第3講 ルターとその同調者による新しい神学の形成

[1]カトリックの反論

1996・04・22

 1.論争の経過

 九十五箇条の提題に対しては、所定の期限内に反対討論の申し出がなかったので討論会は行なわれなかった。しかし、遅れて反対命題が公けにされる。(ヴィンピーナ=テッツェルの反対命題「免償に関する九十五箇条」が発表されたのは1518-20 である。これは逐条否定するだけの貧弱な理論であった) 次にはもっと有力な神学者が登場する。枢機卿カエタヌスや、ヨーハン・エックである。カエタヌスとの討論は遂に実現しなかったが書物で論戦する。

 1519年ライプツイッヒでルターはカールシュタットとともにエックと重要な対論会を持つ。ルターは教皇と公会議の権威を否定し、聖書の権威を主張する。ここでルターの態度ははっきり示される。1520年には彼を異端と断罪する教皇勅書「エクススルゲ・ドミネ」が発布され、ルターはこれを焼却し、全面的対決となる。ルターの「ローマ教皇制について」は教会が信仰者の集まり、また交わりであると定義する。同じく1520年の「バビロン捕囚序説」は教会が捕囚状態であることを攻撃し、ローマ・カトリックのサクラメント論を否定する。こうして、反論に触発されて、ルターの教理思想は固まって来る。

 ルターに対する初期の反論は、免償の効力についての彼の見解を打破するために展開されるが、(1)一方では行為、罪、功績、恩寵、をめぐっての神学的思考を推進し、(2)一方では免償の権限を持つ教皇の権威と教会についての理解、(3)もう一方では、悔い改めがサクラメントであるかどうか、これを規制する教会法が妥当であるかどうか、の議論になって行く。

 このほか、九十五箇条論争との繋りは余りないが、1518年のハイデルベルク論争は人間の業が徹底的に罪であることを明らかにする点で、ルターの思想形成にとって重要な意味を持つものとなった。神学的思考の方向づけがここで与えられた。

 ルターに賛意を表明したのはヴィッテンベルクの教授たちのほかに、シュヴァーベンのヨーハン・ブレンツ、シュトラスブルクのブーツァー、ハイデルベルクのテオバルト・ビリカンその他である。

 ルターの同調者の著作としては、メランヒトンの「ロキ・コンムネス」初版が1521年に出る。これは宗教改革側からの最初の組織神学の書物である。ルター自身は信仰問答以外には組織的書物を書いていない。

 * カトリック陣営でルターに反論した人については、Wilbirgis Klaiber (Hersgg.) : Katholische Kontroverstheologen und Reformer des 16. Jahrhunderts. (Reforma- tionsgeschichtliche Studien und Texte Heft 116)1978,Muenster が殆ど全部の反駁文書を網羅したリストを載せている。

 * カトリック側の反論に関する研究書は近年多くなった。上記の書はそのシリーズの一つである。

 カトリック側の反論が本格化したのはトリエント会議(1545-1563)であるが、その時すでにルター派の教理は確定して揺るがない。カトリックに対しては反駁だけがある。トリエント会議への反論はルター派正統主義を成立させる(ケムニッツ「トリエント会議の検討」1578)。

 2.教会の権威と教皇の権威

 九十五箇条提題を発表した時、ルターは教会改革としては小規模で穏健な、基本的にはローマ教皇の権威を認めたものしか考えていなかった。彼は教皇の権威に服従し、この提言によってカトリック教会をより健全なものにすべく貢献することを考えている。もっとも、ルターは教皇権を制限のもとに考えている(第5条、第6条、これはカトリック側としては到底認めることが出来ない)。すでに教会改革の声は各地にあがっていたが、ルターはそれに同調していない。彼の目は内面に向いていた。そして、内面を向いて来た者として沈黙出来ない事柄に対してだけ発言しようとした。

 ところが、九十五箇条提題に対しカトリック神学者が反論して来た時、彼らの議論のよって立つところは、ペテロに託され、ペテロの後継者に受け継がれている「鍵の権威」であり、ルターの思想と行動がこの権威に逆らっている、と非難を浴びせて来た。

 この反対論に直面して、ルターは自己の立つところが何であるかを確認する。彼は良心に基いて、その主張を撤回しないのであるが、彼に反対する人々はこれを我がままであると非難する。彼は我がままではなく、聖書に立っていると確認する。従来、聖書は重要視されたが、教会を通じて聖書が説かれるから、実際には聖書よりも教会の権威が上であると考えられた。

