エペソ人への手紙6章18〜20節
今日と明日と、祈りをテーマにした信徒研修会です。 私達の信仰生活にとって、祈りは欠かせないものです。祈りのない信 仰生活というものは、有り得ないのだということをまず私達はよく知ら なければならないでしょう。 では祈りとはどのようなものなのでしょうか。また私達は、どのよう に祈ったらよいのでしょうか。これは、実は大変初歩的で基本的なこと なのですが、同時に、一生かかっても卒業ということがない、常に学び 続けるべきクリスチャンの必修科目であります。
(1)まず、祈りとは何でありましょうか。 普通祈りについては、基本的に二つの説明が使われます。
一つは、祈りとは魂の呼吸である、ということです。 もう一つは、祈りとは父なる神様との会話である、ということです。 まずこの二つの基本をよく覚えておきたいと思います。
まず一つ目の、祈りは魂の呼吸である。
聖書は魂の「糧」であるとよく言われますが、同じように祈りは魂の 「呼吸」であると言われます。ある人が、『祈りは新たに生れた霊魂の 呼吸である。これがなければクリスチャンとしての生命がない』と言っ ています。
イエス・キリストを信じた時に私達は霊的な意味で新しく生まれまし た。この新しい命は、聖書のみことばという糧と、祈りという呼吸によ って、健康に成長し、力を与えられていくのです。 息を止めていれば窒息してしまうように、私達が祈るのをやめてしま えば、キリストにある新しい命は必ず弱っていってしまいます。 いや、修行を積めば、息を止めていても大丈夫です、などというのは、 どこかのいかがわしい宗教の話でありまして、私達は祈りという呼吸を のびのびとして、健全な信仰を育てるべきです。ですから私達にとって 祈りは、してもしなくてもよいのではなく、絶対必要なものであること を覚えて下さい。
このように祈りは「呼吸」にたとえられるのですが、呼吸とは違う点 が一つあります。それは、呼吸は誰でも別に努力しなくても、自然にし ているのですが、祈りはそうはいかないということです。つまり、自分 で祈ろうとしなければ祈れないのです。私達は自分の意志で、祈ること を決断し、努力し、実行する責任があります。 特に、日本のように、 子供の時親から祈ることを教えられないで育った場合、祈ることが大切 と分かっていても、祈りを身に付けるまでは大変な努力と学びと訓練が 必要です。新しくクリスチャンになった方には、必ずくじけます、しか し何度くじけても再度三度四度チャレンジして、毎日聖書を読むことと 毎日祈ること、そして教会の礼拝を守ることは、何としても身につけて 下さいね、とお願いするわけです。聖書は「絶えず祈りなさい」と教え て、私達を祈りへと励まし、導いているのです。
次に二つ目のこと、祈りは父なる神様との会話である。
祈りは、主イエス・キリストによって神様に受け入れられたクリスチ ャンが、天のお父様である神様と交わりをし、日々恵みを受けることで す。二三のことを申し上げるならば…
ア) まず、何でも神様に祈りましょう 素直な子供が、父親に何でも喜んで話すように、私達も天の父なる神 様に、何でもお話し、願い、感謝し、悔い改めましょう。
そもそも神様は私達の全てをご存知ですから、神様のみ前に隠せるこ となど一つもありません。神様は、全てをご存知の上で、なお私達がそ れを自覚して神様のみもとに近付くことを求めて招いておられるので す。ですから、自分をとりつくろったり、「こんなことを神様に祈って はいけないのではないか」と心配したりせず、自分のありのままの思い を神様のみ前に申し上げるのが良いのです。
例えば、嘆きであっても、 悲しみであっても、不安であっても、疑問であってもそのまま神様に申 し上げればよいのです。「クリスチャンだからいつも喜んでいるべきだ。 神様に嘆くなど不信仰だ。」などと自分を縛りつけると、祈りが形式的 になって、父なる神様との会話ではなくなってしまいます。そんな呼吸 は苦しくなります。 また、小さなこと、一見つまらないようなことでも、何でも具体的に 神様にお祈りして良いのです。
この、祈りを具体的にするということも とても大切なことです。例えば、「神様、〜さんを祝福して下さい」と 祈るだけでなく、どのような点で祝福してほしいのか祈ることです。ま た、「神様、私の罪を悔い改めます」と祈るだけでなく、具体的に、ど んな罪を犯したか、人を傷付けたのか、心の中に妬みが生じたのか…具 体的に言い表わして悔い改めるべきです。
イ) もう一つ、神様からの語り掛けにも耳を傾けましょう。
これはえてして忘れがちの大切な点です。祈りは神様との会話ですか ら、私達の側から一方的に言いたいことを言い放題言って、それだけで 終わりにしてはいけないのです。祈りの中では、自分の願いを語るだけ でなく、神様の答を期待しつつ静まり、瞑想することが不可欠です。ま た祈ると同時に、み言葉を読み、神様の教えを受け止めることも大切で す。そのようにして、私達は自分の願いをはるかに超えて素晴らしい神 様のみわざに目が開かれるのです。
イエス様が祈ったように「〜して下 さい。しかし、私の願うようにではなく、あなたのみ心のようになさっ て下さい」という姿勢を持つこと、これが困難なことではありますが、 しかしとても大切なことなのです。
「語る祈り」に比べてこれは「聞く 祈り」です。これは、そう簡単に身に付くものではなく、長い祈りの日々 の積み重ねと、訓練の中で次第に身に付き、開けてくる信仰の世界だと 思います。 そして、次に、
