『内なる人は日々新たに』

牧師 広瀬 薫

明けましておめでとうございます。

聖書の中のお正月、つまり一年の始まりを考えてみますと、イスラエルには二種類の暦があったことが わかっています。

一つは、我々で言うと秋から始まる暦。

これは人々の社会生活、農作業を数えるのに都合の良い暦でした。

もう一つは、我々で言うと春から始まる暦。

これはあの出エジプトの大事件を記念して、それを正月、つまり一年の始まりとして一年を数える、こ れは宗教生活の暦でした。

出エジプトという出来事は、私達クリスチャンにとっては、イエス・キリストの十字架の救いを表して います。

ですから、イスラエルの人々にとって、宗教的な意味での一年の始まりというのは、自分達が救われた 日から時を数える、という意味があったわけです。

私達は、何も二つの暦を持つ必要はありませんが、ただ、聖書の暦の考え方から教えられることは、あ るのだと思います。

それは、新しい年を迎えるということは、ただ単に時間が過ぎて行って、一年が終わり、また新しい一 年が来ました、というのではなくて、そういう形の上での時の流れだけではなくて、そこに、神様の救 いによって新しくされた何かがある。形の上だけではなくて、神様によって本質的に新しく始められた 何かがある、ということです。

その神様の救いによる新しい何か、ということを、この新年礼拝で、ご一緒に考えて、新年のスタート を聖書的に味わう、ということを今日しておきたいと思います。

そして、今日の聖書箇所は、「ですから、私達は勇気を失いません」(第二コリント4章16節a)と 始まりますが、新しい年を私達がこれから歩み始める、その「勇気」を、今日神様から頂きたいと思う のです。

今日の聖書の箇所は、時の流れに従って、私達には、過ぎていくものと、そうでないものの二つが、同 時にある、ということを教えています。

過ぎていくものとそうでないものがある。そのことについて、聖書はここで三つの対比を並べて、それ を描き出そうとしています。

三つの対比というのは、…

(1)第一の対比は、「外なる人」と「内なる人」です。

(2)第二の対比は、一時的な「軽い艱難」と、永遠の「重い栄光」です。

(3)第三の対比は、一時的な「見えるもの」と、永遠の「見えないもの」です。

これをこれから順に見ていきたいと思います。

(1)第一の対比は、「外なる人」と「内なる人」です。

《16節後半》「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」

外なる人と内なる人。

外なる人は衰えていく。しかし内なる人は日々新たにされている、とあります。

外なる人というのは、生まれたまま、成長し、大人になり、老いていく人間の姿、ということです。  生まれたままの人間は、時を経ると共にやがて次第に衰えていく。これは、誰もがいずれ否応なしに実 感させられる、あるいは既に実感し始めている神様の定めでしょう。

この手紙を書いている時のパウロは、幾つ位だったのでしょうか。彼はこの頃実に精力的に町から町へ と伝道旅行を続けていたわけですが、恐らく年齢は 才代、恐らくその後半。聖書を読んでいると、パウ ロはエネルギーの固まりの様に見えますが、やはりパウロも衰えを実感していたのかなあ、と思わされ ます。

恐らく、足腰は弱る、目も衰える、無理がきかなくなる、…そんなことを味わっていたのでしょう。え てしてスーパーマンのように見られがちなパウロですが、こんな言葉には少し親近感も湧いてくるで しょう。

さて、外なる人というのは、目に見える体のことだけではなくて、更に、人間が生まれつき持っている 全ての能力・力をも指しています。

例えば、心の力、意志の力、…これも衰える。

例えば、知性の力、暗唱聖句をする能力、…これも衰えてもはや子どもたちにかなわない。

また、ものを感じるみずみずしい感性。感情の力、そして若々しい冒険心、…こういうものは皆、いず れ誰でも衰えていく、と聖書はいうのです。これらは時と共に過ぎ去って行くものなのです。それが私 達の現実であります。

しかし、たとえそうであっても、聖書は、「内なる人は日々新たに」と言うのです。

内なる人というのは、神様によって私達に内に作り出された、新しい人です。

外なる人は、生まれつきの古い人。内なる人は、救われて造り出される新しい人、永遠の命を持った 人。…私達の内には、この2種類の人が同居しているというわけです。

そして、内なる人、新しい人は、ただ単に、神様が作り出して下さった、というだけではない。また、 外なる人のように、時と共に衰えていくのでもない。そうではなくて、日々新たに、時と共にますます 新しくなる。ますますリフレッシュされ、成長し、永遠の神様に近付いていくのだ、というのです。

 「外なる人は衰え」「内なる人は日々新たに」される…これが第一の対比です。

(2)第二の対比は、一時的な「軽い艱難」と、永遠の「重い栄光」です。

《17節》「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもた らすからです。」

今の時の軽い艱難と、永遠の重い栄光。

聖書は、私達が人生において出会う艱難は軽く、そして神様は、やがてそれに替えて重い永遠の栄光を 下さるのだ、というのです。

私達は、人生において、皆、艱難に出会います。それはそれぞれ、私達にとって大変な課題であり、重 い重荷であるでしょう。

しかし、何と聖書は、それは軽い、というのです。

そんな、…私の苦労を知りもしないで、よくも「軽い」などとおっしゃって下さいますね、と頭に来る かも知れませんが、…

しかし、皆さん、ここで今の艱難は軽い、と言っているのは誰なのか、そして彼は、どのような人生を 歩んでいたのだろうか、ということを考えると、この聖書の言葉に、実に心底驚かされるのではないで しょうか。

