『命の恵みを共に受け継ぐ』(恵みを証しする礼拝)

牧師 広瀬 薫

ペテロの手紙第一3章1〜7節

 教会で結婚式が行われる時には、夫婦に関する御言葉が読まれます。それは聖書の中に何カ所かあるのですが、その一つが今日の箇所です。今日の箇所は、夫婦に関する代表的な教えの一つとして受け止められてきました。

 とはいえ、この箇所は、色々と特に女性の方々から反発を招き、女性差別の御言葉ではないかなどと攻撃されてきた所でもあります。

 例えば、今日の御言葉は全部で7節ありますが、その内、実に6節までが妻に対する教えであって、夫に対しては1節しかないというのは、アンバランスではないか、とか、しかもその妻に対する教えと来たら、 「 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。」(3章1節)というわけです。

 妻は夫に服従せよ、とは、現代では全くはやらない言葉、反発されるくらいならまだしも、妻から無視されてしまいそうな言葉になっているのではないでしょうか。

 しかし、私達は御言葉の上辺に引っかかるのではなくて、よく読んで、ペテロの言いたい本当の所を汲み取りたいと思います。

 まず初めに、結論じみたことを申し上げておきたいと思いますが、今日の箇所全体を見渡してのキーワードは何でしょうか。ここに繰り返し出てくる思想は何でしょうか。

 それは、1節「同じように」、5節、婦人達「も」「このように」、6節、サラ「も」「あなた方も」、7節「同じように」「妻と共に」「命の恵みを共に」・・・つまり、この辺を貫く思想・原理は、「一体性」ということ、「一つ」ということ、「一致」「共同」ということなのです。 ・・・このことを踏まえた上で、今日の箇所を読み進めて行く必要があります。

 さて、今日の御言葉に入って行きましょう。 3章1節、「 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。」

 「同じように」・・・前回の所で、しもべが主人に服従し、そこで受ける苦難においてイエス・キリストと一体となったように、そしてキリストも父なる神に服従し、そこで受ける苦難において救いを実現して下さったように、「同じように」あなた方妻達は自分の夫に服従しなさい、と言うのです。

 さて、このような夫婦論を読むと、私達はすぐに使徒パウロの夫婦論を思い出すでしょう。  パウロは、妻は夫に従いなさい、夫は妻を愛しなさい、と教えていましたから、今日のペテロの教えも基本的に一致しています。

 しかも、パウロの場合には、もう少し念の入った言葉使いをしていまして、妻は主に従うように夫に従え、夫は主が教会を愛されたように妻を愛せ(これはつまり、妻のためなら命を捨てるのだ、という愛で愛しなさい、ということですが)という言い方をしていました。

 それで、こういう教えを見ると、奥様方は、「もちろん私は主人に従います。もし主人が聖書の教える通りに、イエス様のように命がけで私を愛してくれるならば、私もそういう主人に従いましょう。」とおっしゃいます。

 するとご主人も言うのです。「もちろん愛します。もし妻が聖書の教える通りに、主に従うように献身的に私に従ってくれるならば、私もそういう妻を愛します。」 ・・・こういう、「〜ならば」の従順、条件付きの愛は、聖書の教えるものではありません。

 私達はえてして、御言葉をすぐに相手に突きつけて、ホラ、こう書いてあるでしょう、だからあなたこうしなさい、と要求しがちですが、聖書は決してそういう風に使うものではなくて、御言葉は他人ではなくて自分に当てはめるべきものなのです。

 他人に要求するのではなくて、自分の責任を覚えるのです。人に口出しするのではなくて、自分を律するのです。その辺、私達は決して間違えてはならないところです。

 しかし現実には間違いやすいと、もちろんペテロも知っていますから、 「たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。」と続けます。

 「たとい」・・・相手がどうか、が条件ではないのです。  「たとい、みことばに従わない夫であっても」・・・これを見ると、当時の社会でも、妻がクリスチャンであって、夫はそうではないという悩みは、私達と共通のものであったことがわかります。  そうであっても服従せよ、と聖書は教えます。

 ただし、そうは言っても、ここで聖書は何が何でも従え、というのではありません。  前回の「キリストも」という御言葉を思い出して頂きたいのですが、聖書においてこういう教えは、全て私達と神様との関係の中に位置付けられています。今日の教えもそうなのです。

 従うということ自体が目的なのではなくて、 「たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。」

 つまり、夫が「神のものとされるようになるため」・・・これが目的なのです。そしてそれはどのようになされるかというと、「妻の無言のふるまいによって」というわけです。

 「無言」と言っても、これは、夫に御言葉を伝えないという意味ではありません。むしろ、御言葉を伝えたからこそ、夫が「御言葉に従わない」ということが判明したわけでしょう。伝えなければ、こんなことは分からないわけです。

