ペテロの手紙第一4章7〜11節
先週は、私達の教団の「宣教105周年記念大会」が行われました。 百五周年というわけですが、では、私達は百五年前にどこから来て、百五年間何をしてきて、これからどちらの方向に進もうとしているのでしょうか。
今回、その辺の思いをまとめた「横浜宣言」というものを発行しておりまして、今日皆様にお配り致しました。
そのように、どこから来て、今どこにいて、これからどこに行くのか・・・これをきちんと踏まえて、神様の御前に歩みを進めるということを、キリスト教ではとても大切にします。と言いますのは、キリスト教は、歴史の中でみ業をなさる全知全能の神様を信じているからです。単なる思想ではない、単なる哲学ではない、実際に、例えば、イエス・キリストが歴史の中に受肉して下さり、十字架にかかり、復活なさったという出来事があり、更に神様が世界をこれからどの方向に導いて行かれるのかという歴史観が、聖書の中にあります。
この歴史観の中で今を考えるということは、教団のことばかりではありませんで、私達多磨教会の歩みにおいても、故人の歩みにおいても、言えることです。
つまり、今置かれている世界をどう考え、受けとめるか。そして、その中に生かされている自分をどう考えるかということです。 今日の聖書箇所は、正にそういうことを私達に教えてくれる所です。
(1)まず、この世界をどう考えるか、です。
7節、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」
この世界をどう見るか・・・この世界は、終わりに近い、これが聖書がこの世界を見る目です。
では、それはいつなのでしょうか。近いというのですから、来年か、再来年か…。しかしこれはそういう意味ではなくて、「世界の歴史は最後の局面に入っている」という意味であります。
では、いつ世界は、最後の局面に入ったのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事、あれを境にして、世界は最終局面に入ったと聖書は教えるわけです。あれを境にして、私達の世界には神の国が到来しました。信じる者はすでに救われている、すでに罪赦されている、すでに永遠の命を持っている、すでにイエス・キリストは、この世を歪める罪と死とサタンの勢力を、圧倒的な力で打ち破って勝利を収められたのです。それが、今私達が生かされている世界…最後の局面に入った世界です。
しかし世界はいまだに理想像を実現していないではないか、とおっしゃる方もあるでしょう。つまり、聖書の見る今の世界は、すでに神の国は来ており救いは実現した、しかしそれは、いまだ完成されていず、完成は世の終わりであるという、「すでに」と「いまだ」の両面を合わせ持つ世界であるわけです。世の終わりの完成まで私達は、すでに勝ったとはいえ、相変わらず敵との戦いを続けなければなりません。しかし、勝利はすでに私達のものだということは確定しています。 それが目に見える形で実現するのが、「万物の終わりの日」ですが、その日が「近い」と聖書はいうのです。
(2)では次に、そのような世界に生かされている私達は、どのように生きればよいのでしょうか。
今日の箇所に、私達のあり方として、三つのことが教えられています。
@一つ目は、「祈る」ということです。
7節、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」 世の終わりの存在を知る者のなすべきことの一つ目は、祈りです。
A二つ目は、10節を先に見ますが、「神様から預かっている賜物を神様の御心に従って活かす良い管理者であれ」ということです。
10節、「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」
ここには、私達クリスチャンの人生について、大切なことが教えられています。
1、まず、「それぞれが賜物を受けている」
「それぞれ」という意味は、受けていない人はいないということです。それぞれが必ず神様の賜物を頂いているのです。 「私には何も賜物が無いのです」という言葉は、聖書に反しています。
2、次に、「神のさまざまな恵み」
「さまざま」という意味は、皆違うということです。目立つもの、地味なもの、多いもの、少ないもの…様々だというのです。比較は無用です。妬みは無用です。 むしろ私達が知るべきことは、世の終わりが来て、私達は神の御前での清算を求められるということです。 多く持つ者は多く求められ、少なく持つ者も少なく求められます。そのことを表す次の言葉が、三つ目のポイントです。
3、「神の…恵みの良い管理者として」
つまり私達は、「所有者」ではなく、「管理者」です。恵みの賜物は、神様からお預かりしているのであった、やがて清算してお換えしする日が来ます。それまでは、神様が私達に、「これを預けるから、地上の人生で活かしなさい」と言われるものを精一杯用いて、磨いて、活かさなくてはなりません。
この、「賜物を主のために活かす」ということが、二つ目のことです。
Bではどのように活かすのか。それが三つ目のことで、「具体的に賜物をどう活かすのか」ということです。 今日のテキストで、非常に特徴的な言葉があることにお気づきになられたでしょうか。
それは、「互いに」という言葉です。(8節、9節、10節) 賜物の用い方というのは、単に自分のためではなくて、「互いに」だと重ねて繰り返されるのです。「互いのため」ということを、常に意識するようにというのです。
具体的には、「互いに熱心に愛しあえ」「互いに親切にもてなし合え」「互いに仕え合え」と三つ出てきます。終末に向かって進むクリスチャンは、自己中心ではなくて、「互いに」ということが求められているわけです。これを一つずつ見て行きたいのです。
