『平和をつくる者は幸いです』(敗戦平和記念礼拝)

牧師 広瀬 薫

マタイの福音書5章1〜9節

 今年も、敗戦平和記念礼拝の日を迎えました。

 この8月は、新聞にテレビに、戦争や原爆関係の記事が並びます。それは、戦後五十年以上になっても、やはり相変わらず平和ということが私達の重い課題であること、しかもいまだに乗り越え得ないでいる課題であることを示しています。

 キリスト教にとっても、平和は、非常に重要な要素であります。平和は、聖書の中では選択科目ではなくて、全ての神の民が学ばなければならない必修科目です。あれば有り難いというオプションではなくて、なくてはならないという本質的なものであります。

 それは、私達と神様との平和・私達同士の平和・魂の内的平和・国家間の平和…と色々な形で出てきます。内的にも外的にも、精神的にも肉体的にも、神様との縦の関係も人との横の関係も、個人的にも集団としても、要するに全ての面で、私達は本来何の争いも歪みも心配も無い全き姿であるべきなのです。

 そのようなあるべき状態をよく表現するヘブル語の言葉が「シャローム」です。シャローム(平和・平安)という言葉は、イスラエルでは日常的な挨拶です。それほど聖書の世界では、平和が本質的な要素だということでしょう。

 また、今日の御言葉は、マタイの福音書の有名な山上の垂訓の初めの部分ですが、この「幸せの教え」の中にも、こうして9節、平和ということが入っていることからも、平和がいかに本質的・必要不可欠なこととして教えられているか、わかると思います。

 ところで、そのように平和がキリスト教信仰にとって本質的なものであるならば、私達は年中、平和を覚えて礼拝すればよいということになるでしょう。しかしこのように、毎年決まった8月を選んで、私達が平和を覚えようとするのはなぜなのでしょうか。

 それは、私達日本人にとって、平和とは、単なる抽象的な概念なのではなくて、五十一年前の敗戦という体験が重い課題としてあって、今平和についてどのような角度から取り組むとしても、五十一年前の八月十五日を受け止めなければ、平和に取り組んだことにならないからでしょう。

 最近の新聞の記事の中で、心に残ったものをご紹介致しますと、ある日の朝日新聞に、宗教と平和の関わりについての特集がありました。

 多くの方が発言しているしていましたが、私は二つの共通線があると思いました。一つは、宗教というものは平和に貢献すべきものではないか、という期待・訴えです。もう一つは、半世紀前の戦争の時、宗教は何をしていたのかということを問うものです。それを見て、やはりあの時のことは、五十年を経ても、こうして言われ続けるのだなあ、と改めて感じました。

 ふだん私達は、神の真理を口にするわけですが、いざという時に、自分が語っていた神の真理に立って行動できるかどうかが肝心なことです。たとえ、それが迫害を招くことであっても、自分の身に危険をもたらすことであっても、真理と信じる所に従うことが出来るのか…ここに、私達神の民が、歴史の中で信仰を得ていくか、あるいは信用を失っていくかの大きな分かれ目があるのです。

 歴史の中では、信用出来ないキリスト教があったのです。日曜日には礼拝し、次の日からインディアンを殺しに行ったキリスト教とは何なのか。週日には原爆を落としていたキリスト教とは何なのか。日曜日には礼拝し、次の日からユダヤ人を殺していたキリスト教とは何なのか。町内会を導いて率先して神社参拝に号令をかけていた牧師とは何であったのか。それは聖書の教えるキリスト教ではなかったではないか、ということが問われているわけです。

 今日私達は、神は聖書において、平和を語っておられるということ…あらゆる面におけるシャロームを教えておられるということを、まず確かめておきましょう。神の御心は平和であります。

 私達が神との平和を持ち、隣人との平和を持ち、教会の中に平和が満ち、日本に世界に神のシャローム・平和が満ちることが神の御旨であります。そしてそれが、私達に神から託されている使命でもあります。

 今日の聖書箇所、山上の垂訓で、イエス様は「平和をつくる者は幸いです」と言われました。これは大変印象的な言い方です。

 イエス様は、例えば、平和を守る者は幸いですと、言われませんでした。あるいは、魂が平安であれば、その人は幸いですと、言われませんでした。そういう、外は波立ち嵐が吹き荒れていても、また人はどうであっても、自分の心の中は平静平安という、個人的な平和もありえます。しかし、イエス・キリストが教えたのはそういう平和ではなかったのです。

