第二課 まことの神

広瀬 薫 牧師   

(序)

 ギリシャにアテネという都市があります。

 何千年も前からある町で、芸術文化の中心地。ギリシャ神話・ギリシャ哲学など 有名で、要するに西洋文明のルーツとなった都市です。

 そこに、今から約2000年前、キリスト教の宣教師パウロが、聖書を片手に乗 り込んで行った。そして、キリスト教を初めて伝えた、という劇的な出来事の記録 が聖書にあります。つまり、西欧文明のルーツと、キリスト教・聖書が初めてぶつ かって、チャリーンと火花を散らしたというドラマチックな場面なのです。その時 テーマとなったことは、「本当の神とはどういう方か」ということでした。本物の 神とはいかなる方か、ということです。

 その聖書の箇所は、「使徒の働き」17章16〜34節の所です。

(1)まず、その時の状況を見てみましょう。

 初めてアテネに入ったキリスト教の使徒パウロは何を見たのでしょうか。

・・・私なら(もとの専門が建築ですから)、「あれがかの有名なパルテノン神 殿、あれがオリンピア…」などと夢中になりそうですが。・・・。

 パウロが見たもの、それは、見事に今の私達の状況とそっくりなのでした。2千 年前のこととは思えないくらいなのです。実に今も昔も人間というものは変わらな いものだと教えられます。

1、17章16節 あらゆる宗教があった

使徒 17:16 さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなの を見て、心に憤りを感じた。

 「町が偶像でいっぱい」、つまり、あらゆる宗教があったということです。(こ れがまず、私達の状況とそっくりでしょう。)

 ギリシャ神話の神々、オリュンポスの12神、ゼウス、アポロ、ヘルメス、アルテ ミスビーナス、・・・更にその他に、学問の神、哲学の神、善行の神、更には、恥 の神、噂の神・・・と、ありとあらゆる神々、思いつく限りの神々があったと言わ れます。

 日本にも、八百万の神々と言われるように、ありとあらゆる神々が祭られていま す。動物の神もあり、人間の神もあり、果ては台所の神とか、便所の神もあるとい うわけです。

 ギリシャでは、八百万ほどではない、約3000の神々があったと言われます が、当時のある旅行家が、「諸君はアテネでは、人に会うよりも、神々に会う方が 多い」と書いているそうですから、そう光景が想像できようというものです。

2、18節 あらゆる思想があった

使徒 17:18 エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っ ていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなの か。」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい。」と言っ た。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。

 「エピクロス派とストア派」、ギリシャ哲学の双璧です。つまり、あらゆる思想 があったということです。(これがまた、私達の状況とそっくりでしょう。)

 ギリシャ哲学に、すでに人間の出会う問題は全て現れているとも言われます。

 エピクロス派は快楽主義(望むものを手に入れていけば人間は幸せになる)と呼 ばれ、ストア派は禁欲主義(望みを制御することで幸せになる)と呼ばれる、人生 哲学・幸福哲学の二つの典型でした。

 とにかく、あらゆる宗教とあらゆる思想があった。しかし、ここで注意して頂き たいのは、そのどれもが本当の意味で人の心を満たしていなかったということで す。どれもが、本当には人を幸せにしない、人生の問題を解決しないものだったの です。

 ですから、

1、あらゆる宗教がありながら、なお彼らは、「知られない神」(23節)にささげ る祭壇を作り、また、

2、あらゆる思想がありながら、なお彼らは、「新しいもの」(21節)を求めてい るわけです。

 宗教も思想も、彼らの心を満たしはしなかったのです。なぜでしょうか。

 パスカルという人が、人の心には本当の神にしか満たせない空洞がある、という 意味のことを言っています。

 アウグスチヌスという人が、神は人間を神に向けて造ったので、だから私達は神 の内に憩うまでは安らぎを得ないのだ、という意味のことを言っています。

 パウロはそういう、偶像でいっぱい、思想でいっぱいのアテネの状況を見て、ど う思ったのでしょうか。・・・「憤った」と書いてあります。

 なぜ、憤ったのでしょうか。「人それぞれ、自分の好きなものを信じていればい い」のではないでしょうか。・・・パウロが憤った理由を考えてみましょう。

1、本物の神を知らないで、偽物の神を拝んでいる、ということは、聖書では大き な罪です。

 それはたとえて言えば、本当の父親を放っておいて、他の人の所へ行って「お父 さん」と言う、とか、本当の夫を無視して、他の男性の所へ行く、というようなも のです。

 ここでパウロが、人それぞれの宗教で良いのだとしていないことに注意して頂き たいと思います。聖書は、真面目に求めさえすれば対象は何でも良いとは決して言 いません。聖書は、求める対象は「本物」でなければならないと言うのです。そし て、この世には本物か偽物か、そのどちらかしかない、と教えているのです。その 本物を知る者には、偽物は「憤る」べきものであるわけです。

