は、ここ2.3年、大きな変化の時を迎えています。
それは神様の導きを信じて歩むがゆえの変化、神の国の世界が開ける希望の変化です。
牧師が、前任の廣田牧師から廣瀬牧師に変わる。主日礼拝が、ここ多磨教会一カ所から、めぐみ教会との二カ所に分かれる。 開拓伝道委員会・O委員長から、めぐみ教会運営委員会・T委員長に変わる。更に、伝道師として、山口武春神学生を迎える。・・・・・一つ一つが大きな変化です。これは、教会にとっての変化というだけでなく、そこに関わる信徒一人一人にとって、その信仰の生涯の中で特筆すべき大変化の時を迎えることとなっているわけです。
さてそのような時に、確かめるべき大切な事があります。それを今日の箇所は教えてくれます。そのような変化の時を、あのコリント教会も経験しました。そして、・・・失敗したのです。
彼らの経験した変化というのは、いわば牧師の交代でした。コリント教会を開拓した初代宣教師は、パウロでした。そしてパウロが去ったあと、2代目の牧師として、アポロが引き継いだのです。そうしたら何がおきたかというと、
3章4節「ある人が、「私はパウロにつく。」と言えば、別の人は、「私はアポロに。」と言う。」
・・・私はパウロにつく、私はアポロにつく、といって、つまり、分裂、分派、ねたみ、争いが起きてきたというのです。
幸いにして多磨教会には、そういうことが起きていないわけですが、私達に当てはめれば、私は廣田牧師につく、いや私は廣瀬牧師につく。私はO委員長につく。いや私はT委員長だ。いやいや私は今度来る山口伝道師だ・・・・という次第です。
そんな彼らにパウロは、大切な基本を確かめさせようとします。パウロが教えたいのは、大切な事は何か、私達は何をしているのか、という基本です。そして、その基本から見て、パウロとは何なのか、アポロとは何なのか、教会の働き人とは何なのか、きちんと位置づけてみせるのです。
(1)まずパウロは、人間に目を奪われる彼らが、ちっとも基本がわかってない、ということを指摘します。
1節「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。」
さてここに、大変面白いことが書かれています。私達はクリスチャンです。でもパウロは、同じクリスチャンでも二種類あるというのです。
一つは御霊に属するクリスチャン。もう一つは、肉に属するクリスチャンです。さて皆さん、私達は、どちらのクリスチャンなのでしょうか。
御霊に属するクリスチャンというのは、聖霊に満たされて、聖霊の導きに従って、神中心の生き方をしている人でしょう。
肉に属するクリスチャンというのは、神ではなく、自分の思いに従って、自己中心の生き方・・・クリスチャンになる前と同じ原理に従って生きている人でしょう。
とはいえ、この人もクリスチャンです。救われていることに変わりはありません。しかし、自分を神さまにあけ渡していない。人生の真ん中には自分がいて、神さまは、受け入れたとはいえ、端っこの方に押しやっているという姿です。
肉とは、聖書の言葉では、生まれながらの人間の性質ということです。新しく生まれていない。それをさらに言い換えて、6節では「キリストにある幼子」と言い、その人はどうかというと、
2節、「私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。」
というわけです。・・・あなたたちはキリストを信じて新しく生まれはしたものの、おぎゃーと生まれた赤ちゃんのまま、ちっとも成長しようとしない。だから、成長して理解すべき神の知恵を、理解できないでいるのだ。
まあ私達も、心の中では、いやあ、私も御霊に属しているとは言いにくい。まだまだ肉的な部分が残っているかなあ、などとしおらしく考えるとしても、しかし、どうでしょう。面と向かってこのように他人から、あなたはまだまだ肉に属して生きている、などと言われたら?・・・もう、「かちん」とくるのではないでしょうか。
私は信仰生活何年、聖書を何回も読み、毎日祈り、CSの教師をし、聖書知識も増え、沢山説教を聴き、本も読んだ。幼子ではなく、ずい分成長してきたものなのだ。・・・などと言うかも知れません。しかし何をいくら並べ立てても、だめなのです。なぜかというと、パウロはここで、御霊に属するクリスチャンと肉に属するクリスチャンを判別する基準をはっきりと差し出しているからです。この判断基準に照らして、自分を判定しなければなりません。その判断基準というのは、
3節、「あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」
ということなのです。
