『今も生きておられる主』

牧師 広瀬 薫

先週はイースターでした。

私達は、沢山の子供達も迎えて、また多くの大人も集まって、イースターを祝いました。イースターと いうのは、誰にとっても、大きな喜びの日であります。

けれども、この喜びの日に、泣いている人がいました。

・・それが、今日の箇所に出てくる、マグダラのマリヤという女性です。

私達の回りにも、イエス様の十字架と復活による救いの素晴らしさを知らずに泣いている人はいないで しょうか。

あの主イエスの復活の朝にも、泣いている人がいたのです。それがマグダラのマリヤでした。

ヨハネの福音書20章11節「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、 泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。」

イエス・キリストは金曜日に十字架にかかって死なれ、三日目の日曜日に何と復活されました。空の墓 を見たヨハネは「信じた」と8節にあります。それで、弟子達に知らせに帰っていくわけですが、しか しマリヤは墓の前に留まっていました。そこにたたずんで泣いていたというのです。

何故マリヤは墓から離れずにいたのでしょうか。何故泣いていたのでしょうか。

13節で、御使いもマリヤに尋ねています。「なぜ泣いているのですか。」

15節では、イエス様もマリヤに尋ねています。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているので すか。」

それに対してマリヤが答えていることは、まとめますと、・・・お墓が空になっている。イエス様のご 遺体が無い。それはきっと誰かが取って行ったのだ。それが誰なのか、そしてどこへなのか、全く見当 もつかない。だから、私はここで、ここから離れることが出来ずに泣いているのだ、ということです。

ですから、マリヤの涙には、二つの理由があったということが出来ると思います。

一つは、マリヤは、それほどまでに、主イエス・キリストを愛していた、ということでしょう。

マリヤはイエス・キリストを求めていました。信じていました。愛していました。彼女にとって、イエ ス・キリストが全てであったのです。

たとえ、死んで冷たく動かぬ屍になったとしても、イエス・キリストがマリヤの宝であることに変わり はなかったのです。ですから、どうしてもマリヤは、イエス様の遺体が無いということで諦めることが 出来ませんでした。

マリヤは何と言っているでしょうか。

13節では、イエス様を「私の主」と呼んでいます。「私達の」ではなく、あれは「私の」主なのです、 私は救い主イエス・キリストとしっかりと結び付いていたのです、と言う気持ちでしょう。

また、15節では、イエス様の遺体について、「私が引き取ります」と言っています。ここでも「私達 が」ではなく、「私が」引き取るのですと言うのです。皆さん、マリヤがいかに全てをかけてイエス様 を愛していたかを窺わせる言葉ではないですか。

この時他の弟子達は、何をしていたかというと、こわくて、隠れて震えていたのでした。しかしマリヤ の、主への愛は、恐れに優っていたのです。

けれどもまた同時に、その愛は、信仰は、希望は、全て主イエスの死によって、打ち砕かれたと見えた のでした。マリヤが泣いていた一つ目の理由は、マリヤが誰よりも主を愛し求めていたからでありまし た。

二つ目の理由は、マリヤは主イエスが実は復活したということを、夢にも思わなかったということであ ります。

イエス様は、前々から繰り返し、自分は十字架にかかり、三日目に復活すると教えておられましたが、 しかし、それが理解でき図、信じることが出来なかったのです。

もしも信じることが出来ていたら、この朝マリヤは、飛び上がって喜ぶことができたでしょう。しかし 信じることが出来なかった。だから、空の墓を見て泣いているのです。

目の前の空の墓は、復活の証拠、喜びの証拠であるはずなのに、マリヤにとっては、絶望に次ぐ絶望の 印、涙の種でしかなかったのです。イエス様の復活が信じられなかったからです。

(1)皆さん、クリスチャンの流す涙ということを考えてみましょう。

私達は、時にこのマリヤのように、本当は泣く必要などないのに泣いている、ということはないでしょ うか。

現実に起きていることの本当の意味がわからずに、ただそれが自分の思いと違っていたということで がっかりして、あるいは、こんなことが起きるなんて思ってもいなかったというショックで、落ち込ん でしまうのです。

実は本当の意味がわかれば、泣く必要は無いのに、あるいはむしろ、それは神様が素晴らしい御業をな さっているという喜びであるはずなのに、・・・わからないで落ち込んでいる、希望を失っている、泣 いている。

