『道・真理・いのち』

牧師 広瀬 薫

 今はどうか知りませんが、以前、私の郷里の某県では、出身政治家の実力によって、他の県よりも道路が良いのだと言われるのを聞いたことがあります。そのせいかどうか知りませんが、ある時私はこんな経験をしたのです。自動車で広い道を走っていました。私はその立派な広い道を当然国道か県道と思って安心して走っていたのですが、何とその道が突然田んぼの真ん中で行き止まりになってしまったのです。そこにあった標識を見ると、驚いたことにそこには「……農道」と書かれていたのです。「なんて立派な農道だろうか…さすがは利権政治家…」私はその行き止まりであきれてしまいました。

 これはドライヴだから笑い話にすることもできますが、もしこれが人生の「道」であったらどうでしょうか? あなたが今安心して歩んでおられる立派な広い道、それは確実にあなたの目指す目的地に至る道なのでしょうか。それとも、ある日突然に行き止まりとなり、あなたを呆然とさせるような偽りの道なのでしょうか。

 イエス・キリストは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました。 目的地にも色々あるでしょうけれども、忘れてはならない大切な目的地が「父のみもと」、つまり創造主である唯一の真の神様のみもと(天国)です。

1、「わたしが道です」とイエス・キリストは言われました。

 人間は様々な道を試みて来ました。道徳の道、善行を積む道、科学の道、哲学の道、宗教の道、教育の道、革命の道、…。
 しかしこれらは、私達を完全な神様のみもとに至らせるどころか、かえって私達と神様との間にある隔たりの大きさを際立たせるだけでした。人間の弱さ、罪深さ、自己中心、…といったことを思い知らされるだけで、本当の目的地には届いていない道だったのです。現代にも、その人が道を求める動機は理解できるものであっても、明らかに誤った道に導かれている人々の悲劇を私達は見ているのではないでしょうか。
 けれどもイエス・キリストは、「私こそがその道です」と言われるのです。このイエス・キリストこそ、私達の罪・弱さを身代わりに負って十字架にかかり、その死と復活によって、私達を父なる神様のみもとへと橋渡しする唯一の「道」そのものなのです。

2、「私が真理です」とイエス・キリストは言われました。

 あなたは本当の真理を求めておられるでしょうか。「本当の」とわざわざ言わなければならないのは、この世の中には「真理」とは看板だけ名ばかりの、「偽物」がたくさんあふれているからです。  以前、偽米事件というのがありました。包装紙は銘柄米でも、中身は全く何のお米かわからなかったのです。
 「これが真理だ」と思いながら、全く違う偽物を味わわされているとしたら、全く悲しいこと、滑稽なこと、腹立たしいことではないでしょうか。真の神様に至る道は、本当の「真理」でなければなりません。本物の「真理」が、私達を束縛する過去の傷や罪や不安や劣等感や孤独や死…から私達を解放し、真実な人生を味わわせてくれるのです。

3、「私がいのちです」とイエス・キリストは言われました。

 あなたは本当の意味で「生きて」おられるでしょうか。
 神様を離れて自己中心に生きる人間は、見かけは生きていても、霊的には死んだものだと聖書は教えています。「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」これは、私達の毎日が、人間として本当に生き生きとしていない姿を表わしています。あなたの毎日の家庭・仕事・学校・人間関係・…いかがでしょうか。人間として本当に生き生きとした毎日をお過ごしでしょうか。偽りの道や偽物の真理には本当の「いのち」が無いのです。
 本当に生きるために、本当の「いのち」を手にしようではありませんか。そのためには、イエス・キリストが差し出して下さっている「道・真理・いのち」を信仰をもって受け止める歩みをすればよいのです。


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