信仰生活が何年たとうが、どんなに沢山聖書知識があろうが、どんなにすぐれた賜物があろうが、どんなに熱心にでボーションしていようが、あなたの心にねたみがあるなら、あなたたちの間に争いがあるなら、・・・これがパウロの判断基準です。あなたはまだ肉に属して生きているということなのだ、と言うのです。・・・まあ実に痛いところを突いてきますね。こう言われるとぐうのねも出ませんね。さしもの誇り高きコリント教会も、パウロ先生からいきなり首ねっこを押さえられ、もう手も足も出ないといったところです。
このパウロの判断基準・・・ねたみや争いがあるなら、という基準は、別な言葉に言い換えますと、「愛」がありますか、ということなのです。ずっと先に進んでいきますと、13章に「愛の章」が出てきます。人間は、どんなにすぐれた事をしていても、愛がないなら、その一切は無価値である、と断言する、あの有名な章です。ご一緒に開いてみましょう。
13章1〜8節、そして13節、「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。・・・こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」
さて今日の3章に戻りまして、コリント教会の人々よ、なる程あなたたちは、すばらしい働きをしているかもしれない、高尚な真理を悟っているかも知れない、輝く賜物を持っているかもしれない、しかしだ、何をやっても、何を悟っても、何を持っていても、ねたみや争いがあるということは、愛がないということなのだ。一番肝心な愛がないということは、一切が無価値だということなのだ、愛がないということは、あなたたちは、まだ肉に属しているということ、まだ幼子のままで成長していないということ・・・それはただの人だということなのだ。とパウロは言います。
3章4節、「ある人が、「私はパウロにつく。」と言えば、別の人は、「私はアポロに。」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。」
この「ただの人」とはおもしろい言い方です。「ただの人」で何が悪いのか、と思うかもしれませんが、これは、クリスチャンになっても、実際の生き方はこの世の人達と全く変わっていない、ということです。ということは、逆に言いますと、クリスチャンというのは、ただの人ではなくなるのだ、なくなるべきなのだ、ということです。
クリスチャンには、この世の人とは違う生き方、違う価値観、違う人間像がある。そこに向かって成長していかなくてはならないのだと、ここで強く勧められているわけです。
そのためには、自己中心を捨てて、我が身を御霊に委ねて、御霊に満たされて歩む、という御霊に属する人として歩むことが大切なのです。
さて、私達はどうでしょうか。もう一度私達は、御霊に属するクリスチャンだろうか、それとも肉に属するクリスチャンだろうか、どちらだろうか。そして、どちらを目指して歩んでいるだろうか。・・・私には愛があるだろうか、それとも、ねたみ心、争い心があるのだろうか。これは各人立ち止まって考えるべき大切な点です。他人のことではありません。・・・あの人は、御霊に属しているとか、肉に属しているとかいうのではなくて、私はどうだろうかと考えるべきであります。
(2)さてでは、コリント人教会の人々がこだわっていた、人間的なものというのは、どのように評価されるのでしょうか。
パウロは、神様のみわざが進んでいく中に、人間の働きを正しく位置づけることを教えます。これが私達にも大切なことです。私達も、神様のみわざが進む中で、働きます。伝道します。奉仕します。・・・その私達の働きは、どのように位置づけられるのでしょうか。
5〜7節、「アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」
ここに、神様のためになされる働きとは何か、働き人とは何か、大切なことが教えられていきます。
まず、働き人とは、主に用いられたしもべである、ということです。働き人は決して主人ではない、しもべです。決して支配者ではない、仕える人です。
それは具体的には何をするのか、というと、植えたり、水を注いだりする、というわけです。
6節、「私が植えて、アポロが水を注ぎました。」
実際コリント人教会というのはパウロが開拓を始めて、福音の種蒔きをし、そして多くの人が救われた時に牧師交代となってアポロが来て、芽を出した所に水を注いで育てた、というわけです。
では、種をまいた初代と、水を注いだ二代目と、どちらが大切なのか。・・・答はそのどちらでもなく、成長させて下さる神こそが大切だ、と知らなくてはならないのです。
6〜7節、「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」
