十字架の死を目前にしたイエス様の長い長い「告別説教」の結びです。
弟子達は主イエスとのお別れの時が来たことを知って、大変動揺し、悲しみの中にあります。
(私達も同様に、様々な状況の中で、心の動揺を経験し、人生の悲しみを味わうわけです。)
そういう弟子達を、主イエスは励まし、力付けるのです。
しかし、単に言葉だけで「頑張れ」とか、「大丈夫」とか言うのではありません。
(もしそうならば、人間同士の慰めや気休めと変わりません。イエス様が下さるのは、人間の励ましと は違うのです。)
主は確かな裏付けのある励まし、約束を下さるのです。つまり、これこれこういうわけだから、わた しが今から去った後も、あなた方は大丈夫、イエス・キリストの弟子としての人生を歩み通す事が出来 ると約束しよう、というわけです。
では、その確かな「裏付け」とは何だったのでしょうか。
これまで見てきたことを簡単に復習致しますと、それは、イエス様がおられなくなった後、
@御聖霊が来て助けて下さる、
A私達が主の御名によって祈る祈りが全て答えられる、
B私達の悲しみは喜びに変わる、…といったことでした。
これらは全て、イエス様が、キリスト教の奥義をあらかじめ啓示して下さったわけです。だから、 (この確かな根拠をもって)あなた方の人生は支えられるのだ、今は動揺し悲しんでいるようでも大丈 夫なのだ、とイエス様はそれを何とかしてわかってもらおうとして、最後の教えを与えておられるので す。
それで、今日の箇所あたりに至りまして、遂に弟子達も悟り始めるのです。
(1)ヨハネの福音書16章29 〜30節。「弟子たちは言った。『ああ、今あなたははっきりとお話し になって、何一つたとえ話はなさいません。いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じ で、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神か ら来られたことを信じます。』」
今わかった、今信じるようになりました、というのです。
ここはちょっと面白い所ですが、弟子達は、イエス様が「一切のことをご存じ」だとわかったと言っ ています。だから「何でもイエス様にお尋ねしよう」というのならわかるのですが、そうではなくて、 弟子達は逆に、「あなたにお尋ねする必要がないことがわかりました」と言っています。これはどうい うことでしょうか。
私達はこれまで、色々なことがわからなくて、イエス様に質問したがっている弟子達の姿を見てきま した。けれどもここで弟子達は、イエス様は全てをご存じだ(これを神の「全知」と言います)と悟り ました。私達の心の中も、状況も、未来も、全てご存じだとわかったのです。だから、(ここが大切で すが)このイエス様に全てを任せてよいのだ、色々尋ねなくても大丈夫なのだ、大船に乗った気持ちで 無条件に委ねて行けばよいのだ、とわかったと言っているのです。そういう意味で、弟子達はここで 「信じます」という所までたどり着いたのでした。
ここで私達は、正しい知識と信仰との結びつきを教えられます。
知識と信仰とは、片方では駄目なのです。正しく知ったならば、それを自分の信仰として、従い、委 ねることによって、実際に自分の人生にそれが実って行く喜びを味わう必要があります。(これなしで は、知識は「絵に描いた餅」になってしまいます)
また知識抜きで信じるならばどうなるでしょう。最近の事件は私達に、「偽宗教」を信じることの恐 ろしさを充分見せつけたでしょう。イエス・キリストを知る知識抜きの信仰は、盲信となり、迷信とな り、益をもたらさないのです。
さて、ようやく弟子達はここで、知識プラス信仰(「わかりました」プラス「信じます」)という両 者が備わる所までたどり着いたのですが、ではこれでめでたく信仰のゴールかというと、実はそうでは ないのです。ここからむしろ、信仰の歩みはスタートし、様々な経験を経ていく人生が始まるのです。 それを続けてイエス様は教えようとされます。
(2)31〜 32節、「イエスは彼らに答えられた。『あなたがたは今、信じているのですか。見な さい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。い や、すでに来ています。』」
あなた方は、今、分かりました、信じます、という所までたどり着いたけれども、しかしその信仰は 試練を受けるだろう、と言われるのです。
そしてその結果は、あなた方は皆もろくも信仰につまずき、献身の思いは崩れてしまうだろう、と予 告されたのです。主イエスを一人残して、皆チリジリバラバラになり、そして、かつて捨てたはずのこ の世の生涯に戻って行こうとするだろう、と言われたです。
事実、後にペテロは、イエス様がおられなくなると、「私は漁に行く」(21章3節)と言うのです。 かつて彼は、船も網も捨てて献身したはずであったのに、元の漁師の生活に戻って行こうとしている姿 をそこに見るわけです。
それはつまり、イエス様のお弟子達は総崩れになるということです。このように、イエス様はここ で、分かりました、信じました、と言う弟子達に向けて、艱難が来ますよ、あなた達は総崩れになりま すよ、とあらかじめ予告されたわけです。
ここで皆さん、どう思われるでしょうか。私はイエス様の語り口から、大切な一つのニュアンスを感 じるのです。
それは、主はここで、弟子達のつまずきを予告しながら、少しもそれを責めているようには見えな い、ということなのです。どうでしょうか?