 3.多くの人のコンセンスス

 カトリックの考えのなかには「いつでも、どこでも、だれでも」真理として受け入れるのが公同の真理であるという考えがある。これは、レランのヴィンケンティウスの公同性の定義である。(本来的な意味から言えば、公同的であるとは「主は一つ、信仰は一つ」ということから導き出されるのであって、形式的・空間的な普遍性とは異なる) 「いつでも」とは古い時代から引き続き守られて来たという意味である。従って、この考えは伝統を権威と見、新しい説は新奇なるが故に悪いという考えと通じる。「どこでも」とはローマを中心とする世界どこにも通用するという意味である。「だれでも」とは前項と同じ意味を含むと思うが、万人のコンセンススなしで、独りで信念を持っても真理ではないという。多くの人の代表として教父たち、教会の博士たちがいると反対者は見る。ルターはそれらの人々からのコンセンススを得ていない。この法則が自明のものであるとして、ルターの主張を否認しようとする。

 真理が真理自体によって存立するという考えがカトリックにないわけではなかったが、現実には真理そのものよりも真理を扱う論証手続きや、真理を擁護する機構のほうに重点が移る。そのために、真理そのものの力が無視される。

 なお、初期ルター派の議論では、アウグスティヌスを別として、教父から同意を取りつけることは余りなかったが、教父の中に宗教改革を支持する言葉を見出せる場合が多いので、教父の引用は改革者の間で増えて行く。伝統に立つ理論に反発する宗教改革の主張 は、教父研究の重視と一見無関係のようであるが、矛盾しない側面は多くあり、特に人文学者の間では教父研究が進んだ。

 4.伝統の権威

 キリスト教神学においては伝統の重視という考えは古くからのものである。(第一コリント15:1ff. 参照。<伝えられたこと>が基準であるという考え方が非常に古い時代からある)伝統の重視は信仰にとって本質的に重要なものを含む。何故なら、教会の教えは伝承されるものだからである。

 宗教改革が伝統を否定したという見解が普及しているが、この理解は正確ではない。ルターの場合、伝統に対する否定的表現が顕著であるが、これは表現の厳密さを心掛けておらず、また事柄を徹底して考えなかったためであって、本質的な意味での伝統を否定していないと理解した方が良いであろう。ルターが伝統否定の表現を取ったのは、主に、ルターに対する攻撃の論拠が伝統に置かれたからである。

 伝統を論拠としてなされる批判に対するルターの反論は聖書を論拠とする。ここに聖書か伝統か、という二者択一の形式が生まれ、今日まで受け継がれている。この形式は必ずしも生産的ではなかった。後の改革派教会の改革者は伝統を否定するのでなく、人間的伝統( traditio humana )を否定する、という表現を用いる。この表現はマルコ7:8 「神のいましめを差し置いて人間の言伝えを固執する」から取ったものである。聖書と伝統の対立と捉えず、神の言葉と人間の言伝えの対立面を捉えている。すなわち、神の言葉が伝えられるほかに、人間の定めが神の言葉と並んで、あるいは神の言葉を押し除けて伝承されることを否定したのである。

 カトリック教会で伝統と呼ばれるものは極めて曖昧である。「言い伝え」すなわち口頭伝承だけでなく、言語と関わりない制作物も伝統として扱われる。カトリック的論理によって伝統の概念が拡大し、或る程度以上古いものはみな伝統の中に組み入れられて行く。しかし、伝統が正当性を持つのは、これが主から伝えられた場合に限られる。

 5.カトリック体制内の改革とルターの改革の衝突

 カトリック体制内の改革を志す人は、多数派ではなかったがかなりの数いた。彼らはカトリック教会の現状を是認しない。しかし、ルターとは対決した。彼らがトリエント会議を推進したのである。トリエント会議が開かれるまで割合時間が掛かっているが、これはカトリック教会の中に、公会議を開いて教会改革を推進する考えに同調しない力が強かったからである。この会議は近世のプロテスタント歴史家にはしばしば反動的と見られて来たが、推進する人たちの意識としては教会改革が目的なのである。彼らは無知蒙昧な迷信家ではなく、カトリック内の人文主義者である。ただし、近年はカトリックにおいてもトリエント会議の行き過ぎを是正しようとする動きがある。

 しかし、カトリック陣営内の改革者の考える改革と、ルターの追求する宗教改革は根本的に食い違っていた。中世末期の在野の改革運動に改革会議が全く無理解であったこと は、先に指摘したところであるが、宗教改革期のカトリックの改革会議においても同様の現象が認められる。ここには宗教改革を単なる改革運動と捉えるべきでないとの示唆がある。

