『心の渇きを満たす水』

(ヨハネの福音書4章)  牧師 広瀬 薫 


 あなたは、「井戸端会議」はお好きでしょうか?

 実は、イエス・キリストも井戸端会議をなさったのです。

 その場所は、スカルという町の井戸でした。これこそ本当の「井戸端」です。時刻は真っ昼間、炎天下です。

 イエス・キリストの話の相手は、ちょうどそこへ水を汲みに来た一人の女性でした。この二人の間に「井戸端会議」が始まります。ただし、話題は私達の井戸端会議のように世間話や噂話ではなくて「水」の話、しかも、ちょっと不思議な「水」の話でした。・・・イエス・キリストは、目の前の井戸の「水」と、人の心の渇きを満たす「生ける水」について語られたのです。あなたもご一緒にこの「井戸端会議」に参加されたつもりで、イエス・キリストの言葉を聞いてみて下さい。

 「この水を飲む者は誰でも、また渇きます」

 これはどういうことでしょうか? 「この水」とは、井戸の水のことです。私達はのどが渇くと水を飲みます。すると渇きは満たされるでしょう。しかし、(ここが大切なところですが)また必ず渇く時が来るのです。これは誰でも納得できることでしょう。イエス・キリストは当たり前のようなことを言っているわけです。

 でもちょっと待って下さい。実はイエス・キリストは、単に井戸の水のことだけを言っていたのではなかったのです。私達が人生で、心渇くような思いをもって求めるもののことを、「水」にたとえて言っておられたのです。

 人生で、あなたが切実に渇き求めるものは何でしょうか? あなたは何でもって、その渇きを満たすでしょうか? ・・・水に渇けば水で満たす。お金に渇けばお金を求める。地位に渇けば地位を求める。自己達成感に渇けば自己実現を求める。健康なら健康・・・それが普通の考え方でしょう。

 それが全部いけないというのではありません。ただ、私達が一つだけ覚えておかなくてはならないことがあります。それは、ここでイエス・キリストが言っていること・・・「この水を飲む者は誰でも、また渇きます」ということです。

 水であれ、お金であれ、地位であれ、健康であれ、それが、物質的なことであれ、精神的なことであれ、私達は「これで満たされる」と満足したつもりでも、必ず、「誰でも、また渇く」のです。

 みなさんにはそういう経験はないでしょうか。人生の求めを手に入れて、「これで私は満たされた」と思ったけれども、やがて気が付くと、空しい、心が渇いている、本当には満足していない、・・・という経験です。

 実は、この時イエス・キリストが語りかけていた女性が、まさにそういう見本のような人だったのでした。彼女の求めていた「水」とは何であったでしょうか?・・・聖書を読むとわかりますが、それは「男性」だったのです。この女性は、自分の人生を満足させてくれる「男性」を求めていました。そして、愛する人と結婚したのです。「ああ、これで私は満たされた」と思いました。周囲の人々も祝福したでしょう。しかし、やがて彼女の心は「渇く」のです。現実の前に夢も希望も破れるのです。・・・でも彼女は幸せを求めることをあきらめません。「次の男性こそ」と思って、彼女は結婚します。しかし結果は同じでした。やがて彼女は「渇く」のです。・・・そのようにして、結婚を繰り返すこと何と5回。ついに彼女は6人目の男性と同棲中でした。

 しかしこの女性の人生が特別ひどいと言うのではありません。聖書は、私達の人生というのは、多かれ少なかれこのようなものなのだと気付かせようとしているのです。

 では、人生とは結局、渇き、求め、そして満たされたと思ってもそれは一時的なもので、また渇き、また求め、…という、際限ない繰り返しなのでしょうか。

 そうではないのです。イエス・キリストは続けて語りました。

「しかし、わたしが与える水を飲む者は誰でも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命への水がわき出ます。」

 イエス・キリストは、最終的な解決があると教えました。イエス・キリストが与えて下さる「水」・・・魂の水、霊的な水、永遠の命への水・・・あなたの心を決定的に満たす水があると教えたのです。

 この女性も、イエス・キリストから、その「生ける水」を頂いて、心満たされ、大きく変えられた新しい人生へと歩みを進めて行きます。

 その「心の渇きを満たす水」・・・あなたにもイエス・キリストは差し出しておられるのです。


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