第3課  祈りについて                         

                                           

 私達の信仰生活にとって、祈りは欠かせないものです。祈りのない信仰生活というものは、有り得ないのだということをまず知って下さい。                

 では祈りとはどのようなものなのでしょうか。また私達は、どのように祈ったらよいのでしょうか。この課では、祈りについての基本的なことを学びたいと思います。   

                    

[1]祈りとはどのようなものか                                      

(1)祈りは魂の呼吸(テサロニケ人への手紙第一5章17節)                                    

 聖書が魂の「糧」であるなら、祈りは魂の「呼吸」である、と言われています。ある人が、『祈りは新たに生れた霊魂の呼吸である。これがなければクリスチャンとしての生命がない』と言っています。  

 イエス・キリストを信じた時に私達に与えられた新しい命(ペテロの手紙第一1章23節、コロサイ3章10節)は、聖書のみことばという糧と、祈りという呼吸によって、健康に成長し、力を与えられていくのです。息を止めていれば窒息してしまうように、私達が祈るのをやめてしまえば、キリストにある新しい命は弱っていってしまいます。ですから私達にとって祈りは、してもしなくてもよいのではなく、絶対必要なものであることを覚えて下さい。        

 このように祈りは「呼吸」にたとえられるのですが、呼吸とは違う点が一つあります。それは、呼吸は誰でも別に努力しなくても、自然にしているのですが、祈りはそうはいかないということです。つまり、自分で祈ろうとしなければ祈れないのです。

 もちろん聖書は、私達の祈りを神様が助けて下さっていることを教えています。(ローマ8章26〜27節、またキリストも天で私達のためにとりなしの祈りをして下さっています。)けれどやはり、私達は自分の意志で、祈ることを決断し、努力し、実行する責任があります。

 特に、日本のように、子供の時親から祈ることを教えられないで育った場合、祈ることが大切と分かっていても、祈りを身に付けるまでは大変な努力と学びと訓練が必要なのだということを覚悟して下さい。

 ですから聖書は「絶えず祈りなさい」と教えて、私達を祈りへと励まし、導いているのです。                     

(2)祈りは父なる神様との会話              

 祈りは、主イエス・キリストによって神様と和解させられたクリスチャンが、神と交わることであり、私達は、祈りを通して日々神様から恵みを受けるのです。      

ア)何でも神様に祈りましょう

 素直な子供が、父親に何でも喜んで話すように、私達も天の父なる神様に、何でもお話し、願い、感謝し、悔い改めましょう。そもそも神様は私達の全てをご存知ですから、神様のみ前に隠せることなど一つもありません。(詩篇139篇4節、マタイ6章8節)神様は、全てをご存知の上で、なお私達がそれを自覚して神様のみもとに近付くことを求めておられるのです。ですから、自分をとりつくろったり、「こんなことを神様に祈ってはいけないのではないか」と心配したりせず、自分のありのままの思いを神様のみ前に申し上げるのが良いのです。例えば、嘆きや、悲しみや、不安や、疑問もそのまま神様に申し上げればよいのです。「クリスチャンだからいつも喜んでいるべきだ。神様に嘆くなど不信仰だ。」などと自分を縛りつけると、祈りが形式的になって苦しくなります。          

 また、小さなこと、一見つまらないようなことでも、何でも具体的に神様にお祈りして良いのです。 

 祈りを具体的にすることも大切なことです。例えば、「神様、〜さんを祝福して下さい」と祈るだけでなく、どのような点で祝福してほしいのか(救われるように、とか、今具体的に困っていることが解決されるように、とか)祈ることです。また、「神様、私の罪を悔い改めます」と祈るだけでなく、具体的に、どんな罪を犯したかを言い表わして悔い改めるべきです。(昨日親に向かってバカと言ってしまいましたとか、教会の〜兄が恵まれているのを見て心の中が妬みでいっぱいになってしまいましたとか)       

イ)神様からの語り掛けにも耳を傾けましょう。(サムエル記第一3章10節)         