 「平和をつくる者は幸いです」というのは、はるかに積極的です。行動的です。私達の使命は、平和をつくることです。今まで平和の無かった所に、新しい神の平和をもたらすことです。そしてそれは、出来るのだとイエス様は教えていると思います。

 さてでは、私達は今年も決心を新たにして、平和をつくる者となろう、ピース・メーカーをなろう、と思ったと致しまして、ではどうすれば、平和をつくることが出来るのでしょうか。

 ここで、今日の聖書の箇所から、一つのことを学んでおきたいのですが、それは、9節の「平和をつくる者は幸いです」という教えは、この幸福の教えの中で、第七番目の教えなのだということです。つまり、この平和の教えの前に六つの教えがあるのです。そしてそれを前提として、この平和の教えがあるのです。この順番が大切でしょう。

 では、前の六つには何が教えられていたかというと、
一、(3節)心の貧しい者
二、(4節)悲しむ者
三、(5節)柔和な者
四、(6節)義に飢え渇いて者
五、(7節)あわれみ深い者
六、(8節)心のきよい者
 これらをまとめると、六つとも、私達の心のあり方に深く関わっていることがわかります。

 この六つの心が前提となって、平和をつくるという教えがあるわけです。

 最近心に残ったもう一つの新聞記事は、ある方がアメリカのスミソニアン博物館で見たことを投書しているのですが、そこには、広島・長崎にアメリカが投下した原爆に関する展示スペースがあるのだそうです。そしてその展示内容が、原爆投下を正当化する・美化する・ほめたたえる内容で満ちているというのです。…原爆は戦争を終結させたとか、平和をもたらしたということでしょう。そしてそれに関わった人やパイロットの写真が英雄のように展示され、アメリカの若者達がそこでポーズをとって記念写真を撮っているというわけです。

 そのような展示が、イエス様の言われる「平和をつくる」ものでは有り得ないということは、原爆を落とされた側の日本から見るとよくわかることでしょう。

 何故、そのような態度は平和をつくらないのか。それは、イエス様が言われる、初めの六つの心についての反省・自省が無いからです。
一、自らの心の貧しさを自覚しているだろうか。
二、悲しむということを知っているだろうか。自分の姿・世界の姿が、いかに神の御前に悲しむべき状態にあるかを悟っているだろうか。
三、柔和な心を備えているだろうか。むしろ自己中心・自己正当化・自己弁護のかたくなな心に凝り固まっているのではないだろうか。
四、義に飢え渇いているだろうか。正義・人権・弱者や敵への重い。特に自分が神の前に、いかに正しくない者であるか、おのれを見つめる目を持っているのか。
五、あわれみ深い心なのか。原爆を落とされる側への同情はどこにあるのか。
六、心のきよさがそこにあるのか。神に満たされた神中心の心だろうか。それとも自分で一杯の心なのか。
…イエス様ははっきりと、平和の前提に心の問題があることを教えておられると思います。

 何故この世界から戦争・争いが無くならないのでしょうか。大多数の人々が平和を望んでいるにもかかわらず。…社会体制の歪みを問題にする人もいます。軍事政権の存在・独裁者の存在を問題視する人もいます。戦争で儲けるいわゆる死の商人の存在をあげる人もいます。教育の普及の不足・貧しさの問題をあげる人もいます。…色々あるでしょうけれども、なお、そのような外の要因の根本にある、私達の内なる問題を聖書は受け止めさせようとしているのです。

 私達は、山上の垂訓をいきなり9節からスタートして平和をつくろうとしても駄目なのであって、まず初めから順に、まず自分の心と向き合う所から始めるべきでしょう。自分の心の貧しさ・無力を知り、悲しみ、そして唯一の解決であるイエス・キリストの十字架と復活に目を開かれるところからスタートしなければならないでしょう。

 けれども、この幸福の教えの9節はまた、私達が心の問題に止まっていてはいけないことも教えています。

 今考えた、まず心の問題が扱われなくてはならないということは、決して、心の問題が解決しなければ平和の課題には取りかかれないという意味ではありません。  もしもそんなことを言っていれば、誰も平和をつくる仕事には取りかかることが出来ないでしょう。

 しかしイエス様の教えは、そうではなくて、もっと積極的です。初めに申し上げたように、平和への取り組みはキリスト教のオプションではなくて必修科目です。

 ただ先程考えたことは、平和への課題に取り組むという必修科目を担う時に、同時に私達はもう一つの必修科目として、自分の心・自分の姿を誠実に見つめることを学びつつ、外の課題に進んで行くという姿勢が大切だということなのです。