 ここで問題とされるのは、御言葉ではなくて、妻の言葉の方なのです。

 つまり、ここには三つの要素が出てきます。
一、神の御言葉、
二、妻の言葉、
三、妻のふるまい。

 問題なのは、神の御言葉ではなくて、後の二つの方・・・妻の言葉と妻のふるまいなのです。

 神の御言葉を伝え、あと何があればよいのでしょうか。

 それは、妻よ、あなたの言葉ではなくて、むしろ無言のふるまいなのだ。 ・・・私達は、ふるまいがふさわしくないために、せっかくの御言葉の光を消すことになってはいないか、また、必要以上の言葉を加えるために、せっかくの御言葉の輝きを曇らせることになってはいないか・・・そんなことを(もちろん妻ばかりでなく、私達全てが)考えさせられます。

 とにかく大切なのは、 2節、「それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」という、こちらの方なのです。

 これを更に具体的に説明するのが、次の3〜4節です。 「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」

 ここには、私達の価値観やライフスタイルに関連して、強烈なコントラストがあります。  あなた方は、外面を大切にするのか、内面を大切にするのか。  朽ちるものにこだわるのか、朽ちないものにこだわるのか。

 決定的なことは内面の方にあり、私達は朽ちないものの方にかけるべきなのだというわけです。

 その内面の朽ちないものとは何かと言いますと、4節に、 「柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がら」とあります。

 「柔和」とは、「性質が優しく素直で、他人から加えられた悪に対しても、平静な心で対すること」  「穏やか」とは、「粗野、乱暴に流されず、激情にとらわれず、たしなみ深く、他人に害を加えるようなことをしない」・・・と説明されています。

 こういうものは、イエス・キリストの十字架の救いによって、私達の中に形作られていく「新しい人」の姿を表現しているのです。これは、道徳ではありません。自分の力や修行によるのでもありません。生まれつきの性格の善し悪しでもないのです。新しく生まれた内なる人がこういう性質を持つものなのです。だから、それこそが、4節の3行目で、「これこそ、神の御前に価値あるものです。」と言われているのです。もしこれが、ただ、その人の性格の良さなら、「神の御前に」ということにはならないでしょう。  神との関係において新しくされた私達の内なる人に目を留めなければなりません。

 さて、続いて、5節、 「むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。」  旧約聖書の婦人達、特に「神に望みを置いた」婦人達の信仰は、夫に従うという行いと、一つの世界に統一されていたでしょう、と、私達のモデルとなるべき人達を差し出します。そして、6節、 「たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです。」

 私達は、信仰によって、「アブラハムの子」となると聖書は言いますが、また、行いによって、「サラの子」ともなるわけです。

 「あなたがたも」と聖書は励まします。先人に続け、ということでしょう。

(2)さて、ここまでが、妻に対する教えですが、当時の教会の中で、このペテロの教えが朗読された時、夫達はどう思ったでしょうか。「ホラッ、お前のことだ、よく聞いておけよ」と、隣の妻を肘でつついたりする姿が目に浮かびますが、しかし、夫もこういう厳しい教えは他人事とのんきに構えてはおられないのです。 7節「 同じように、夫たちよ。」と続くのです。

 「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」

 夫達よ、あなた方に取っても、原理は同じだ。「同じように」今の教えを自分のこととして受け止めよ、というのです。しかし、男であり夫であるあなた達にはあなた達固有の課題がある。それは次の二つのことであると教えは展開していきます。

 第一に、妻は女性であって、自分よりも弱い器であることをわきまえよ、ということ。

 第二に、妻を尊敬せよ、ということです。

 まず第一に、妻は、より弱い器である。

 使徒パウロは、「夫達よ、妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。」と教えていましたが、今日のペテロの言葉も、共通する内容を持っていると言えるでしょう。

 妻につらく当たると、妻は弱いのだから、傷つきやすいのだから、倒れやすいのだから、つらく当たるな、というのです。  そして、次に、妻を尊敬せよ。

 その尊敬の内容は、何でしょうか。 7節、「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」

 夫達よ、あなた達は、自分のことばかりを考えてはいないか? 自分のことばかりを大切にしていないか? 自分が神に救われていればそれでいいように思ってはいないか?・・・違うのだ、というのです。あなた達は、一人で永遠の命を受けるのではなくて、「妻と共に生活し」、妻と一心同体となって、永遠の命の恵みは妻と「共に」受け継ぐのだ、というのです。

 これは、実は、すごい言葉です。  何故すごいかというと、例えば、仏教などと比べてみるとよくわかるでしょう。

 私が大学で習った先生に、親鸞の研究者がいましたが、そこで習ったことで忘れられないことの一つは、古代仏教では、女性は救われないものとされていたということです。

 本来、お寺は女人禁制。仏僧は妻帯禁止。女性は成仏出来ないもの。女性というものは、顔は菩薩のように美しくても、心は夜叉のように醜い。(私がそういうのではありません。ただ、仏教にはそういう考え方があると習ったというだけです。誤解のありませんおうに。)

 女性には五障三従の障りがある。五障とは、「女人が持っている五種のしょうげ、五つの障り、即ち煩悩・業・生・法・所知の五つの障り」(広辞苑)。また、三従とは、「即ち、家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては子に従うこと」(同)

