エズラ記1章
いよいよ始まる百草での開拓伝道の準備のための「信徒一日研修会」のために牧会委員会で非常に適切 なみことばを選んで下さいました。
「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに 与えている。」(ヨシュア記一章三節)
私達は今正に、新しき地に踏み出し、そこを私達自身の足の裏で踏み、神様の約束の地を受け取ろうと しているのです。
私の尊敬致しますある老牧師の教会に行きますと、教会のホールの床に一つの足型がはめ込んでありま す。「先生、これは何でしょうか?」とお聞きすると、・・・
「広瀬兄弟、これはね、ボクの足跡。『踏む所はことごとく与える』と聖書にそう書いてある!」と おっしゃったのには驚きました。
こういうことを笑う方もおられますが、しかし皆さん、私はその時、聖書のみことばを文字通り信じて 全てその通りにすることに人生をかけて来た固い決意を見た思いが致しまして、わが身の引き締まるの を覚えたのです。
もちろん形だけのことではありません。踏むとは、み心を受け止めて応答するということです。
具体的には、実際に行って祈る、集会に参加する、歩き回ってチラシを配るといったことを実行する 時、神様がこのみことばで約束しておられることがどういうことなのか知ることになるでしょう。
人生の、教会の歩みの大切な節目には、みことば通りにするということが大変重要なポイントになりま す。
聖書の中で、イスラエルの民にとっての大きな節目というのは幾つかあったのですが、その代表格を二 つ挙げるとすれば、一つは、出エジプトをしてカナンの地を自分のものとするイスラエル建国の場面で す。もう一つは、そのイスラエルの国が滅びてしまいバビロンに捕囚された後、「第二の出エジプト」 とも言うべき回復の時がやってきてカナンの地へと戻って来るイスラエル再建の場面です。
この二つが、イスラエルの歴史の中で二つの大きな節目となっているのですが、その初めの出エジプト の時のみことばが、牧会委員会で選んで下さったヨシュア記一章3節であり、そして第二の出エジプト (捕囚からの帰還)の時のみことばが、今日読んで頂いたエズラ記なのであります。今日はこのエズラ 記一章から、またエズラ記全体をおおまかに眺めて、神様が約束して下さった地を自分のものにすると いう極めて大切な時について、みことばが私達に教えていることをご一緒に味わいたいのです。三つの ことを覚えましょう。
第一に、主のみことばは必ず成就するということです。
1節、「ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するため に、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせた…」
とあります。
この「エレミヤにより告げられた主のことば」とは何であったでしょうか。
かつて捕囚となる時に与えられた回復の預言です。
それが遂に成就し始めた!というのがエズラ記のスタートなのでした。まず、みことばの存在があるの です。
では私達への神様のみことばは何でしょうか。
今まで5年6年と積み重ねて来た開拓を視野に置いての研修会の中で、皆様はどのようなみことばを受 け止めて来られたでしょうか。
お聞き致しましたら、ある方はマタイの福音書28章19節「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆ る国の人々を弟子としなさい。…」
またある方は使徒の働き1章8節「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは 力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたし の証人となります。」
を挙げて下さいました。
…私達も、私達に向けられて来た主のみことばを受け止めて来たのです。
その実現は、人間の目にはスムーズには見えなかったでしょう。
(エレミヤの預言の実現には実に70年の歳月がかかっている!)
みことばの約束が現実離れした空手形のように見えたこともあったでしょう。
しかし、主のみことばは必ず確実に実現するのです。
誰が実現させるのでしょうか?