(2) 祈りはどのように学び、身につけていったらよいのでしょうか。
自分のありのままで祈れば良い、と言いましたが、それは祈りにおい て少しも成長しなくても良い、ということではありません。聖書は、私 達がうつまでも初歩の段階にとどまっていてはいけない、と教えていま す。私達は、祈りについて学び続けて、祈りにおいて成長し、神様と深 く交わる豊かな祈り、深い祈りを目指しましょう。イエス・キリストの 弟子達も、「私達に祈りを教えて下さい」と願いました。
(ア)まず、祈りを実践して学ぶということを覚えましょう。 祈りは「実践」だということです。いくら聖書から祈りについて学び、 また祈りについての良書を読んでも、実際に祈らなければ、何の役にも 立たないでしょう。正に「畳の上の水練」「机上の空論」になってしま います。とにかく祈ることをしなければなりません。
(イ)次に、聖書に学ぶということです。 聖書は祈りについて多くのことを教えています。また聖書は、私達の 祈りを正して、神様のみ心にかなうように導く働きをします。カルヴァ ンは「聖書は、祈りの定規である」と言っています。
(例)アブラハムの祈り、モーセの祈り、主イエスの祈り、パウロの祈 り、ダビデの詩篇の祈り。彼らは、どのような状況で、何を願い、何と 祈り、その結果はどうなったのでしょうか。一つ一つ見ていくと、なる ほど祈りというものはこういうものか、という、新しい世界が見えてき て、聖書が一段と身近で面白いものになります。
(ウ) そして、歴史上の先人のクリスチャンの祈りの生活に学ぶことで す。 私達の祈りのあり方は、私達の信仰のあり方に深く関わっています。 実際、私達は自分の信仰のようにしか祈れない、と言ってもよいでしょ う。(御利益的な信仰の人は御利益的な祈りになります。敬虔な信仰の 人は敬虔な祈りになります。神中心の信仰の人は神中心の祈りになりま すし、自己中心の信仰の人は自己中心の祈りになります。 ですから、信仰者として生き、伝記に書かれているような人々のほと んどは「祈りの人」でもありました。そのような方々の生涯を記した本 を読むと、私達の祈りの生活も大変刺激を受けます。
(エ)また、祈りについての良書に学ぶことです。 祈りについて書かれた良い本は沢山あります。それは、私達が祈りに ついての聖書の教えを学んだり、祈りの生活を整えるのに、良い助けと なります。
今回選んで下さったアンドリュー・マーレーも、祈りについ て、今や古典として受け止められているような多くの本を書いた人です。 祈りは実践ですから、学ぶということは、実践のために役に立ちます。 今までわけもわからずに闇雲にやっていた祈り、どうすればよいかわか らずにくじけていた祈りが、学ぶことによって、ああ、そういう深い世 界があったのか、まだまだ沢山の祝福が味わわないままに私を待ってい たのだ、ああ、そういう風にすれば良かったのか、そんな風にするなど とは思い付きもしなかった、…という色々な示唆を受けます。
ただし、逆に言えば、祈りは実践ですから、学んだだけでは何の役に も立たない、ということも出来ます。学んだことを実践して初めて、大 きな祝福を実際に手にすることが出来るのです。
ですから、今回の研修会を終えた時に、私達は何か新しいことを学ん だ、というだけではなくて、実際に何か新しい一歩を踏み出す、という ことでありたいと思います。 その一歩というのは、人それぞれでしょうから、ある方にとっては目 に見える変化かも知れませんし、ある方にとっては目に見えない、誰も 気づかないような前進かも知れません。しかしとにかく、一人一人が神 様の御前で、実際の何かを得て頂きたい、実際の決心とか、実際に…例 えば、もっと祈ろうとか、祈祷会にもっと出席して祈ろうとか、毎日の 早天祈祷会に、毎日でなくても月に一度でも出て一緒に祈ろうとか、せ めて月例祈祷会で祈ろうとか、毎日のディボーションをしっかり守ろう とか、今まであまり祈らなかった罪を悔い改めようとか、…何か実際の 前進を必ず得て頂きたいと思います。
さて、その実践ということに関連して、今日の聖書の箇所も踏まえて、 二つのことをお話しておきたいと思います。
二つのことと申しますのは、祈りの実践には二つの面があるという ことです。
一つは、一人で祈る、ということ。 もう一つは、共に祈る、ということです。 祈りの実践には、この二つの面が、バランスよく入ることが大切だと 思います。
まず、一人で祈るということですが、 これは通常、ディボーションとか、密室の祈りとか、呼ばれているも のです。一人で神と語り合う、ということが、ああ、あのことだな、と お分かりになるでしょうか。これをどうしても自らの経験するところと しなければなりません。
