聖書は、「いつも喜んでいなさい」と教えます。
とたんに、「そんなことが出来るわけがない!」という反対の声があちこちから聞こえて来そうです。 人間は皆、毎日の生活の中で、しょっちゅう喜びを失う経験を重ねているからです。 頭に来ることがあり、赦せないことがあり、悲しいことがあり、つらいことがあります。 …色々なことが日々私達にふりかかって来て、私達から喜びを奪うのです。
しかし冒頭の聖書の言葉は、それが人生の正しい姿なのではない、神様が私達に下さる本来の人生は、何ものにも奪われない深い内的な喜びで満たされているものなのだと教えようとしているのです。
では、なぜ、私達の人生は「いつも喜んで」いないのでしょうか。
私達から喜びを奪う、四つの「喜び泥棒」があるのです。 これらに喜びを奪われてはなりません。
@状況
第一に、状況が私達の願い通りでない時、私達は喜びを失います。 「これが、ああなっていればよかったのに」(でも現実にはそうならなかった)と言って私達は嘆くのです。
A人々
第二に、回りの人々の存在・言葉・行動が私達の喜びを奪います。 例えば、せっかく気分良く目覚めたとしても、朝から言うことを聞かない子供達の存在が私達をいらだたせるのです。
(でもこの点、私達は喜びを奪われる被害者であると同時に、他の人から喜びを奪う加害者でもあることをお忘れなく)
B持ち物
第三に、持ち物の有無とか、欲しいものが手に入ったか入らなかったかとか、せっかく持っていると思っていたものを失ってしまった、ということも私達の喜びを簡単に左右し、奪います。
C思い煩い
第四に、私達は明日のこともわからない存在ですから、実に様々な思い煩いによって喜びを奪われています。 「ああ、あれはどうなることだろうか」「これはどうしたら良いのだろう」と言って、迷い、心配し、動揺し、気がふさぐのです。
さて、私達が神様を信じたからといって、人生でこの四つの「喜び泥棒」に出会わなくなるのではありません。 そうではなくて、いくら「喜び泥棒」に出会っても、いくら状況や他人や持ち物や思い煩いの問題が襲って来ても、決して奪われない喜びを持つようになる、ということなのです。 実はそれこそが、神様が下さる喜び、私達の人生を本当の意味で生き生きと活かす喜びなのです。 それはどのような喜びなのでしょうか。
私達が喜びを失うのは、喜びの土台を、過ぎ行くもの、変化するもの、頼りないものに置いているからです。 しかし、喜びの土台を、決して過ぎ行かない永遠のもの、変わらないもの、絶対に信頼して裏切られないものに置くならば、私達の喜びはどんな時にも奪われないのです。 聖書はその永遠に変わらない信ずべきものは神でありキリストであると教えているのです。
「あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(ヨハネの福音書16章22節、キリストの言葉)
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ4章4節、使徒パウロの言葉)
「主を喜ぶことはあなた方の力です」(ネヘミヤ記8章10節)