あとがき       

私は二十数年間日本基督教会の神学校で教理史を講じて来た。最初は貧しい講義であった。いや、最後まで貧しかったと認めなければならないであろう。しかし、石の上にも何年という諺もあるように、試行錯誤を重ねてではあるが、二十年懸命に努力すれば、少しは格好のつくものになれたのではないかと思う。

 1970年に私たちの神学校の根本的な改革が実施された。大学紛争の嵐が吹き始めた頃であるから、大学の権威や学問の権威が根底から問い直されていた。(ここでたいへん大事な問題提起がなされた。けれども、問題を出した運動体自身が解体し、問題を突き付けられた人もそれをまともに受け止めなかったので、今ではあの事件はなかったかのように、あるいは一夜の悪夢か何かであったように考えられ勝ちである)。その時代的状況の中 で、神学校は何のためにあるか、何を教えるのか、教えることの学問性はどうなのかについて、厳しい自己確認を迫られた。その時から神学校で教えるようになったのである。私に負わせられたのは教理史と信条学であった。この二つの課目は神学教育の根幹であると言えないけれども、上に述べた神学校の自己確認に最も深く関連するものの一つであると私は受け止めた。

 それはまた教会の靖国闘争の初期であった。靖国法案の成立を阻止する行動のために動員されるとき、神学校で教える準備があるからといって、靖国の戦いを免れることは出来ないと感じた。一つには私個人のごまかせない気持があった。すなわち、私自身もう少しのところで靖国神社の祭神名簿に加えられるような体験を経て生還した者であるため、戦争の無意味さを国家神道によって美化する欺瞞の復活と戦わずにおられなかった。しかもその上、現実逃避の口実にするような学問の在り方が問われていた。むしろこの戦いに積極的に関わる姿勢こそ神学教育に携わる者の最も重要な教育的実存であり、神学の新しい展望を切り開くものであると考えずにはおられなかった。ただし、それは実践しておれば学問の欠陥は大目に見られるということではなく、行動と同時に深く学んで充実した講義

をしなければならないという意味である。──こういうことは言うには簡単であるが、実

行は苦しかった。主の憐れみと人々の助けがなかったならば、私の肉体も生活もボロボロになってしまったであろう。

 初めのうちは初代教会から宗教改革までの「教理史(1)」と、宗教改革から現代までの 「教理史(2)」と、通年の二齣の教理史を一人で担当していた。その後、交替の日がやがて来ることを見越して、「(1)」のほうは他の先生に受け持っていただき、私は宗教改革以後の教理史を講じた。私自身、宗教改革とくにカルヴァンを専門に探究して来た者であるから、カルヴァンについては一応の理解があるとしても、それ以降の神学については知識は貧困であったのみならず、関心そのものが稀薄であった。プロテスタント史についてはレオナールの著書を訳したこともあって、知識は一通りあったが、平板的な知識で、プロテスタントの教理史を系統的に学ぶことはなかった。教理史の講義を担当したお蔭で、知識の空白部分を埋めて行ったのである。それによって最も多く学びの益を受けたのは私であることを感謝している。

 教理史の記述を宗教改革でとどめ、ないしは次の時代の所謂プロテスタント・スコラ主義で終わらせるのが通例になっている。しかし、教理史は教理条項成立史ではなく、教会が教理を教えて今に至った歴史でなければならないから、現代までを書くべきであろう。そのような教科書も講義の種本となる概説書もないから、自分で資料を読みあさり、自分で構成を考えなければならなかった。これは能力の十分でない私にとってはなかなかの苦役であった。それでも、遅々たる歩みながら、内容は次第に蓄積され、だんだんましなものになって来たと言えるのではないか。したがって、未熟な段階での私の講義を聞いて下さった方々に対しては、申し訳ないという気持が一杯である。

 

 ゆとりが出来ると、毎回学生に筋書きを渡して講義するようにした。かつての大学の講義は、教授が専ら語り、学生はひたすらノートを取るという形で遂行されたものである。それが間違った方法だったとは必ずしも思わないが、講義の目的をよりよく達成するためには、やり方を変えて行かなければならないこともあろう。講義を聞いている間は理解して大きくうなずいたりしているが、それをノートに書き留めることが出来ない人の増えて来た事情も、方法を変えねばならなくなった理由の一つである。また、講義は説教と同じく、その場で聞いて把握すべきものであって、後日のためにノートを取る場ではないはずである。教師は学生がノートから解放されて、その場で聞いて理解するようにすべきだと考えるようになった。だから学生が取るべきノートを私が作って渡したのである。