 これはえてして忘れがちの大切な点です。祈りは神様との会話ですから、私達の側から一方的に言いたいことを言い放題言って、それだけで終わりにしてはいけないのです。  祈りの中では、自分の願いを語るだけでなく、神様の答を期待しつつ静まり、瞑想することが不可欠です。また祈ると同時に、み言葉を読み、神様の教えを受け止めることも大切です。そのようにして、私達は自分の願いをはるかに超えて素晴らしい神様のみわざに目が開かれるのです。イエス様が祈ったように「〜して下さい。しかし、私の願うようにではなく、あなたのみ心のようになさって下さい」(マタイ26章39節)という姿勢を持つことが(困難ですが)大切なことなのです。「語る祈り」に比べてこの「聞く祈り」は、そう簡単に身に付くものではなく、長い祈りの日々の積み重ねと、訓練の中で次第に身に付き、開けてくる信仰の世界だと思います。   

[2]祈りをどのように学ぶか        

 イエス・キリストの弟子達も、「私達に祈りを教えて下さい」と願いました(ルカ11章1節)。自分のありのままで祈れば良い、と言っても、それは祈りにおいて少しも成長しなくても良い、ということではありません。聖書の中でも、祈りについては沢山のことが教

えられています。私達は、祈りについて学び続けて、祈りにおいて成長し、神様と深く交わる豊かな祈り、深い祈りを目指しましょう。                                    

(1)祈りを実践して学ぶ                  

 まず確認しておかねばならないことは、祈りは「実践」だということです。いくら聖書から祈りについて学び、また祈りについての良書を読んでも、実際に祈らなければ、何の役にも立たないでしょう。正に「畳の上の水練」「机上の空論」になってしまいます。とにかく祈ることをしなければなりません。どんなことでも祈る習慣を身に付けることを目指しましょう。

         

(2)聖書に学ぶ                             

 聖書は祈りについて多くのことを教えています。また聖書は、私達の祈りを正して、

神様のみ心にかなうように導く働きをします。カルヴァンは「聖書は、祈りの定規である」と言っています。 

     

ア)聖書には、祈りの実例が沢山あります。神様に従った人々が、どのように祈り、どのように神様のお 取り扱いを受けたかが数多く書かれています。                          

(例)アブラハムの祈り(創世記18章22節以下)、モーセの祈り(出エジプト記32章11節以下)、主イエスのゲッセマネの祈り(マタイ20章31節以下)、パウロの祈り(エペソ3章14〜21節)、ダビデの詩篇。

           

イ)聖書には、「祈りはこのようにしなさい」といった具体的な教えが数多く書かれています。

ウ)聖書には、私達の主であり、クリスチャンの模範であるイエス・キリストの祈りの姿が記録されています。        

 私達はこの聖書によって、祈りを教えられ、祈りを正され、祈りを成長させて頂くのです。                    

(3)歴史上の先人のクリスチャンの祈りの生活に学ぶ               

 私達の祈りのあり方は、私達の信仰のあり方に深く関わっています。実際、私達は自分の信仰のようにしか祈れない、と言ってもよいでしょう。(御利益的な信仰の人は御利益的な祈りになる。敬虔な信仰の人は敬虔な祈りになる。神中心の信仰の人は神中心の祈りになる。自己中心の信仰の人は自己中心の祈りになる。等)ですから、信仰者として生き、伝記に書かれているような人々のほとんどは「祈りの人」でもありました。そのような方々の生涯を記した本を読むと、私達の祈りの生活も大変刺激を受けます。                         

(4)祈りについての良書に学ぶ

           

 祈りについて書かれた良い本は沢山あります。それは、私達が祈りについての聖書の教えを学んだり、祈りの生活を整えるのに、良い助けとなります。       

(例)                           

1、E.M.バウンズの祈りのシリーズ。「祈りによる力」「祈りの目的」 

2、アンドリュー・マーレーのシリーズ。「キリストとともにー祈りの学校ー」「とりなしの祈り」「内なる生活ー密室の祈りー」「祈りの生活」(1996年信徒研修会テキスト)等。

3、三浦綾子「天の梯子」                            

4、「祈ることを教えて下さい」「祈りの精神」「きょうの祈り」等々。

         

