第2講 宗教改革

[1]宗教改革の意義

 1.我々は宗教改革を重視する。多くのキリスト者はキリスト教における聖書の意義を強調し、それをキリスト教の原点とする。我々もそれに反対はしないが、聖書が出発点であるという理解には問題を曖昧にする危険が伴うことに気付いている。この類の主張には聖書が何であるかについての厳密な把握がない場合が多い。聖書への復帰のスローガンが必ずしも主観主義の克服にならず、むしろ聖書解釈の主観的立場を乱立させる事になっていはしないか。復帰のスローガンは聖書そのものへの忠実さから来るよりも、ロマン主義的情緒に依存する度合いが大きい。したがって、近代的な主観主義を克服することが出来ないのみか、その危険に埋没しているのである。

 我々は宗教改革を介して聖書を見るように心掛けたい。なぜならば我々は宗教改革的教会によって養われて今日に至ったからである。宗教改革は聖書のみに教会の存立と改革の権威があると証しする。宗教改革には聖書解釈の主観主義を克服させるものがある。

 2.宗教改革は我々を宗教改革そのものに拘束するのでなく、宗教改革を越えた根源に目を向けさせる証しの使命を持ち、そのような証しの務めを全うしようとする神学を打ち立てた。これはキリスト教会の歴史に類を見ない傑出したものである。宗教改革に深入りしても方向を見失うことにならない。すなわち、宗教改革は神の言葉の神学を志しているからである。宗教改革は自己を絶対化させるのでなく、神の言葉の前に己れを低めた神学を我々に教える。

 3.歴史のどの時代も平等に重要性を持つと主張されるかも知れない。どの時代を掘り下げても、その取り上げ方が真摯でありさえすれば、あらゆる時代に適用できる普遍的なものを読み取ることが出来るのではないか。その通りである。けれども実際問題として、アプローチには道を選ばなければならない。どこから登りはじめても頂上に行ける、というのは原則的には言えるとしても安易な考えである。最も健全なアプローチを選ばなければならない。

 宗教改革が究極の事柄へのアプローチとして適切であるのは、(1)その位置が教会の歴史の只中にあって、その前もその後も考察せざるを得ない。(2)改革者自身が教会の本質的な事柄に漏れなく目を配り、また言及しているため、アプローチの過程において神学の必要な要素の全部に触れることが出来る。

 4.宗教改革には主流として二つの流れがある。ルター派のそれと改革派のそれであ る。この二つの間には相互に作用し合っている面があるから関連を捉えなければならないとともに、区別も必要である。教理の建て方が違う。この区別が意識されていない宗教改革研究が多いのではないか。このように区別の意識のない理由は、(1)教理史研究者の学問的未成熟、すなわち自らの研究と思索の蓄積を持たず、自らの立場を持たず、他の人の説を吟味なしに取り入れる。その説というのは次に挙げる二つのどれか、もしくは二つともである。(2)教理史がドイツで始まった学問であるために研究者の比較的多数がルター派に属し、ルター派的見解に基いて教理史の叙述を行なう。そこでは、改革派の見解は十分理解されていない場合が多い。(3)宗教改革を教理史的立場からでなく、一般史、あるいは思想史として研究する時、ルター派と改革派の違いが問題にならない場合が多い。

 なお、以上の「主流」と言われる二つの流れの外に、ラディカル・リフォーメーションと言われるプロテスタント急進主義と、カトリック内の改革がある。これらを宗教改革として一括することは思想史的に十分意味のあることであるが、教理史としては別の見方がある。教理史として見るならば、ルター派と改革派が教理形成をし、急進派とカトリック内宗教改革には教理形成の志向が弱い。ラディカル・リフォーメーションについては本講義で若干扱うが、カトリック宗教改革には必要な場合のほかは触れない。

 * 宗教改革についての一般的、教会史的知識は本講義ではなるべく省略する。それは各自で学びおかれたい。参考書。渡辺信夫「神と魂と世界と」(白水社)

 従来、日本では教会史はドイツの学問を受け継いだものが尊ばれていた。それらは概ねルター派偏重の傾向を持つ。改革派についての認識と理解は質的にも、量的にも劣っていた。                    

 * 宗教改革を研究する多くの立場と方法がある。宗教改革は中世から近世への転換期に位する特別に巨大な歴史的事件であるから、これを研究するさまざまな立場と方法があるのは当然である。それらを尊重したい。多様化を多様なままで捉えることは重要であ る。しかし、我々の立場を守ることを忘れずにおこう。

 * 宗教改革の周辺事情に詳しいのは The New Cambridge Modern History.Vol.2. The Reformation.1958. rev.ed.1990.                                  

