『求めよ、さらば与えられん』

牧師 広瀬 薫

 子供の誕生日が近付いて、「プレゼントは何が欲しい?」などと話し合うのは楽しいものです。でももしその時子どもが、「何もいらないよ。親に何も期待してないさ」などとしらけていたらどうでしょう。子供を喜ばせたい親としてはがっかりですね。

 天の父なる神様も同じです。神様は私達を喜ばせようとして、子供である私達が素直に何でも必要なものを神様に求めることを望んでおられるのです。そして最も良いものを私達に与えようと、いつも準備をして下さっているのです。

 「求めなさい。そうすれば与えられます」とは、聖書の有名な言葉ですが、多くの日本人がこの言葉の意味を誤解しています。

 例えば、「とにかく求めなければ何も始まらない。そして一生懸命求めさえすれば、それを得るのだ」という風に、これを「なせばなる」式に受け止めている方が多いのです。

 しかし、では魚を求める人がいたとして、一生懸命に水たまりに釣り糸を垂れていたらどうでしょう。魚は与えられるでしょうか。「なせばなる」でしょうか。

 …もちろんダメです。魚を求めるなら魚のいる川や海に糸を垂れなければならないのです。

 つまり、ただやみくもに「求める」だけではダメなのです。求める時には、@誰に求めるのか、そして、A何を求めるのかという二つのことがとても大切なのです。

 これを、間違えると、自分では幸せを求めるつもりで入って行った所が、実はとんでもない組織で、結局自分も社会も家族も傷つける結果になってしまったりします。そんな「偽宗教」の例を、今私達は嫌と言うほど見せられています。

 求めるのならば、正しい所に、正しい事を求める、ということをまず考えなければならないのです。

 今回はまず、誰に求めればいいのかを考えてみましょう。

 それは、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイの福音書7章) とはっきりと約束して下さっている天の父なる神様に求めるべきであると聖書は教えています。

 ここで大切なことは、聖書は、「求めれば得る」と言っているのではなくて、「与えられる」と「受け身」で表現していることです。

 つまり、あなたに与えようとしておられる方(神様)が待っておられる。だからこそ、あなたは求めさえすれば得ることが出来るのだと、私達の求める姿勢の大切さと共に、求める相手がどのような方かに目を向けさせようとしているわけです。

 あなたは人生の幸せを、喜びを、満足を、生きがいを、…誰に求めておられるでしょうか。天の父なる神様に求めて下さい。聖書は、「なせばなるんだから頑張りなさい」と言って私達を叱咤激励しているのではなくて、 「素晴らしい神様が、あなたの天の父として、あなたを愛して、最善を与えようとして待っていますよ」ということに気付かせようとしていたわけです。

 神様は無理に押しつけたりはなさいません。私達が神様の御愛を子どものように信頼して求めるのを待っておられるのです。

 あなたはこの神様を「天のお父様」として持つ幸せをご存じでしょうか。

 イエス・キリストは、このことを人間の親子にたとえて、面白い説明をして下さいました。  「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。 とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイの福音書7章)

 …欠けの多い人間の親でさえ、子どもには良いものを与えようとするではないか (ただし、しばしば良いものを与えたつもりで、逆効果になったりしますが)。 それならば、完全無欠、全知全能の愛の神様が、あなたに最善のものを与えて下さるのは当然ではないか、というわけです。

 世界の歴史の中で、すでに二千年近く、このイエス・キリストの教えの確かさを人々は味わっててきました。

 あなたも、聖書の指し示す神様に求めてみてはいかがでしょうか。きっと、聖書の知恵の真実なことを体験することが出来るでしょう。

 「聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』」(ローマ人への手紙10章)


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