1996・05・27

第4講 ラディカリズムの離反と教会形成の意識

(1)急進的宗教改革(ラディカル・リフォーメーション)の概観

*参考文献

 ◎ Williams:The Radical Reformation. ( Westminster )

 ◎ Williams(ed.):Spiritual and Anabaptist Writers.(Library of Christian

   Classics 25.Westminster)

 ◎ H.Fast (hrsg):Der linke Fluegel der Reformation. ( Schuenemann )

 ◎ The Collected Works of Thomas Muentzer.tr.and ed.by Peter Matheson.1988.

 ◎ 倉塚平他編「宗教改革急進派」(ヨルダン社)

 ◎ The Mennonite Encyclopedia 4 vols.(Herald Press)

 ◎ T.George:The Spirituality of the Radical Reformation (in Christian

      Spirituality II. ed. by J.Raitt )

 ◎ Denis Janz:Three Reformation Catechisms. Catholic,Anabaptist,Lutheran.1982

 ◎ 「宗教改革著作集」7(教文館)

1.一般的説明 

 急進派宗教改革あるいは宗教改革左翼(レフト・ウイング)は研究者の間における比較的新しい呼び名であって、古くはこれを「シュヴェルマー」(熱狂主義者)の名で、軽蔑をこめて扱うことが多かった。そこでは宗教改革に反するもの、宗教改革から逸脱したものとして捉えられた。今日では宗教改革の一翼として理解するのが正しいと見られるようになっている。一つには宗教改革者の側の偏見や事実誤認があったことが明らかになって来たからである。この偏見はルターに溯るもので、その偏見が継承された。

 偏見を持たれた理由の一つはヴィッテンベルク騒擾事件及びツヴィカウの預言者たちによる混乱(21-22 年)と、ドイツ農民戦争(1524) と、再洗派の急進的宗教改革(1525) の混同があったことである。ヴィッテンベルク騒擾に際しては、ルターは自らの宗教改革が実りなきものとして終わるのではないかとの危機感を持ったほどのものである。農民戦争は宗教戦争としての一面を持っていた。その宗教的欲求には急進的宗教改革と通じる要素がある。また、農民戦争が初めから政治的にラディカルであったと言えるかどうかは問題である。再洗礼はキリスト教世界においては恐るべき異端と思われていた。それにしても、それらの動きは混同されたまま、社会転覆の危険思想であり、霊的なことと肉的なこととの取り違えであると非難された。

 近年、偏見がなくなった原因としては、(1)社会一般が寛容になって、異説派を特別視しなくなり、(2)また異説派に先見の明があることが評価され、これまで不当に貶められていた人々の名誉回復をはかるようになったことが挙げられる。(3)アメリカの学者たちと、ラディカル・リフォーメーションの流れを汲むメンノナイトの学者たちの歴史研究が成果を挙げ、在来の認識が訂正されるようになった点も無視出来ない。

 同じ宗教改革に属するとしても、急進派は教会及び教理についてのかなり根本的な考え方の点で宗教改革主流派と違う。国家や慣習に関する見解も違っている。(基本的教理 (特に三位一体)についての反対者までも急進的宗教改革に含める人がいるが、我々はその見解を採らない。教理史として見る限り、これは宗教改革の一派と言うよりは、宗教改革時代の自由思想家というべきであろう)。また、孤立した漂泊の宗教的教師と、組織化されないその信奉者の群れをも宗教改革急進派という場合もある。

 ラディカル・リフォーメーションと一口に言っても、種々の系列がある。ラディカル、すなわち、根本的、また急進的である程度も様々である。今、詳細に亙る分類はしないが、「福音的」といわれる急進派とそうでないものとを区別することは最小限必要である。「福音的」な派の代表は「再洗派」、特にスイス系再洗派、および再洗派の系列になる「メンノー派」である。