一節によれば、主ご自身が、です。
私達も、あと 年 年とたってから振り返って見ないとわからないことかも知れませんが、今、主のみこ とばに沿った志を与えられて、そのみことばの実現が始まろうとしているという、多磨教会にとっての 歴史的な場面に立ち合っているのかも知れません。
第二に、その時に人間の側の応答が求められるということです。
5節に「…すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てる ために上って行こうと立ち上がった。」
とあります。
ここに、奮い立って、立ち上がった、という人々がいます。
み心を受け止めて実際にその働きに携わっていく人々です。
そして更にもう一種類の人々が出てきます。
6節「彼らの回りの人々はみな、銀の器具、金、財貨、家畜、えりすぐりの品々、そのほか進ん でささげるあらゆるささげ物をもって彼らを力づけた。」
つまりこれは、自分自身は行かないけれども、捧げものをもって協力する人々です。
こうして彼らは各々にふさわしい役割を担って、一致してことに当たって行くのです。
私達も各人が祈りつつ、私は出て行く役割だろうか、あるいはそれを「進んでささげるあらゆるささげ 物をもって」(祈り・労力・品々・献金…)力づける役割だろうか、考えたいものです。
信仰とは、神様からの語りかけに応答することです。
応答とは、聴き従うということです。信頼して委ねるということです。献身して捧げるということで す。
主のみことばは、人間の側の具体的・自発的な応答を求めています。
第三に、すると、何が起きたのか。
エズラ記の以下の内容から、ごく大ざっぱに拾ってみます。
二章、私達の苦手な人名表ですが、これは彼らが調査し、組織し、計画をしたということを示していま す。
神様が約束したからといって、何もしないで成り行き任せでよいのではありません。
しかし組織と言っても、ここで大切にされているのは68〜69節にあるように「自分から進んで」「自分 達にできることを」という姿勢です。
神様はムリには押し付けません。できないことを求めません。
私達が自発的に、受け身ではなく前向き積極的な姿勢で神様を愛して取り組むことを喜んで下さるので す。
三章、1節は欄外注にあるように、彼らの「一致」を示しています。
では一致した彼らは何をしたかと言いますと、2節4節にありますように、聖書に「書かれている通り に」ということが彼らの基本姿勢でした。
人間は色々と考えますが、まずみことば通りにしようというこの姿勢を私達も確かめたいものです。
では彼らはみことば通りに何をしたか?というと、・・・礼拝をしたのです。
3節を見ると、周囲からの圧迫を恐れた彼らが、戦いの備えではなくて神礼拝にかけたことがわかりま す。私達も、色々なテクニックも大切なのですが、しかし根本は一致した神礼拝こそ大事であることを 覚えたいものです。
四章、案の定、外からの妨害・誘惑が起こりまして、何と彼らの計画はここで十数年中断してしまうの です。
私達にも(こういうことが起きないことを願いますが)中断や挫折といった試練が、もしかすると待っ ているのかも知れません。
しかしあらかじめ覚悟しておきたいことは、信仰の正念場は正にそこにあるということです。
逆境の時も、それでも主のみことばは必ずなると信じ続け、応答し続けることができるか。
彼らは、待ち続けるうちに心の内の火は消え、日常生活に埋もれ、わが身大切の自己中心に陥って行き ます。
五章、そこから問題を克服しての再起・リバイバルを記録しています。
その鍵は、ここでも主のみことばとそれへの応答でした。(1〜2節)
六章、遂に神殿が完成し、ここに長い長い道のりの末たどりついた喜びの献堂式が記されています。
けれどもこれでメデタシメデタシかというと、この後七〜十章で、形ができた信仰共同体の内容の充実 をはかろうとするエズラの改革が続きます。
そこにはまたもや組織・一致協力ということがあり、またもや大試練があり、エズラ記の最後は大雨の 中で、悔い改めの大集会をして再起をはかる民の姿を記して終わるのです。
教会の歩みも、人生の歩みも、全く実に色々なことがあるものだなあと思わされますが、どんな状況で もみことばを信じて、みことばに応答して進み行く歩みということをエズラ記は私達に教えようとして います。そうすれば必ずみことばはなるのだと。
もう一度今年の研修会のみことばを読んで終わりましょう。
「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに 与えている。」(ヨシュア記 一章3節)