今日の箇所で、パウロは18節、 「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りな さい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、 忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」と語ります。 これは、前後を見ますと、10〜11節、 6:10「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強めら れなさい。」…私達が、この世を歩み行くために必要な神の力づけ。そ して、 6:11 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のす べての武具を身に着けなさい。」…私達がこの世で戦い行くために必要 な霊的武器の備え…その根本として、18節で、祈りの備えが絶対必要 なことを教えているわけです。 「全て」「どんな時にも」「絶えず」「全て」「忍耐の限りを尽くし」 …「祈れ」という、この祈りなしで進み行ける道は、この世には無い のだということを、私達は肝に銘じたいと思うのです。
次に、共に祈るということ。祈りの共同性ということ。 これを私達はえてして忘れがちだと思います。
パウロは、何と言っていたでしょうか。祈れ、と勧めた後で、自分は 祈っているから大丈夫ですよ、と言っているでしょうか。違うのです。 19〜20節、 6:19「また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の 奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってくださ い。」 6:20「私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。 鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってく ださい。」 祈って下さい、と彼は繰り返し要請します。 自分には、仲間の祈りが不可欠なのだ、と彼は知っているのです。そ して、仲間の祈りが、実際に自分を支える有効な力を持っていることを 知っているのです。これを私達も知らなければなりません。
ある方々は、現実の問題のある時に、祈っていて何になる、とおっし ゃいます。例えば、現実に困っている方々がいれば、祈っていたってし ょうがない、実際に、例えばマザーテレサのように、行動しなければ現 実に役に立たないではないか、とおっしゃいます。
しかし、そのようにおっしゃる方々は、祈るということ、そして自分 が祈られるということが、どういうことであるかを知らないから、その ようにおっしゃるのだと思います。 例えば、今名前を出した、マザーテレサは、どうなのでしょう。彼女 は祈るよりも実践だ、と言っているのでしょうか。 いいえ、実はマザーテレサ自身は、祈ることが何よりも大切だとおっ しゃっているのです。そして事実、彼女は、毎日を神の御前にひざまず き祈ることをせずには始めないのです。そして、自分が祈るだけではな い、祈りのパートナーに共に祈ってもらうということを非常に大切にし ているのです。私が以前読んだ本では、(古い本ですから、今は違うパ ートナーになっていると思いますが)その頃、マザーテレサの祈りのパ ートナーは、ヨーロッパのとある病院に寝たきりになっているご婦人で した。マザーテレサはインドにいて、そのご婦人は遠く離れたベッドの 上にいて、マザーテレサのことを毎日祈っているわけです。マザーテレ サの方も、祈ってほしい課題があると、その婦人に知らせて祈ってもら うわけです。私がその本を読んで、なるほどなあ、と思ったのは、彼ら はお互いのことを何と呼んでいるか、ということなのです。 実は彼らは、この祈りのパートナーを、「第二の自分」と呼んでいる のです。お互いのために祈っているパートナーは、「第二の自分」なの です。
これが祈りの共同性というものだなあ、と思いますね、皆さん。 私達は、そういう、「第二の自分」と呼べるような、自分のために絶 えず祈り続けてくれている人を持っているでしょうか。 先ほどの方々が、祈っているだけじゃしょうがない、というその意味 は分かりますが、しかしそうおっしゃる方々は、こういう、「第二の自 分」と呼べるような祈り手を持っていないから、そして、祈られている ということがどんなに素晴らしいことか味わったことがないから、つま り、祈る、とか、祈りあう、とか、共に祈る、とか、祈られる、という ことがどういうことか知らないから、そうおっしゃるのではないでしょ うか。
マザーテレサはそれを知っていました。パウロもそれを知っていまし た。だから、エペソ教会にこんなに繰り返して祈りを要請しているわけ です。 私達は、ぜひ、この祈りの世界を、自分のこととして味わいたいもの です。
そのためには、誰が私の第二の自分になってくれるかしら、とい うこともあるでしょうけれども、まず、ご自分が、誰かの第二の自分の ようにして、祈るものとなる、ということを考えてみて頂きたいと思い ます。
祈りは表面には見えない働きです。マザーテレサが、どれだけ祈って いるか見えないから、人々は祈りの力を過小評価するのです。しかし、 実際に世界を動かしているのは、その目にみえない祈りの力の方なのだ、 ということを、私達はきっと天に行った時に悟るでしょう。ああ、私の 力は何と弱く足りないものだったか、私がしたと思ったことも、実はあ の方の祈り、この方の祈りによって実現していたのだ。世界を動かして いたのは、祈りの力によるところこれほどまでに大だったのだ、と悟る ことになるのだと思います。その祈りの世界に、この二日間、いやもう すでに今月の初めから私達はこの課題に取り組んで、日々を過ごして来 たわけですが、更に仕上げのこの二日間、この祈りの世界の祝福の中に、 私達の足を一歩、進めたいと思います。