 急進派を大きく分類すれば以下の通りである。グループ毎の性格付は比較的容易であるが、個人に関して言えば、複数のグループの性格を併せ持つ場合、時間的経過のうちに思想が流動する場合がある。

        ○ 農民戦争−1524/25 、社会変革の要素を多く持つ宗教改革、フプ

          マイアー、カールシュタット、ミュンツァー、リンク、フート

        ○ 再洗派−1523年スイスに始まる、デンク、グレーベル、マンツ、

          ザトラー、フッター、メンノー

        ○ スピリチュアリスト−神秘主義的傾向があり、小さいセクトを作

          る、マールペック、シュヴェンクフェルト

        ○ 自由思想家−神秘主義、人文主義の要素を発展させている。反三

          一論、セルベト、リベルタン、ソツィ−ニ、その他。これはもはや

          宗教改革の外である。

 ルター、カルヴァン等と比較して急進派の指導者は思想的・学問的に劣ると見られることがあるが、この評価は正確ではない。急進派は民衆運動と見られやすいが、その指導者の多くは人文主義的教養人である。ただ、教会の神学という点では彼らは道を正しく踏んで厳密な神学的思考をしてはいない。さらに、彼らの無政府主義的傾向に触発されて、宗教改革主流派が教会秩序と教会教理を重要視するに至った経過も見落とせない。

 2.社会的要素

 階級的な考えからドイツ農民戦争を研究したのはエンゲルスにはじまるマルクス主義者たちであるが、階級史観からの解明では捉えきれない面が余りにも多い。(代表的なものにM.M.スミーリン「トマス・ミュンツァーの民衆宗教改革と大農民戦争」モスクワ、1947年、がある。これはスターリン賞を受けた。独訳がある。1952東ベルリン)。宗教改革の所謂主流は都市市民層の改革に留まり、急進派宗教改革こそ民衆的改革であるとの理解もあるが、実情に合わない図式化である。農民戦争は階級史観で説明出来る面もあるが、スピリチュアリストや反三一論者については、その理論では説明が出来ない。

 社会的要素を無視してならないことは確かである。ドイツ各地で農民一揆が起こっているのは、農民に社会矛盾が皺寄せされるような社会変動が起こっていたことを物語る。すなわち、封建体制が崩れた。旧体制のもとで比較的保護されていた農民は貨幣経済のもとで立場が弱くなる。下級騎士も困窮した。封建的(feudal) というのは、もともと支配者と被支配者の契約(foedus) 関係に立つ体制から来る。支配者は農民を保護しなければならなかった。この体制は崩れて、都市が経済の中心になり、商人に富が移る。

 社会的変動と重なるのが同じ時代に起こった精神的変動で、在来の宗教的権威が精神的問題への解決の力を失う。

 以上のことは農民戦争には或る程度当てはまる。しかし、社会変化に基づく不満が宗教改革に反映したとのみ見るのは行き過ぎである。ここに至る精神史の流れがあった。

 「再洗派」と呼ばれる運動は農民戦争と別個に考察しなければならない。この派はツヴィングリに指導されたチューリッヒにおいて、ツヴィングリの改革の不徹底に対する憤懣から始まっている。この思想に対しツヴィングリが苛酷な弾圧を加え、それによって急進派はいよいよ熱心になった。チューリッヒの宗教改革が本格的に始まったばかりの時という事情はあるが、ツヴィングリのヒューマニズムの限界を示す事件である。

 3.精神的特質

 宗教改革当時急進派に対して浴びせられた非難には不当なものが多いから、事実誤認は取除き、不当に非難されていた人々の復権を学問的に遂行しなければならない。農民戦争に見られるような過激な変革と武力闘争に走った向きもあるが、急進派は概ね黙々と迫害に耐えた。特に再洗派がそうであった。この純真さは評価すべきである。迫害に耐えかねて武力闘争に転じたケースとしてミュンスターの事件(1532) があるが、再洗派としては例外に属する。そのような抵抗のケースと、飽くまで無抵抗に徹したケースは、その内面性において区別しなければならない。急進派の多くはトレランス(寛容)を本領としていた。(彼らのトレランスは近代的な意味に変えられたそれではなく、本来の意味のトレランス、すなわち被害を柔和な心をもって忍ぶことであった)。

