第6課 『十字架』による救い

(序)教会の屋根の上には、たいてい十字架があります。

 あなたは、「十字架」と聞くと、何を連想なさるでしょうか。

 ある方は、「キリスト教のマーク」とお答えになります。ある方は、「アクセサリー」や「ネックレス」を連想します。

 しかし実は、聖書の時代には、十字架はアクセサリーどころではなく、「死刑の道具」でした。それは、「忌まわしいもの」の代表格のものだったのです。

 当時の人々が今の私達を見たら、ビックリするでしょう。なにしろ、「死刑の道具」を首から下げているのですから。・・・今で言うと、首から電気椅子を下げているとか、首吊り縄を下げているようなものです。

 なぜ「死刑の道具」である十字架を、身に付けるようになったかというと、もちろん、初めはイエス・キリストを慕う気持ち・尊敬する気持ちから始めたのでしょう。

 今日はその、イエス・キリストの十字架の場面の聖書を開いてみましょう。

 ここから、「十字架」とは何だったのか、そして、今の私達にどういう意味を持っているのか、考えてみましょう。

 これは、聖書の教えの中でも最も大切なものですから、よく考え、味わいたい所です。

《ルカの福音書23章32〜49節》

32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。

33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」

36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、

37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。

38 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。

39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。

40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。

41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」

42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。

45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。

46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。

48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。

49 しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。

(1)まず、出来事を追ってみましょう。

 イエス・キリストは、誰と一緒に、十字架につけられたでしょうか。

 32節、他の二人の犯罪人、つまり死刑囚と共に十字架につけられました。

 3人が並んで、33節を見ると、イエス・キリストを真ん中にして、十字架が3本立てられたのです。

 場所は、どこだったでしょうか。

 33節、どくろ、と呼ばれている場所、別名、ゴルゴタの丘でした。

◆ここで少し、十字架刑というものについて、ご説明しておきたいと思います。

 当時の死刑の方法というのは、何も十字架刑だけではありませんで、他にも幾つかありました。

 その中で、十字架刑というのは、最も残酷で、非人道的で、苦痛の多い処刑法でした。

 当時、ローマ市民権を持った人は、たとえ死刑にされるとしても、十字架刑で死刑にしてはいけないことになっていました。

 それほどひどい苦痛を伴う処刑法だったのです。それを、イエス・キリストは受けたのです。

 どのような苦痛が、イエス・キリストにあったと思われるでしょうか。

1、第一に、肉体的な苦痛です。

 十字架の材木に、両手を釘で止めます。よく手の平に釘が打ってある絵がありますが、あれでは手がちぎれてしまうそうで、実際には、手首の骨と骨の間に釘を打ち込むのだそうです。そして、両足を重ねて釘で止めます。

 そして炎天下に死ぬまでさらすのです。

 そのようにされた人間は、どの様にして死ぬのかと言いますと、主な死因は、窒息死であったと言われます。

 つまり、十字架につけられた人は、ダランとぶら下がってしまうと、息が出来ないのだそうです。

 それで苦しくなって、息をするために、釘づけられた足を支えにして体を起こしていなければなりません。

 しかしこれは、大変な苦痛です。だから囚人は、常に体を起こそうとして、十字架上で身悶え続け、そしてやがて、力つきて死ぬのだそうです。

 この死期を早めるために、イエス・キリストのように、事前に鞭打って、しかも肉がちぎれ飛ぶような、骨や金属片を付けた鞭で打って、体力をそいでしまうか、またはこの犯罪人達がそうだったように(彼らの足の骨を折った、という記事が福音書に出て来ますが)、十字架刑の頃合を見て、足の骨を折って、体を支えられなくして、死なせるのです。

 皆さんには、この苦痛が創造出来るでしょうか。

2、第二に、精神的な苦痛です。

 十字架刑とは、見せ物にされて、辱められながら、殺される、ということでした。

 絵に描かれている十字架は、便宜上腰のおおいがあったりしますが、実際には素裸で、さらされ、あざけられながら死ぬのです。

 死ぬ時くらい、静かに、愛する者達に見守られながら死にたい、と思うのが人情でしょう。しかし、そんな最後の願いをも、奪ってしまうのが十字架刑です。

 しかも、愛する者達と言っても、肝心の弟子達は逃げてしまいました。

 しかも、更に考えてみますと、

 イエス・キリストは、何のために、生きて来られたのでしょうか。

 それは、今十字架を取り巻いている人々を、愛し、救うためではありませんか。

 それなのに、人々はせっかくの救い主の愛を拒み、イエス・キリストを受け入れず、「十字架から降りてみよ」などとあざけっているのです。

 自分が愛している者から捨てられる、ということは、つらいことでしょう。

 皆さんには、この苦痛が創造出来るでしょうか。

 しかし、ここで一つ、そんな周囲の人々についての、イエス・キリストの34節の御言葉をご覧下さい。

《34節》そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 驚くべき御言葉ではありませんか!

