『皆が一致して』

牧師 広瀬 薫

コリント人への手紙第一1章10〜20節

 あの宗教改革者カルヴァンをして、「神よりも悪魔が支配しているとさえ思われる」と嘆かせたコリント教会。人間的なあらゆる問題が渦巻き、欲望や自己中心的な願いがグツグツと煮えたぎる肉鍋のようだと評されるコリント教会。

 使徒パウロは(この教会を開拓し、今は次の開拓地エペソにいるのですが)、どれほど苦々しい思いで、コリント教会の堕落のニュースを聞いたことでしょうか。そしてどれほど悔しい思いで、この手紙を書き始めたことでしょうか。

 しかしです。前回見た手紙の冒頭で、彼は「コリントにある神の教会へ」と呼びかけ、9節では、神はそれでもあくまでも真実な方なのだという、神への絶対信頼の思いを書きつづっていました。

 さて、今日の10節から、いよいよパウロはコリント教会に渦巻く現実の問題を取り扱う教えに取りかかって行きます。

 この手紙を読み進めて行きますと、実に色々な問題があったことがわかるのです。分裂の危機、近親相姦、訴訟、エゴ、…パウロはそれらの問題の中で、どの問題を真っ先に取り上げているでしょうか。・・・それは、教会の分裂問題、教会の不一致の問題でした。それは、他の課題に優先する、大変重要な課題として扱われているわけです。

10〜12節、「 さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。」

 コリント教会には、不一致があり、仲間割れがあり、争いがあったというわけです。

 ある方は、このような記事を見て、ショックを受けます。なぜなら、初代教会と言えば、聖霊に満たされた理想的な時代と思うからです。しかし、実際はこの通り、この地上に、たとえ教会であっても、ユートピア、理想郷があるのではないのです。

 全ての時代に、人間は欠け多き存在として欠け多き教会を作りました。しかしだからと言って、神様から捨てられるのではなくて、その現実の欠け・弱さ・罪と取り組みながら、そこに神様の素晴らしいみ恵みを体験してきたのです。

 私達も同じです。教会に問題が起きること自体は、少しも問題ではありません。本当の問題は、そこでその問題を、神様の御心に従って扱うことが出来るか、ということにあるのです。神様の御心に従うことが出来れば、問題はむしろ新たな恵みを頂く機会であり、神様に近づき成長するチャンスであります。

 では、コリント教会は、不一致と争いの問題を、どう扱えばよいのでしょうか。

 まず、どのような問題があったのかを見てみましょう。 11節、「実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、」

 その不一致・争いの実態は、どのようなものだったのでしょうか。

12節、「あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。」

 さてここに、四つのグループがあって、それぞれが当時のキリスト教会指導者の名を旗印に掲げて、分派を形成しかかっていた、ということでしょう。  それぞれが掲げたのは、4人であって、パウロを掲げたパウロ派、アポロを掲げたアポロ派、ケパ、すなわちペテロを掲げたペテロ派、そしてキリストを掲げたキリスト派です。

 第一のパウロは、言わずと知れた、コリント教会の創設者で、当代きってのキリスト教理論家、精力的な伝道者、特に異邦人伝道を担う、信仰による救いという福音の奥義の理解の深い、大使徒でした。

 第二のアポロというのは、パウロがコリントを去った後コリントにやってきた、聖書に通じた雄弁な働き人でした。恐らく、若くてハンサムで、スタイルの良い、頭の切れる新進気鋭の教職者であります。(私の愛する家内は、天国へ行ったらぜひお会いしたい人々の一人に、このアポロをあげるのです。)

 第三のケパ、すなわちペテロとは、これまた言わずと知れたイエス・キリストの一番弟子、十二使徒の筆頭格・中心人物であります。

 そして第四に、キリスト。

 さて、この4派。皆さんなら、どれを好み、どれを嫌うでしょうか。

 ある方は、パウロ派とはイコール自由信仰派、アポロ派とは雄弁派、ぺてろ派とは律法尊重派、キリスト派とは聖霊派、と分類し、またある方は、パウロ派とは熟年壮年会、アポロ派とは熱烈青年会、ペテロ派とはお年を召した、変化を嫌う老年層、と分類して見せます。

 いずれにせよ、どの派もここで、叱られています。そういう分派活動自体が叱られている、ということに、よく注意したいと思います。

 ここで私達は、二つのことに気付くでしょう。

 一つは、パウロ自身が「パウロ派」を叱っている、ということです。  「私はパウロにつく」と言われて、当のパウロ自身が、ほめられて喜ぶどころかかえって大迷惑顔なのです。