 こうしてこそ、私達の平和・シャロームへの取り組みは、神との関係・隣人との関係・家族との関係・その他の人間関係、あるいはアジアの国々との関係・韓国との関係…実を結ぶ、聖書的なものになって行くことでしょう。

 これを少し別な言葉で表現すれば、平和という課題は、私達にとって決して頭の中だけのことに終わらない、極めて実践的・日常的なことだという点に注意しておきたいと思います。

 私達の教団は、戦争責任について悔い改めの宣言文を出しているわけですが、平和をつくるという課題は、決してそれで完了するようなことではないわけです。  平和をつくるということは、極めて実践的なことであります。

 例えば、今年は七月に韓国系アメリカ人の伝道チーム(クレシス・ミッション)を迎えたわけですが、あのような具体的・実践的な体験の中に、私達は平和の神を味わうという恵みを頂くのだと思います。

 時々神様の御恵みは、求めなくても強いられた形でやってくると思いますが、今回のチームは私達が招いたのではなくて、あちらから飛び込んできたようなものでした。  予定されていた某教会とスケジュールが合わなくて、直前に川崎招待教会の趙牧師から、多磨教会で引き受けてもらえないだろうか、と話が飛び込んで来たわけです。  すでに学園の夏期伝道チームの受け入れが決まっていましたので、二週間続きになるとか、言葉の問題とか、どういうチームかよく分からないとか、色々な問題がありました。どうしましょうか、と相談する一方で、これは受け入れる以外の選択はなさそうだ、と思っていました。  何故かというと、私達は、韓国に対して犯した罪を悔い改める告白をしている教団であり、教会であります。その教会が、交わりと宣教協力を求めてくる韓国のクリスチャンの若者を、受け入れないという選択が出来るのだろうか、と思ってしまうわけです。

 一方で立派な宣言文を出しながら、他方で目の前に来る生身の人間を受け入れられないのならば、それはどういうキリスト教だろうか、と思います。これは、主が私達に担えと導いておられるのだ、と信じる時には、キリスト教の原理上、たとえ後がどうなったとしても、そうしてもそれを避けてはいけない・受け止めなければならないことがあると思います。

 こんな風に言うと、大げさに聞こえるかも知れませんが、あの時点では、チームについて何も分からないままで、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで受け入れを決めなければなりませんでした。

 もちろんそれが神様から出たことであるならば、結果が悪くなるはずはありません。事実私達は、予想を越えて素晴らしい出会いを頂いたのだと思います。

 それは、一緒に伝道をしたというばかりではなくて、また、彼らの信仰の姿勢に教えられることが多かったというばかりでもなくて、やはり、背後に日韓の歴史を担っての今回の出会いの意義があったのだと思います。どうしてもその背景を担って、今の一歩一歩を重ねて行かなければならないのが、日韓の関係なのだと今回改めて思わされました。

 多磨教会員の方も、戦争の時お幾つだったかによって、それぞれ彼らに対して思い入れがあるのだということを教えられました。また彼らの方も、一見戦争を知らない世代のように見えますが、しかし、戦争中日本政府の迫害によって殺された韓国人牧師のことなどをちゃんと親から教えられていて、彼らなりに韓国教会の歴史を担っているのだと教えられました。

 そんな私達と彼らが、共に一週間を過ごし、そして最後にはお互いの足を洗って、そこにいくばくかの手応え・・・主にある交わりの手応え、和解の手応え、平和の手応えを、頂くことが出来たと思います。

 そして初め彼らは、日本の教会について良くないイメージを聞かされてやって来た、と言っていました。生き生きとしていない日本の教会を活性化する手伝いをしようと思って来たのだと言っていました。しかし実際には、むしろ教えられたのは自分達の方で、素晴らしい体験をさせて頂いた、と最後には喜んで語って下さったのです。

 こうして彼らが、アメリカに帰って、戻って行くのは韓国人教会です。そこの方々に、日本の教会でよくしてもらったと、彼らが報告してくれるならば、本当に嬉しいことだと思います。

 このように私達は、平和をつくるということは、大変に実践的で身近な課題であるということをこの夏も教えられました。そして、その前提として、幸福の教えの六つの心の課題があるのだという点についても、私達は、聖書を通してだけでなく、この夏の体験を通しても神様から教えていただいたと思います。

 今日私達は、この敗戦平和記念礼拝に、平和をつくるという、キリスト教の原理をさらにしっかりと担いゆく決心を固めたい。そして、その前提としてわきまえるべき心を確かめる者でありたいと思います。


Go to Home Page