先週から私達は、イエス・キリスト様をお迎えする備えの期間に入っています。
既にクリスマス会も次々と行われて、私達は神様からクリスマスの祝福をたくさん頂き始めているので すが、他方、忙しい 月の日々に流されることなく、一人一人がしっかりとイエス様を喜び受け止める備 えを整えるこの季節と致したいと思います。
しかし、イエス様を受け止めると言っても、今、イエス様はどこにおられるのでしょうか。私達はどこ で、イエス様をお迎えし、本当の人生を手にすることが出来るのでしょうか。
これに対する答えは、一人一人にそれぞれあるのだと思います。
私達は、それぞれかけがえのないたった一度の人生の中で、イエス様の訪れを頂き、神様と出会い、結 ばれるという体験をします。それが、その方にとっての本当の意味でのクリスマスと言うことが出来ま す。私達はそれを知るまで、この地上の旅路の中で、イエス様を探し求め続け、時には見失ったりする のかも知れません。
このマタイの福音書のクリスマスの記録に出てくる、「東方の博士達」も、イエス様を探し求めたり、 見失ったりした人達でした。
その意味で、この博士達の歩みは、私達の人生の姿を表しているのだということが出来ます。ですか ら、私達自身の人生の歩みを、この博士達に重ねて読むことが出来るのです。そのようにして今日のひ ととき、御言葉を味わいたいと思います。
(1)マタイの福音書2章1〜2節。
「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博 士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はど こにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりまし た。」
博士達は、当時非常に天文学の進んだ地方の学者であり、インテリであり、上層階級の人達だったので しょう。
彼らはどうして、特別に輝く星を見たというだけで、はるばる長い旅を始める気になったのでしょう か?
実は当時、救い主が誕生する時には、それを知らせる星が出現するだろうと言い伝えが、広く東方世界 にまで流布していたようです。
そのことを古代ローマの著述家スエトニウスという人が書いているそうです。
ですから、この天文学者達が星を見た時に、「待ち望んでいた救い主だ。ユダヤからのメシヤ(キリス ト)だ。世界の王のお生まれだ。」と判断したのは、それほどにメチャクチャに不思議なことでも唐突 なことでもなかったようです。
そういうわけで、彼らは、出かけたのでした。でも、どこへ行けば、お生まれになった救い主に出会え るのでしょうか。
皆さんなら、どこへ行かれるでしょうか?
救い主・世界の王とは、一体どこにおられることがふさわしいと皆さんはお思いになるでしょうか。
博士達は、首都・神の都として名高いエルサレム、しかもその王宮こそ、救い主のおられる場としてふ さわしいと考えて、そこに向かいました。
実はこれが間違っていたわけですが、極めて常識的な判断でした。
博士達はそこで何を見ることを期待していたのでしょうか。
もちろん、生まれた救い主がそこにおられること。そしてそれを大いに喜んで祝う人々の群れがあふれ ているはずだ、と思ったのではないでしょうか。
つまり待ちに待った救い主を迎えて、理想の世界がそこにスタートしているのを体験することを期待し ていたのでしょう。
しかし、この博士達の期待は、全く裏切られたのです。そこに救い主はいませんでした。
ここで、聖書を読んでいて興味を覚えるのは、博士達を導いた星は、どうも、彼らをまっすぐにイエス 様の所へと導かなかったらしい、ということです。
よく読むと、星は一度消えまして、9節の所で再登場するように見えるのです。 だから、博士達は行 き先を一度間違えるわけです。
なぜ星は、まっすぐに導いてくれないのでしょうか?
