1992・09・24

第13講 カルヴァンの後継者たち

 * R.A.Muller : Post-Reformation Reformed Dogmatics.Vol.1.Prolegomena to

     Theology.1987.

 * H.Heppe : Die Dogmatik der evangelisch-reformierten Kirche.(Historische

    Einleutung v.E.Bizer) 1958.

 * R.T.Kendall : Calvin and English Calvinism to 1649.1979.

 * O.Fatio : Methode et Theologie. Lambert Daneau et les debuts de la

    scolastique reformee.1976

 * J.R.Beeke:Assurerance of Faith.Calvin,English Puritanism, and the Dutch

    Second Reformation.1991,New York,

(1)総論

 1.カルヴァンに共鳴する後輩

 カルヴァンの明快な論理性と真摯さ、また深い敬虔は多くの若い神学者や人文主義研究者のプロテスタントを引きつけた。フランスのプロテスタントにとってカルヴァンのいるジュネーヴは迫害における逃れ場であったが、フランス以外の地からもカルヴァンを慕って来る人は多く、離れた地にからもカルヴァンの指示を仰ごうとする改革者は多かった。それはカルヴァンより若い人たちだけでなく、年長者もいた。彼らはカルヴァンから神学と教会形成の精神を学び取る。迫害の地域においては教会の適切な組織化が必要であったからである。

 それらの人々に対するカルヴァンの影響は個人的文通と書物の出版を通じてなされた。宗教改革の影響を広く及ぼして行く力を最も大きく持つのはジュネーヴであった。

 2.カルヴァンの学生たち

 1559年にジュネーヴ・アカデミーが正式に開設され、カルヴァンは直接講義によって学生を導いた(それ以前から組織化されない神学教育は行なわれた)。学生の出身階層は多岐に亙るが、比較的上層の者が多く、そのうちのかなり多くは殉教者となる。彼らによって各地にジュネーヴをモデルとする秩序ある教会が建てられる。

 3.教理がどう発展して行くか

 ルター派において正統主義の教理固定化が早い時期に起こったのと比べ、改革派においては正統主義的固定化は緩慢である。この相違の原因を考えれば次のようなことが挙げられるであろう。

 i.カルヴァン没後も優れた指導者が比較的多いから、硬直化した教理条項によって正統信仰を守る必要がない。

 ii. 初期から指導性が一人に集中することがなかった。

 iii.人文主義の素養をもつ人たちであるから思考が柔軟であり、聖書本文の釈義が重要な位置を占めた。

iv. 教会における教理の位置は確定しているが、聖書の位置よりは低く、相対化されていた。したがって、金科玉条としての教理条項を保持することをしない。

 v.ルター派と比べて教会の自立度が高く、教会規則が教会の主体性において制定されるため、神学者は教理にだけ関わることをしなかった。(ルター派では領邦教会の教会規則は領邦君主の顧問法律家によって作られるが、改革派では神学者・牧師によって作られる)。

 しかし、他派との論争の必要その他の理由から、改革派神学においても初期の人文主義的思考による釈義的方法よりも概念の構成に主眼点を置くようになり、初期のプラトン 的・弁証法的論法の優勢にかえて次第にアリストテレス流の論理が強化されて行く。すなわち三段論法が重んじられるようになる。ランベール・ダノー(ダナエウス)、ピエール・ド・ラメー(ラムス、1515-72)等の哲学的方法を導入する人々が出て来る。

 4.カルヴァンとカルヴィニズム

 カルヴィニズムという呼び名はカルヴァン存命中もあったが、その後の時代に、一つの主張を表わすものとして盛んに用いられるようになる。特に17世紀にイギリスでそうであった。そこでは殆ど二重予定説と同義語で、カルヴァンの他の教理箇条については必ずしも忠実ではない。これはカルヴァンの思想を正確に受け継いだものとは言えない。