御言葉はちゃんとそれを教えているのに、それが理解できずに、また、信じることが出来ずに、泣いて いる。そんなことが私達にもあるのではないでしょうか。

では、聖書はここで、そんなマリヤの姿に対して何と言っているのでしょうか。

愚かだと笑うのでしょうか。不信仰だと責めるのでしょうか。

・・・いや、決してそうではないのです。

聖書は、主イエスを愛し、求めて、しかしなかなか悟ることが出来ないで泣いているマリヤを、神様が 実に優しく丁寧に導いて行って下さることを記すのです。

まず御使いが送られて来て尋ねます。「なぜ泣いているのですか。」

御使いは理由がわからなくて聞いているのではもちろんありません。これは、マリヤの心に悟らせよう とする問いかけの言葉です。

次に何と、復活のイエス様ご自身が、やって来て下さいまして、やはり問いかけます。

「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」

けれども皆さん、悲しみに打ちひしがれたマリヤの目には、それがイエス様だということがわからな かったというのです!

14〜15節、「彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるの を見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。イエスは彼女に言われた。『な ぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。』彼女は、それを園の管理人だと思って 言った。…」

今目の前に立つ方が、マリヤがあれほどまでに求めて求めて、そして泣いて、愛してやまなかったイエ ス様ご自身であったのに、何と、信じていない目には、そして悟っていない心には、その目の前のイエ ス様がわからなかったというのです。

皆さん、これが、信仰者がしばしば体験するところであります。

私達のすぐ傍らにイエス様がおられるのに、しかしそれが、私達の常識をはるかに越えた恵みの出来事 であるために、つまり、信仰をもってしか受け止められないことであるために、わからないのです。

このことを、この場面で象徴的に示している言葉が、「(うしろを)振り向く」という言葉です。

14節でも16節でもそうなのですが、マリヤはここで二回イエス様を見ているのですが、二度とも「振り 向いて」見ているのです。

振り向いてイエス様を見たということは、マリヤは別な方向へと心と目とを向けていたということで しょう。

だから、イエス様がすぐ後ろにおられるのに、わからない。わからないままに、あちらはどうか、こち らはどうか、と捜し求め、そして、見つからない、見つからないと、嘆いているのです。

皆さん、これが、私達信仰者が、時に陥る状態ではないでしょうか。

神様がわからなくなった、とか、神様はどこにおられるのでしょう、と言う時に、実は自分の判断に執 着してしまっていて、すぐそばにおられる神様を、イエス様を、御使いを、見ることが出来なくなって いるということはないでしょうか。

実は振り向くと見えたりするのです。振り向くということは、方向転換するということです。私達が、 マリヤのように途方に暮れる時、私達に必要なのは、振り向くこと、方向転換することであるかのかも 知れません。すると思いがけなく、すぐそばにおられた主を見出したりするのかも知れないのです。

(2)しかしそうは言っても、マリヤは振り向くだけでは、イエス様を見る目が開けませんでした。私 達は、自分の力で悟ることは出来ないのです。

ここで事態を決定的に変えたのは、実はマリヤが何をしたということではなくて、イエス様の方から語 りかけて下さったということでした。

16節、「イエスは彼女に言われた。『マリヤ。』彼女は振り向いて、ヘブル語で、『ラボニ(す なわち、先生)。』とイエスに言った。」

聖書の教える神様は、私達の名を呼んで下さる神様です。(イザヤ書43章1節参照)

このヨハネの福音書でも、10章の1〜5節の所で、イエス様は良い羊飼いとして、私達をその名で呼ん で下さる。すると呼ばれた方は、あっ、イエス様の声だとわかってついて行くというのです。

どうでしょうか、これが正に今日の箇所で起きていることではないでしょうか。

「マリヤ」と呼ばれた時、わかったのです。

この瞬間、マリヤの心の中にパッと光が射したのです。

マリヤの心の中には悲しい言葉が一杯でしたが、それがパッと喜びの絵に置き換わったのです。

悲しみの涙が喜びの涙に変わるのです。

そして彼女は、振り向く。これはマリヤの信仰の応答です。

主の呼びかけに、私達は何もしなくてよいのではありません。

信仰の応答として、主の方に向き直る必要があります。そして、「ラボニ(先生)」・・・この言葉 は、この時の呼びかけと応答が、前から用いられていた親しい言葉でなされたということを教えてくれ るように思います。

皆さんは、ご家庭でお互いを何と呼び合っておられるでしょうか。

「あなたっとー呼べーばー」という歌がありましたが、皆さんもぜひ、イエス様とは、この「マリ ヤ」ー「ラボニ」の関係、つまり一対一で呼び合う、決して十把一絡げではない、神様との関係を普段 から大切に持って頂きたいのです。

