1992・11・05

第18講 啓蒙思想によるキリスト教教理の変質

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 * K.Barth : Die protestantische Theologie im 19. Jahlhundert.

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(1) 概観

 1.啓蒙の語義

 啓蒙(Aufklaerung)という言葉が用いられ始めたのは18世紀である。ドイツでプロイセンのフリートリッヒU世とそれを取り巻く人々により唱道された。フランスではジャン・ジャック・ルソーなどを経て、フランス革命として具体化する思想であるが「啓蒙」に当たる語彙は持たない。ドイツ語動詞「アウフクラーレン」は、知識を伝え、それにより認識を深めさせるという意味で、17世紀の初め頃から用いられていた。言葉のもとの意味は、照らす、明らかにする、というものである。英語ではEnlightenment を用いる。その点、日本語の啓蒙も似ていて、蒙は暗いこと、すなわち愚か、啓は教える、開くで、朱子が出典のようである。一般にヨーロッパ語では「照らす」という言葉が知的な働きかけの意味を帯びる場合が多い。

 啓蒙の運動が「蒙」として扱うのは、伝統、因習、権威への従順、要するに理性によって理解することなしに受け入れている蒙昧さである。それを照らすのは理性の光である。啓蒙は後の時代には一般用語として語られるようになっているが、用いられ始めた時は一つの運動のキャッチワードであった。

 フランス語にはアウフクレールング、エンライトメントに相当する言葉はない。この内容を表わすために用いられるのは「リュミエール」(光り)という語彙である。啓蒙時代のことをリュミエールの時代、あるいは哲学的世紀、あるいは理性の時代という。また啓蒙思想のことを単にフィロゾフィーと言う。イタリー語では「イ・ルミ」乃至「イルミニスモ」、スペイン語では「イルストラシオン」を用いる。いずれも「光り」「照らす」という意味のことばを使う。

 暗いものを照らすという言い方は従来のキリスト教でも用いられたが、照らすのは聖霊であった。啓蒙主義では理性が照らすと主張される。啓蒙思想は理性で照らして歴史を進歩させることを目指す。啓蒙思想の生んだ最も大きい事件はフランス革命である。

 2.啓蒙思想とキリスト教

 啓蒙思想は、政治、経済、歴史学、文学、哲学、法学、自然科学など、人間活動のあらゆる分野において発現するのであるが、いずれの領域においても宗教との関わりを大きく持つ。フランスにおいては啓蒙思想はフランス革命を生んだが、革命と結び付いてカトリシズムの否定という形を取り、唯物論への傾向が出て来る。ドイツではプロテスタント神学の中に「啓蒙の神学」を作りあげるが、その思想的源流になったのは英国の理神論である。これは宗教改革や正統主義のキリスト教とは異質のものである。

 啓蒙の立場が必然的に反キリスト教的であるとは言えない。しかし、シュライアーマッヒャーがその宗教論を「宗教を軽蔑する教養人」に向けているように、実際の啓蒙思想は反キリスト教であったし、キリスト教の扱いがこれまでとは全く違う。理性に対する信仰があって(理性を信じていることについての自己検討はない)、理性で了解される限りにおいてキリスト教を受け入れるのである。超自然的啓示は拒否され、神学は哲学になる。ただし啓蒙思想で言う哲学である。キリスト教の新解釈ではあるが、解釈されたキリスト教は本来のものから変質してしまっている。

 啓蒙思想のキリスト教研究は上記のような哲学とともに、聖書の批判的研究を開始す る。啓蒙の哲学は要するに合理主義であって、底が浅く、哲学史上大きい地位を占めることは出来なかったが、批判的聖書研究はいよいよその発言権を大きくしている。

 この傾向は多かれ少なかれキリスト教世界の全域にあったが、18世紀のドイツにおける運動が有名である。クリスチャン・ヴォルフ(1678-1754)、ヘルマン・ザムエル・ライマルス(1694-1768)、その残した「ヴォルフェンビュッテルの断片」を編集したゴットホルト・エフライム・レッシング(1729-1781)については後に述べる。