*カトリック内改革については H.Jedin : Geschichte des Konzils von Trient.4 Bde が詳しい。

[2]ルターにおける信仰義認の教理の発展

 1.罪と義

 免償に関する論争は教皇権や教会の本質に関する方向へと発展したが、免償の教理が関わる罪そのものについてのルターの思想は、九十五箇条提題以前から継続して掘り下げられている。その経過を示す資料としてはルターの聖書講義がある。

 罪についてのルターの考察はパウロとアウグスティヌスを手引きとして深められた。アウグスティヌスというのはペラギウス論争におけるアウグスティヌスの主張を指すのである。これは行ないの義を徹底的に低める。

 免償の思想のもとに扱われている罪は数量化され、相対化され、生ける神の前における恐れを失っている。すなわち、人間の尺度たる教会法によって計量され、従って計量化された償罪の業で差し引き出来るものとされ、罪の本来の重さを失っている。ルターの罪理解は本来の意味また感覚を回復した。

 ルターが罪の本来の意味を見出したのは、神の神たること、生ける神の現実性の再発 見、さらに神の義の重要性の再発見、それへの固着があったからである。神の義の意味についてルターは長い間模索し、そのために苦しむ。すなわち、神が義を要求する神と捉えられる限り、不義なる罪人はあらゆる努力をもってしてもその要求には答えられない。

 神の義とは、要求する義ではなく、与える義、すなわち、罪人を義とする義であるとルターは発見する。これが転回点になる。この経験があるために、義を要求する律法と、義を賦与する福音が対照的に捉えられることになる。

 救いの構造はカトリックの言うように罪を人間の行ないの功績によって償うことでな く、功績なき罪人、あるいは敬虔ならぬ者を義とする神の恩寵を信仰によって受けることである。

 2.信仰と行い

 カトリック教会は行ないによる償罪を課した。行ないには或る価値( meritum=功績)があり、その価値によって罪の負債を償うことが出来るという考えがある。ルターは初期に修道院内の精進に力を尽した結果、この考えが成り立たないのを体験した。

 行ないに価値があるという考えはキリスト教的には成り立たないはずである。カトリック教会も単純にはこれを論じない。原罪という教理は確定しているからである。けれど も、恩寵によって原罪から贖われた後には、恩寵のもとでその人の行ないはもはや無価値ではない、という議論を立てて来た。恩寵がアクチュアルなだけでなく、ハビチュアルなものとなって、常住するからである。アウグスティヌスにおいてすらこの見解の危険に気付くことが出来なかった。したがって、厳密には功績でないが功績に準じたものとして善き業が扱われることになる。我々は人間の行ないの価値か、恩寵かという単純な二者択一では問題を処理し切れないことを覚えて置こう。ルターはアウグスティヌスに従って恩寵論を学んで来たが、アウグスティヌスを更に越える。

 義とされるのは行ないへの顧慮なしになされるのである。行ないが除外されるのは、義と認められることと、義なる状態にあることとが区別されるからである。従来の神学はこの区別を明確に見ることが出来なかった。下の3項でさらに述べる。

 行ないへの顧慮なしに義とされる時、それは行ないではなく信仰が義と認められるからである。

 ここで注意すべきは、行ないの価値ではなく信仰の価値が認められる、という主旨でない点である。外的な行ないの価値を内的な業としての信仰の価値に置き換えたのではな い。信仰によってとは、信仰を通じてという意味である。すなわち、信仰を通じてキリストの恵みが注がれる。この点、ルターは理解していた筈ではあるが、彼の言葉の中には内面の価値を称揚するものが往々にしてある。

 3.義認と成義

 宗教改革において義認は明確な定義を得た。justificatio という言葉はキリスト教会においては古くからある。それは義とする、justifico という動詞の名詞形である。したがって、義とすることである。義とするとは、義なる状態にする justum fieri 、とも取れるし、義であると認める justum reputari という意味にも取れる。この区別がされないままであった。今日も日本のカトリックは「成義」という訳語を用いるが、カトリックにおいては、その訳語が表わすような理解を持って来た。宗教改革以前にはこの理解が普通であった。