 ところが、筋書きによって講義していると、どうしても時間をはみ出す。この失敗を何年か重ねた後、さらに考えを変えて、ワープロで講義の全文を作り、それをそのまま受講者に渡して、私が読み上げる形に落ち着いた。ちょうど学会で出席者にペーパーを配った上で発表者が読み上げるのと同じである。準備の労は大きいが、講義の精神的充実をはかるためには、このような形でパーフォーマンスをすることにならざるを得なかった。こうして少しずつ添削を加えながら、1993年2 月 4日に私は第22講の講義を終え、同月25日に公開された最終講義「神学教育の教理史」を語って神学校から退いた。

 二十何年やったからといって、私はこの領域を自分の学問研究の専門分野であるとは考えていない。私はやはりカルヴァン研究をする牧師として生涯を貫きたい。幅広い分野を扱うのが困難だというだけでなく、カルヴァンはそこだけを集中的に掘るに価する優れて豊かな水脈だからである。外の所を掘るよりも今日に役立つ豊かなものを汲み取ることが出来ると思う。ただ、宗教改革の伝統を今に生かす課題を持つ者としては、あの時代と今日を繋ぐ歴史を捉えていなければならないと考えられる。そのためには、この程度の知識は必要であろう。私は学者としてでなく、神学教育の使命を与えられた伝道者としてこれを書いた。したがって、ここには福音の宣教に携わる者にとって有用な知識だけが書かれていると自分では思っている。一般に知られている近世・近代神学史とは、着眼点も取り扱われる人物も別である。それらの神学史ないしキリスト教思想史の真似をする必要を私は感じなかった。本書で取り上げなかった人物は扱わないだけの理由があったものと理解して頂きたい。

 教理史は歴史であるから資料を離れて議論してはならない。資料を読むことが学びの中核部でなければならない。神学教育においてはこの資料を提供し、どこにそれがあるかを教える必要がある。そう考えて資料をそのまま挿入したところもある。本当は資料集を別に編纂して、副読本として持たせるべきところであるが、それが能力不足のために出来なかった。資料集は次の世代の人に期待したい。

 この書物の出版は早くから願っていたのであるが、公刊によって学問的貢献をしようとは思っていない。学問的検討に耐えられる著述であることを願ってはいるが、志すところは教会に仕える仕え人に務めのために必要かつ有用な知識を提供することである。また、主の憐れみのもとに、長年に亙って講義をすることが出来た恵みの証しを立てたい。さらに私の達した所を乗り越えて前進する後続の人々を呼び起こすためにもこの小著が用いられれば幸いである。

 教会に仕える神学を整えて行くためには、説教に携わる者たちが一定量と一定水準の知識を共有した上で、(すなわち、先端的な知識を持つ先生のお説を一方的に拝聴するのでなく)、自分の言葉で論じ合わなければならない。その条件が我々日本の教会の仕え人の間では余りにも不備であるが、基盤的条件を整備して行くための一つの作業として、その時々の流行の話題でなく、もっと平凡な、しかし何時の時代にも必要とされる神学的知識を、文書にしなければならない。こういうことは早くから考えていた。それゆえこの本はもっと早く出版しなければならなかった。遅過ぎたかも知れない。遅延しているうちに日本の教会の状況は、取り返しのつかないところまで落ち込んだかも知れない。もっと早く出さなかったのは貧しい書物であることを自分で知っていたからであるが、貧しくてももっと早く出版すべきであった。恥じをかくことを恐れて手元に長く留め置いたのは私の誤りであるから詫びたい。

 毎回参考書を挙げたが、これを読まなければならないという意味では必ずしもない。講義の時には文献の説明をしたこともあるが、書物では省略してある。文献はかなりセレクトし、もう少し詳しく調べようとする人が先ず読むべき程度のものを主に挙げた。

1993年12月  渡辺信夫


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