[3]祈りの心得                                     

 実際に祈る時に、どんなことを念頭に置いたらよいのか、基本的なことを確認しておきましょう。

(1)自分一人で熱心に祈る時間を毎日取りましょう。               

 クリスチャンは、教会で主にある兄姉と祈り、祈祷会を大切にし、家では家族・夫婦で祈りますが、それと同時に、自分一人での「密室の祈り」を神にささげることが大切です。(マタイ6章6節)これは普通、「ディボーション」と呼ばれています。毎日自分で定めた時間に(普通は朝起きた時と夜寝る前)、聖書を読み、祈ることを何としてでも自分の習慣とするように目指しましょう。そのために、助けとなる本や「祈りのノート」を作って利用することも良いことです。                             

(2)イエス・キリストの御名によって祈る。(ヨハネ14章13〜14節)        

 祈りの最後に「主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン」と言うのは、単なる祈りの終わりの合図ではありません。この言葉には、私達が祈ることが出来る根拠がイエス・キリストの救いのみわざにあることが表現されています。私達は本来、神様に祈ることなど出来るはずのない罪人でした。そんな私達が神様のみ前に大胆に近付き(ヘブル4章16節)何でも祈ることが出来るのは、イエス・キリストが、私達と神様の間を隔てていた罪の壁を取り除き、私達と神様との和解を成し遂げて下さったからです。イエス・キリストが私達と神様とを結び付けて下さる唯一のお方です。つまり、私達はイエス・キリストを通してのみ、神様に近付き、祈ることが出来るのです。ですから、このことを考えて、祈りの終わりに「主イエス・キリストのみ名によって」と言う時、それをただ形式的に口にするのでなく、自分のためにイエス様が十字架で死んで下さったが故にこうして祈ることが出来るのだという感謝をも覚えましょう。

(3)信じて祈る(マルコ11章24節、ヨハネの手紙第一5章14〜15節、ヘブル11章6節)          

 私達は祈る時、神のみ心にかなう祈りは必ず聞かれるとの確信を持って祈るべきです。祈り願ったことがそのままの形で聞かれなくても、それにまさる恵みが必ず与えられます。信じないで祈ることは、全能の父なる神様に対して大変失礼なこと、神様を神様として認めていない態度でしょう。        

 しかし、「信じたい」と願いながら、なかなか信じ切れない、というのが私達の偽らざる現実の姿でしょう。聖書に、「信じます。不信仰な私をお助け下さい!」と叫んだ人が出てきます(マルコ9章23節)。これが私達共通の姿ではないでしょうか。聖書は「信じる」ということ自体も、私達が自分の力でなし得ることではなく、神様の助けによって初めて出来るのだと教えています。ですから、私達も真実な信仰を求めつつ、また自らの不信仰を自覚しつつ、「信じます。不信仰な私をお助け下さい。」と祈りましょう。                                   

(4)神の約束の言葉を握って祈る(ヨハネ15章7〜8節)            

                                        

 聖書には、神の祝福の約束のみ言葉が、数え切れない位あります。み心にかなった祈りをする方法の一つは、みことばの約束に従って祈ることです。自分の願いを祈るだけでは、それを神様がかなえて下さるかどうか確信が持てなくても、それがみことばの裏付けを伴なっているなら、神様が責任をもってかなえて下さると確信出来るのではないでしょうか。

                     

(5)忍耐深く祈る。(ルカ11章5〜10節、18章1節)                            

 祈りは「インスタント」ではありませんし「魔法の杖」でもありません。神様は必ず私達の祈りを聞いておられ、最善の答を最善の時に与えようと用意しておられるのですから、答を神様から受け取るまで忍耐深く祈り続けることが大切です。一回祈ったきり祈りっぱなしで、何を祈ったかさえ忘れてしまい、神様からの祈りの答を期待しないとしたら、それは祈りに答える神様に対して大変失礼なことではないでしょうか。ですから、「祈りのノート」を作ることをお勧めする理由はここにもあります。ノートを作って祈りの課題を記録し、神様の答を記入出来るようにします。そして答があるまでいつまでも忍耐強く祈り続けるのです。   

(注)長い信仰生活の間には、信仰的に充実している時もあればそうでない時もあります。祈りをしなくなる時も、祈れなくなるようなことも経験します。しかしそのような時でも、聖書はそのような時こそ、祈りに答えて下さる神に祈るようにと勧めているのだ、ということを覚えていなくてはなりません。失望せずに祈れ、と教えられています。どのように祈ったら良いか分からない時には、「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私達のためにとりなして下さいます」(ローマ8章26節)とあります。ですから、御霊に導かれるように祈りましょう。その言葉に言い表わせない感謝と恵みにあずかれるようになります。祈りを欠かさないことこそ、輝いた勝利のクリスチャン生活の秘訣です。               