 ルターが確認せざるを得なかったのは「義とされつつ常に罪人」という事態である。この二面をあるがままに認めなければならなかったのは、単に事実の単純な容認ではない。彼の信仰の基本的な構造に注目しなければならない。すなわち、peccator in re,justus in spe と言われる。終末論的に表明されたとは必ずしも言えないが、確かに中間時にある者としての把握が見られる。

 新約聖書における justificatio の用法を見ると、パウロの用法が際立っているが、それは義と認めるという意味であると見られる。ローマ4:5 「働きはなくても、不敬虔な者を義とする方」と言う場合、これは明らかに「と認める」、「と看做す」の意味である。また、ローマの法律用語では、これは無罪宣告であり、無罪宣告とは罪なき状態にすることとは別である。そのような理解が宗教改革において回復した。

 しかし、義とすることの更に包括的な意味を見て置く必要がある。旧約聖書においてはどうか。旧約聖書においては、義とするという言葉は頻繁に現われるが、これは端的に 「救う」という意味である。その意味が宗教改革で消えてしまったのでないことも見て置かねばならない。すなわち、神は同時に聖とすることなしには義とすることをなしたまわない、という把握がある。ただし、ルターにおいては義認と聖化の峻別に関心が集中している。それでも、包括的な把握をしていることもあるのは確かである。

 4.キリストの義の転嫁

 義でない者が義と認められるのは神の義の譲歩ではない。神が自ら義であることを徹底させることなしには、信ずる者を義とされない。

 罪の償罪を神がなしたもう。神が代償を支払いたもう。これは最も古くからのものであるが、アンセルムスの「クール・デウス・ホモ」において確定した形を取った。これには償罪を余りに客観的に、また法律的に取り過ぎる危険がある。

 ルターは終始キリストを直視する。キリストにおいて一切の解決を見て行こうとする。これは必ずしも新しいことではないが、従来ややもするとキリスト中心はキリスト神秘主義に解消し、教会的論理また教理を立てるに至らなかった。ルターはキリストの義が我々に転嫁されて我々の義となることを発見する。

* ルターの著作

 ◎ 日本語では「ルター著作集 第一集、第二集」(聖文舎)がある。教理史の学習にはこの日本語訳で十分である。しかし、1529年までのものしか現在出版されていない。

 ◎ 英語では Luther's Works in 55 vols. Augsburg-Fortress アメリカのルター派教会の総力を挙げた編集。完結している。

 ◎ ドイツ語では各種の版がある。大別して原文の版と現代語訳の版がある。現代語訳では Luther Deutsch 10 Bde. が良い。学術論文に引用する時は現代語訳ではいけない。原文の版としてはクレーメン版の選集とヴァイマール版の全集が今日用いられている。

[3]真の権威は何か

 1.伝統か聖書か

 伝統か聖書かという選択を迫られたことは先に述べた通りである。しかし、伝統ではなく聖書であるという教理条項がルター派において立てられるには至らなかった。聖書が基準であることを教理の中で確認するのはもっと後の時代である。したがってまた、聖書とは何か、聖書に含まれる正典は何々かについても明示されていない。正典と経外典の区別をルター派は特に初期においては余り意識しない。改革派においても事情は似ているが、ルター派よりは早く気が付いた。正典論に関心を向けるのはルター派においても改革派においてもトリエント会議の正典論に触発されて以後である。

 聖書論を教理条項として立てなかったのは、致命的欠陥とは言えないと思う。条項としては立てないが、内容としては自明のことであった。しかも、聖書が重んじられたのは、それが神の言葉だからであり、そこに書かれている文字が救いの力を持つわけでないことははっきりしていた。

 聖書が大事なのは、<そこでキリストが示される>からである。聖書という書物やそこに書かれている文字が貴いのではなく、そこで与えられるキリストが大事なのである。

 なお、聖書が「書かれた言葉」であるところに大きい意味がある。書かれてあることによって、これは客観的実在、人間の手を離れた他者である。伝承される言葉という時、伝承されるものと伝承するものとが未分化のまま一体化して、自分の言葉を自分が聞くことになり、客観性を失う。それはもはや教会自身を改革する基準たり得ない。

 聖書正典の決定はセコンダリーの意味を持つのではあるが、正典を決定する基準を人間が自由にすることは出来ない。ところが、ルターにはこの点の理解が曖昧であった。それゆえ、聖書の諸書の価値にランク付けをしようとする。その際、基準になるのは、信仰によって義とされるという原理をいかほど明確に打ち出しているか、である。この原理を語っていないヤコブ書は、排除はされないが藁の書簡と言われる。

