第4課 「十戒と罪」

(序)皆さんは、子供が悪いことをした時に、何と言って叱るでしょうか。

お店などで、騒いでいる子供をしかるお母さんを見ていますと、例えば、「そんなことをすると、お巡りさんに怒られますよ」とか、「ほら、隣のおばさんに笑われるでしょう」とか、そんな言い方をする人が多いようです。これでいいのでしょうか。

 実は私自身も、そんな風に、人を引き合いに出して、子供を叱ることがあるように思います。しかし考えてみますと、ではお巡りさんが叱らなければ、やってもいいのでしょうか。隣のおばさんが、いいのよ、と言えば、いいのでしょうか。誰も見ていなければいいのでしょうか。

…いえ、人間には、誰も見ていなくても、やってはいけないことがあるのではないでしょうか。

 実はこの所が、日本人に一番苦手で、あやふやな所なのです。こことの所があやふやだから、子供だけでなく、立派な大人も隠れて悪いことをするのです。国会議員も、学校の先生も、公務員も、悪いことをするのです。そしてそれが見つかると、言いつくろおうとするのです。それでも駄目だと、皆やっていることなのに、自分だけつかまって運が悪かったと言うような口振りで、歯切れの悪い居直りのような反省をするのです。

これは、日本人が、善悪の確固とした基準を持たないからです。そして人から見てどうかということをいつも気にしているからです。 ここが、神様という善悪の明確な基準を持つ人と、他人の評価というあやふやなものを基準にしている人との違うところです。

ですから例えば、子供が「非行をしたらどうして悪いの?」と居直って来ると、説明することが出来ません。「それは人間として神様の前にしてはいけないことだ」とはっきりと言うことが出来ないからです。

この、神様の基準ということを、聖書は教えています。それを「律法」と言います。律法とはちょっと聞き慣れない言葉かも知れませんが、広い意味では、旧約聖書全体を指す言葉。狭い意味ではモーセ五書(旧約の最初の5つの書に、そういう教えが集中的に書いてあるのです)を指す言葉です。その律法の中でも、土台中の土台になるのが、…つまり法律で言えば、憲法に当たるのが、今お読みいたしました「十戒」と言われる部分です。

皆さんは、「十戒」という映画を見たことがおありでしょうか。あの映画は、この十戒が神様から与えられる前後の出来事を描いたものなのでした。

さてでは、まず十戒の内容を順にまとめてみましょう。

十戒は、まず、前文から始まります。実はこれがとても大切です。

《2節》わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

ここに書かれていることは、これを命じる方、つまり神様と、この命令に従うべき者、つまり私達との関係です。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した」というのは、詳しいことは抜きに致しますと、要するに、「あなたを救った」ということです。

つまり神様は、初めにまず、私はあなたを救った。私はあなたの神である。あなたは私の民である。と、自己紹介をして、その前提のもとに十戒を与えて下さっているのです。…このことは、また後で触れますので、覚えておいて下さい。

(1)さて、第1戒は、…

《3節》あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

ここには、神は唯一であるということが教えられています。

そしてそれを知る私達は、他のものを神々としてはならない…と言っても、他に神々があるわけではありません。他は全部偽物ですが、それを、あたかも神々であるかのように、拝んだり、礼拝したりしてはいけないということです。

(2)第2戒は、…

《4〜6節》あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

ここには、偶像礼拝の禁止が教えられています。

聖書によれば、神様は天地万物をお造りになった創造主です。それ以外のものは、全て神様がお造りになった被造物です。ここで教えられていることは、神以外の被造物を拝んではいけないということです。それは被造物であって、創造主ではない。神ではないのですから。

ここで、少々注意して頂きたいことがありますが、一つは、偶像になるのは、何も他の宗教の神々だけではない、といことです。

例えば、ある方が、お金を何よりも大切にし、神様よりも大切にするならば、お金がその方の神となってしまったということです。それは偶像礼拝として、この第2戒を破ることになります。同じように、神様よりも仕事が大事、とか、家族が大事、とか、要するに、神様以上に大切な被造物があれば、それは偶像となるのです。

もう一つ、注意しておきたいことは、この第2戒は、被造物を拝むことを禁止しているわけですが、それは、たとえ本当の神様を拝むとしても、形にして拝んではいけない、ということもおしえているわけです。ですから、教会に来て、ご本尊様はどちらですか、とお尋ねになっても、そのような像は一切ありません。

(3)さて次に、第3戒は、…

《7節》あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

第3戒は、主の御名をみだりに唱えるな。…これはどういうことでしょうか。…これは、神様のお名前を、それにふさわしくない形で、自分勝手に使うな、ということです。

例えば、子供を叱る時に、そんなことをしていると神様の罰が当たりますよ、などという親がいますが、本当に神様は罰を当てようとして怒っておられるのでしょうか。親が怒っているだけではないでしょうか。…これは親が勝手に神様のお名前をみだりに使っているのです。

あるいは、英語で、"JUSUS CHRIST ! "と言うと、どういう意味でしょうか。…こんちくしょう、という意味ですね。日本語で、お釈迦になると言うと、どういう意味でしょうか。…駄目になる、と言う意味ですね。ことほど左様に、人間というものは、神様をみだりに引き合いに出したがる。それを戒められているのです。神は神として、ふさわしくお取り扱いしなければなりません。

