『私達を守る神』(召天者記念礼拝メッセージ)

牧師 広瀬 薫

詩篇121篇

 教会では、毎年夏に子供達を連れて松原湖のキャンプに行きますが、その途中そばを通る所に、清里というところがあります。今では若者で賑わう所、清泉寮のソフトクリームが有名な所ですが、その清泉寮一帯を開墾したのはKEEP協会という聖公会の団体でした。今そのKEEP協会所有地に行きますと、(ご存じでしょうか)入り口の両側の石の柱の一方に、今日の御言葉詩篇121篇が文語で掲げてあります。

「われ山に向かいて目をあぐ。わがたすけはいづこよりきたるや」

 正にどちらを向いても山---前に富士山、後ろに八が岳---という清里にふさわしいなあ、と思わせる御言葉です。

 この詩篇は、表題に「都上りの歌」とあります。  「都上り」というのは、旧約聖書の時代、神の民イスラエルの信仰者達が、神殿のあるエルサレムに向かって行く巡礼の旅を指しています。  彼らは、そういう巡礼の旅の中で、こういう詩篇をお互いに歌い交わしながら歩んだのです。

 しかしそれと清里と、何の関係があるのでしょうか。清里はエルサレム巡礼とは関係ないでしょう、と思われるでしょうか。

 聖書の中で、そしてキリスト教の歴史の中で、巡礼の旅というのは、私達の人生を表すものとして受けとめられて来ました。私達は、天を目指して地上の旅をしている巡礼の旅人であるというわけです。

 そういう私達の地上の旅路を描く詩篇として、この121篇は有名です。先ほど賛美いたしました賛美歌301番はこの詩篇を取り上げたものでした。  ですから、清里にこの御言葉が掲げてあるのは、そこで地上の旅路を歩みつつ、地上の使命を担いつつ、様々な困難の中で天の神様を見上げて歩んだ人達がいたということです。 「われ山に向かいて目をあぐ。わがたすけはいづこよりきたるや」

 私達も、今地上の旅路を歩んでいます。  そして、すでに地上の旅路を終えて、天に先に行っておられる神の家族もあります。(今日は召天者記念礼拝です)  私達はどこに向かって、どのような地上の人生を歩んでいるのか。その歩みにおいて、私達にも当然色々な困難もあるわけですが、この詩篇は、そういう私達に何を教えようとしているのか、ご一緒に味わいたいと思います。

 さて、この詩篇は、巡礼の旅路の詩篇だと致しますと、その旅路のどの辺の場面を描いていると思われるでしょうか。

《1節》「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。」

 ここには、大変切実な求めが語られています。  「私の、助けは、一体、どこから、来るのだろうか」いや、そもそも、私への助けは来るのだろうか?という、不安と緊張の入り交じった、思い詰めた求めがあります。  ですから、これは、これから巡礼の旅路へ出ようとしている場面を歌っているのでしょう。

 私達もどうでしょうか。人生の節目を迎えて、新しい世界へと出て行こうとする時には、色々な不安や緊張があるでしょう。「私の助けはどこから来るのか」という、この詩人の言葉は、よくわかるのではないでしょうか。

 とすると、1節の、「山」とは何でしょうか。何を表しているのでしょうか。

 私達日本人は、山には神様がいる、などという世界に親しんでいますから、「山に向かって目を上げる」などという言葉を読むと、「ああ、山の神様の助けを求めているのだな」などと誤解しかねませんが、聖書の教える神様は天地万物の造り主ですから、山に住んでいるわけではありません。

 ここで、「山に向かって目を上げる」というのは、今、旅路の出発に当たって、これから越えて行かなければならない、行く手の山々、困難な道のりのことです。  人生の旅路には、数々の難所が待ちかまえているわけです。

 つまり、この詩篇の描く情景は、こういう風になると思います。  今、主なる神様のみもとへの巡礼の志を抱いた巡礼者が、出発しようとしています。支度は整いました。 しかし、目指す目的地エルサレムへの道のりははるかに遠いのです。 目に映るのは、遠く折り重なって行く手を阻むかに見える青い山々ばかりです。

 当時の旅は、現代の私達には想像も出来ないような困難なものであったでしょう。  パック旅行で、ちょっとエルサレム参りに、というわけには行かなかったのです。  山々には盗賊がいたでしょう。長い荒野の道では、昼は灼熱が照りつけ、夜は砂漠特有の寒気が襲いかかるでしょう。もしも途中で病に倒れれば、もはや生きて帰る保証もなかったでしょう。 予想もつかないアクシデントが旅にはつきものでした。