 2.神の言葉と人の言葉

 ルターが伝統を退けたのは、伝統が要するに人の言葉、また人間の法であり、聖書こそが固有の意味で神の法であるからである。したがって、神の言葉には絶対に服従しなければならないが、人の言葉には必ずしも服従しなくて良い。服従してはならない場合もあ る。(マルコ7:8-9 参照)

 神の言葉と人間の言葉の区別はルターの場合概念的なものではなかった。経験的になされたのである。一つは個人的信仰経験において神の言葉の重みを確認していることであ る。このことは換言すれば、神の言葉が内的な言葉として作用するという体験である。もう一つ、教会の歴史を調べれば、聖書に記された神の言葉と後世の人間による決定を容易に見分けることが出来る。

 しかも、人間の口から語られる説教が神の言葉として受け取られる。それの回復を目指していた。本来、説教は神の言葉である。(Tテサロニケ2:13参照)説教が神の言葉としての真理性と権能を主張するということではないが、罪を赦す力は説教によって行使される。説教者はそのようなものとしての説教をする務めに召されている。これが宗教改革の重要確認事項であったことを忘れてはならない。

 3.神の言葉としての律法と福音

 神の言葉は律法と福音から成るとルターは考える。この際、律法と福音とを対比的に見過ぎたのがルターの失敗であった。ガラテヤ書における律法理解の偏った強調が固定的に把握されたのである。曰く、「律法は、信仰によって義とされるために、私たちをキリストに連れて行く養育係となった」(ガラテヤ3:24)。

 そこでルターは、福音こそ神の本来的な言葉であり、律法は非本来的な言葉であると見る。では、律法は福音の啓示までのものでしかなかったと取っているのか。必ずしもそうではない。旧約からキリストを読み取ることは実際している。それは伝統的なタイポロジー(予型論)に則っている。それにしても、カルヴァンが律法をキリストからのみ理解しようとした読み方はルターにはない。

 4.教皇権に正当性があるか

 ローマ・カトリック教会はローマ司教の首位性を主張していた。その論拠になるのはキリストが天国の鍵(マタイ16:19)をペテロに授けられたことである。この鍵には「地上で解くことは天でも解き、地上で繋ぐことは天でも繋ぐ」との約束が結び付いていると言われる。ペテロの後継者であるローマ司教が鍵を継承し、したがって繋ぎまた解く権能、すなわち罪を許し、また許さずに置く裁判権を持つと言われた。こうして、教会はペテロの上に建てられる(マタイ16:18)と主張された。この権能の現実の行使は告解制度であると主張された。

 カトリック教会は更にローマ司教が二つの剣(ルカ22:38 参照)を持つという理論を作り上げ、ローマ教皇が霊的な事に関してのみでなく、この世の事柄に関しても権能を持つと主張した。宗教改革はこの点を徹底的に否定する。教会は俗権を持つべきでない。

 ローマ・カトリック教会は教皇を地上におけるキリストの代理人であるとし、この制度が救いに不可欠であると主張していた。これらの主張をルターたちは否定する。教皇はキリストの代理人でないどころか反キリストであると呼ぶことが始まる。

[4]教会理解の変革

 1.集まりとしての教会

 1520年の「ローマ教皇について」はルターの教会論の根幹を作った。教会とは「地上にある全てのキリスト信者の集まり」、「一つなる信仰における心の集い」、「聖徒たちの交わり」である。

 ローマ・カトリックの教会理解はキリストの代理人であるローマ教皇を頭として先ず立て、天国の鍵を預かる教皇の権能が委託されて行使される職階制度が中心になる。それは裁治制度であり、縦の関係である。信仰者の関与する余地は殆どない。

 2.内的教会と外的教会

 以上のように信仰の交わりとして成立する教会は、内的・霊的なキリスト教会(Chris-tenheit)であるが、これはまた身体的・外的なキリスト教会と結び付く。外的なキリスト教は外的な御言葉と聖礼典によって成り立つ。

 ルターが内的という点を強調している個所がある。そのため、日本の無教会主義者を代表例として、ルターの教会観が霊的教会を目指すものであったとの理解が行なわれてい る。この人たちはルターにおける外的側面の言及は彼の論旨の不徹底であると断定する。これは事実認識から逸脱した恣意的解釈である。

 3.御言葉の説教と聖礼典

 教会が説教と聖礼典によって成らしめられることをルターは悟る。この基本線はますます確認・強化される。

 神の言葉の説教が神の言葉であることについてはさきに触れた。このことの確認が進む時、教理基準が教会的に確定されなければならないことが自覚されて来る。それは人の言葉を神の言葉に対置することではない。