2、しかし、パウロはもっと深いところを見ていたと思います。偽物だからダメ だ、というのが彼の憤りなのではなく、むしろそのような偽物に捕らえられている 人々の悲惨が、彼の心を「憤らせた」のだと思います。

 求めても求めても、あらゆる宗教にも、あらゆる人生哲学にも解決がない。その 悲惨を見たパウロは、そこに人類の状況を見たのでしょう。(その状況は、今も全 く同じです。)これが彼の本当の「憤り」の理由であったと思います。

 その、知らないで、求め続けていて、得ることの出来ないでいるものを、今教え よう、とパウロは言うのです。・・・そのテーマは、「本物の神を知りなさい」と いうことでした。

 以下、順に、彼の語るところを見ていきましょう。

(2)まことの神とはどのような方か。

使徒 17:24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主 ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。

・・・まことの神とは、創造主であり、世界を超えた存在であり、万物の支配者で あるというのです。つまり、この世界の中の被造物の一つではない。だから、人は 神にならない、動物も神にならない。まことの神は、「手でこしらえた宮などに は」お住みにならないという、この言葉は、私達日本人の耳にも痛いものではない でしょうか。

使徒 17:25 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えら れる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになっ た方だからです。

・・・神には、人に仕えてもらわないと困るような、罰を当てるような、そんな 「不自由」はない、というのです。人が神に何かを与えなければならないのではな い、神がそもそも人に万物も命も与えたのだというのです。これまた、食べ物を与 えねばならない神や、ホコリを落とさねばならない神を祭っている日本人の神経を 逆なでするような言葉です。

使徒 17:26 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住ま わせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

・・・神は、人類の始まりから全歴史を支配しておられると言うのです。ここに は、神の超越性と共に、神はそのような創造のみ業によって(つまり、自然や、人 間や、良心や歴史に)ご自身を表されたのだということも込められているでしょ う。それが次に続きます。

使徒 17:27 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるな ら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く 離れてはおられません。

・・・まことの神は、求めれば、見いだせる、と言います。神は、超越的な、大き な方であると同時に、すぐ近くにおられる方なのです。

使徒 17:29 そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造っ た金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。

・・・これなど、正に、私達日本の状況とそっくりで、よくわかるでしょう。パウ ロは、その間違いに気づけと言うのです。

 人の手による神は、本当の神ではありません。死んだ人を祭るとか、動物を祭る とか、白い蛇が出れば祭るとか、大きな木を見つければ祭るとか、何でも神にして しまい、しかも、神を売っている・・・大きな神は高く、小さな神は安い・・・ こんなのは本当の神ではないのだと言うのです。

 ある方が、沢山の神々があるように見えるけれども、分類すれば2種類しかな い、と言っています。それは、「人が作った神」と、「人を造った神」の2種類で す。・・・どちらが本当の神でしょうか。「人を造った神」を聖書は教えるので す。

 さて、ここまでは、「まことの神」についての知識です。パウロのメッセージ は、さらに進んで、そのまことの神は私達人間に何を望んでおられるかを述べま す。

使徒 17:30 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこ ででもすべての人に悔い改めを命じておられます。

・・・まことの神は、「悔い改め」を命じておられると言うのです。「悔い改め」 とは、「方向転換」ということです。神に背を向けた状態から、神の方に向き直る ということです。

 ここで言う「今は」とは、次に説明されます。

使徒 17:31 なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界 をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみ がえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。

・・・イエス・キリストが、救いのみ業を成し遂げた「今は」、神を知り、神と命 のつながりを持つことが出来るのです。ここに解決が提供されているのです。十字 架の死と復活を経た今は、そしてやがての神の審きを待つ今は、悔い改めて、神を 信じて生きることが求められているのです。今までのような的外れの生き方では永 遠の滅びに至るばかりなのです。

 では、このパウロのメッセージを聞いた当時の人々はどうしたでしょうか。

 まことの神の話を聞いた人々は、どういう態度を、この神に対して取るのでしょ うか。

(3)ここに3種類の人々が出て来ます。

使徒 17:32 死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、 「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言った。

使徒 17:33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。

使徒 17:34 しかし、彼につき従って信仰にはいった人たちもいた。それは、アレオ パゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。

・・・3種類の人々とは、どのような人々でしょう。

1、あざ笑った人々・・・つまり、拒否です。

2、またいつか、と言った人々・・・つまり、延期です。

3、信じた人々

・・・実にこれまた、今の人間の姿と同じではないでしょうか。ある方々は、神を 拒否する。ある方々は、なかなかいいじゃないかと思いつつも、その場では決断し ないで延期する。しかし、ある方々はきっぱりと信じる。・・・

 聖書は、どの態度を勧めているのでしょうか。あなたはどの態度を取っておられ るでしょうか。

 神は、求めれば見いだせるのですから、求めて、この本物の神様を知って、信じ て頂きたいと思います。そして、他の所では決して得ることの出来ない満たしを、 幸せを、手にして頂きたいと思います。


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