さてすると、17節、ここで、イエス様が「わたしにすがりついていてはいけない」とおっしゃったの が、何だか厳しく見えて、意味がよくわからないとしばしば言われる所ですが、皆さんこの場面のマリ ヤの気持ちを考えてみて下さし。

あっ、イエス様だ、とわかった時のマリヤの心の状態と、そしてマリヤが何をしたかを想像してみて下 さい。

先日、教会の皆様のご厚意とご協力を頂きまして、家族で、一年半ぶりに新潟に帰省する機会を頂きま して、大変感謝致しました。

その時に、私はある女性に、と言いますか、大変もてて嬉しかったという経験を致しました。

それは、長岡の母親の所には、スージーという小さな雌の室内犬がいるのですが、その犬が、私が行き ますと、もう、すっ飛んで来て、飛びつく、すがりつく、転げ廻る、・・・狂喜乱舞の姿で、私はそれ を見ると、たとえ相手が犬であったとしても、私の存在をこれほどまでに喜んでくれるものがいるとい うのが、何だかとても嬉しかったわけです。

ここでマリヤは、きっとあのスージーどころでなく嬉しかったのです。

そして恐らく、イエス様にすがりついたのです。・・・もう絶対に離すものか。この喜びを手放してた まるか。・・・という大変な、いわば度はずれた喜びようであったと思うのです。

そんなマリヤにイエス様の17節の御言葉は、「わたしにすがりついていてはいけません。わたしは まだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたし は、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げな さい。」

・・・これは厳しい禁止命令ではなくて、ホラホラもうそんなにしていなくてもよい。というのは、私 にもあなたにも、まだやるべき大切なことがあるのだから。そんなにしがみついていてはそれが出来な いではないか。さあ、この喜びを携えて、お互いになすべきことをしようではないか。・・・という意 味だと思います。

では、そのなすべきこととは何かと言いいますと、まずイエス様のなすべきことは、天の父なる神様の 所へ昇るということでした。これを「昇天」と言います。

マリヤに限らず、人間は、イエス様を地上に身近に留めようとするのではないでしょうか。

だから、像を作ったり、絵に頼ったり、キリストと称する人間を求めるなどというとんでもないことも あるのでしょう。

地上に、身近にイエス様を持って安心しようとするのではないでしょうか。

しかしここでイエス様は、主イエスを地上に留めようとするな、とおっしゃっています。

主は地上におられるよりも、天お父なる神様の所にいなければならない。

そこで父なる神の右の座につき、私達のためにとりなしをする、また聖霊を送る。そのようにして全世 界に御業を推し進める。それが主の務めだとおっしゃいます。

イエス様は、私達がいつも地上に執着しすぎる、そんな私達の目を天に上げよう、もっと大きな世界に 心を向けさせようとなさるのです。

次にマリヤのなすべき務めとは何でしょうか。

17節後半、「わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたが たの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」

伝えなさい、つまり宣教ということです。

ここでイエス様はつい先日つまずいた弟子達を何と「わたしの兄弟達」と呼んでいます。

非難ではなく、叱責ではなく、赦しと慈しみを与えて、(その根拠には、私達のために担われた十字架 と復活があったのです)そしてこの救いの喜びを伝えることがあなたがたの使命なのだと教えて下さる のです。

このようにして、今日の箇所の初めには失望の中に沈んで泣いていたマリヤが、終わりには喜び勇んで 駆けていきます。

マリヤは全く変えられたのです。

本当のことを知って、目が開けたのです。

この変化をもたらしたものは何であったでしょうか。

復活のイエス様との出会い、生ける神とのでありでした。

今日この礼拝においても、イエス様は生きてここにおられて、私達に語りかけておられます。

私達の名を呼んでおられます。

私達はその呼びかけを聞き、その呼びかけに答えたいのです。

特に、もしも私達の目が心が、イエス様から外れて他の方に向いしまし、イエス様を見失っている状態 ならば、主よ、あなたがここにおられて私を呼んで下さっているのがわかりました、と振り向く必要が あるかも知れません。

そして、そのようにイエス様が優しく私達を求めて下さり、扱って下さり、そのようにして救われた喜 びを、私達は伝えるという使命に生きる道に歩みを進めたいと願います。

18節、「マグダラのマリヤは、行って、『私は主にお目にかかりました。』と言い、また、主が 彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。」


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