 サクラメントについて、ルターはカトリック的な七つの秘跡を否定するが、初めのうちは「悔い改め」をサクラメントとして残そうとする。しかし、悔い改め自体は重要であるが、これをサクラメントとすることの不合理を悟って、サクラメントをキリストの制定による洗礼と聖晩餐の二つに限定する。

 ルターの聖礼典理解はそのリアリティーに重点を置くため、リアリズムになる。これが徴し(signum)であることは承知しているが、効力ある徴しと捉える。そのため、徴しが指し示す事柄自体と、指し示す徴しの区別が明確にならない。またその効力を小さく狭く捉えることを避ける。したがって徴しが賜物の賦与でもあるし、全ての者に賦与されることにもなる。

 4.制度的教会

 神の言葉としての説教は神によって立てられた教職によってなされる。職制は重要視される。この傾向はラディカル・リフォーメーションへの反発に始まり、その後ますます強化される。「万人祭司」という思想は喧伝されているが、当のルターの教会観は保守的であった。万人祭司を言うのは初期だけである。教会の職制としてルターは説教職しか考えなかった。改革派の方で四職を立てたのと異なる。また、ルター派の教会は領邦教会として組織される。領主の権能との確執があったわけではないが、教会と国家の問題として、問題は残る。

[5]ルターの同調者の間における信仰義認の教理 

 1.メランヒトンの体系化

 Melanchthon (1497-1560) は初めヴィッテンベルクのギリシャ語教授、人文主義者、ルターの感化で神学者になる。ルター派の信仰告白文書のうち「アウクスブルク信仰告白」、「同弁証論」、「ローマ教皇権論」は彼の著である。

 代表的著作は「ロキ・コンムネス・レールム・テオロギカールム」(神学的な事柄の共通概念)1521年初版、35年、43年、59年に全面的な改稿がなされるが、構成はそのままで、部分的に改められることは多かった。「ロキ」という語は「ロクス」の複数、「諸概念」の意味である。この神学的方法は、12世紀の神学の立て方に倣ったもので、アベラルドゥス、サン・ヴィクトールのフゴが始めたものである。神学的諸概念を設定して、聖書的に検討して行くのである。「ロキ」が改稿の時、構成が大幅に組み替えられたのはメランヒトンの一貫性のなさを示すと見られることがあるが、体系を模索中だった事情も大きい。

 メランヒトンは聖書釈義から出発する。スコラ神学が形而上学的思考とアリストテレス的論理を用いて体系を組み上げたのとは別の行き方をする。カトリックと対決する神学はカトリック神学の場所を借りて行なうのでなく、全く別の構想を持たねばならなかった。すなわち、聖書だけを依りどころとして、聖書の中の諸概念を纏めた。初版の場合は三位一体すら扱っていない。神そのものや、神の本質についての哲学的考察でなく、如何にして救われるかの認識を重んじる。

 初版で取り上げられた諸概念としては、人間の能力、罪、律法、福音、恩寵、義認及び信仰、旧約と新約の相違、徴し(聖礼典)、愛、公権力、躓き、である。雑然とした印象を与えるであろうが、体系の内的秩序はある。すなわち、罪、律法、福音の章に関心が集中し、信仰による義認が中心に位置付けられる。ルター派教理体系において信仰義認の条項が決定的な位置を占めるのはメランヒトンによる。

 2.義認と再生

 メランヒトンは再生を無視した訳ではない。しかし、義認の際立った強調とその明快な論理のために、再生は体系の中では重要な位置を持たず、印象付けられない。例えば「キリスト教的生活とは悔い改めそのものにほかならない。それはすなわち我々の再生であ る」(「悔い改めについての章」)と言っている。ただし、これは聖礼典を論じる部分に述べられたものである。悔い改めを再生であると把握する点は正しいが、そのことの強調はない。

 こういう点でルター派の中にも不満が残る。それが後年オジアンダーの義認論を生む機縁となった( Disputatio de justificatione 1550)。オジアンダーはキリストの本質的義が我々に注がれることが justificatio であると説いた。

 オジアンダーは初めは南ドイツ、ニュ−ルンベルクで宗教改革を推進する強力な指導者で、旧約に詳しかった。メランヒトンの義認論理解に反発したがルター派の中でも批判を受けた。カルヴァン「キリスト教綱要」3,11,5 以下参照。                                          


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