 無抵抗こそが本領であって、抵抗が例外であるというのは、彼らが概ねイエス・キリストの山上の教えを非常に大事なものとして受け取っていたからである。中世においてはこの教えは戒めでなく勧告であって、一般人には履行の義務はなく、修道院に入る者のみに義務付けられると説かれていた。この区別を先ず撤廃したのが急進派である。

 精神史的に見て、急進派には先駆的な思想が多くの点に亙ってある。4世紀以来一つに合体してきた国家と教会を分離させ、戦争を否定し、暴力の正当化を止め、教会及び社会の民主的組織を目指し、権力による宣誓の強要に対して良心の拒否権を行使した等の功績がある。これらの面は高く評価出来そうであるが、ただ、これが後世の考えを指導する流れになったということではない。彼らの生き方は純粋であるが、その思想には歴史的形成力が乏しい。

 なぜ歴史的形成力が乏しいかといえば、(1)考え方がアナーキカルで、法的な思考が出来ていない。また、(2)思想的というよりは心情的であったからであろう。それゆえ、我々は彼らのプラス面とマイナス面とを同時に捉えなければならない。

 ただし、急進派の思想は幼稚であって、衝動的・心情的に行動へと決断したと見ることは正しい理解ではない。思想史的には見るべき重要な要素を含んでいる。ただ、それの詳しい研究は教理史の課題にはならない。

 急進派の指導者の中には理想主義者というべき者が多かった。理想実現が急進的な手段を用いることもあったが、純粋に霊的交わりを形成しようとした行き方を取る運動以外は挫折して消えて行く。運動として消えたものと、少数派ながら消えずに残ったものとの区別を見極めることは重要な課題である。

 4.教理史的評価

 急進派のうち教理史的に評価するに足るのは再洗派とその系譜に属するメンノー派だけである。再洗派の源流はツヴィングリの宗教改革から分かれたと見るべきであり、ツヴィングリの見解と共通するものを持っている。スイス起源でない再洗派もあるが、その考え方はもっと直接的である。再洗派以外の急進派においては霊的なものの強調が強すぎて、教理の形成になりにくい。ただし、1524年のバルタザール・フープマイアーの信仰問答がある。

 代表的資料はスイス再洗派の「シュライトハイム信仰告白」(1527) である。信仰告白としては条項の整理においてルター派や改革派のそれに劣る。信仰告白、ないし教理条項というよりも、声明書、所信表明のようなものである。その内容は7項目になっており、(1) 洗礼、(2) 放逐、(3) パン裂き(聖晩餐)、(4) 世との分離、(5) 牧者、(6) 剣(によって象徴される権力、武力)、(7) 宣誓、である。彼らは教理の条項化にさほど関心を持たない。先ず、教理条項においてカトリックと対決したルターたちのような神学的対決はしていない。むしろ、キリスト者の生き方、倫理に重点を置いている。神学的対決としては、小児洗礼否定論があるが、これも聖徒としてのキリスト者の生き方に関わる主張である。それゆえ、急進派は教理条項の確定に関しては厳密に思考することなく、主流派宗教改革に遥かに及ばない。したがってまた教会形成も確固たるものでなかった。

 i.上記7項目についてここで簡単な説明を加えて置くが、最も重要と見られたのは第一項「洗礼」である。洗礼を信仰告白者のみの受けるものと限定し、したがって小児洗礼を否定する。では、小児洗礼しか受けなかった者には再洗礼を課したかというと、必ずしもそうではない。再洗礼の施行例はなくはないが、少ない。「再洗派」という名称は彼ら自身の付けたものではない。なお、再洗礼についてはキリスト教社会においては古代末期以来強い拒否がある。