 3.キリスト教の対応

 キリスト教は啓蒙思想を敵視し論争が行なわれた。しかし、キリスト教の全体が理性に重きを置く趨勢になっており、キリスト教が変質して行く。これ以後のキリスト教はもはやそれ以前のキリスト教と同じではない。

 啓蒙主義の克服はさまざまな分野で行なわれる。文学の領域においてはロマンティシズムが最も顕著な克服を示したと見られる。キリスト教的な対応としては敬虔主義がこれを果たそうとし、神学的にそれを代表するのはシュライアーマッヒァーであった。しかし、狭義の啓蒙主義は批判されても、近代的理性の優位の座は揺るがず、啓蒙を批判する立場も啓蒙主義的であった。

 4.ユダヤ教への浸透

 モーゼス・メンデルスゾーン(1729-1786)はユダヤ教哲学者。啓蒙思想影響下にあっ て、レッシングと親しい交わりを持つ。ドイツ社会におけるユダヤ人の文化的地位を高めようとする。本人はユダヤ教の信仰を守るが、子供にはキリスト教を勧める。(音楽家フェリックス・メンデルスゾーンはその孫になる)。ユダヤ人のキリスト教への改宗が盛んになる。

 

(2) 啓蒙主義の歴史的生成

 1.16世紀の人文主義

 人文主義は人間に興味を持ったが、人間中心主義ではない。文学を手掛かりに人間性の本質を明らかにしようとする探究が、人間の自己矛盾、限界を明らかにすることに気付いた人もいる。しかし、人間性の価値を認める思想が次第に強くなり、それだけ神の意味を低め、神から自立したものとしての人間を自覚し、神を相対化し、理性によって納得出来る限りにおける神を受け入れるという思想になって行く。16世紀にある反三一論、ソッツィーニの思想もこの系列である。アルミニウス派にもこの傾向がある。

 自由思想を唱え始めたのは、イギリスではアンソニー・コリンズ(1675-1729)、フランスではフランソワ・マリー・ヴォルテール(1694-1778)である。

 2.17世紀の哲学

 デカルトの哲学が近世哲学の始まりである。彼は確かさを求めて全てのことを疑って見る。しかし、疑うことの出来ないものとして疑っている自分がある、と気付く。そこで有名な「コギト・エルゴ・スム」の命題を立てて、そこに出発点を置く。私が認識の主体になるのが近世の考えである。

 中世においてはアンセルムスが「愚かなる者は心のうちに神なしと言えり」との聖句を引いて神の存在は確かであるが、愚かな者にはそれが分からないと論じ、それに対してガウニロという修道士が反論を加え、論争になった。ガウニロは、幸福の島という概念を用いる。幸福の島を私は考えることが出来る。完璧に考えることが出来る。としても、幸福の島が実際に存在することにはならない、とガウニロが言う。アンセルムスは考えることが出来ても実際には存在しないのは、考えることの出来る最大のものではない。これ以上大いなるものが考えられないものは存在すると論じ、神についてのみそのことが言えると見た。

 デカルトの考えは、考える私について肯定的に評価する。しかし、かつてアウグスティヌスが考えた時、私が罪を犯す、このことは否定出来ない、というふうに私のなすことをマイナスに評価する。このマイナス面を考えようとしなかった問題がデカルトにある。

 デカルトは合理主義的な考えから明晰・判明なるものを求め、さらに推し進めて、分析的、機械論的考察を打ち立てる。現代においては自然科学や数学においてもデカルト的なものを排撃するようになっているが、機械論的考察のキリスト教への適用についてはまだ反省が起きて来ていない。デカルト的な考えから神学が受けた影響は、一つは権威という考えの否定、もう一つは機械論に基く聖書批判である。実践的なことについては、事柄を永遠な、聖なる権威の基礎によって意味付けることがなくなり、世俗的思考になる。

 デカルト哲学からさらに発展したのはライプニッツである。これがヴォルフに受け継がれ、啓蒙運動の中でやや大衆化した形で広がって行く。

 近世の哲学は、存在論に中心を置いた中世哲学と違って、認識論に中心を置くが、認識の問題を主観−客観の図式で捉え、しかも主観に重点を置く。哲学の傾向として経験と感覚の重視がある。