1、まず、互いに愛し合え。
8節、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」
「罪をおおう」とは、旧約聖書の表現法ですが、要するに「罪を赦す」ということです。つまり、この御言葉の意味は、「愛は多くの罪を赦すから」ということになります。
この意味ですが、二通りの解釈があり得るのです。
@神様が私達全ての罪を赦すのだから、私達も互いに赦し合うべきだという意味。Aもし私達がクリスチャンであると口にするのならば、私達の愛は、人の罪に対する赦しとして実行されなければならない。愛とは、本質的に、赦すものなのだから、というのです。 いずれにせよ、互いに赦せ、愛し合え、ということです。
2、次に、互いに親切にもてなし合え。
これは当時の状況としては、旅人のクリスチャンを家に泊めてあげることを意味していました。 宣教旅行で、あるいは迫害で家を追われて旅するクリスチャンのために、(当時は宿泊施設が発展していませんから)神の家族のクリスチャン仲間が宿を提供し合うという麗しい習慣があったのです。しかし、神の家族とはいえ、他人が我が家に転がり込んでくるのは、煩わしくで嫌だとも思うでしょう。それが、「つぶやき」です。
9節、「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」
ぶつぶつ言う、そのあなたの自己中心の思いを捨てて、互いに親切にもてなし合いなさい、というわけです。 3、次に、「互いに」の三つ目は、互いに仕え合え。
10節、「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」
神が預けて下さる賜物というのは、基本的に自分を楽しませるためにあるのではなくて、互いに仕え合うためにあるのです。具体的には、 11節、「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。」
ここには、宣教と奉仕という、代表的な二つがあげられていますが、さきほど申し上げたように、神は私達に一人残らず何らかの賜物を預けておられるわけですから、ここはひとごとのように読んだらいけないのでして、「では、私に預けられている賜物は何だろうか?」「私は、どのようにしてそれを用いて、人に仕えることが出来るだろうか。」と考えなくてはいけません。
さて、この賜物をもって人に仕えよという時に、ここに二つの大切なことが教えられています。
一つは、「ふさわしく」ということです。それを、神にふさわしくなせ、というのです。 神にふさわしく、というのは、忠実に、誠意をもって、ベストを尽くして、ということでしょう。
ある方は、そんな、私ごときがいくら頑張ったって、神にふさわしくなんてなりはしない、と思われるでしょうか。しかし、ここで聖書は、あなたにはそれが出来るのだから、なせ、というのです。それは、しかし、自分の力によるのではありません。
もう一つのことは、「神が豊かに備えてくださる力によって」というのです。ここが大事です。
二つをまとめると、「神の力によって、神にふさわしく」というのです。これが、私達の、賜物活用の精神です。神の力によって、神にふさわしく、互いに仕え合う。
(3)さて、以上、この世界をいかに見るか(終わりは近い)、そこに私達はどのように生きるべきか(賜物の良い管理者として、愛し合え、赦し合え、もてなし合え、仕え合え)、考えて来ました。
さてペテロは、11節後半に、以上の全てが向かうべき最終目標を書いています。
11節後半、「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」
さすが、なるほど、聖書はこうなのだ、と納得させられます。改めて目を開かれます。
もしも、この結びが無かったら、どうでしょうか。 先ほどからのペテロの教えを、文字通りのうわべだけ見るならば、これは、人間の道徳、あるいは人間関係の処世術、あるいは教会を上手に運営するための知恵、そんな風に見えるかも知れません。
しかし、皆さん、ペテロはそんな、人間同士の関係に終わることを考えていたのではなかったのです。
教えの最後にペテロは、今まで述べてきた全ては、ただ神の栄光のためなのだと、しっかりと天を指さしているのです。
私達が互いに愛し合うなら、赦し合うなら、もてなし合うなら、仕え合うなら、そして、神からの賜物が活かされるなら、それは、地上のことに終わらずに、神をあがめ、神に栄光を帰すことになるのだと言うのです。
別な言葉で言えば、私達が愛し合うことは、神礼拝の行為となるのです。 私達が赦し合うなら、神をあがめていることになるのです。 私達がもてなし合い、仕え合うことで、神の栄光が現れるのです。
私達は、全てを、地上の御利益を求めてではなく、ただ神の栄光を見上げてなそうではないか、という、ここに、キリスト教の大切なポイントがあります。
宗教改革者達はこのことを、「ソリ・デオ・グロリア(ただ神に栄光あれ)」という合い言葉と致しました。 私達が今生かされている目的も、究極のところこれです。
私達は、本当に、日々地上の俗な世界に目を奪われがちな者だと思いますが、地上の教会の、あるいは人間関係の、あるいは出来事の、その果てに、「神の栄光のため」という、上に向かう聖なる方向を見て、そちらに目を上げたいと思います。他の動機ではなく、目を天に上げる者でありたいと思います。そして、ペテロと共に、全てのことにおいて、「栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」と頌栄を口にする者でありたいと思います。
お祈り致します。