 ii. 放逐とは信仰の交わりからの放逐であって、戒告を受け入れない者に対する最後的処置である。彼らはこの戒規を厳格に守った。ただし、放逐には世俗的処罰との関連はない。彼らの教会はコンスタンティヌス体制における地域共同体と重なるものではなく、聖徒の集団である。以下2項も同じ。また、viの「キリストの完全」とも関連する。

 iii.主の食卓と悪魔の食卓に同時に与かることは出来ない。すなわち、闇の業に関わる者は聖晩餐に与かることが出来ない。

 iv. 悪魔がこの世に植え付けた悪しき風習から分離しなければならない。世からの分離という姿勢が強い。

 v.牧師についての規定である。牧師はキリストの体を建てる務めを持ち、教え、戒 め、勧め、教会の規律を守らせ、祈り、会衆によって支えられる。また、外の人にも良き聞こえある者でなければならない。

 vi. 剣の条項は特殊である。剣は神の立てたもうた制度であるが、それは悪しき者がいるために必要なのであって、キリストの完全の内においては意味を失っている。悪に対しては抵抗しないのがキリストの教えである。そこで、キリスト者は権力の位置に就くことが出来ない。ここでも、権力の支配する領域からの分離が主張される。キリスト者はそこから隠遁する

 vii.一切誓うな、とイエス・キリストが言われたところに基く彼らの主張であるが、特に公権力によって宣誓が命じられた時、拒否することを特徴とする。

急進派が国家に対して取った態度は法的な思想の弱さに基くのであり、これは教会を考える法的思想もなかったことと結び付く。教会と国家の分離の点で先覚者であるが、彼らは国家に対峙し得る確固とした教会をうち建てることは出来なかった。

 法の持つ積極的な意味を考えることが出来なかったのは、福音のもとで律法の意味がなくなったとの理解によるのである。しかしまた、法的教会の中に忍び込み勝ちな魂の不純さに気付いていた点は重要な問題提起である。

 5.急進派の疎外と包容

 ルター派のもとでは、急進派は対話の余地なく疎外され、改革派、特にカルヴァン派では再洗派の主張がかなり吸収される。その相違をルター派とカルヴァン派の人柄の違いに帰するのは問題のすり替えである。背後にあるものを考えて見る。

 i)地域的に見てルター派はドイツの農村地帯を地盤とした。改革派の地盤はスイスや南ドイツの都市である。改革派の宗教改革は農民戦争と直接接触しなくて良かったため、対決もなかった。未成熟段階で直接接触したならば、対決になったかもしれない。改革派はやがてフランスの農村にも広がるが、フランスでは農民戦争は前時代に済んでおり、社会的矛盾の皺寄せを負うのは職人階級であった。この層の人たちによる社会改革を含めた宗教改革の試みはプレレフォルム(後述)段階からあった。それが改革派の宗教改革へ吸収されていた。

 ii) カルヴァンの宗教改革が総合的性格を持っている点に注目しておきたい。ルターを代表とするドグマティックな宗教改革と、ルフェーヴル・デタープルに始まる人文主義的宗教改革と、農民戦争などの社会変革を求める宗教改革とをカルヴァンが総合したと見たのはレオナールであるが、この把握は当を得ている。ただし、この解釈は教理史的には甚だ不十分な論述である。

 カルヴァンにおける総合は、基本的には内面と外面の統一、それも観念の上での処理ではなく、現実の教会形成および国家形成における内面と外面の統一の追求として果たした点にあるのである。

 iii)急進派の要求する徹底性をルターの宗教改革は受け止めることが出来なかったが、改革派では「訓練」という要素を導入することによって答えようとした。

 また、ルター派の持つ保守性は急進派と相容れないものを持つが、改革派では聖像破壊を実際行なっているし、急進派に近い面もある。

 iv) 改革派の指導者は人文主義の訓練を受け、思考が柔軟であり、しかも知識階級の遊び事としてでなく、宗教改革に命を賭ける純粋さを持っていた。

(2)ルター及びツヴィングリの被害意識

1.ルターの場合

 i)ヴィッテンベルク騒擾事件

 *J.Preus:Carlstadt's Ordinaciones and Luther's Liberty. A Study of the

     Wittenberg Movement 1521-22.Harvard Univ.Press.1974.