私達も自分の人生において、しばしばそう思うのではないでしょうか。
なぜ神様は、人生の寄り道なしに、まっすぐに導いて下さらないのか。ちゃんと導いてくれないから、 私達は間違えたり、つまずいたり、つらい思いをするのだ、と言いたくなるのではないでしょうか。
この理由は、色々考えられるでしょうが、博士達にとっては、イエス様に出会う前に、この経験をする ことが必要だった、ということなのだと思います。
本当の救い主に出会う前に、この世のありさまの実態に目覚める必要があったのだと思います。
もしも、彼らがまっすぐにイエス様の所へと行ったならば、どうだったでしょうか。
恐らく彼らは、イエス様を救い主として受け止めることが出来なかったのではないか、と思うのです。
彼らが見たのは、救い主・王というには、余りに貧しい姿、無力なありさまでした。
それは彼らがもともと抱いていたイメージとはかけ離れていたでしょう。
けれども、彼らは先に都の姿・この世の姿を見ていたからこそ、イエス様を素直に受け入れ、信じ、礼 拝し、捧げものをすることが出来たのでしょう。
では、博士達は都で何を見たのでしょうか。マタイの福音書2章1〜8節を読みましょう。
1 「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方 の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほう でその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問 いただした。
5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わ たしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかった ら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
彼らが都で見たもの、それは、彼らの期待をことどとく裏切るものばかりでした。
都の宮殿に救い主はおられませんでした。「ユダヤ人の王が生まれた」という知らせに、人々が喜ぶか と思えば、とんでもない。3節に、「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と 同様であった。」とあります。
そこにあるのは、クリスマスの祝いではなく、恐れでした。
また、4節で、生まれたのはどこか、と問えば、5節で即座に、「ユダヤのベツレヘムです。」旧約聖 書にそう書いてありますから、としたり顔に答える祭司長・律法学者達も、では一緒に救い主のもとへ と急ぐかと言えば、そうではない。知っていても行かない。
そこにあるのは、救い主への歓迎ではなく、不信仰であり、自分の身をまず守りたいという利己的な無 関心でした。
つまり、救い主である世界の王の誕生の知らせに、博士達が見たのは、期待とは正反対の、我が身の益 だけを考える都の王や指導者達の姿だったのでした。
それは例えて言えば、大きな石をひっくり返して、その石の下に、今まで暗闇だった所に光をもたらし て、その光を皆が喜ぶだろうと思ったら、何と、石の下にいた虫達は、恐れ、逃げ惑い、何とかして光 から逃れようとし、あまつさえ、光を抹殺しようとさえして、慌てふためいている。
それが都の人々の姿、そしてそれが、聖書が描く人間の姿の実態なのでした。
私は、この時の博士達は何を思っただろうか、と思います。
そこにあったのは、深い失望であったでしょう。
自分達は今まで何のために努力してきたのか、という落胆があったでしょう。
こんなことなら来るんじゃなかった、という後悔もあったでしょう。
これから自分達は、この世界はどうなるのか、という不安もあったでしょう。この時の空には、頼みの 綱の星も見えなかったのでしょう。
そして、都ではなくベツレヘムという小さな村へ行け、というヘロデ王の指示を、彼らはどう聞いたの でしょうか。
本当だろうか、自分達の今までの考えと違うという不安があったでしょう。
自分達は、救い主にふさわしいのは高い所だと思って求めてきたのに、指示されたのは低い所でした。 大きな都だと思って来たのに、指示されたのは小さな村だったのです。
恐らく、失望と落胆と後悔と不安を抱えて、王宮から暗い外へと出た博士達。それは正に、私達が人生 の導きを見失い、暗闇の中をさまよい行く姿であります。
人生で求めていたものが得られなかった、ここにあると思ってここまで来たのに、それはなかった。
聖書の中にはそういう体験をした人達が出てきます。
例えばザアカイは、お金にこそ幸せがあると思ったのに、いざ手に入れてみれば、幸せはそこにはな かった。
また例えばサマリヤの女性は、結婚にこそ幸せがあると思ったのに、いざ一緒になってみれば、幸せは そこにはなかった。…クリスチャンも、時に味わう体験です。そんな時私達は、神はどこにいるのか、 と思うのではないでしょうか。
けれども、この時、…マタイの福音書2章9〜 節をご覧下さい。
「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、つい に幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく 喜んだ。」
神は全てを見ておられたのです。
そして、最善のタイミングで最善の導きを与えて下さるのです。
この再び出現した星が、博士達の失望を希望に変えます。不安を平安に変えます。落胆を喜びに変えた のです。
正に、人生の暗闇の中に差し込む一筋の光。この星を再び見出した時の喜びが、皆さん想像出来るで しょうか。
私達にとって、この星の導きとは何でしょうか。
聖書による御言葉の導き。