私達は、聖書を読んでいて、時々、といいますか、しばしばこういう驚くべき言葉にぶつかると思いま す。そして、こういう言葉に驚かないと、聖書はちっとも面白くないのです。しかし、驚くべき所で驚 くと、聖書は実に面白くなってきます。今日私達は、パウロのこの言葉に驚きましょう。

ここでこう言っているのは、パウロなのですが、…

皆さん、人間の中でパウロほど、重い艱難に満ちた人生を送ったクリスチャンを私達は知らないのでは ないでしょうか。

彼の味わっていた艱難とは、どのようなものであったでしょうか。

《同じ、第二コリントの、11章23〜33節》

23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなの です。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数え きれず、死に直面したこともしばしばでした。

24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、

25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、 海上を漂ったこともあります。

26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、 荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、

27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍 え、裸でいたこともありました。

28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあり ます。

29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、 私の心が激しく痛まないでおられましょうか。

30 もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。

31 主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないの をご存じです。

32 ダマスコではアレタ王の代官が、私を捕えようとしてダマスコの町を監視しました。

33 そのとき私は、城壁の窓からかごでつり降ろされ、彼の手をのがれました。

これではもう、命が幾つあっても足りないような人生ではないですか。私達の中で、パウロの 分の1で も艱難を味わっています、と言える方は、多くはないでしょう。

しかしパウロは、何と、軽い、と言っている。これは驚くべき言葉ではないでしょうか。 私達の目に は、どう見たって重い。

何故、パウロは、軽い、と言うのでしょうか。やせ我慢して、または、やけになって、「こんなの軽い 軽い…」と言っていたのでしょうか。 もちろんそうではない、彼が「軽い」というのには、確かな根 拠があったのです。それは何かというと、…

「重い永遠の栄光」です。これに比べれば、今の艱難は、いかにも軽い、というのです。この対比が大 事なのです。

今の私達の味わう艱難は、自分にとっては重く思えますが、しかしパウロの艱難に比べたら、どうで しょう、私達の艱難も大分軽い部類かなあ、…いやもしかしたら、吹けば飛ぶような艱難で悩んでいた かなあ、…とそんな風に見えてきそうですが、しかし、そのパウロの艱難も、天でクリスチャンを待つ 重い永遠の栄光に比べれば、軽い、というのならば、…どうでしょう。私達の今の艱難と、天の重い永 遠の栄光とを比べたら、そこにはどのくらいの落差があるのでしょうか。

私達は、天で私達を待つ永遠の栄光の素晴らしさ、重さをわかっているでしょうか。

そこに目をとめ、その重さがわかる時に、今の地上の艱難は軽い、ということに目が開かれるのでしょ う。えてしてそうであるように、地上の、今の艱難にばかり目を奪われていると、それがわからない。 そこから目を上げて、天の重い栄光…あのパウロも見ていた永遠の栄光を見ようではありませんか。

しかもこの 節を良く読みますと、…皆さん、何が、私達に重い永遠の栄光をもたらすのでしょうか。

《17節》「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもた らすからです。」

ここには、今の時の軽い艱難が、私達の内に働いて、重い永遠の栄光をもたらす働きをするのだ、とい うことが教えられていたのです。

つまり、艱難も私達にとっての益となるように働く。そのように神様は全てを最終的に生かして下さ る。艱難も、栄光も、私達の益になるために、どちらも神様から与えられていたわけです。

そうと知るならば、私達は、 節にあるように、「勇気」をもって、今年どのような状況が待っていると しても、それを生き抜いて行こう、と励まされます。

「今の時の軽い艱難」「重い永遠の栄光」…これが第二の対比です。

(3)第三の対比は、一時的な「見えるもの」と、永遠の「見えないもの」です。

《18節》「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは 一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」

見えるものと見えないもの。

見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く。

見えるもの、とは、この地上の全てのことでしょう。

そこには私達にとって、良いと見えることも、良くないと見えることもあります。しかし、どちらも一 時的なものだというのです。良くない事も過ぎていくのであり、良い事も過ぎていくのです。

そして、実は、それが全てなのではない。見えるものの他に、見えないものもあるのだ。そして、その 見えないものの方が、永遠に続いていく、本当のものなのだ、というのです。

では、見えないものとは、何でしょうか。

今日考えた言葉で言えば、どうなるでしょうか。…

外なる人は、見える。内なる人は、見えない。

今の艱難は見える。重い永遠の栄光は見えない。

今日の3つの対比は、実は同じ事を3つの側面から描いていたわけです。

見える方のもの、外なる人、今の艱難、それは全て一時的である。そして、見えない方のもの、内なる 人、永遠の栄光、それはいつまでも続くのです。

見えないもの、他にも色々な言葉が思い浮かぶでしょう。

天の御国、神の国、永遠の命、神、イエス・キリスト、聖霊、…全てそういう大切なものは見えないの です。見えないから、信仰をもって受け止めなければならないように、神様はなさったのです。そうい うものにこそ、目をとめて生きるべきだ、と聖書は教えているのです。

これを今日、新年に当てはめますと、目に見えるものとは、私達の体であり、お互いであり、教会のこ の場であり、また今日はまだ新しいカレンダー、…そういうものでしょう。これは皆一時的なもので、 やがて古び過ぎ去って行きます。

しかし、ここに、目には見えなくても、確かに存在しているものがある、それにこそ今目をとめよ、と 聖書は言うのです。

決して過ぎ去らない、古びない、むしろますます新しくなるもの、…その見えないものにこそ目をとめ て、生きようではないか、とパウロは励ましているのです。

皆さん、今日も私達の内なる人は、聖霊の働きによって、また一歩新たにされていきます。そしてその 歩みの果てには、はかり知れない重い栄光が用意されているのです。そういう一年がまた始まりまし た。

永遠に根ざして生きる生き方を、この年頭に各自志したい、と思います。


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