 研究者がカルヴァンとカルヴィニズムの相違に注意するようになったのは比較的新しいことである。20世紀の初めまではこの二つを同一のものとして扱うのが普通であった。(例えば、Hunter :Teaching of Calvin)カルヴァンそのものについての研究が緻密になって、この相違は広く認められるようになり、殆ど対立的なものとして捉えられることすらある。(例えば H.Rolston,III : John Calvin versus the Westminster Confession. 1972)今日ではその行き過ぎを是正し、継続性を肯定的に見るようになりつつある。

 5.各国での展開

 改革派教会は国際的連帯を保ちつつ国別に教会形成をする。神学の傾向も国によって違うから別々に見ることが出来るが、国際交流は盛んであった。

(2)ド・ベーズとその指導するジュネーヴ教会およびフランス改革派教会

 * P.-F.Geisendorf : Theodore de Beze.1967.

* J.S.Bray : Theodore Beza's Doctrine of Predestination.1975.

 * T.Maruyama : The Ecclesiology of Theodore Beza.1978.

 * F.Gardy : Bibliographie des oeuvres theologiques,litteraires, historiques

et juridiques de Theodore de Beze.1960.

 1.予定の図式化

 ド・ベーズがカルヴァンの神学を変質させてカルヴィニズムを作り出したと言われるのは厳密に言って正確な理解ではないようであるが、彼の意見が後期カルヴィニズムを作り出す機縁になったことは否めない。

 それは1555年の"Tabula Praedestinationis"(予定の表)において予定を図式化し、分かりやすくした時、予定論の教理体系条の位置を決定的なものとしたことである。この図式(see Fr. Gardy:Bibliographie.p.49) がウィリアム・パーキンズ(1558-1602)の「黄金の鎖」(1590) の一覧表に連なることは誰の目にも明らかである(ヘロン編・松谷訳 「ウェストミンスター信仰告白と今日の教会」p.80の次の図を見よ。)

 2.ド・ベーズ自身の信仰告白

 ジュネーヴに招かれる前、ロザンヌにいた時、個人的な信仰告白を書いている(1559)。これは7部からなり、i)神の唯一性と三一性。 ii)父なる神。 iii) 子なる神イエス・キリスト。iv) 聖霊。v)教会。 vi)最後の審判。 vii) 公同の教会の教理と比較した教皇主義の教理。これには特に新しい事項は盛られていないが、信仰の要点を纏めたものとして広く読まれ、ドイツ語、英語、イタリー語にも訳された。

 彼は生涯の間に何度も信仰告白の起草と制定に関係し、教理の全体に亙る大著はない が、教理を全体として把握することには努めていた。

 3.フランス信仰告白

 フランス信仰告白はカルヴァンの起草になるものと考えられる。その草稿と制定された確定本文を比較すると聖書論に違いがある。草稿では書き出しがこのようになっている。 「聖パウロの言うように信仰の基礎は神の言葉によるのであるから、我々は生ける神がこの御言葉を、律法において、預言者たちによって、そして最終的には福音において現わし、人々の救いの益のために、御意志の証しとしたもうたと信じる。それゆえ我々は旧・新約の聖書を神から出た唯一の誤ることなき真理の総体であり、それに逆らうべきでないと信ずる。同様に、そこには全ての知恵の完全な規範が含まれているから、それに何を加えても、何を差し引いてもならず、それに全く服さなければならないと信じる」。

 このところが確定した信仰告白においては次のようになった。(第1項は神論であるので、今は省略する)。

 2項、「この神は御自身を人間に対し、第一に御業によって、すなわち創造と保存とこれらのものの導きによって現わしたもうた。第二に、さらに明らかにその御言葉によって現わしたもうた。御言葉は初めは託宣として啓示されたが、後には書き物として、我々が聖書と呼ぶ書のうちに書き留められた」。