 さて一体、その道中で、何がこの巡礼者の助けとなるのでしょうか。彼は何を頼みの綱として進み行けばよいのでしょうか。 私達は、人生の旅路において何を頼りとして行けばよいのでしょうか。皆さんの頼みの綱は何でしょうか。・・・自分の力でしょうか。知恵でしょうか。・・・いや、彼はそんなものが本当の助けにはならないことを知っていました。

 巡礼者はここで、はるかな旅路を思いやりながら、そして越えて行かねばならない幾つもの山々、数々の難所を遠く見やりながら、その胸をよぎる暗い不安に、思わず「私の助けはどこから来るのだろうか」と、問わずにはいられなかったのです。

 しかし、巡礼者は、この問いに自ら答えます。 2節、「私の助けは、主から来る」と。しかも、「天地を造られた主から来る」と。

 たとえ、目指すエルサレムは遠く、陰も形も見えないとしても、そして、その代わりに恐ろしげな山々が行く手に待ち受けているばかりに見えるとしても、実は、それら全てをお造りになった神がおられる。それら全てを御手の中に支配しておられる神がおられるではないか、と言うのです。

 その天地を造られた創造主から、私の助けは、来るのだ、・・・という、これは非常に確固とした信仰告白です。

 そして、その巡礼者の自問自答の信仰告白、主は必ず私を助けて下さるのだ、という確信の言葉に応えて、恐らくかたわらにいて、彼を見送る人達が、3節から、主なる神様が事実どのような彼を助け・守って下さるかを語っていきます。

 《3節》「主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。」

 その通り、主は、あなたの足をよろけさせません。それにあなたを守る神様は、まどろくことのないのですから、うっかり油断してあなたへの守りが手薄になったりする気遣いなどありません。という訳です。

 しかしそれにしても、なぜ神様は、彼を守っていて下るとわかるのでしょうか。  どうしてそう楽観的に信じて告白することができるのでしょうか。

 その確信の根拠の一つは、神が「天地を造られた主だ」ということ、つまりこれから行く道のりの全ては主の創造と支配のもとにあるということです。

 もう一つ確信の根拠が、4節、巡礼者と神様とがどういう関係にあるか、という形で述べられています。

 《4節》「 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」

 神様はなぜ、彼を守って下さるとわかるのか。それは、神様は「イスラエルを守る方」だからです。そしてこの巡礼者は、イスラエルに属する者だからです。 ・・・何だ、イスラエル人は神様に特別に目をかけてもらっていいんだなあ、と思うかも知れませんが、しかし、新約聖書を読みますと、神様を信じる者は、皆霊的な意味で、神の民イスラエルの一員だと教えられています。つまり、私達は信仰の世界ではイスラエル人なのです。ですから、ここにある守りの約束と確信は、私達のものであります。

 さて続く5〜8節には、これからの旅路に予想される様々な局面が思い描かれまして、そして、その全ての場面で、主なる神様は巡礼者を守って下さることが述べられます。

 《5節》「主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。」

 これは、おもに外敵からの守りでしょう。「右の手」とは、聖書の中では、その人を代表して表す言葉です。ですから、右の手をおおう、ということは、その人全体を守るということです。

 《6節》「昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。」

 これは、おもに病からの守りでしょう。  昼のジリジリと焼けるように照りつける太陽の暑さの世界においても、また、夜の妖しく青く注がれる月明かりの冷たく静まる世界においても、神様の守りはみじんも揺るがないのです。

 そして、《7節》「 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。」

 つまり、今巡礼者の心をよぎる災いからも、また、今は予想もつかない不慮の災難からも、全知全能の主は守って下さる。・・・何を守って下さるかというと、もちろん色々と守っていただきたいことはあるでしょうが、特に何よりも肝心な、あなたの命を守って下さるのです、というわけです。

 更に、《8節》「主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」 と、ダメ押しの様に、行くにも帰るにも、と、これから始まる巡礼の旅路の全行程を主が守って下さることを語ります。

 そして更に、何と、とこしえまでも、と続くのです。

 つまり、単にこの巡礼の旅ばかりでなく、それを越えた全人生の守り、いや更に、人生を終えた後までも続く、永遠の世界にまでもとこしえまで、とその神の守りの世界は、いつしか巡礼という枠を越えて、あるいは私達の人生・地上の旅路という範囲を突き抜けて、限りなく広がっていくのです。