 なぜかと言えば、「パウロこそ一番」という、その争いが、神の御心にかなっていない、福音の真理のための戦いではなくて自己中心の分派活動であるからです。

 教会とは、一致を大切にする所、一つの信仰、一つの神の家族、一つのキリストの体を共に立て上げる所、…という大切な点がわかっていない人がそういうことをするわけでしょう。

 もう一つここで気付きますのは、ここに、「私はキリストにつく」と言っている人達がいるということです。そして、この「キリスト派」も、他の三派と同じく叱られている、ということです。

 ある方々にとっては、これは意外なことでしょう。  「私はキリストにつく」とは、全くまっとうな信仰姿勢ではないか。人につくのではなく、キリストにつく、で良いではないか、と思うわけです。

 けれども、この「私はキリストにつく」も、ここで確かに叱られているのです。彼らはなぜ駄目なのでしょうか。

 皆さんに考えてみて頂きたいと思います。今コリント教会が、分裂の危機に瀕して苦しんでいます。ある者はパウロ、ある者はアポロ、ある者はペテロを掲げて、仲間割れしています。主導権争いをしています。

 そういう時に、「あら、あなた達は何を人間にこだわっているのですか。私は、そんな人間になどつかないで、キリストご自身だけについているのです。パウロもアポロもペテロも、しょせん人間は私には問題にならないのです。これだから、人間の集まりはいやになってしまう。私は、キリストだけについているのだから、私には構わないで。…」というような態度・・・冷笑的な、皮肉な、自分と他人を区別する態度・・・実はこれこそ、最も鼻持ちならない、最も悪質な、キリストご自身に名を借りた分派活動として、パウロによって切られているのであります。

 教会が傷を負い、最も皆の力を一つにすることが必要な時に、「私はキリストがあればいいのだから、構わないで。」というのは、そして、教会を建て上げるために力を合わせないのは、それは、分離主義であって、新たな形のパリサイ人根性なのであります。

 もしも、本当にキリストにつく、と言うのならば、当然、キリストの体である教会を建て上げるために全力を捧げるはずであります。  もしも、本当にキリストにつく、と言うのならば、そのキリストが任命した使徒であるペテロやパウロに従うはずであり、キリストが立てた教職者であるアポロを認めるはずであります。

 そうしないのは、口では「キリストにつく」と言いながら、その実、自分の都合の良いようにしているのであって、実は少しもキリストについてなどいないのです。

 今でも、日本人には、「キリストについていれば、教会に行かなくても、洗礼を受けなくても、心の中で信じていればよいのでしょう。」という方がよくあります。しかし、キリストにつく、と言うのならば、そのキリストが受けよ教えた洗礼を受け、キリストが建てた教会に行くべきであります。そうしないのは、実は自分の都合に従っているのであって、キリストについてなどいないのであります。  今日の箇所で、「キリスト派」も否定されていることに、心をとめたいと思います。

 さて、そのように、不一致の現状を分析して見せた上で、パウロは、それではいけないということを、三つの言葉を並べて教えます。

13節、「キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。」

 一つ目は、キリストが分割されたのか。・・・強烈な言葉です。  あなた達のしていることは、キリストをバラバラに引きちぎるようなことではないか。キリストは一つなのだ、という原理を確かめよ。

 二つ目は、あなた方のために十字架につけられたのはパウロでしょうか。・・・更に強烈な言葉です。

 誰が、あなた達のために命を捧げて下さったのか、わかっているのか。ただイエス・キリストが、尊い犠牲を捧げたのだ。私パウロやアポロやペテロは、その主に生かされるしもべであって、人を救ったり出来る者ではない。ただ、イエス様の十字架が、唯一の救いの道なのだという原理を確かめよ。

 そして三つ目は、あなた方がバプテスマを受けたのは、パウロの名によるのか。

 今でも、自分が誰から洗礼を受けたのかを気にしたり、自慢したり、こだわったりする方があります。そこには、人間賛美が見え隠れしてきます。しかしパウロは、それこそ無意味なこだわりだと言うのです。誰が授けても洗礼は一つ、という原理を確かめよ、というのです。  そして、自分が洗礼を授けたばっかりに、「私はパウロ先生から洗礼を受けたからパウロ先生につく」などという人が出たら困ると考えているのです。

14〜16節、「私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けたことがないことを感謝しています。それは、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたと言われないようにするためでした。私はステパナの家族にもバプテスマを授けましたが、そのほかはだれにも授けた覚えはありません。」

 もちろん、パウロは、洗礼自体を軽んじているのではありません。ただ、一番大切な自分の使命に比べれば、洗礼ははるかにどうでもよいことに属するのだ、というわけです。では、その一番大切な使命とは何でしょうか。

