『信仰の先人に導かれて』(召天者記念礼拝)

牧師 広瀬 薫

ヘブル人への手紙12章1〜3節

今日は年に一度、恒例の召天者記念礼拝です。

私達は今日ここに、先に天に召された方々のお写真を持ち、あるいは目に見えるお写真は無くても目に 見えない思い出を携えて集いました。

このお写真の多くの方々は、私自身にとりましては、お目にかかったことのない方々ですが、聖書によ れば、同じ神様を信じるクリスチャン同士は「神の家族」同士でありまして、やがて天の御国であいま みえ、永遠の時をその天国で共にするのです。

ですから今日私は、また新しい家族に出会う「出会いの時」を頂くのだという思いでおります。

さて今私は「出会いの時」と申し上げましたが、実は多くの方々にとって、お葬式とか納骨式とかご法 事というのは、決して「出会いの時」ではなく、むしろ「お別れの時」であり、またはせいぜい、昔の 思い出を懐かしむ時であります。

しかし実は、「お別れ」ではなく「出会い」があるのだということを今日は覚えたいのです。

葬式において、「これでお別れ」と思うのは、あるいはご法事において、「もう取り返しのつかない昔 のことだ」と思うのは、何故でしょうか。…それは、人生は死で終わりだ、と思うからです。

しかし、聖書によれば、そうではないのです。人の生涯は、決して死によって全てが終わってしまうの ではないのです。

聖書によれば、人の死とは、私達がこの地上の労多き旅路を終えて、神様が用意して下さった最善の時 に、神様のみもとへと移って、そしてそこで永遠の愛と喜びと平安に満たされて生きる、一つの入り口 のようなものであります。

その門を、信仰の先輩達は、一足先にくぐったのだとすれば、死とは決して終わりでもなければ、永遠 のお別れでもないのです。

私は月に一度、仲間の牧師達と一緒に、ある読書会を持っているのですが、先日は、この教会を会場 に、その会が持たれました。その会の後、やはりここまで来て頂いたのだから、多磨霊園の有名なお墓 ……と言えば色々あるのですが、クリスチャンにとりまして有名なお墓と言えば、何と言っても内村鑑 三のお墓……を見に行こうということになりました。

実は私自身もこの教会に参りまして半年が過ぎましたのに、今回初めて、内村鑑三のお墓に行きまし た。内村鑑三は、明治期の日本のキリスト教会の草創期に活躍した代表的な指導者の一人です。

この内村鑑三の墓は、例の、I for Japan. Japan for the world. The world for Christ. And all for God.

(私は日本のために。日本は世界のために。世界はキリストのために。そして全ては神のために)

という墓碑銘が有名なのですが、もう一つ、大変印象的なのは、横に並び立っている、娘さんのルツ さんのお墓…なのか記念碑なのか、古い石碑です。

この内村鑑三の娘ルツさんは、20才で天に召されたと今まで覚えておりましたが、今回よくよく石碑を 見ますと、満で言うと19才でした。

その葬儀の時、内村鑑三は何と言ったでしょうか。

「これで終わりだ」「これでお別れだ」と言ったでしょうか。

いえ、彼は葬儀の時、「これはルツ子の葬儀ではない。ルツ子は天に嫁入りしたのであり、今日はルツ 子の結婚式である。」と述べたのです。

そして、墓地での埋葬の時、内村鑑三は、土を握りしめた手を高く挙げて、「ルツ子さん、万歳。」と 叫んだのであります。

その一部始終を見ていた若き日の矢内原忠雄(後の東大総長などなさった方です)は、「私はカミナリ に打たれたように身がすくんでしまった」と、その衝撃を、岩波新書の「余の尊敬する人物」という本 に記しています。

何故、内村鑑三は、娘さんの葬式に、これは葬式ではない、万歳だ、と言ったのでしょうか。…彼は、 「死は終わりではない、死は永遠のお別れではない」と知っていたからです。

私達は今日、何も内村鑑三のように万歳を叫ぶ必要はないのですが、しかし内村鑑三が持っていた希望 は、今の私達にも全く同じようにあるのだということは、確かめておきたいのです。

それは、神を信じる者は今も生きている。永遠に生きている。そして私達はやがて、神の家族同士とし て、再会する日が来るのだという希望です。

では、そういう希望を握っている私達は、地上の人生をいかに生きて行くのでしょうか。それを教えて いるのが、今日取り上げたヘブル人への手紙の箇所です。

(1)ヘブル人への手紙12章1節「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私 たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私 たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

「多くの証人達が、雲のように私達を取り巻いている」とは、どういうことでしょうか。

今日の聖書箇所の直前の、ヘブル人への手紙の11章は、約20人の信仰者を数え上げて彼らの信仰の生涯 を数え上げている、いわゆる「信仰の章」と言われる所です。…「信仰によって」という言葉が23回も 並びます。…その信仰者達は、今どこに行ったのでしょうか。

人間的に見れば、死んだ、ということになるのです。しかし、聖書は、彼らは「雲のように私達を取り 巻いている」と言うのです。

ある神学者は、ここには競技場のイメージが込められている、と言います。

つまり、先輩の信仰者達は、自分達の人生という競技を走り通して、ゴールインした。そして、今どう しているかというと、後から走っている私達(人生という、困難に満ちた競技、まるで障害物競走のよ うな競技を一生懸命走っている私達)を、「雲のように取り巻いて」応援している、と言うのです。