 1521-22 年、ルターがヴァルトブルクにかくまわれている間に、ヴィッテンベルクはカールシュタットをリーダーとする急進派によって占領され、急遽帰って来た経験がある。この経験がルターに急進派に対する嫌悪を植え付けた。

 事件の経緯を述べるには先ずルターによるミサの改革から始めなければならない。これはカールシュタットには不徹底と見られた。ルター不在中カールシュタットは「福音的ミサ」を実施し始める。アウグスティヌス派修道士ガブリエル・ツヴィリングは急進的グループを指導、聖像破壊を実行し、当局と対立。

 「福音的ミサ」実施の直後、所謂「ツヴィカウの預言者」らがヴィッテンベルクに到着し、急進派から歓迎される。

 ルターは3月6日にヴィッテンベルクに帰還、9日から8日連続の説教をする。ヴァルトブルクで騎士の姿をしていたルターはヴィッテンベルクに帰って修道士の服装に戻る。カールシュタットは追放され、秩序は回復。しかし、事態は旧態に戻り、ルターはそれ以来ずっと保守的になる。

 ii) カールシュタットを批判するルターの理論

 ルターはカールシュタットの考えを或る程度認める。認められないのはその急進的な手段である。ルターは、変革が内から外へ、そして徐々に形が変わって行くべきであると考える。彼はこの事件の後も修道士の服装をしている。また、急進的な変革が弱い人たちをつまずかせるという。

 もう一方において、カールシュタットが内なる聖霊の証しを重視するのに対し、ルターは御言葉の権威を立てる。

 iii)農民戦争

 1524年、プロテスタント領、カトリック領を問わず、殆ど全ドイツで農民が決起する。各地で結集した農民の掲げる要求書は経済的要求であるとともに宗教的要求でもあった。それは、宗教的指導者が農民戦争を指導していたからである。

 その要求は今日から見て妥当と思われる点が多い。農民が自らの牧師を選ぶ権利を要求している点は先駆的である。

 しかし、指導者の中に民衆の力を利用して宗教改革を遂行しようとする考えがあったことは否めない。それはルターたちが諸侯の力を利用して帝国と結び付いたカトリックに対抗し宗教改革を遂行しようとしたことと一面で共通した政治的発想である。上にある力を是正するために、下にある力を用い、下にある力が権力を掌握することを考えた。

 急進派のうち再洗派の系統だけが生き残り、直接的な力を行使した運動は壊滅したが、これは時期尚早とか、規制権力が圧倒的に強かったからであるという理由ではなく、内的に崩壊する要素を持っていたからである。

 2.ツヴィングリの場合

 チューリッヒにおけるツヴィングリの宗教改革には都市当局との妥協があり、不徹底なところがあった。このことに対する不満を持つ者たちがツヴィングリを批判し、離れて行く。この人たちが近郊ツォリコーンの村で運動を始める。ツヴィングリはこの人たちに残虐な迫害を加えた。それはチューリッヒにおける宗教改革が緒についたばかりの時であったので、過剰な反応となった。

 チューリッヒの宗教改革に由来する再洗派は、急進派の中で聖書に従う姿勢を最も忠実に守っている。(再洗派にもいろいろな傾向がある。南ドイツの再洗派はスイスのそれと異なる)。スイス再洗派はツヴィングリの行き方を基本的には受け入れ、そこから出発する。ただ、国家との癒着、ないしは教会が世俗的権力を掌握すること、またそのために妥協することを非難し、この点で宗教改革を徹底させようとした。