弟子達の挫折を非難するふうが少しもない、と思いませんか。
ただ、弟子達に自分達の信仰を吟味させ、自分達の弱さを自覚させようとする。ただし、非難しよう というのではなくて、励まそうとされている。あたかも、この挫折が、彼らの弱い信仰を更に成長させ るための神の恵みであるかのように、まるで、弟子達が学ばなければならない必修科目であるかのよう に、主は全てをご存じで励ますのです。
33節をご覧下さい。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたし にあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。」
皆さん、何故、挫折の予告が平安をもたらしますか。ここが今日の大切な所です。主は一方で弟子達 の挫折を予告しながら、もう一方で平安を約束するのです。大丈夫だ、安心しろ、とおっしゃるので す。どこに平安と励ましがあるのでしょうか?
33 節の続き、「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
ここから、今日のまとめとして、三つのことを確認して終わりにします。
一つは、主は、私達クリスチャンのつまずきも失敗も弱さも、全てあらかじめご存じで、こう言って おられるということです。
だから平安なのです。だから私達は、どんなことがあっても、この主に身を委ねることができるので す。
この時弟子達は、これから何が起きるかわからなかったでしょう。けれども、「大丈夫だ」と思うこ とが出来たのです。そして実際に失敗を犯し、挫折を経験した時も、「主はこれをご存じで、予告して おられたではないか。私達は、この失敗にもかかわらず、主のおかげで神に近付くことが出来るのだ。 絶望ではないのだ。」と、励ましと安心を確認することができたでしょう。主は全てを知って、受け入 れ、励ましておられた。これが一つめのことです。
二つ目のことは、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさ い。わたしはすでに世に勝ったのです。」
この主の遺言が、この後の弟子達の波乱の生涯を支える上で、どれだけ大きな力になったことだろう か、と思うのです。
主は平安を約束しました。しかしそれは、何の試練も労苦も無いという意味での平安ではありません でした。むしろ主は、試練がある、艱難がある、とはっきり言っておられるのです。そしてそのただ中 での平安を約束しておられるのです。艱難を当然視した上での平安なのです。そしてこれは、カラ元気 のような励ましではなくて、確かな根拠があっての励ましなのです。
それが三つ目のこと、「わたしはすでに世に勝ったのです。」ということです。
ここに根拠が宣言されています。
皆さん、イエス様は、これから捕らえられ、十字架にかけて殺されようとしていたのです。それをご 自身よくご存知だった主の、これは、高らかな勝利宣言です。
「わたしはすでに世に勝ったのです。」
だから弟子達は、私達は、生きて行ける。艱難があっても、また、その中で挫折することがあって も、このイエス・キリストがすでに勝利をおさめて下さっているという事実が確定しているが故に、平 安を持ち、勇敢に、主の民としての歩みを続けることが出来る保証を手に握っているわけです。
では、ここで主が言われている勝利とは、何のことなのでしょうか。
十字架によって、罪と死と悪魔を打ち破るという勝利です。
人間的な考えで言えば、十字架は敗北に見えました。しかし十字架とそれに続く復活は、人間を縛 る、そして人間にはどうすることも出来ない罪と死と悪魔の力を根底から打ち破った、イエス様の決定 的な勝利なのでした。
イエス様は、この時点ですでにそれをはっきりと見ておられたので、「わたしはすでに世に勝ったの です。」という確信に満ちた勝利宣言を、弟子達の頭に焼き付けて下さったのでした。
この主の勝利の事実ゆえに私達はどんな時でも立ち得るのです。私達自身に何か根拠があるのではあ りません。ただ、イエス・キリストが勝利者であって、私達はイエス様に信仰によって結びつくことで 主の勝利にあずからせて頂く者となり、主と共に勝利者として生きることが出来るのです。ただ主の十 字架と復活のみわざのゆえにです。これが主イエス様の励ましの確かな根拠だったのです。
主イエスが言われる通り、私達は世にあっては艱難があります。しかし、この勝利を握って、弟子達 と共に信仰の歩みを全うさせて頂くことが出来るでのす。