 3項、「これらの聖なる書物は旧・新約の正典のうちに含まれる。・・・・」。この後に正典目録が続くのである。

 この改定にカルヴァンは異存なかった。初めオラクルであった言葉が口答伝承された 上、書き留められたことはカルヴァンもモーセの書について言っている。聖書が書かれた物であることは、スクリプトゥラという言葉自体が示している。しかし、書かれたことの意味の強調は必ずしも初期からあったわけではない。最初は神の言葉か、人間の言葉としての伝承か、という形で対決する。そして、初期においては神の言葉が単なる書でなく、説教者を通して語られる生ける声であることが強調される。

 書かれた書という点を強調する必要が次第に強く感じられたのであろう。生ける声だけを強調していては、客観性が危なくなる。教理規準が確定するにつれて、教える者にとって聖書の客観性が自覚される。聖書そのものの完結した権威に関心が移って、説教の位置は初期の宗教改革ほどではなくなる。

 この段階で、聖書の正典と経外典の明確かつ排他的な区別がされ始める。それまで経外典は、区別はされていたが、或る程度参考になるものという評価を得て、宗教改革の聖書にも(ルター聖書、チューリッヒ聖書、ジュネーヴ聖書、等)正典と区別の上で収められていたのである。この区別を厳しくし、やがてこれを排除するようになって行くのは、トリエント会議で経外典を含んだヴルガタが聖書であるとされたからである。しかし、経外典を全く排除して66巻の正典のみを聖書として固定する観念が定着したのは19世紀の覚醒運動以来である。 

 聖書原理が宗教改革において初めから重要視されていたことは言うまでもないが、教理条項としての聖書論はなかった。神の言葉の位置付けだけが重んじられた。正典としての聖書が教理体系の基礎とされる思考が強化されて行く。

 のちにこの「フランス信仰告白」はラ・ロシェルの大会で再確認され、ために「ラ・ロシェル信仰告白」とも呼ばれる。

4.会衆制と長老制

 宗教改革は教皇制に至る要素を含むものとして司教制への反対を打ち出していたが、都市の宗教改革は自治権を持つ都市の教会改革であるから、広い地域の教会改革が実施されることはなかった。また、会衆制と長老制のどちらを取るかは、初めのうち明白でなく、双方の意見が併存した。これが問題になったのは、マタイ18:17 の「教会に申し出よ」の「教会」が会衆を指すのか長老の会議を指すのかで争われた時である。カルヴァン自身は釈義としてこれを長老の会議と見ている。それを会衆を指すと理解するのは会衆派にな る。しかし、カルヴァンにおいても長老制の考えが出来上がっていたのではない。

 フランス改革派教会の有力な牧師ジャン・モレリ(†1594)は1562年「戒規論」を出版して教会政治の回復を提唱し、会衆制を擁護した。モレリは250 年以前の教会は本来の教会秩序を保っており、それは会議もなく、各地の司教が自主性を持っていたとし、キプリアヌスを例に引いた。またキリストによって制定された教会秩序は個々の教会に権威を持たせ、上位機関の権威を認めないものであったと言う。これに対してド・ベーズが反論を加え、同年のフランス改革派教会大会と翌年のジュネーヴ教会は否認する。

 モレリの論の基礎にあるのは教会における聖霊の導きである。これは再洗派の教会理解に通じる。教会秩序の原理としての御言葉と御霊の支配が御霊の支配に置き換えられたのである。ブーツァー、ヴィレに御霊の強調の傾向があり、それはカルヴァンにもあるとはいえ、御霊と御言葉のバランスが保たれていた。

 モレリはイギリスに行き、そこで没する。会衆派はイギリスである程度の勢力を持つが国教会からの分離者のうちの急進派であった。

 5.エラストゥスとの論争

 ツヴィングリの弟子である人文主義者で医者のトマス・エラストゥス(1520/23-1583)は、ハイデルベルクで領主の侍医をしていたが、1568年、カルヴァン主義の教会規律に反論する75箇条を発表した。それは公刊されなかったがコピーは流布し、翌年ド・ベーズはこれに反論を書いてプファルツの領主に送る。エラストゥスはその反駁の書を死ぬ前に書く。ロンドンで出版されたのは1589年である(Erastus : Explicatio Grauissimae    Quaestionis.Pesclavii(London)) 。ド・ベーズは反論を翌年出版する。