神の国が前進していく、伝道が進んでいく、人が救われていく・・・その全プロセスにおいて、目をとめるべき一番大切なポイントは、種まく人でも、水注ぐ人でもなく、成長させて下さる神である。・・・これがまず大事なことです。
廣田牧師でもなく、廣瀬牧師でもなく、神である。O委員長でもなく、T委員長でもなく、神である。
では、人間は、無なのか・・・というと、そうではないのです。それぞれがなした働きは、きちんと評価され、報いを受けます。
8節、「植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。」
つまり私達は、人間中心になって、人間の働きを過大評価してはいけない。しかし、過小評価もしてはいけないのでして、人間が何だ、牧師が何だ、委員長が何だ、と無視してはいけない。人の働きを正しく位置づけなくてはならないのです。では、正しく位置づけるにはどうするのかというと、「成長させて下さる神」というものさしの中に、人間の働きを位置づける、ということなのです。
神が人を救い、成長させる、という大きな事業があって、その中におのおのが、なすべきつとめをする・・・ある人は種をまき、ある人は水を注ぐ、というおのおの違う奉仕があるのです。8節には「それぞれ自分自身の働きに従って」報酬をうける、とあります。「働きに従って」ということは、「あげた成果に従って」ということではありません。
つまり、ある人はひたすら種をまく、ある人はひたすら水をくむ、そしてある人は刈り取るかもしれない。その中で人目に華々しいのは、当然刈り取りをする人のあげる成果です。しかし神は、そのような成果に従って報いるのではない。忠実に働いた、その働きに従って報いる、というのです。一つの神のみわざの中で、各人が違った働きを担っているわけです。そこにもう一つの大切な三つ目の教えが出てきます。(一つめは、働き人はしもべであって、大切なのは成長させて下さる神である、ということ、二つめは、各人がそれぞれ違った自分の働きをするということ)
そして三つめは、そのそれぞれ違った各人の働きが、実は一つであるということです。神のみわざの中で、一つのことなのだ、というのです。
8節、「植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。」
この、ちがうけれども一つだ、一つだけれども皆違うということ・・・これが今年の標語に掲げられていることであります。・・・「みなが一致、みながユニーク」
一致かつ多様、多様かつ一致ということです。教会という所は、また、神の国という所はそういう所なのです。
つまり、整理するとこういうことです。唯一の神様が、何千年にもわたってなしておられる救いのみわざ、神の国の進展があります。その何千年の積み重ねの中で、私達はそれぞれの分野を担って働きをします。その何千年の積み重ねの中に、廣田牧師から廣瀬牧師へのバトンタッチがあり、その何千年かの積み重ねの中に、開拓伝道委員会からめぐみ教会運営委員会へのバトンタッチがあります。・・・全てが、一つの神様のすすめる働きに連なっています。
全てが一つだと思うと、私達の気持ちは大きくなってきます。そして、私はあっちにつくとか、私はこっちにつくとかいうことがいかに無意味なことかがわかるでしょう。
全てが一つであり、全てが神のみわざ、ということもわかってきます。例えば、タネをまくといっても、それは、神が備えて下さった福音のタネをまくのですし、水を注ぐといっても、それは神が備えて下さったみ恵みの水を注ぐのです。そして私達が土地を作ったのではなく、土壌を備えるのも神であり、生命をはぐくむ空気、日光、温度、全て、神が用意しておられて、私達は、それを委ねられて、なすべきことをし、あとは、つつしんで収穫の時を待つだけなのです。成長させて下さるのは神ですから。伝道とはそういうものです。
9節、「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」
教会とは、神の畑、神の建物であります。これを神が建て上げ、成長させる。そのために私達は、皆が一つになって、かつ、皆が違う奉仕をする。皆がしもべであり、仕え人です。大切なのはただ神であります。それを悟るならば、私達は愛によって一つになって、ただ神のため、み国の前進のために仕えよう、とわかるでしょう。・・・それが今年の標語の後半です。「みなが一致、みながユニーク、みなで神の栄光をあらわす。」そこには、一切のねたみの入る余地はないし、一切の争いの入り込む余地はないのです。私達はこのことを、この多磨教会の歩みの変化の時に、教会総会を前にして、よくわがこととして味わいたいと思います。