 3.17世紀の自然法思想

 フーゴ・グロティウス、コールンヘールト、ジャン・ボーダン、プーフェンドルフを経て、クリスチャン・トマジウス(1655-1728)の法学は自然の法の観念を強化する。神の法と自然の法とは一致すると昔から考えられていたが、自然科学が自然法則を解明するようになったのと並行して、自然のうちに法が内在するとの考えが強くなり、理性をもって理解出来る自然の法に重きが置かれるようになって来る。トマジウスの考えはドイツの啓蒙主義に大きい影響を与える。社会を理性的に考えることによって社会改革が企てられるようになる。

 4.アルミニウス主義、ソッツィーニ主義

 ソッツィーニの反三一論は明確に異端であり、アルミニウスは異端とまでは言えない。しかし、アルミニウス主義が英国に渡って自由思想の温床となった点はソッツィーニにまさる大きい感化である。

 ソッツィーニの反三一論はユニテリアニズムを生む。これは神信仰を単なる神存在の承認に限りなく近付ける。反三一論は神性内部におけるペルソナ関係を否定するが、そこからさらに神と人のペルソナ関係を忘却する結果を生む。

 5.17世紀の自然科学

 地動説は象徴的である。古代的宇宙像を聖書の言葉で権威付けていたのが否定される。自然科学が発見する自然法則は聖書の権威と無関係であることを示し、自然そのものの自律的存在の意味を大きくする。神から離れて自立しているというのである。自然の光という言葉は以前から用いられていたが、啓示の光、恩寵の光と対比され、それらより価値の低いものとされていた。

 アイザック・ニュートン(1642-1717)の思想には宗教的要素がある。ただし、正統派的宗教思想ではない。

 6.神と自然

 神と自然の一致を考える考えはキリスト教の中にも昔からあった。それは被造物を神とすることではないが、創造された自然と創造する自然、生まれた自然と生む自然を区別していた。その区別がなくなり、被造物としての自然の中に神を見、さらには被造物と神とのつながりを考えるようになる。

 一般に宗教は超自然を重んじるが、近世思想では超自然を認める場合でも、積極的には扱われない。したがって、啓蒙思想に対しロマンティシズムが優位を占めることは出来たが、そこでは超越的な事柄は無視され、人間における内在的なもののみが扱われた。

 7.宗教的寛容

 合理的に考える人たちはこれまでの宗教の不寛容や非正統的なものの抑圧を批判する。そこで寛容を重視するのであるが、寛容重視には一つの前提があった。それは権力が宗教を指導するというエラストゥスの考えである。換言すれば、国家と教会、政治と宗教の分離を厳密には考えていない。

 教会と国家の分離は、分担領域の違いという点から既に論じられていたが、啓蒙思想においては分離の考えがないままに、宗教を内面の問題とし単なる私的なものとする。

 寛容(トレランス)という言葉が用いられるようになるが、言葉の意味が従来とは違って来ている。すなわち、この言葉は本来苦痛を忍ぶことを意味し、迫害される側で使うものであった。それが権力を持つ側のものとして語られるようになる。権力を持つ者にとっては、異質的な信仰は問題にしなければ苦にならない。つまり、これは緩くしておくこと(ラティテュード)、無関心(インディファレンス)にほかならない。

(3) 理神論

 1.理神論の起源

 理神論(Deism)という言葉はイギリスで用いられ始め(チャールズ・ブラウントが1680年に出版された書物 The two first books of Philostratus でこの言葉を広めたと言われる)、一時問題となったが、永続的な感化は残さなかった。この思想はドイツの啓蒙思想家によって受け継がれる。

 「デイズム」、「デイスト」という言葉はラテン語の「デウス」から来た。無神論を意味するギリシャ語からの造語「アセイズム」、「アセイスト」に対比される「セイズム」(有神論)や「セイスト」、すなわち単に神の存在を認めることをラテン語化した造語である。最も古くはロザンヌの改革者ピエール・ヴィレが1564年に出版された書物の中で用い、ストア派とエピクロス派のデイズムの違いを指摘したと言われる。セイズムとデイズムは初め区別なく用いられたが、カントはデイズムは超越だけを認め、セイズムは自然神学をも認めると区別した。ディドロはデイズムは啓示を否定し、セイズムはそれを容認すると区別する。