 これはチューリッヒとジュネーヴの間の軋轢を引き起こす問題である。チューリッヒの見解はイギリス国教会に受け継がれ、そこでもエラスティアン(代表的なのはリチャード・フーカー、ジョン・ホイットギフト)と長老派(代表的なのはトマス・カートライト)の論争がある。教会と国家の分離の思想の準備となるのは長老派の見解である。オランダ宗教改革の過程においてもエラストゥス主義が問題になった。これは後代まで尾を引く問題である。

 エラストゥスの教会理解は次のようなものである。教会には内的・霊的なものと外的・可視的なものとがある。規律や陪餐停止は後者にのみ関係する。これは神の制定に基くものでなく人間の考え出したものである。「教会に申し出よ」の「教会」は会衆ではなくサンヘドリンのことだと言うが、宗教上の制度としてのそれではなく、市民社会の公権力のことと見る。したがって公権力の介入の道が開かれる。これはまさしくツヴィングリ的である。この理論は国家教会を目指す英国教会に歓迎された。

 ド・ベーズの主張は長老主義の確立を促すとともに、教会制度の神的基礎を保有し、また教会規律への公権力の介入を阻止する力となった。

 6.ジュネーヴ学派のアリストテレス導入

 ランベール・ダノー(1530-95)はパリの王立教授団で人文学を学んだらしいが、オルレアンとブールジュ大学で法学を学び、学位を取り、弁護士になる。1560年に法学の書物 「裁判権論」を公刊するが、法学についてもアリストテレスの論理を導入し、これをプラトンよりも高く評価する。

 すでにプロテスタントに改宗していたが、その法学の学説が異端として追及されたた め、ジュネーヴに逃れ、カルヴァンの弟子となり、法学を捨てて神学を学ぶ。61年から72年までオルレアンの近くのグリアンで牧師として働き、74年からジュネーヴで説教者また神学教授として働く。ワロン人教会でも牧師また神学教授として働いた。ジュネーヴとベルギーの教会に大きい感化を与える。神学でもアリストテレスの論理を用いて教理を体系化する。彼が神学の書物によく用いたのは図式的分類である(ファシオp.112ff.) 。

 ダノーは法学者であることを止めて神学者になったが、神学者として広い見識を持ち、自然学、倫理学、政治学等の書物も書いている。この面でもアリストテレスを見習ったのであろう。

 アリストテレスの論理について少し説明すると、カルヴァンに見られるように、宗教改革とその前の神学者たちの評価おいてはギリシャ哲学の最高峰はプラトンであってアリストテレスではない。この評価にはアウグスティヌスの影響もある。

 プラトンはすべての哲学的著作を対話形式で纏めたが、対話形式によってこそ思想的発展があると理解していた。この考えは遥か後世に至ってヘーゲルによって所謂正・反・合の図式に整理されたものであるが、相対から絶対への飛躍を論じるに便利であっても、論述は文学的・詩的であって、緻密な理論を満足させるものではない。

 アリストテレスは「オルガノン」と総称される論理学的諸書において、概念を明確化し、所謂三段論法を完成した。

 

 7.抵抗権の思想

 * ド・ベーズ・登家勝也訳「抵抗権の源泉」

 抵抗権についてはカルヴァンはキリスト教綱要の最後の章の終わりで論じた。その思想は必ずしも新しいものとは言えない。所謂エポロイ理論、すなわち副王の位置にある者に抵抗の義務があるとするものであった。悪しき権威の下にある人民の抵抗は、反抗ではなく、殉教か亡命である。

 この抵抗権理論を強化しなければならなくなったのはフランスにおけるプロテスタント迫害の激化の事情である。ド・ベーズはカルヴァンの説をさらに発展させ、神の権能の侵害のみでなく、王と人民との間の契約違反を抵抗の根拠として強調する。また公権力が人民のためにあるとの理解が強くなる。ここで、抵抗の勧めが積極化する。