 ツヴィングリは理論的にも再洗派を倒そうとつとめた。新約における小児洗礼は旧約における小児の割礼に相当し、一貫した恵みの契約の徴しがあると見る。小児洗礼否定論を覆すために考えられた理論はやがて契約神学となって発展する。

(3)ルターにおける領主の権力重視への方向転換

 1.ルターが初期に農民の味方であるような発言をし、農民戦争でその立場を翻したのは事実である。これが農民戦争の関与者に深い失望を与えた。

 2.ルターには初期にはっきりしていなかった法的秩序の思想が確立して来ている。これは急進派のアナーキーな考えと対立する。この考えの相違の根本は霊と言葉の関係の把握の違いである。急進派が霊を強調するのに対してルターは言葉を強調する。

 3.ルターが領主に接近したのは、福音主義教会を「領邦教会」という形で安定させるため、またカトリックと結び付いている帝国の権威に対抗する福音主義諸侯の同盟を成立させる必要を感じたためである。ルターのこの考えは便宜主義的なものではない。ルター自身には妥協という意識はなかった。上部の帝国の権威に、下部の諸侯の権威を対抗させるのは当時の抵抗権思想であった。

(4)「信仰義認」の立場と「キリスト者の完全」の相克、及び急進派との対決を通じて明らかになって来た諸問題

 1.「シュライトハイム信仰告白」(1527) の第6項における「キリストの完全」

 「剣は神の定めではあるが、キリストの完全の外側にあるものである。それは悪しき者を罰し、殺し、善人を保護しまた守るためのものである。法においては剣は悪人を罰し、処刑するために定められているが、その運営はこの世の官憲に委ねらるべきである。しかしながら、キリストの完全の内側においては・・・・」。

 ここで用いられる「キリストの完全」はキリストによる、したがってキリスト者の完全の意味である。信仰者も赦されつつ常に罪人であるということがここでは否定され、赦される必要のない完全者であるかのように見られる。一般に急進派は信仰義認の教理に批判的である。

 2.「アウクスブルク信仰告白」第16項

 「国の秩序とこの世の支配については、次のように教えられる。すなわち、この世における全ての権威と定められている支配と法律は、神によって創造され、制定された良き秩序である。そしてキリスト者は、罪を犯すことなく、政府、諸侯、裁判官の地位に就くことが出来、国法やその他の法に従って、判定と判決をし、悪人を剣によって罰し、正しい戦争を行ない、戦闘に従事し、売買し、課せられる宣誓を行ない、財産を所有し、結婚する等のことをして良い。

 ここにおいて上記のことをキリスト教的でないと教える再洗派を我々は異端であると宣告する。また、キリスト教的完全が家屋敷、妻子を実際に捨て、上記の行為を止めることであると説く者を異端であると宣告する。真の完全とは、神を正しく恐れ、神を正しく信じることにほかならない。・・・・・ 以下略」。

 再洗派が名指しで非難され、彼らの国家論と完全の教えが指弾される。その前年、マールブルク条項12条も再洗派を同じように非難している。事実誤認である。

 3.言葉と霊

 急進派は概して言葉よりも霊に重点を置き、文字に固着する改革者を批判する。彼らの主張の拠りどころは聖書ではあるが、聖書を解釈する御霊の働きに重点を置き、御霊は御霊を受けたと言う人の見解と同一視されるに至る。こうして、自己自身を規準にする危険をはらんだままチェックが出来ない。

 急進派との接触を経験して改革者は御言葉と御霊の結び付きを力説するようになる。

 4.訓練の問題

 再洗派の小児洗礼否定論を、主流派は理論的には克服したと思ったであろうが、実践的には問題が残っていることを感じないではおられなかった。これが小児の成長してからの信仰教育において解決されるべきものとして追求される。