 理神論では創造者なる神を時計を作る時計師になぞらえて理解する。すなわち、その人がいないと時計は出来ないが、一旦出来上がると、作った者の手を離れる。摂理が否定され、被造物の自立性が考えられる。神はあることはあるが、遠くにある。神は現実に対しては関わって来ない。したがって啓示もない。

 理神論は普遍的神観念を神として立てたものである。その発想様式はキリスト教的であるから、他宗教の人はこれに必ずしも同調しないと思われるが、そこで考えられている宗教は普遍宗教である。このような考えは古くからあったと言うことは出来る。パウロのアテネにおける説教にこれと似たものが感じ取られる。カルヴァンのキリスト教綱要の初めの部分にもある自然的神認識、生来の宗教性の議論は理神論の先駆かも知れない。そういうわけで、理神論は一時代の流行思想として終わったかのようであるが、過去の問題ではない。特に、近年、諸宗教の対話や共通項の探究が語られるようになっているので、我々は深く考えておかなければならない。

 2.ハーバート・オヴ・チャーベリー卿(1581-1648)

 イギリスの貴族でミルトンよりも古い時代に属する。1625年「デ・ヴェリタテ」を著わす。全ての人に共通であり、啓示に依存しないナチュラル・レリジオンがある。その自然宗教に五つの要点がある。@最高存在としての唯一の神が現実に存在する。A人間は最高神を礼拝し、これに仕える義務を有する。B礼拝は就中憐れみと徳と敬虔において果たされる。C徳からの逸脱すなわち罪は懺悔して、改めなければならない。改めれば赦され る。D神は人間の業を一部分この世で、一部分来たるべき世で報いたもうことを期待しなければならない。

 彼はまた聖書の批判的研究の先駆者である。

 3.ジョン・ロック(1632-1704)

 哲学者であって神学的活動はしないが、宗教に関する随筆を書く。また「キリスト教の合理性」という本も書く。理神論を批判したが、理性の立場を強化して行く流れを推進した。

 彼は先験的(a priori) なものを退けて、認識は経験によるとした。

 4.ジョン・トーランド(1670-1722)

 ロックの影響を受け「神秘でないキリスト教」(Christianity not mysterious 1696)を著わす。キリスト教の本質的な点は受け入れるが理性に最も重きを置く。理性に反するもののみでなく、理性を越えたものも認めない。

5.マシュウ・チンダル(c.1656-1733)

 英国教会の教職の子。ローマ・カトリック教会に移ったが教皇制度の迷信に反発して英国教会に戻る。1730年「創造と同じだけ古いキリスト教、あるいは自然の宗教の再公示としての福音」(Christianity as old as the creation or the Gospel a republication of the religion of nature )という書を公にする。これは理神論の聖書と言われもし た。

 「全ての宗教を通じて本質的実体をなす根拠は同一である。良識をもってすれば様々な付加の行なわれたもとの自然法則が認められる。すなわち不変の法則によって世界を組織している神が存する。神は敬わねばならない。しかし、宗教は道徳に帰するものであり、その道徳は自然の光によって我々に十分明らかに啓示されている。神の好む礼拝とは徳行である。徳行ある人生は報いを受けるであろう」。

 6.ジョン・アンソニー・コリンズ(1675-1725)

 彼にいたって理神論は自由思想の主張となる。

 7.理神論の教会への浸透

 第一に寛容(ラティテュード)精神が優勢となる。換言すれば、教義や教理を言わなくなることである。厳密な教理規定に反発する。ブロードであることが重んじられる。教義学はなくなって宗教哲学になる。教会はブロード・チャーチという性格を持つ。それではそういうキリスト教のメッセージは何か。道徳と永遠性になってしまう。

 キリスト教に関する学問としては、合理的解釈と批判的研究、特に聖書の批判的研究が盛んになる。

 8.理神論に対するキリスト教の反撃

 理神論は啓示や伝統の概念、聖書の権威や、伝統的教理に反対する。それに対する反駁は大量にあった。チンダルの書に対してジョン・コニベアは「啓示宗教の擁護」1732を著わす。これが論理の明快さのゆえに同類の多くの反駁書の中で際立って優れたものと言われている。