 続いて、フランソワ・オトマン(1524-90)、フィリップ・デュプレッシ=モルネ(1549-1623)、ユベール・ランゲ(1518-81)、上述のランベール・ダノー等のフランス・プロテスタントの論客が王権の制限を論じた。

 

(3)ジョン・ノックスとスコットランド教会

 1.ノックスとジュネーヴ

 ジョン・ノックス(c.1514-72)はジョン・メージャー(1470-1550)の教えを受けたらしいが、ジョージ・ウィッシャートの感化で宗教改革に加わり、46年の彼の殉教後ドイツに亡命、ルターの書物から影響を受ける。セント・アンドルーズに戻って後フランス軍に捕えられ、ガレー船の苦役を経験した。それからイギリスに行って第2祈祷書を用意し、また迫害にあってスイスに亡命、カルヴァンの勧めでフランクフルトのイギリス人教会の牧師になりまたジュネーヴに戻り、ついで帰国する。56年にまたジュネーヴへ亡命、59年に最終的にスコットランドに帰国、翌年スコットランド宗教改革が実現する。

 ノックスはカルヴァンに傾倒したが、カルヴァンとはやや違う独自な、リアリスティックな思考方法をもっている。

 2.スコットランド信仰告白

 これはフランクフルト、ジュネーヴのイギリス人教会の信仰告白、またフランスの信仰告白の流れを継ぐものであることは明白である。

 スコットランド信仰告白は7人のジョンによって作られたと言われるが、ジョン・ノックスが主に作ったことは疑いない。短い期間に書き上げられた。全25章は以下の通りである。

 1)神、2)人間の創造、3)罪の起源、4)約束の啓示、5)教会の継続的発展と保存、6)イエス・キリストの受肉、7)仲保者は何故まことの神まことの人でなければならないか、8)選び、9)キリストの死と受難また埋葬、10)復活、11)昇天、12)聖霊を信ずる信仰、13)善き業の原因、14)神の前に良しと算定される業、15)律法の完全性と人間の不完全性、16)教会、17)魂の不死、18)まことの教会が偽りの教会から区別される目印、また誰が教理を判定するか、19)聖書の権威、20)教会の総会議、その権能、権威、その召集の理由、21)聖礼典、22)聖礼典の正しい執行、23)聖礼典は誰に与えられるか、24)公権力について、25)教会に与えられた自由な賜物。

 この信仰告白は次の世紀にウェストミンスター信仰告白を受け入れることによって用いられなくなったが、優れた数々の特質がある。

 3.スコットランド長老制

 長老制の源流は前述のようにカルヴァン=ド・ベーズのジュネーヴにあるが、スコットランド宗教改革は最初から長老制を採用したのではない。最初は11の司教区の制度を引き継いだ形でスーパーインテンデントが置かれる。

 長老制になったのはド・ベーズの弟子であるアンドリュー・メルヴィル(1545-1622)の「セコンド・ブック・オヴ・ディシプリン」(1578)による第二期宗教改革によってであ る。

 スコットランドと大陸の改革派教会から影響を受けたイギリスの長老派が監督派および会衆派と論争を重ね長老主義の思想を確立したのは少し遅れる。

 4.スコットランド国民契約

 スコットランド信仰告白に基き、王と人民の間に信仰告白の実行を約束する国民契約が1581年に結ばれる。これは第2スコットランド信仰告白とも呼ばれるが、ネガティヴな形で、してならないことを規定する。それが王によって十分守られないため、1638年、再度の国民契約が交わされ、さらにその実施をめぐって王の軍隊との間に戦争が起き、強硬な長老派は追放されてアイルランドに渡る。国内にも王への要求を止めない人たちが残る。この人たちを「カヴェナンター」と呼ぶ。彼らは王権神授説を認めないが、宗教と国家の分離も考えに入れない。

 スコットランドの国民契約の思想はジョン・メージャー(1470-1550)、ジョージ・ブカナン(1506-82)の思想系列に属する。これは大局的に見ればヨーロッパの抵抗権思想の一環である。

(4)ウルジヌス、オレヴィアヌスとハイデルベルク問答 そのオランダへの影響

 * D.Visser ed.: Controversy and Conciliation. The Reformation and the Pala-    tinate 1559-1583.1986.

