『十字架と復活』

牧師 広瀬 薫

 新しく教会に来られた方々に、「教会というと何を思い浮かべますか」とお尋ねすると、一番多いご返事が、「十字架」です。 確かに教会のシンボルと言えば、何と言っても十字架でしょう。世界中どこへ行っても、教会には十字架があります。 でも、何故十字架が掲げられているかご存じでしょうか?

 「それは、イエス・キリストが十字架にかかって死んだからでしょう?」・・・その通り、正解です。

しかしもしそれだけなら、十字架は単に忌まわしい死刑の道具に過ぎません。今でいうなら、電気椅子か首つり縄です。 一体誰が、電気椅子をシンボルとして掲げたり、ネックレスにして首から下げたりなどするでしょうか?十字架には、イエス様の死刑の道具以上の深い意味があるのです。

1、第一に、イエス様の十字架の死は、私達の罪を身代わりに負ったのでした。

「私たちは皆、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私たちの全ての咎を、彼(キリスト)に負わせた。」(イザヤ書53章6節)

 人間の「自分勝手な」生き方とは何なのか、もう改めて説明するまでもないことでしょう。 現代の日本や世界の日々の出来事を見るだけでも、争い・戦争・傷つけ会い・だまし合い…自己中心と利己主義に染まった人間の有り様は「正に聖書の言う通りだ」と誰でも納得できるでしょう。

 しかし同時に私たちは、それを全てひとごととして片付けて、自分一人だけ澄ましているわけにもいかないのではないでしょうか。よくよく自分自身を振り返って見れば、私たち一人一人が「自分勝手な」生き方をし、あるべき人生の姿から外れた道を歩み、「さまよい」歩いているのではないでしょうか。

 そのような生き方をしていれば、その結果は、本来自分で引き受けなければなりません。 「人は種をまけば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6章8節)  そして聖書によれば、その「刈り取り」の最たるものは、死(神から離れて、本当の命を失うこと)であり、永遠の滅びです。

 けれども、それでは誰が救われるのでしょうか?完全に正しい生き方をすることができる人など、一人もいないわけですから。

 そこで神様は、この上なく恵み深い方法で、救いの道を備えて下さいました。誰も引き受けることのできない「自分勝手」の刈り取りを、全てイエス・キリストが身代わりに引き受けて十字架にかかって下さる、というのがその方法でした。

 ですから、キリストの十字架というのは、単にイエス・キリストがそれで死んだというだけではなくて、そのことを通して私たちの自分勝手な落ち度多い人生の刈り取りが全て処分され、帳消しにされたことを意味しているのでした。

2、キリストは死んで3日目に復活しました。

 聖書の中で使徒パウロは、福音(救いの良い知らせ)の根本を次のように要約しています。 「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、…次のことです。キリストは、聖書の示す通りに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと…」(第一コリント15章3〜4節)

 キリストの復活は、私たちにとって何を意味しているでしょうか。
(1)私たちを束縛する「罪」や「死」の力は打ち破られ、私たちは本当の意味で自由な 人生を手に入れました。
(2)私たち自身の罪・落ち度は処分され、救いの道が完成されました。
(3)私たちに永遠の命(私たちを本当の意味で人間として生き生きと生かす命)が与え られることが保証されました。
 このキリストの復活を記念して祝うのがイースター(復活節)(今年は4月7日)です。

3、この福音(救いの良い知らせ)を信じることで救われると聖書は約束しています。

 「私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」(第一コリント15章2節)

 ですから、聖書の教える救いの「福音」の一番大切な所に出てくるのが「十字架」と「復活」です。だから世界中の教会には、私たちを救う福音のシンボルとして十字架が掲げられているわけです。この十字架はあなたのためでもあることを、聖書は教えているのです。

「しかし、彼(キリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ書53章5節)  


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