 ここで描かれる神様の御業の中心は、「守り」ということです。この短い詩篇に「守る」という言葉は6回も出て来ます。  神の守りは、とにかく、あらゆる範囲、あらゆる局面、あらゆる時間・・・その全体に及ぶのです。

 さて、まとめますが、私達はこの詩篇から今日何を学ぶでしょうか。  3つのことを申し上げたいと思いますが・・・

1、第一に、私達の人生は、地上の旅路であるということです。

 旧約聖書の人々が聖地エルサレムを目指して旅をしたように、私達は神様のみもとを目指して旅をしているわけです。  私達のふるさとは地上ではなくて天です。私達の目的地はここではなくて神様のみもとです。

 《ヘブル人への手紙11章13節》 「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」

 《ピリピ人への手紙3章20節》「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」

 ジョン・バニヤンが、「天路歴程」という有名な本を書いて、クリスチャンの人生を天への旅路として表現したのも同じです。  また、私達の人生が旅であるということは、私達がこの地上で行う色々な企てもまた、その旅路の一こまであるということでしょう。

 例えば、私達日本同盟キリスト教団の式文の一つに、この詩篇121篇が引用されています。 皆さん、何の式文に引用されていると思いますか。  これは巡礼の詩ですから、観光旅行の出発式でしょうか。いやそんなものはありません。 実は、教会堂建設の起工式の式文に用いられているのです。

 何で、起工式に巡礼の詩篇なんだ、と思われるかも知れませんが、私は、起工式に詩篇121篇という組み合わせは、かつて私自身建設業に携わった者としては、なかなか良いのではないか、と思いました。

 これから危険の多い工事が始まる。会堂が完成するまでの長い道のりを、巡礼の旅の一場面に見立てて、事故なく、無事に、神様のみ心に至るように、その道中が守られるように、と願う。実にぴったりとも言えます。

 このように、私達の人生の営みは、全て地上の旅路の一場面、私達は地上では旅人、天の御国に向かう巡礼者であるということです。

2、第二に、その道中の全てにおいて、神様は必ず守って下さるということです。

 色々な局面が描かれていました。外敵もある、病もある。今のこともある、とこしえに、という、気の遠くなるような未来もある。しかし、神の御手は、もれなく隅々まで、そして、まどろむこともなく、つまり決して落ち度なく、失敗なく、完全に守って下さるのです。

 私達が、信仰生活で手にする約束は、聖書の中に沢山ありますが、この約束は、その中でも最も励ましとなるものの一つではないでしょうか。  天地万物の造り主、全知全能の神様が守って下さるならば、他の誰も、どんな被造物も、私達を傷つけることは決してできはしないのです。  これ以上の安全保障が、考えうるでしょうか。  

 わが家の子供は、生まれるまでそれぞれ色々な困難がありましたが、特にしたの娘の友里香が生まれる時は大変でした。生まれる日に、妻が病院に入った後、その頃神学校で授業を受けていた私の所に、病院から電話がありました。「すぐにハンコを持って病院に来なさい」という電話でした。そういう電話が来るということは、ただ事ではないということですね。 すぐに病院に飛んで行きますと、院長先生が深刻な顔で、「羊水に出血していて異常事態だ」というのです。・・・この場合考えられる事態として、生まれてくる子供に重い障害がある可能性が高い。それで、生まれ次第すぐに入院治療が出来るように小児科の病院を手配して、今待機してもらってあるので、父親も覚悟して待機していてほしい・・・というわけです。  さてこんな時、私達の助けはどこから来るのでしょうか。

 私達の助けは、天地をお造りになった神様、そして私達を愛して一人子イエス・キリスト様を十字架にかけてまでして救って下さる神様から来るのです。  まあ、私はかなり鈍感な方ですが、これは、一生懸命に祈りました。 

 「もし、神様が私達に障害を持つ子を預けようと言われるなら、喜んでその子をお預かり出来るように。とにかく、母親も子も死なずに無事に出産が終わるように。しかしもし御心なら、健康な子供をお与え下さるように。もしも障害があるならば癒して下さるように。」そんなことを祈ったような気が致しますが、いつもそういう時にはそうなのですが、神様に祈っている内に心の中に平安が満ちてきました。神様は必ず私達を守って下さり、最前をなさって下さる、と信じ委ねることが出来ました。

 そして、結果は、まあ、皆さんもご存じのあんな子が、出てきたのですが、子供に障害はなく、母親も無事でした。医者は、原因が分からなかった、と言いました。  私は、神様があわれんで守って下さったのだと思いました。  神様は、全ての面で、私達を守って下さいます。