つまり、今この会堂に、多くの写真が飾られている、正にこのようなことが、霊的な世界では現実とし てあるのだ、と言うのです。

私達の人生には、困難なこともあるでしょう。楽しいことと共につらいこともあるでしょう。喜びと共 に悲しいことも、嬉しいことと共に苦しいこともあるでしょう。

そんな人生を送る私達に、聖書はここで何を言いたいかというと、さあ、先に天に召された人達を見て ご覧なさい、と天を指さすのです。

人生という競争路を、先に歩み通して天に凱旋のゴールインを果たした信仰の先人達を見なさい。彼ら は信仰を全うし、今、続く私達を天から雲のように取り巻いているのですよ…彼らを思い、心の目で彼 らを見る時に、私達は何と励まされることでしょうか、と言うわけです。

(2)では、彼らに励まされて、私達はいかなる歩みをするのでしょうか。

…ここに三つの心構えが出てきます。

一つは、「一切の重荷を捨てる」、

二つ目は、「まつわりつく罪を捨てる」、

三つ目は、「前に置かれた競争を忍耐をもって走り続ける」です。

この三つを、順に見てみましょう。

まず第一に、「一切の重荷を捨てる」

例えば、皆さんが運動会に行く時には、どんな格好をなさるでしょうか。

出来るだけ運動に適した、身軽な格好をなさるでしょう。だれも運動会で走るのに、大きなリュックを しょって出たりしないでしょう。 同じように、私達が人生の競技場でゴールに向かって走り続けるた めには、重荷をしょったままでは、もちろん、苦しいことになるのです。

この場合の重荷とは何でしょうか。

色々な心配事、思い煩い、疲れ、…

その内容はそれぞれその人にとって大切なことでしょう。それ自体が悪い物ではなくても、それが私達 の前進を妨げるというものがあります。

どうしたらその重荷を捨てることが出来るでしょうか。有名な御言葉があります。

マタイの福音書11章28〜30節「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来な さい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あ なたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来 ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

つまりイエス様に重荷を委ねる所から解決が始まります。

第二に、「まつわりつく罪を捨てる」

今度は、私達の人生に巣食う悪い物です。

罪は私達の人生を傷つけます。

実際に犯す罪、心の中の罪、妬み・嫉妬・浮気・悪意・…こういったものから解放されていないと、そ れが、私達に「まつわりつく」のだとここに書かれています。

その罪を捨てるには、どうすればよいのでしょうか。

…イエス・キリストの十字架は、その罪から私達を解放する力を持っていると聖書は言っています。

第三に、「前に置かれた競争を忍耐をもって走り続ける」

何故、「忍耐をもって」なのでしょうか。

…聖書は、私達が今決心しても、すぐにやめたくなり、おっくうになり、気持ちをくじかれる者である ことを良く知っているからです。

だから、忍耐をもって進み続けよ、神様が用意して下さった人生の道から、右にも左にもそれずに、 ゴールへ向かってまっすぐに進め、と言うわけです。

聖書が言う忍耐というのは、何もしないでじっと我慢をしていることではありません。

どんな状況になっても、なすべきことをやめずにやり続ける、というのが聖書の言う忍耐です。

たとえ結果がすぐに出なくても、困難があっても、じっくりと前進し続けるという忍耐です。

(3)さてでは、このようにして私達は、どこに向かって走り続けるのでしょうか。聖書が言う「前に 置かれた競争」の、ゴールはどこにあるのでしょうか。

私達は人生の競争路を走っていると考えてみて下さい。

聖書はさきほどまず、私達の回りを見てみなさい。信仰の先人達が雲のように取り巻いて私達を励まし ているのを見なさい、と回りを指さしたわけです。

次に今度は、目を転じて、ゴールを見なさい、と前を指さします。

ヘブル人への手紙12章2節前半。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで いなさい。」

私達のゴール・目標は、イエス・キリストです。

そして実はここには、スタートもイエス・キリストであると教えられています。

イエス・キリストは、信仰の「創始者であり、完成者である」とありますから。…つまり、私達のこの 人生という競争路が、ちゃんと天国へ向かって進むように道を設け、私達をスタートさせて下さったの はイエス・キリストでした。そして、やがて私達の人生を永遠の命に完成して下さるのも、イエス・キ リストなのでした。

なるほど、回りの先人達の存在も励ましになるでしょう。

しかしもっとはるかに励ましになるのは、私達のゴールを保証して下さるイエス・キリストの存在で しょう。

私達は、どこから来て、どこへ行くのでしょうか。

聖書は、私達は、神から来て、神のもとへ行くのだと教えます。

その人生の道をそれてはいけない。まっすぐにイエス・キリスト目指して進みなさい。それを妨げる重 荷や罪を捨てなさい。そしてこの競争を走り通して私達を取り巻いて待つ先人の姿に目を止めなさい。

…これが聖書がここで描く私達の人生の姿です。

私達は、信仰の先人に取り巻かれて、何も内村鑑三のように、万歳をしなくても良いと申し上げまし た。

けれども、彼と同じ希望、彼と同じ目標、彼と同じ確信を持つことは大切でしょう。

その確信とは、天に先に行った人達は、私達を取り巻いている。私達との再会を待っている。…という ことです。

それを知る私達は、彼らの待つ天の御国へ、イエス・キリストから目を離さないで進み続けるべきであ ります。


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