(6)祈りの第一目的           

 私達の祈りは、何よりもまず、神の栄光のために祈るべきです。また、自分自身のために祈るのはもちろんですが、家族・友人・教会のため、国家・世界のため等々、必要に応じて具体的にとりなしの祈りをしましょう。抽象的な祈りに終わらないように注意しましょう。 

                                           

[4]祈りの内容

                    

 では、私達はこのような祈りの心得をもって、どんな内容の祈りをしたら良いのでしょうか。四つの内容を考えてみましょう。                    

(1)賛美                 

 これは神様をほめたたえるのです。私達が神様との交わりである祈りをする時、いつも自分の問題ばかりに目をとらわれていて、神様を見上げようとしない、という危険があります。祈りの初めに、神様がどのようなお方であるか、私達に何をして下さったのかを思い、神様を賛美することから祈りを始めることが出来るようになりたいものです。

                       

(2)悔い改め

                        

 罪は私達の祈りが聞かれることを妨げます。罪は私達と神様との交わりを妨害するのです。ですから、私達は祈る時、心に示される罪があるならば、素直にそれを神様に告白し、赦して頂くことが大切です。告白すれば必ず神様はその罪を赦して下さると約束されているのですから。(ヨハネの手紙第一1章9節) 

 また同時に、他人が私達に対して犯した罪・誤ち・仕打ち・ひどい言葉等を祈りの中で赦すことも大切です。他人を赦すことは、クリスチャンの特権であり、務めであり、これこそ私達自身が赦された者であることの証明なのですから。                                    

(3)感謝

                                   

 「すべてのことについて、感謝しなさい」(テサロニケ人への手紙第一5章18節)

 祈る時、感謝すべきことを沢山見つけ出して感謝しましょう。良いことはもちろん、苦難も試練も逆境も「すべて」感謝できるクリスチャンは、神を喜ぶことを知っている幸いな祈りの達人であると思います。                         

(4)願い・とりなしの祈り                                         

 もちろん「願い」も大切な要素です。神様は、私達が神様を頼りにしてどんなことでも求めることを期待しておられます。ですから、遠慮せずに何でも祈りましょう。また自分のことだけでなく、他の人のためにも祈りましょう(これを「とりなしの祈り」と言います)。                                    

 以上の四つの内容がバランスよく自分の祈りの中にあるだろうかと、時々顧みてみることが必要です。 私達の祈りは放っておくと、「願い」(しかも自分のための願い)ばかりになってしまいがちです。ある方はそんな「どうか、どうか」とばかり言っている祈りを「銅貨の祈り」と言っています。日本で普通祈りというと、「家内安全」「商売繁盛」「五穀豊穣」「進学成就」などという現世利益的なものばかりが思い浮かびかねませんが、キリスト教の祈りには(もちろん現世利益を否定はしませんが)更に広く深い世界があることを覚えて下さい。そのためには、時々気を付けて、上記の祈りの四つの要素が忘れられていないか(いつもこの四つが入っていなければならないということではありません)確かめてみることが必要なことです。

                                        


[ある日の礼拝説教より]

・・・祈りの共同性・祈りの力を知ることについて・・・

 さて、祈りの実践ということに関連して、二つのことをお話しておきたいと思います。祈りの実践には二つの面があるということです。

 一つは、一人で祈る、ということ。 もう一つは、共に祈る、ということです。

 祈りの実践には、この二つの面が、バランスよく入ることが大切です。

 まず、一人で祈るということですが、これは通常、ディボーションとか、密室の祈りとか、呼ばれているものです。これをどうしても自らの経験するところとしなければなりません。

 エペソ人への手紙6章18節で、パウロは、

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」と語ります。

 「全て」「どんな時にも」「絶えず」「全て」「忍耐の限りを尽くし」…「祈れ」という、この祈りなしで進み行ける道は、この世には無いのだということを、私達は肝に銘じたいと思うのです。

