ヨハネの福音書14章1〜3節
人生には、私達の心を騒がせる出来事が色々とあります。しかもそれは、思いもかけぬ時に、思いもよ らぬ形でやってくるのです。
今日の聖書の箇所で、最後の晩餐のテーブルをイエス様と囲む弟子達の心は騒いでいます。彼らの心の 中を、突然の突風が吹き抜け、心を動揺させ、波立たせ、不安と心細さで一杯にしたのです。
何が彼らの心を騒がせたのでしょうか。
そして、そういう彼らにイエス様は何と言われたのでしょうか。
あるいは、それを私達自身のことに引き寄せるならば、何が私達の心を騒がせるのでしょうか。
そして心騒ぐ私達に、イエス様は何と言われるのでしょうか。
それが、今日の箇所で聖書が私達に教えようとしていることです。
この時、弟子達の心を騒がせる三つのことがありました。
一つのことは、彼らは自分自身について、安心することができませんでした。
何故ならば、すぐ前の一三章三八節でイエス様は、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らない と言います」と言われたからです。
あなたは私への信仰を人前で否定するだろう、あなたは自分の愛の限界を思い知らされるだろう、とい うこの主の予告は、どれ程彼らの心を騒がせたことでしょうか。
皆さんは、自分について自信を持っておられるでしょうか。この時弟子達の自信は、吹き飛ばされてし まったのでした。
二つ目のことは、彼らはお互いについても安心することができませんでした。
何故ならば、イエス様はこの晩餐の席上、弟子の内の一人が裏切るだろう、と予告されたからです。
それは一体誰なのか?…皆さんは、お互いを信頼しておられるでしょうか。この時弟子達は、仲間への 信頼感を吹き飛ばされてしまったのでした。
更に三つ目に、彼らは信じるイエス様についてさえ、安心を揺さぶられていたのです。
何故ならば、イエス様はこの時、もうしばらくするとどこかへ行ってしまうと言われる。
しかもそこには弟子達はついて行けないのだと言われたのです。しかも、支配者達はイエス様を殺害す る計画を立て、その包囲網は確実に狭まって来ていました。
皆さんは、イエス様を信頼しておられるでしょう。しかしこの時の弟子達は、頼みの綱のイエス様への 信頼を大きく揺さぶられていたのでした。
一体これからどうなるのだろうか。
弟子達の心はどれほど騒ぎ、混乱し、心細く、浮き足立っていたことでしょうか。
…心騒ぐ弟子達…。しばしば心騒ぐ経験をする私達には、大変身近に思える弟子達の姿ではないでしょ うか。
この心騒ぐ弟子達に、イエス様は何とおっしゃったのでしょうか。一節を見ましょう。
「あなた方は心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」
…これが、心騒ぐ、という病にかかっている弟子達に差し出されたイエス様の処方箋でした。
あなた方の心騒ぐ病を癒す有効な薬は、信仰であるということです。
「神を信じ、またわたしを信じなさい」…今あなた方の心は騒いでいる。その原因は、自分を見て自信 をなくし、他人を見て動揺し、また状況(逆境)を見るからであって、その目を、イエス様に向ける信 仰へと変えることが大切な解決策であるというわけです。
ある時ペテロは、イエス様に導かれて水の上を歩くという奇蹟を体験しました。
マタイの福音書一四章二二節以下ですが、その二九〜三一節にこうあります。
「イエスは『来なさい』と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に 行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けて下さい』 と言った。そこで、イエスはすぐに手をのばして、彼をすかんで言われた。『信仰の薄い人だ な。なぜ疑うのか』」
…ペテロは、風を見て(つまり状況・逆境を見て)、そして自分を見た時(本来水の上など歩けるはず のない自分)、こわくなり、沈み始めました。
これが人生において心騒ぐという姿でしょう。
それに対し、イエス様は、信仰が薄い、何故疑うのか、と言われました。
鍵は「信仰」です。
私達も、風を見るより、自分を見るより、まずイエス様を見て、疑わずに信じて歩むことが、心騒ぐこ とへの解決策であります。
しかし、ではどうして、イエス様を信じていさえすればよいのか。
それをイエス様は更に説明なさいます。
2節、「あなた方のために、わたしは場所を備えに行くのです」
…心騒ぐ必要は無い。
何故ならあなた方は保証を天に持っているのだから。
あなた方の人生がどんなに風に吹かれ、波に揉まれたとしても、あなた方の人生の錨はしっかりと天国 に結ばれている。
天国にはあなた方のための場所が用意されている。わたしが離れて行くと言っても、それはあなた方の ために行くのだと知りなさい、と言われたのです。
けれども、それは天の住まいにたどり着けば安心かも知れないけれど、そこに行くまでの地上の歩みが 大変で心騒ぐのだ、と私達は思うのかも知れません。
しかしイエス様は、更におっしゃいます。
三節です。「わたしが行って、あなた方に場所を備えたら、また来て、あなた方をわたしのもと に迎えます。わたしのいる所に、あなた方をもおらせるためです」
…イエス様は天で私達を待っておられるのではない。
地上の歩みで困難を味わう弱い私達を放っておいて、天で腕組みをして眺めておられるのではない。
迎えに来て下さる、そして共に歩んで下さる、と約束しておられるのです。
これは具体的には何を意味するのでしょうか。
第一に、これは再臨を表わしています。主は世の終わりの時に、私達を迎えに来て下さいます。
第二に、これは私達の人生の終わりの死を意味しています。
私達は、病や事故に命を奪われるのではなく、イエス様が全てを整えてお迎えに来て下さる時に、地上 から天に移される、それがクリスチャンにとっての死の意味であります。
第三に、今、この人生のただ中において、心騒ぐような逆境の中で、私達はイエス様の訪れに出会う、 ということを意味しています。
私達は地上の旅路で風に吹かれ波に呑まれ、それに目を奪われて心騒がせては、ペテロのように沈んで 行きそうな力弱き者ですが、主イエス様が、心騒がせずにわたしを信じなさいと導いて下さり、私達の 命綱を天に結び付けていて下さいますから感謝致しましょう。
どんな時にも目をイエス様に向けて、そこに天の住まいに向かう素晴しい信仰の人生があることを味わ いたいものです。