 しかし、もちろん、そこには困難があります。敵の存在もあるでしょう。しかし要は、その全行程は神様の御手の中にあり、神様は私達が必ず天のみもとに至るように、最前に守り導いて下さるのです。それを妨げうる何者もないのです。

3、第三に、特に、8節の、「行くにも帰るにも」という言葉に注目して頂きたいと思います。

 この御言葉を、口語訳聖書は「出ると入るとを守られるであろう」、  文語訳聖書は、「いずるといるとを守りたまわん」と訳しています。  先ほどの賛美歌でも、「いずるおり、いるおりも」となっていました。  新改訳は、「行くにも帰るにも」と訳しますが、むしろ直訳すると、「出るにも、入るにも」という言葉なのです。

 では、どこから「出て」、どこに「入る」というのでしょうか。

 実は、この詩篇は、3〜4節に、まどろむこともなく眠ることもない守りということが強調されているのですが、旧約聖書の中で、この、主の徹夜の守りということで特筆すべき出来事があったことが思い起こされるわけです。 それは、あの、出エジプトの大事件です。

 《出エジプト記12章42節》「この夜、主は彼らをエジプトの国から連れ出すために、寝ずの番をされた。この夜こそ、イスラエル人はすべて、代々にわたり、主のために寝ずの番をするのである。」

 この忘れ得ぬ主の寝ずの番が、この詩篇の背景にあるのではないか、とも言われるのです。

 すると、「出る」と「入る」とは、何のことなのか。これは、奴隷の地エジプトから出て、約束の地カナンに入る、ということを指すとも読めるわけです。

 それはつまり、私達にとっては、何を意味するのでしょうか。  出エジプトの出来事は、私達が滅びに向かう空しい人生から救い出されて、神様の御国に入るとこを表していると、新約聖書は教えています。

 つまり、この、「出る」「入る」というのは、私達が、罪の世界、死と滅びに至る世界から出て、救われて、永遠の命を頂いて、神様の御国に入って行く、ということを指していると読めるのです。 その全行程を主が守られる、とこの詩篇は言っているのではないでしょうか。

 私達は、イエス・キリストの救いによって、滅びの人生から出て、罪と死から解放されて永遠の命にいきる人生に入れられました。  しかし、それは一回きりで完成したわけではなくて、私達は日々、古い自分から出て、新しい本当の自分に入る、という歩みがあります。罪と滅びの自分から出て、赦されて活かされていく人生に入って行くのです。

 その全行程に、神様の守りと導きがある、ということを、この詩篇は教えようとしているのです。

 生まれてから、いや、生まれる前から。そして、死ぬまで、いや、死んだ後までもとこしえまで、と言われる神様の守りの中に私達がおかれている安心を確かめましょう。 日々の私達の体験が、その神様の守りの中の一歩一歩であることを感謝しましょう。

 そして、今日は召天者記念礼拝ですが、地上を信仰者として歩まれた神の民達が、とこしえに、というのですから、今も、神様の守りの中にあることも覚えたいと思います。 また、私達も、そのような恵みを頂く者であることを覚えて、この巡礼の詩篇の作者と共に、「私の助けは天地を造られた主から来る」と、信仰を告白しながら地上の旅路を進み行きたいと願います。

《お祈り致します》

私達を出るにも入るにも、今よりとこしえまでも守って下さる天の父なる神様。

私達の人生は、神様のみもとに至る天路歴程の旅路です。 私達の中には、その人生の旅路をすでに長く歩んで来た者もおり、まだ歩み始めたばかり、これから長い道のりを歩み行かねばならない者もおります。 また、クリスチャンとしての歩みも、すでに長い者もあり、今ようやくスタートしたばかりの者、また、これからスタートしようと準備している者もおります。 それぞれの旅路の歩む位置は様々であり、おかれている状況も色々ですが、全て、主の御手の内に導かれ、守られております安心を感謝致します。

願わくは、私達がどのような状況に置かれましても、唯一の助け手である神様を見上げる信仰の目を私達に備えさせて下さい。 時には、熱い試練が、時には、冷たい悲しみが、私達に襲いかかると致しましても、その、立ちはだかる困難の山にではなくて、もっと上に目を上げて、天におられる全知全能の愛の神様を見させて下さい。 更に、その旅路の道のりが、より神様に近く、より聖く、よりイエス様にならって、と、上へ上へと上り行く方向を持っているべきことも自覚させて下さい。日々、古い自分から、一歩でも半歩でも「出て」、新しい主の恵みの世界に「入る」歩みをしていくことができますように。

主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。


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