 次に、共に祈るということ。祈りの共同性ということ。

 これを私達はえてして忘れがちだと思います。

 パウロは、何と言っていたでしょうか。祈れ、と勧めた後で、自分は祈っているから大丈夫ですよ、と言っているでしょうか。違うのです。

19〜20節、

「また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。」

「私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」

 祈って下さい、と彼は繰り返し要請します。

 自分には、仲間の祈りが不可欠なのだ、と彼は知っているのです。そして、仲間の祈りが、実際に自分を支える有効な力を持っていることを知っているのです。これを私達も知らなければなりません。

 ある方々は、現実の問題のある時に、祈っていて何になる、とおっしゃいます。例えば、現実に困っている方々がいれば、祈っていたってしょうがない、実際に、例えばマザーテレサのように、行動しなければ現実に役に立たないではないか、とおっしゃいます。

 しかし、そのようにおっしゃる方々は、祈るということ、そして自分が祈られるということが、どういうことであるかを知らないから、そのようにおっしゃるのだと思います。

例えば、今名前を出した、マザーテレサは、どうなのでしょう。彼女は祈るよりも実践だ、と言っているのでしょうか。

 いいえ、実はマザーテレサ自身は、祈ることが何よりも大切だとおっしゃっているのです。そして事実、彼女は、毎日を神の御前にひざまずき祈ることをせずには始めないのです。そして、自分が祈るだけではない、祈りのパートナーに共に祈ってもらうということを非常に大切にしているのです。私が以前読んだ本では、(古い本ですから、今は違うパ

ートナーになっていると思いますが)その頃、マザーテレサの祈りのパートナーは、ヨーロッパのとある病院に寝たきりになっているご婦人でした。マザーテレサはインドにいて、そのご婦人は遠く離れたベッドの上にいて、マザーテレサのことを毎日祈っているわけです。マザーテレサの方も、祈ってほしい課題があると、その婦人に知らせて祈ってもらうわけです。私がその本を読んで、なるほどなあ、と思ったのは、彼らはお互いのことを何と呼んでいるか、ということなのです。

 実は彼らは、この祈りのパートナーを、「第二の自分」と呼んでいるのです。お互いのために祈っているパートナーは、「第二の自分」なのです。

 これが祈りの共同性というものだなあ、と思いますね、皆さん。

 私達は、そういう、「第二の自分」と呼べるような、自分のために絶えず祈り続けてくれている人を持っているでしょうか。

 先ほどの方々が、祈っているだけじゃしょうがない、というその意味は分かりますが、しかしそうおっしゃる方々は、こういう、「第二の自分」と呼べるような祈り手を持っていないから、そして、祈られているということがどんなに素晴らしいことか味わったことがないから、つまり、祈る、とか、祈りあう、とか、共に祈る、とか、祈られる、という

ことがどういうことか知らないから、そうおっしゃるのではないでしょうか。

 マサーテレサはそれを知っていました。パウロもそれを知っていました。だから、エペソ教会にこんなに繰り返して祈りを要請しているわけです。

 私達は、ぜひ、この祈りの世界を、自分のこととして味わいたいものです。そのためには、誰が私の第二の自分になってくれるかしら、ということもあるでしょうけれども、まず、ご自分が、誰かの第二の自分のようにして、祈るものとなる、ということを考えてみて頂きたいと思います。

 祈りは表面には見えない働きです。マザーテレサが、どれだけ祈っているか見えないから、人々は祈りの力を過小評価するのです。しかし、実際に世界を動かしているのは、その目にみえない祈りの力の方なのだ、ということを、私達はきっと天に行った時に悟るでしょう。ああ、私の力は何と弱く足りないものだったか、私がしたと思ったことも、実はあの方の祈り、この方の祈りによって実現していたのだ。世界を動かしていたのは、祈りの力によるところこれほどまでに大だったのだ、と悟ることになるのだと思います。その祈りの世界の祝福の中に、私達の足を一歩、進めたいと思います。


 アフター・バプテスマ・クラス  復習プリント  3

     名前 (            ) 提出    年   月   日

 第3課 祈りについて 

1、祈りとはどのようなものだと思いますか?

2、祈りをどのようにして学んだら良いのでしょうか? 

3、私達はどのようなことに気を付けて祈るべきでしょうか? 

4、祈りにはどんな内容が必要でしょうか?

5、祈りにおいて私達が陥りがちな欠点をあげてみて下さい。 

6、何かご質問等がありますか? 


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