…詩篇119篇105節「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
…暗闇の人生に、一筋の光を差し入れて導いてくれるのは聖書の御言葉でしょう。
あるいは、祈りの中での神様との出会い。あるいは、何か出来事や、人との交わりを通しての、神様と の出会いがあるのでしょう。
しかし、この星の導きが、人間の常識とは反対であったことに、もう一度注意しておきましょう。
都ではなく村に、中心ではなくはずれに、宮殿ではなく小さな家に、社会の頂点ではなく底辺に、豪華 絢爛な美しさではなく貧しさの中に、そこにキリストはいる、というのは、人間の常識に反した星の導 きでした。
私達もそういう体験をするのだと思います。
私達日本の社会も、上へ登ることが良いことだと教え、下へ下ることを教えない。
成績も地位も下がるより上がる方が良いのであり、病気よりも健康の方が良いのであり、貧しいよりも 豊かな方が良いのだと、そんな考えが普通に社会を支配しているでしょう。
低い所にキリストはおられるとすれば、それは私達の常識に反することでしょう。しかし、聖書は常識 とは違うことこそ真実である、と教えていたのでした。
ですから、私は今日の箇所で、星に導かれて、エルサレムからベツレヘムへと、夜の道をトボトボと歩 いて行く博士達の姿に心をひかれます。
この、エルサレムからベツレヘムへの旅。上から下への旅。中心から外への旅。…この旅に彼らの心の 変化・人生観の変化・価値観の変化が表れているのではないでしょうか。
それは、自己中心から、神様に明け渡す人生への旅と言っても良いのです。人間の常識から離れて、人 生と世界の真実に触れる旅と言っても良いのです。
ここに彼らの信仰体験があったと思うのです。
私達も、どこでイエス様に出会うのでしょうか。
案外思いがけない所で出会うのではないでしょうか。
例えば、人生順境の時には案外神様から遠く離れた所を歩んでいたり、また逆に、自分の弱さ・罪を思 い知る時に、そこでイエス・キリストの恵み深い臨在を本当に味わったりするということなど、クリス チャンは皆体験することではないでしょうか。
あるいは、社会から見捨てられるような貧しい人々の中にキリストを見出す。
あるいは、差別され虐げられた人々の中にキリストを見出す。
…それは多くのクリスチャンの先輩達が証ししていることです。とにかく、その思いがけない所でのキ リストとの出会いへと導くもの、それは星であり、私達にとっては例えば御言葉であります。
御言葉の真理によって、私達は世界の実態・人生の実態を見る目を開かれて、キリストが本当におられ る所はどこなのか見えてきて、そこで救いに出会う、真実な人生に出会う、という素晴らしい体験を頂 くことができるのでしょう。
10節に、「彼らはこの上もなく喜んだ。」とありますが、この「この上もない喜び」が私達にも差し 出されているのを、このクリスマスに各自しっかりと神様から体験させて頂きたいと思います。
(2)東方の博士達は、そのこの上もない喜びに与かることができました。
彼らの歩みを私達は味わって来ましたが、最後に、クリスマスの喜びを手にした彼らの行動を簡単に 学んでおきたいと思います。何を教えられるでしょうか。3つのことを味わいましょう。
一つ目は、博士達は、出掛けて、イエス様の所までやって来た、ということです。
これは、一言で言えば、求道の心、つまり真理の道を求める心、求め続ける心です。
博士達の知識は不十分でした。人に教えを請わなければなりませんでした。しかし博士達は、真理を求 めていました。そして、求めて知った所に従って、旅立ち、労力と時間と財産を用いて、犠牲を払っ て、本物を求め、本当の救い主のもとにたどり着くまで求め続け、遂に見出したのです。つまり、知っ た通りに生きようとしていたのです。
イエス様は、聖書の中で繰り返し、誰でも私の所へ来なさい、と招いておられます。
イエス・キリストを求めて、そのみもとへと出掛けて行く、本当の人生を見つけるまで求めていくとい う心が、キリストに出会う心として第一に大切です。
二つ目は、博士達は、イエス・キリストに出会った時、イエス様を信じ礼拝しました。
これは、一言で言えば、信仰の心、つまりイエス様を受け入れる心です。 この心がクリスマスの知ら せを受け止める心として大切です。
クリスマス・プレゼントの中で一番肝心で、忘れてはならない最大のものは、神様が私達に救い主イエ ス・キリストを下さった、という特大プレゼントです。
私達がこのプレゼントを自分のものにするに一つだけしなければならないことは、素直にそのプレゼン トを信仰をもって受け取る、ということです。
三つ目は、博士達は、イエス様に黄金・乳香・没薬をささげた、ということ。
これは一言で言えば、応答ということ。つまり、自分の果たすべき使命を、受け止めて果たした、とい うことなのです。
救いというのは、ただ、はいあなたは救われました。あとは自分の好きなように生きて行きなさい、と いうことではありません。
救われた私達は、この地上の旅路において果たすべき尊い使命を与えられて生かされて行くのです。そ ういう意味で、イエス様との出会いは、自分の人生の本当の意味と生きがいを私達に教えるのです。
博士達は、自分の捧げ得る最善のものをイエス様にささげましたが、これは、使命を受け止めて、それ に答えた、ということなのです。
求めること、信じること、応答することの3つを数えました。
今日はアドベントの第二週、題を「キリストを求めての歩み」と致しました。
二千年前には、博士達が長い旅路をキリストを求めて歩んだその姿を今日は味わいましたが、今は私達 一人一人が、キリストを求めての歩みの中に置かれていることを覚えて、イエス様のみもとへの歩みを 進めたいと思います。