17節前半、「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。」

 要するに大切なのは、福音宣教。つまり、人が救われることです。  これこそ、人の命に関わり、人の永遠の行き先に関わることですから、最重要のことだ、というのです。

 その、最重要課題に比べれば、今あなた達が喧々囂々(ケンケンゴウゴウ)としているのは、一体何なのだ・・・一度頭を冷やして考えて見よ、ということでしょう。

 教会でものごとを考える時に、一つの見方として「そうすると、福音宣教に役立つだろうか」「それは、救霊の働きを進めるだろうか」ということを考えてみる習慣をつけること、これが私達にとって大切だと思っています。  この最重要課題をキチッと立てていれば、たいていの問題はおのずと解決するのです。要するに大切なのは、十字架の福音であると確かめることです。そうすれば、例えば、不一致になどならないのです。なぜならば、不一致は福音宣教を進めないからです。

 さてでは、福音宣教を進めるためにはどうするのでしょうか。・・・という所にまで、17節の話は進んで行きます。

 十字架の福音を伝えるにはどうするのか・・・  パウロのように論じるのか、アポロのように雄弁に語るのか・・・私達も、何とかして十字架の福音が相手に有効に伝わるように、拒絶されないように、色々と工夫するのでしょう。・・・その点、パウロ流、アポロ流、ペテロ流、…ということで、また不一致の種があったのかも知れません。

 しかしパウロは、そんなことがまた、重要なのではない、と切るのです。

17節続き、「それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。」

 つまり、大切なのは、言葉やテクニックではなくて、要するに十字架、事実としての十字架、「これがあなたのための十字架なのだ」とナマのままで、ストレートに差し出すことなのだと言うのです。

 すると、どういうことが起きるのでしょうか。  すると、人間は二種類に分かれるのだとパウロは言います。

18節、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」

 二種類というのは、第一に、「滅びる人々」と、第二に、「救いを受ける私達」です。そして、この二種類の人達の、十字架に対する反応は、正反対であって、

第一に、滅びに至る人々は、十字架の福音を「愚かだ」と思う・・・バカバカしい、くだらない、信じるに価しない、と思う・・・今でもそういう人達がいるでしょう。

そして、第二に、救いを受ける人達は、十字架の福音を、「神の力」だと思う・・・素晴らしい、なるほど神の救いの力とは、こういうものなのだ、と思うわけです。・・・今でもまた、こういう人達が、感謝なことに起こされているわけです。

 私達はただ十字架の福音を宣教する。すると、私達の言葉の力ではなくて、十字架の福音自体が持っている力が、ある人を滅びに、ある人を救いにと分けるのだと言うのです。  これが、人間の力ではない、十字架の福音の力であります。

19節、「それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」」

 さて、こうして、パウロは十字架の福音を掲げました。  要は、人間の力ではなく、十字架の福音の力なのだと、これは正に、キリスト教の真髄を掲げました。

 その上で、最後のだめ押し・・・次の20節で、この、神が立てた十字架の福音に勝るものがあるのか、あるというのなら出して見せよ、と迫るのです。

 これは、今人間的なものにこだわり争っているコリント教会に対して、パウロが仁王立ちとなって、一喝を加える場面なのです。

20節、「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」

 さあ、自分にこだわる者達よ、人間にこだわる者達よ、あなた方がこだわっているものは、あなた方がそのために争っているものは、十字架の福音に勝る何かなのか。十字架に勝るものがあるというのなら、出して見せよ。

 あなた方は何を論じあっているのか、人間の知恵で、人間の言葉で。

 あなた方は今、神が立てた十字架の福音を見よ。その前に立てば、たとえギリシャの哲学者達であっても、たとえユダヤの律法学者達であっても、たとえローマの雄弁家達であっても、・・・十字架の前では、全て影が薄れる愚かなものに過ぎないではないか、全て人間の口は黙する他ないではないか。それを悟るならば、あなた方は全ての人間的なこだわりを捨てて、十字架のもとに一つになるはずではないのか。

・・・20節は、そういうパウロの一喝です。 「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」

 私達のこの世界には、不一致があり、争いがあり、戦争があり、分裂があります。  私達の世界は、何にこだわって、そうするのでしょうか。  聖書は、キリストを見よ、と指差します。人間的なこだわりから解放されて、十字架のもとに座れ、と招きます。そこに、神の家族、兄弟姉妹が一致する世界があるのです。同じ心、同じ判断を共有する世界があるのです。

 私達が、自分にこだわるならば、人はそれぞれですから、バラバラに分かれるのは当たり前です。しかし、私達がただキリストにこだわるならば、キリストは一つですから、一致するのは当たり前なのです。  今年の標語案の三つの言葉の初めの部分、「みなが一致」は、今日の御言葉の10節から取りました。 10節後半、「どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。」  イエス・キリストの十字架を見上げて、十字架のみもとに身を置いて、この御言葉に今年一年取り組んで行きたいと願っています。お祈り致します。・・・


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