 * D.Visser : Zacharias Ursinus.The Reluctant Reformer,his life and times.     United Curch Press,1983.

 * A.Lang : Der Heidelberger Katechismus und vier verwandte Katechismen.1907.

 * Th.Ruys Jr.: Petrus Dathenus.1919,19882

 1.メランヒトン派からカルヴァン派へ

 ハイデルベルク信仰問答の著者はツァハリアス・ウルジヌス(1534-83)とカスパル・オレヴィアヌス(1536-87)であると言われている。ウルジヌスはメランヒトンの弟子であるが、1557年ジュネーヴを訪問し、カルヴァンの感化を受けた。ブレスラウに帰って神学を教えたが、聖礼典論の故に追放され、ヴェルミーリの紹介でプファルツ選挙侯フリートリッヒV世から招聘されハイデルベルクに来る。

 オレヴィアヌスはトリール近郊のオーレヴィッヒに生まれ、パリ、ブールジュ、オルレアンで法学を学び、ジュネーヴ、チューリッヒ、ロザンヌで神学を学んだ。故郷に帰って宗教改革的活動をしたのち、ハイデルベルクの教授に招かれる。エラストゥス的教会政治に関しジュネーヴ派とチューリッヒ派の論争があった時、彼はジュネーヴに味方した。信仰問答の起草にあたってウルジヌスを助けた。

 2.ハイデルベルク信仰問答

 これはジュネーヴ教会信仰問答から決定的な影響を受けている。形式上はそれよりも整理はよくついている。したがってジュネーヴ系統の信仰問答の一つの完成と言える。完成度の高い書物であるから、よく用いられた。

 3.ジュネーヴとの相違点

 ハイデルベルク信仰問答の著者はカルヴァンの路線を引き継ごうとしているが、かならずしも同じ神学路線ではない。例えば、契約神学に関しては若干違う。

 4.ハイデルベルク信仰問答とオランダ宗教改革

 ドイツ亡命中にハイデルベルク信仰問答に接したオランダの改革者ペトルス・ダテヌス(1530/32-1588) はこれを翻訳し、ジュネーヴ詩篇歌、またジュネーヴ式礼拝式文とともに国に持ち帰る。この3つの武器を用いてオランダ宗教改革は決定的なカルヴァン神学の影響のもとに成立を見る。

 1571年のエムデン会議はオランダ宗教改革の勝利とその性格を決定するものとなるが、ハイデルベルク信仰問答とジュネーヴ信仰問答を採用する。オランダ教会はこののちしばしばハイデルベルク信仰問答の規範性とそれに基く説教の必要を会議において決議する。ハイデルベルク信仰問答が長い時代に亙って生命を保ったのは単にそれ自体の価値の故だけでなく、これを生かし用いる教会があったからである。

(5)ドイツにおける改革派神学の影響

 ドイツの改革派は初期は四都市信仰告白の都市が担ったが、これはインテリムのために壊滅する。領邦教会ではクール・プファルツは代替わりの時ルター派に戻ったりして不安定であったが、東フリースランドとベントハイム(1575)は改革派として残り、オランダの改革派を援助する。60年代にハイデルベルクとその属領ノイシュタットがドイツ改革派の基地となる。外国人の多い町には改革派教会も出来るが、ドイツはおおむねルター派である。