 また、キリスト者の完全は否定しても、恵みに相応しくない状態にいて構わないというわけには行かない。そこで訓練が教会の真剣な実践課題になる。

 5.終末論の把握

 急進派の思想には今や終末が到来したという要素が強い。シュライトハイム信仰告白の「完全」の主張には、完全の時代が来たという捉え方がうかがわれる。カールシュタットが「天国は激しくこれを攻める者が入る」との聖句を依りどころに過激な行動を肯定したのも良く似た発想である。終末がある意味で到来したと把握することは間違いではない が、彼らはそれをイエス・キリストにおける新しい事態として捉えるのでなく、前時代から現代への時間的移行として捉えようとする。そこからは千年王国的終末理解しか出て来ない。

(5)教会と国家の法的位置付け

 * ルター「現世の主権について−軍人もまた祝福された階級に属し得るか」

 * カルヴァン「キリスト教綱要」4,20

 1.急進派には一般的にいってアナーキズムの傾向があるが、必ずしも常にそうではないし、まして秩序破壊を宜としたわけではない。

 再洗派においては基本的にはローマ書13章にしたがって国家秩序を神的制度として肯定し、国家転覆を謀るようなことはない。ただし、さほど積極的には肯定しないで、完全でない者の悪行への歯止めのための必要悪として認める。完全者にとっては支配権力による秩序維持は不必要なのである。完全者は世俗権力の外に分離することになる。

 世は汚れており、今や末の世となったので決定的に汚れた。聖徒たちは汚れから去らなければならない。世とくびきを共に負うことはすべきでない、と彼らは言う。ここには二元論的発想がある。

 このような急進派理論に触発されて、これを克服するために改革者は国家理論を構築する。そのためには教会と国家の両領域を神学的に確定し、両者を統合する理論的基礎を持たねばならない。

 反論として、改革者たちは世にあることの意義付けを行なう。何よりも世がキリストの主権のもとにあることが確認されなければならない。この確認に基いて、この世をキリストの主権のもとにあるに相応しく整えなければならないことになる。

 次に、キリスト者の現在の状態が完全なのではなく、中間時にあることが明確にされなければならない。

 2.国家が神によって定められた制度であるとはいえ、これを無条件に肯定することは出来ない。それゆえ、国家を肯定するとしても制限を設ける(人に従うよりは神に従うべきである。使徒行伝4)。これは主流派の考えである。すなわち、抵抗権を共通の基礎理論から導き出す。さらに理論が展開されると、上位の権力者が務めを全うしない時、下位の者が抵抗権を発動して、上位権力を倒すことが出来るし、倒さなければならない。それが法秩序内部の業として主張される。それに比して急進派は、法的な考えが弱いために、直接行動としての抵抗はしても抵抗権理論を生み出すことは出来なかった。

 3.急進派はキリスト者が官憲になることに否定的であるが、これにも答えなければならない。この世に公権力があることを再洗派も否定は出来ない。悪人がいて、それを剣の力で抑制することは必要だからである。けれども、キリスト者はそのような秩序と関わりを持たない、と急進的な人たちは考える。キリスト者はそこから分離するのであるから、権力の地位に就くべきでない。剣も持つべきでない。

 そのような主張に対し、改革者は良き公権力という権力像を作って行く。それは教会に仕え、また自らを法的に規制し(立憲体制)、自らの悪を自ら除去する機能を持つ公権力という理念である。この理論作りは必ずしもうまく行ったとは言えない。しかし、為政者の道徳的意識を高め、また下位の権力者に抵抗の権威と義務を負わせ、自己検証の機構を整備することによって、政治の自浄作用を高めた。

 4.宗教改革時代に、教会が国家を位置付け、国家が国家教会を設立する、という相互関係が作られる。教会は具体的にはナショナルな教会として存立し、ローマ・カトリックの掲げた普遍教会の理念は後退する。

     


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