 理神論に対し実践的に対決し、克服したのはウェズリーのメソジズムであった。理神論が結局力を持てなかったのは、一部の知的階層に興味を持たれたが、人間の宗教心を満足させ得なかったからであろう。この理論は敬虔主義に敗北する。

(4) ドイツの啓蒙主義神学

 1.イギリス理神論の影響

 J.ローレンツ・シュミットによってドイツに理神論が紹介された時(1735)、非常な憤激と迫害が起こり、紹介者は匿名で生きなければならなくなる。イギリスよりもドイツの方が迫害は大きかった。

 2.クリスチャン・ヴォルフ

 神学、哲学、数学を学んで、ライプニッツの推薦でハレの数学教授となり、やがて哲学を教えるようになる。

 神学者ではないが、神存在の証明の問題、啓示の問題等を扱う。彼の主張は、1)啓示は理性を越えるものではあるが、理性に矛盾するわけではない。2)理性は啓示を判定する試金石を確立する。彼は理性を徹底的に強調することはなかった。

 これに対して合理主義者が批判を加える。

 3.ヘルマン・ザムエル・ライマルス

 名前だけよく知られ、その説については殆ど知られていないが、入手し易い本がある。抜粋である。

 * Reimarus:Fragments.(English translation)ed.C.H.Talbert,1970 Fortress.    ヴォルフの影響を受けた哲学者、東洋語学者、古典語学者。ハンブルクのギムナジウムの教授。伝統的な信仰に疑問を持つ。哲学的な書物は生前刊行されたが、聖書研究は死後レッシングによって「ヴォルフェンビュッテル断片」の名で出版され(1774/78 )、その段階では著者の名は知られなかった。

 聖書の批判的研究を始める。福音書相互の矛盾を指摘し、イエスの復活を否定した。イエス伝研究では批判的な検討を加えた最初の人である。アルバート・シュヴァイツァーの「イエス伝研究史」はライマルスよりヴレーデまでと副題がついている。

 ヴォルフェンビュッテル断片は七部に分かれていて、@理神論者への寛容、A説教壇における理性の誹謗、B全ての人が信じることの出来る啓示は不可能であること、Cイスラエルの紅海通過について、D旧約聖書の諸書は一つの宗教を啓示するために書かれたのではない、E復活の歴史、Fイエスとその弟子の目的、の七つであった。

 ライマルスはその宗教観を「理性的神崇拝者の弁明」という書に書き残すが、これは今日でも原稿があるだけで出版されていない。内容はヴォルフェンビュッテル断片と同じようなものである。

 4.ゴットホルト・エフライム・レッシング

 ルター派正統主義の環境で育ち、ヘルンフート派にも触れた。ライプツィッヒ、ベルリンで学び啓蒙主義者になる。ライマルスの残した断片を出版。当時、啓蒙主義は非難されていた。

 著作は文学、哲学、神学に亙っており、厖大であるが、そのうち有名なものに「人類の教育」、最もポピュラーな作品に戯曲「賢者ナータン」がある。

 5.論争

 当時、啓蒙主義は却けられていた。しかし、論駁する思想も弱かったから、啓蒙思想の克服は当時としては出来ない。

 啓蒙主義に反論を加えた論客の代表は、ハンブルクのルター派牧師、ヨーハン・メルヒオル・ゲーツェ(1717-1786 )である。

 レッシングの断片に反論を加えたのはC.A.E.シュミットである。

 6.その後への影響

 D.F.シュトラウス(1808-1874 )はライマルスの書物を出版し、普及し、また徹底させる。A.シュヴァイツァーもその線である。歴史的イエスを否定し、ないし不可知であるとする見解が優勢になる。これに対し、史実としてのイエス像の外に、信仰のキリストがあると主張されるようになる。その分離は克服されないままである。 

                                        X.フランスにおける啓蒙思想

 フランスの啓蒙思想は宗教の面ではおもにカトリックと対決し、関心が教会の制度、権力に向かうから、信仰内容に立ち入ることは少なく、プロテスタントには直接の影響が少なかった。しかし、合理主義に徹しているから、間接的には大きい影響を受ける。