 しかしそうは言っても、仏教にだって信心深い女性はいたではないか。彼女達は仏教でも救われることになっているはずではないか、と思われるでしょう。  それはそうなのです、が、女性は救われないのです。

 では、信心深い女性はどうなるかというと、彼女達は、男に生まれ変わって、救われる、というわけです。  この、女性は女性のままでは救われないのだ、という仏教の教えを変えて、女性は女性のままで救われるのだと主張したのが親鸞であった、と習いました。

 しかし、例えば親鸞の書いた「和讃」を見ますと、こんな言葉があります。

  弥陀の大悲ふかければ   仏智の不思議あらはして   変成男子の願をたて   女人成仏ちかいたり

 ですから、親鸞が前記のような「女人往生思想」を提出するのはこの後のことなのでしょう。

 しかしいずれにせよ、皆さん、親鸞という人は鎌倉仏教ですから、十三世紀の人です。  十三世紀に至るまで、仏教に女性の救いはなかった!・・・とすると、今日の箇所でペテロが(これは一世紀の手紙です)妻は夫と共に命の恵みを共に受け継ぐのだ、だから、尊敬しなさい、と言うのは、これは皆さん、驚くべき言葉ではないでしょうか。

 何故ペテロが、女性差別論者と言われなければならないのでしょうか。彼は、時代をはるかに先取りした、驚くべき男女平等論者と言うべきではなかったでしょうか。

 そして、この7節には、更にすごい言葉が続いているのです。 「それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」

 この御言葉の解釈は2通りあります。その違いは、「あなた方」を誰と見るかによります。つまり、これを「夫達」と見るか、「夫婦」と見るかですが、意味はそう大きくは変わりません。

 「夫達」と見ると、これは、妻を尊敬して大事にしないような夫達の祈りは、神に受け入れられないのだ、ということになります。

 「夫婦」と見ると、これは、妻を尊敬して大事にしないような夫は、妻と共に心を一つにして祈るという夫婦にとって最も大切なことを失ってしまうのだ、ということになります。

 いずれにせよ、そんな夫は、神の御前にまともな祈りの生活が送れない、ということなのです。

 さあ、これはすごい言葉ではないでしょうか。

 夫の皆さん、皆さんはこんなことを考えてみたことがおありでしょうか。  自分が一生懸命祈っても聞かれない祈りがあるのは、これは自分が妻につらく当たっているからなのだ・・・などと。

 そりゃあペテロさん、あんまりな言葉ではありませんか・・・と思うかも知れません。

 しかし、ペテロという人は、家庭を持っていた人です。聖書を見ると、ペテロには妻が会って、彼は伝道旅行に妻を連れて歩いていたことがわかります。

 つまり、この言葉は、ペテロが妻と共に生活した信仰生活の中で学んだ彼の実感のこもった言葉なのです。

 さて、最後に簡単にまとめておきます。

 まず、今日のキーワードは、「共に」ということです。

 共に何なのか、と言いますと、イエス様の救いを共に共有していくということです。

 7節、「いのちの恵みをともに受け継ぐ」・・・これを今日の説教題と致しました。

 私達は、そういう者同士として共に生きていくのです。

 夫婦の関係は典型的にそうですが、更に広く、クリスチャン同士は、そういう関係に生かされていく者だと教えられます。

 今日は、「恵みを証しする礼拝」ですが、恵みを証しするということは、話す人が証しをするというだけではなくて、聞く者も皆が、その恵みを共にするということでもあります。

 そういう、「いのちの恵みをともに受け継ぐ」ということを今日皆で共有したいと思います。

 また次に、こういう御言葉の勧めは、人に当てはめるのではなくて、自分に当てはめるのだということを確認しておきましょう。  まず自分が、・・・何をするかと言いますと、言葉を慎んで無言のふるまいに徹していこう、とか、服従していこう、とか、尊敬しよう、とか、そのような決心をます自分から定めるべきであります。

 そして更に、「祈り」ということが出て来ました。

 私達は、今月二十二〜二十三日に、祈りをテーマにした信徒研修会を準備しております。確かに祈りとは、クリスチャンにとっての生命線であります。教会とは、共に祈る共同体であります。しかし、では教会はどのようにして更に真実な祈りの共同体になるのかと言えば、やはり、まず自分から、言葉を慎んで無言のふるまいに、とか、服従とか、尊敬とか、・・・そのような決心から始まるのです。

 私達は、すぐに口で言いたくなるものではないでしょうか。人に要求したくなるものではないでしょうか。逆に、言われる側は素直ではないのではないでしょうか。心がすぐに動揺するのではないでしょうか。激しい感情に動かされやすいのではないでしょうか。・・・とするならば、(そのようなあり方は、むしろ共に祈ることを妨げるわけで)実に今日の箇所は、私達がどのような姿勢を取るべきかということについて、私達の学ぶべき大切なことを教えてくれている箇所であったのです。


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