(4)第4戒は、…

《8〜11節》安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

これは、簡単に言えば、日曜日を、神様を礼拝する大切な日として取り分けよ、ということです。仕事は、6日間でせよ、というのです。

(5)第5戒は、…

《12節》あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

(6)第6戒は、…

《13節》殺してはならない。

(7)第7戒は、…

《14節》姦淫してはならない。

(8)第8戒は、…

《15節》盗んではならない。

(9)第9戒は、…

《16節》あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。

これは、偽証の禁止です。

(10)そして第10戒は、…

《17節》あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。

以上が、有名な十戒の内容でした。そして初めに申し上げましたように、これが、神様が人間とはこのようにあるべきものだ、と定められた基準なのでした。

さて、では問題は、皆さんは、これを守っておられるだろうか、ということになります。…どうでしょうか。

教会に来られる方々の内には、聖書は全ての人間は罪人であると教えています、と言うと、いえ、私は一切罪などございません、とおっしゃる方もあります。…どうでしょうか。神様のこの基準に照らして、皆さんは合格でしょうか。

まあ、一つ二つは引っかかるかも知れないけれども、ほとんどは大丈夫、特に、人を殺すとか、姦淫するとか、そんなことしたことはありっこないです…と言うあたりが日本人の平均的な反応でしょうか。

しかし、例えば、第6戒の、「殺してはならない」とは何を教えているのでしょうか。これについて、イエス・キリストの解説を見てみましょう。

《マタイの福音書5章21〜22節》

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

つまり、兄弟に対して、腹を立てる、能なしと言う、馬鹿者と言う、これは心の中で犯した殺人罪として、もう立派に、第6戒を破ったことになるのだ。神様の目からみればそうなるのだ、と言うのです。

あるいはまた、第7戒「姦淫してはならない」はどうでしょう。

《マタイの福音書5章27〜28節》

『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

つまり、情欲を抱いて女を見るならば、すでに心の中で第7戒を破ったことになるのだ。神様の目からみればそうなるのだ、と言うのです。

これはこれは、目もくらむばかりのことになるのではないでしょうか。そんなことを言ったら、人間は全て、殺人鬼の集まり、姦淫魔の集まりになってしまうのではないでしょうか。…

そうなのです。イエス様はここで、心の中まで全てお見通しの神様の目から見れば、人間は十戒のただ一つすらも守れない罪深い存在だということを悟らせたいのです。私達の心の中は、実は罪だらけ。現実の悪い行いは、心の中に根をもって生えてくる。かりにまだ生えてこなくても、心の中には一杯控えている、それが人間の姿だと気付かせようとされたのです。

どうでしょうか。私達は自分の姿を顧みるときに、イエス様の指摘が、ズボシであると、認めざるを得ないのではないでしょうか。

では、聖書の律法を読む時に、私達は何を受け取れば良いのでしょうか。

 3つのことがあります。

(1)一つは、律法は、神様の審きの基準を明らかにしている、ということです。しかし、この基準に照らしてわかることは、私達は皆この基準を守っていない、ということです。神様の基準は私達が有罪である、と裁く働きをするわけです。

(2)律法の二つ目の働きは、私達をイエス・キリストのみもとへと連れていくということです。自分が罪人だとわかった私達は、そして、自分の力では、自分の罪深い心の中はどうすることもできないと悟った私達が、では、どうすればよいかというと、自分の力ではなく、イエス・キリストの十字架の救いによって救われるしかないんだ、ということがわかるわけです。ですから、律法は、私達をイエス・キリストへと導く役目をするのだと聖書に書いてあります。

(3)律法の三つ目の役目は、そのようにしてイエス・キリストを信じて救われた私達が、その後どのように生きていくかというと、この律法が基準となるわけです。初めは神様の審きの基準でしたが、今度は、もうイエス様を信じて全ての罪は赦されましたから、審きを恐れる必要はありません。今度は、少しでも神様に喜ばれる、少しでも人間にふさわしい歩みをしていくための基準になるわけです。ですから、審きの基準としては恐ろしいものであった律法が、クリスチャンの人生の基準としては、神様を喜ばせる、私達にとっても喜ばしいものとなるわけです。

さて終わりに、最初に見た十戒の前文に、このような律法の働きが良く教えられていることを味わって終わります。

十戒は十の教えが並んでいただけではなくて、その前文があった、ということがとても大切です。前文は何を教えていたかというと、神様が、私はあなた方を救った神だ、と自己紹介して下さっていたのでした。…つまり、十戒というのは、これを守ったら救ってやろうという条件ではなかったのです。(もしそうならば、誰一人救われはしないことになってしまいます)

十戒というのは、まず神様が私達を一方的に愛して下さり、救って下さった。ついては、救われたあなた方は、これを基準にして生きて行きなさい、そうすればあなた方の人生は本物になっていくだろうという、これも恵みの教えだったのでした。

最後に、そのことを教える聖書の箇所を…

《ローマ6章23節》

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

ここに二つの対照的な言葉が出てきます。…報酬と賜物です。

報酬というのは、当然受けるべきものです。私達は罪人ですから、当然受けるべき報酬は死です。救いは、もしも十戒を全部守り通すことでも出来れば報酬として要求することも出来るのでしょうが、しかし今日考えた用に、心の中をお見通しの神様の前では、私達は報酬として稼ぎ取ることなど出来ません。誰も神様の基準に届かないのです。

しかし、では救いは絶望かというと、そうではなくて、救いは賜物として与えられると言うのです。賜物というのは、ふさわしくなくても頂ける神様から一方的に差し出されるプレゼントです。

どのようにして頂けばよいのでしょう。

神様は私達を愛して差し出していて下さるのですから、私達は素直に、下さい、と言って受け取ればよいのです。それには、どうすればよいのかというと、ただ信仰によればよいのです。イエス・キリストを罪からの救い主として信じる時に、全ての罪は赦され、私達は神様の子供とされ、永遠の命を頂くことになるのです。


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