 

(6) シュライアーマッヒァー(1768-1834) の神学

 1.生涯と業績                                 改革派の牧師の子としてブレスラウに生まれる。祖父もヴェストファーレンの改革派の牧師であるが、改革派の中の千年王国的分派の指導者であった。ヘルンフート兄弟団の小学校に学ぶ。ハレで学び、ハレとベルリンで幅広い活躍をする。大学の講義と教会の説教を果たし、著作活動も盛ん。プラトン全集の翻訳、手紙、神学の広い分野に亙る著作。

 2.功績

 i) 合理主義への反論(宗教論.17991,18213)

 宗教を絶対依存の感情と定義する。それは合理主義によっては説明し切れない。

 ii) 敬虔主義の克服、主観・客観の統一(キリスト教信仰.1821/221,1830/312)

 キリスト教的意識を客観的なものとして叙述しようとした。

iii) 神学体系の総括(Kurze Darstellung des theologischen Studiums.1811 )

 3.その弊害

 主観主義、ロマン主義であることへのバルトによる批判はほぼ定着し、無視されていたが、近年見直しが始まっている。一定の功績は認めなければならないが、それ程大きい影響を残したとは言えない。

(7) 啓蒙主義の神学的影響と今日の問題

 啓蒙思想による揺さぶりを直接受けている神学部門は聖書学、特に新約学である。聖書学の混迷を救済する原理は教義学から提供されなければならないが、今日の聖書学は教義学から助けを受ける構造になっていないため、模索が続く。自然科学においては量子論による再編成が進んでいるが、神学、特に新約聖書研究は古い自然科学的思考を改めるに至っていない。(トーランス)

 1.信仰と理性

 理性を用いることは神学が以前から意味付けていた。それは信仰が優位を占め、信仰の決定に従って理性が働くという図式であった。

 啓蒙主義・合理主義は理性の自立を主張する。理性の自立する根拠については十分な論証がなく、これが無批判に肯定される。理性批判を行なったのはイマヌエル・カントであった。この立場は啓蒙主義に批判的であるが、理性が自己の批判をなし得ると示すことによって、理性の価値はいよいよ高められた。

 啓示や奇跡や摂理は理性の自立とは両立しないとされた。なぜ自立しないかについての議論はなされなかった。

 2.認識論における主観−客観の図式

 古くは認識は認識対象の模写として説明された。カントまではこの見解が強かったが、カント以後、認識が主観の作用であるとして捉えられるようになる。カント以前の人も信仰について疑いを抱く時は、主観に重点を置いていたのである。カントの理論は時代精神の反映である。

 主観−客観の図式の克服が以後の神学者の課題になる。しかし、まだ克服されてはいない。図式そのものを根底から問題にしなければならないのである。デカルト的コギトを克服しなければならない。

 3.歴史認識

 啓蒙思想において聖書歴史が批判され、その史実性が疑われるようになった。では何が歴史なのか、という問題がある。これまた今日に引き継がれている問題である。歴史認識の客観性が啓蒙思想では前提になっていたが、それが問い直されるようになった。

 4.理性の限界

 理神論と啓蒙思想の時代までは理性が至上のものと思われていた。しかし、哲学者は次の時代にはカントのように理性が理性を批判することによって理性を越えた理性の立場を開き、あるいは理性以上のものを求めて、それによって哲学を再組織しようとする。例えば、ヘーゲルはガイストの哲学を考える。キエルケゴールは実存を中心に哲学を構築しようとする。ベルクソンは生の哲学を考える。そのように哲学の中心的関心事は時代とともに移って行くがキリスト教批判を改めたわけではない。

 単純な合理性に非常に重きを置いた啓蒙哲学は、哲学としては余りに素朴であり過ぎるため早い時期に見捨てられたが、それでキリスト教への批判が終ったというのではなく、むしろキリスト教への問い掛けはますます厳しいものになって行く。

 5.人間肯定の問題性

 理性の立場からの人間肯定に対して19世紀後半以後異議申し立てが行なわれた。ニヒリズムや実存主義である。ただ、これらは啓蒙思想的なものを十分克服する思想内容を持たないため、問題は依然として残っている。


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