 メランヒトン派がルター派では迫害を受けるため改革派に転じるケースが多かった。

 1.ヴェルミーリ

 ピエトロ・マルチル・ヴェルミーリ(1500-62)はイタリーのフィレンツェの上流家庭の出身。生まれた時、父親がこの子を殉教者ペトルス(†1252) に献じたため、この名になった。修道院に入り、院長になる。書物を通じて宗教改革の影響を受け、プロテスタンティズムに改宗し、カトリック教会の追及を受けて逃亡、42年、チューリッヒ、バーゼルを経てシュトラスブルクに行く。5年の後オックスフォードから招聘されて教授となった が、53年にメアリーの迫害に会い、シュトラスブルクに戻り、その後ジュネーヴ、ハイデルベルク、チューリッヒの招聘を受けるが最終的にチューリッヒに行く。最後の6年はその地で過ごす。

 イタリーにおける影響は別として、ドイツ語圏、英語圏で広い感化を及ぼした。その著作は多岐に亙っている。ドイツ語圏ではツァンキと共同で行なった彼の議論は予定論、聖餐論においてルター派に刺激的であった。主著として「ロキ・コンムネス」(1576) がある。

 2.ヒエロニムス・ツァンキ

 ヒエロニムス・ツァンキ(1516-90)もイタリー人で修道士であった。ヴェルミーリの感化を受けている。1551年イタリーを逃亡ジュネーヴに行く。のちシュトラスブルク、ハイデルベルク、ノイシュタットで教える。主著「キリスト教信仰」(1585)

 

(6)ギヨーム・ド・ブレーとベルギー信仰告白

 1.ギヨーム・ド・ブレー(1523-67)

 その経歴については確かなことはあまり分かっていない。非常に激しい迫害のもとで資料の多くが失われたからである。彼についてはカルヴァンにジュネーヴで学んだ者でないことははっきりしている。

 ジュネーヴの感化のもとにフランス北部から低地南部(今日のベルギー)に伝道が浸透するその働き人の一人であったから、その線に立つ改革者である。フランス改革派教会の信仰告白を基礎にしてベルギー信仰告白が起草された。

 2.ベルギー信仰告白

 上に述べたのと同じ事情によって、この信仰告白についても資料の多くは失われた。最初の本文がどうであったかは詳しくは分からない。37か条からなる。大きい改定は1619年ドルトレヒトの会議において行なわれた。

 オランダ教会においては初期から信仰告白として採用され、オランダ神学の骨格を作って来た。オランダ宗教改革はドイツからハイデルベルク信仰問答をもって入った要素と、南部からジュネーヴ教会信仰問答をもって入った要素との合作であるが、ベルギー信仰告白は後者から生み出された。

 1)神は唯一である、2)神は如何なる方法で我々に知られたもうか、3)書かれた神の言葉、4)聖書の正典、5)聖書はどこからその尊厳と権威を得るか、6)正典と経外典との相違、7)聖書の充足性こそ信仰の唯一の規範である、8)神は本質において一であるが、三つの位格に識別されたもう、9)前述の唯一の神の位格についての三一論の証拠、10)イエス・キリストはまことの永遠なる神である、11)聖霊はまことの永遠なる神である、12)創造について、13)神の摂理について、14)人間の創造と堕罪、その善をなし得ない無能、15)原罪、16)永遠の選び、17)堕罪した人間の回復、18)イエス・キリストの受肉、19)キリストの位格における二本性の合一と区別、20)神はその義と慈しみをキリストにおいて表わしたもうた、21)我々の唯一の大祭司キリストによる償い、22)イエス・キリストを信ずる信仰を通じての義認、23)我々の義認は罪の赦しとキリストの義の転嫁からなる、24)人間の聖化と善き業、25)儀式的律法の廃止、26)キリストの執り成し、27)公同のキリスト教会、28)全ての者はまことの教会に結び合わされねばならない、29)まことの教会の目印、それはどこで偽りの教会と異なるか、30)教会の統治と教会における務め、31)牧師、長老、執事、32)教会の秩序と規律、33)聖礼典、34)聖なる洗礼、35)我等の主イエス・キリストの聖なる晩餐、36)公権力、37)最後の審判。


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