 こんな理不尽な仕打ちを受ける中で、何とイエス・キリストは、なお赦し、恨むのではなく、彼らの救いを願って神様にとりなしておられたのです。

 私なら、・・・クソッ、覚えていろ、死んだらバケて出て、子々孫々の代までたたってやる、・・・とでも言いそうな場面ですが、皆さん、これが神様の愛なのです。

 そしてこれが私達の姿なのです。・・・「何をしているのか自分でわからない」ままで、間違いを平気で犯すのです。

 神様は、そんな私達の弱さ、愚かさを全てご存じで、愛していて下さるのです。

 さてここで、人々は口をそろえて、「十字架から降りて見せよ」と言っているわけですが、

 皆さん、イエス・キリストは、十字架から降りることは出来なかったのでしょうか。

 もちろん、能力としては出来ました。釘の力など何でもありません。

 しかし、ある方はこう表現しています。イエス・キリストを十字架にはりつけていたのは、釘ではなくて、彼の愛が、彼をはりつけていたのだと。

3、第三に、霊的な苦痛です。

 イエス・キリストには、十字架に架けられるような罪は何一つありませんでした。

 しかし、イエス・キリストは、罪人とされました。

 形だけ、罪人になったのではありません。

 実際に、罪人となったのです。・・・という意味は、私達の罪を全て、ご自分の罪として引き受け、その処罰を受けたのです。

・・・その処罰とは、見える所では十字架という事でしたが、見えない霊的な世界では、それは、父なる神様から捨てられ、断絶された、ということでした。

 子なる神様イエス・キリストが、父なる神様から捨てられ、断絶した。その永遠の愛の交わりが切れた、ということは、実は私達人間には想像も出来ない巨大な霊的苦痛がそこで味わわれたということです。

(2)さて、この十字架の上で、一つの出来事が起こったことが、記録されています。

《39〜43節》

39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。

40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。

41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」

42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 一体、何が起きたのでしょうか。

 一言で言えば、一緒に処刑されていた犯罪人の内一人が、救われた、ということなのです。

《43節》イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 パラダイスというのは、簡単に言えば天国のことです。

 あなたは今日、私と共に天国にいる、とは素晴らしい救いの約束です。

 犯罪人なのに、死刑囚なのに、どうしてこんな素晴らしい約束が頂けたのでしょうか。

 もう一度、彼の言葉を見て下さい。

《40〜42節》

40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。

41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」

42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

 ここで彼は、自分は罪人だ、と認めています。そして、イエス・キリストには罪が無い、と認め、更に、イエス・キリストは、これから天の御国の位にお着きになる方だ、つまり、救い主なる神だ、と認めました。

 そして、彼は本当は、「救って下さい」と言いたかったことでしょう。

 しかし、自分の罪深さを知っていた彼は、「救って下さい。御国に入れて下さい。」とは、言えなかったのです。

 自分は地獄行きが当然の人生を送ったと、身に沁[し]みて知っていたのです。

 だから彼は、「やがて天の御国が実現する時には、どうか、私を、『思い出して下さい』。」・・・これが精一杯の願いでした。

 しかし、イエス・キリスト様の答は、どうでしょう、彼の願いをはるかに越えて素晴らしいものでした。

 やがて、ではない、「今日」だ。「思い出す」のではない、「わたしとともにパラダイスに」いるのだ。

・・・十字架の上でこの男は、どんなにか喜んで、安心して、光輝くような思いで、地上の生涯を終えたことでしょうか。

 この出来事は、私達人間は、どうすれば救いを頂くことが出来るのか、ということを、大変はっきりと示しています。

・・・どうすれば良いのでしょうか。

 イエス・キリストを、信じれば良いのです。悔い改めて、福音を信じるのです。イエス・キリストは、

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコの福音書1章15節)と言われたのです。

 この犯罪人は、何か良いことをしたのではありません。聖書を勉強する時間はありませんでした。教会に行くヒマも、洗礼を受けることも、献金することもありませんでした。何しろ彼は十字架につけられていたのですから。

 彼は、ただ、悔い改めて、信じただけ。それだけで、人間はイエス・キリストの救いを頂けるのだということを、はっきりとこの出来事は示しているのです。

(3)なぜ、これだけで、救われるのでしょうか。

 イエス・キリストが、私達の罪を全て身代わりに負って下さったからです。

 もしも、何か良いことをしなければならない、などという「条件」があったなら、・・・もしも、お金を出しなさいとか、こういう修行をしなさいとかいうことであったならば、この男は、救われようもなかったでしょう。

 実は私達も、その点同じなのです。自分の力では、救いを勝ち取れない罪人なのです。

 しかし、ただ恵みによる救い、信仰による救い、・・・これが本当の神の救いなのです。

 レンブラントという画家の絵に、三本の十字架を描いたものがあります。

 「光の画家」と呼ばれたレンブラントの面目躍如とした絵です。

 丘の上に三本の十字架が立っています。・・・二本は光の中に、一本は暗い影の中に立っています。

・・・あなたは今、どちらの側に入っているでしょうか。・・・光の側でしょうか。闇の側でしょうか。

 聖書は、私達が光の側に入るように、と勧めるのです。

 そのために、悔い改めて、イエス・キリストを信じなさい、と勧めるのです。

 イエス・キリストの十字架の救い。・・・これが、「私のため」のものなのだ、と、しっかりと、信じましょう。

 お祈り致します。・・・


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