[2]宗教改革への道

1.中世から宗教改革への連続性と非連続性

 中世の豊かさの実りとして宗教改革が生じたという一面と、中世においてキリスト教が堕落したことへの反発としての宗教改革が生まれたという一面とがある。かつては後者の理解が盛んであった。今日ではむしろ中世思想の成熟が宗教改革を生み出したという見解が正しいと認められている。

 このような理解が研究者の間で主流を占めるようになったのは、エチエンヌ・ジルソン以来のカトリック神学者の中世思想研究や、リュシアン・フェーヴル以来のアナール派の歴史学が進んだからであろう。かつての「暗黒時代」という中世のイメージは今日では一掃されている。12、13世紀における文化の開花の継続発展から宗教改革が生じた。

 この認識は近世および近代の理解にとっては不可欠である。近代は理性に信頼を置き、中世を低く評価した。このような近代思想の行き詰まりは今日いよいよ明らかになり、歴史理解のパラダイムを抜本的に組替えなければならないようになっているが、そこでは中世をどう理解するかが鍵になる。

 * ハスキンズ「十二世紀ルネサンス」(1927)(創文社、みすず)、(さらに詳しくは R. L.Benson and G.Constable with C.D.Lanham ed.: Renaissance and Renewal in theTwelfth Century. UCLA Center for Medieval and Renaissance Studies. Oxford,1982 特にその第1部が良い) 中世を肯定的に見る研究書は日本でも増えつつあるが、今のところまだ断片的なものが多い。ホイジンハ「中世の秋」(中公文庫・角川文庫)、簡単なものは、レオナール「プロテスタントの歴史」(白水社・クセジュ文庫)参照。

 しかし、宗教改革の側からカトリックに対する反発と対決の姿勢は非常に強硬である。上述の中世暗黒時代のイメージはルネッサンス及び宗教改革に由来するのであって、その見解にやや行き過ぎがあったと認めて良い。それにしても、中世と宗教改革の断絶面は認めなければならない。すなわち、文化的には宗教改革は中世に続くのであるが、神学的には決然と断絶している。宗教改革の決断的・闘争的姿勢や排他性の論理は真理に対する忠誠を示すのであり、その観点から理解さるべきであって、偏狭な闘争心と受け取ってはならない。対決を無視するならば宗教改革の本質的理解が出来なくなる。

 前時代から宗教改革への連続があるということは、近世カトリシズムも或る面で前時代との連続面を持つ事情と共通する。前時代から引き継いだものを福音主義宗教改革とカトリック内部の宗教改革と、ラディカル・リフォーメイションが別々に分け持っている。これら三者の共通点を捉えることは可能であり、有意義ではあるが、共通点を強調しすぎると教理成立史は成り立たず、精神史の一面の考察に終わってしまう。

2.哲学思想

 哲学の流れを追うならば、唯名論が力を得、実念論において尊ばれた普遍者への関心は低くなり、個別存在に関心が転じる。個別存在の把握は特に罪意識に凝集される。個別者の罪についての意識の深まりを度外視しては宗教改革を理解することは出来ない。

 普遍的なものという観念がもはや解決力を持つことが出来ない時代状況が中世末期に起こっている。実際には、学者の間でトマス説の祖述を行なっている向きが多かったのではあるが、それに満足しきれない人が次第に増えている。

 罪の苦しみに対しては癒しが普遍的教会によって差し出されていた。かつての時代にはその解決策で人々は満足した。しかし、個別者の意識が深まって来ると普遍的解決をもって個別の解決に適用することが難しくなる。

 * 中世哲学史の参考書としては、古い簡略なものは役に立たない。参考にするなら ば、13世紀におけるスコラ学の成立と、その後の推移を丁寧に論じたものでなければならない。例えば、コプルストンの哲学史。ジルソンの中世哲学史。岩下壮一「中世哲学思想史研究」。稲垣良典の著書。

 The Cambridge History of later Medieval Philosophy.1984.           

The Cambridge History of Renaissance Philosophy.1988.                    

3.神秘主義

 神秘主義については簡略に論じるに留める。偽ディオニシウス・アレオパギティカの書が中世では大きい影響を与えていた。ドイツにおいては極端な神秘主義(エックハルト†1327、タウラー†1361、ゾイゼ†1366 など)がドミニコ会にあったが、広い影響は及ぼさなかった。キリスト教は神と人との仲保者による結び付きを説く宗教であるから、直接性を受け入れない。穏健な神秘主義が受け入れられる。例えば、シトー会のクレルヴォーのベルナ−ル( †1153 )、オランダの共同生活の兄弟たちが唱えるデヴォティオ・モデルナ。彼らは聖書的敬虔を重んじる。

 神秘主義の中で宗教改革に近いのはデヴォティオ・モデルナである。その傾向を理解するためにはトマス・ア・ケンピス( †1471 )のものと言われている「デ・イミタチオネ・クリスティ」を見るのが良い。

 神秘主義は中世のローマ・カトリック教会が教会法的機構として形成されるのに対立する思想である。その限りでは、ここに改革思想の温床があると見ることは可能である。けれども、神秘主義思想自体は改革という行動も、改革された教会を形成するという意図も持たない。またローマ・カトリック教会は神秘主義に傾く動きを教会体制の中に組み入れようとし、その政策は成功した。ルターに神秘主義の影響があったことは指摘される通りであるが、神秘主義がルターの宗教改革の要因となったと見るのは無理である。

 * 教理史の観点からは神秘主義は殆ど問題にならないが、それより広い領域のキリスト教的スピリチュアリティーには関心を向けておきたい。歴史的記述としては、次の2つのシリーズがある。

 ◎ Louis Bouyer/Jean Leclercq/Francois Vandenbroucke:A History of Christian  Spirituality.(English translation).3 Vols.

 ◎ Bernard McGinn/John Meyendorff(ed.):Christian Spirituality 1,2,3. (World  Spirituality 16,17,18)Crossroad

 モノグラフのシリーズでは Classics of Western Spirituality が良い。

 日本ではスピリチュアリティーについての関心が低く、研究の蓄積もないため上記のようなシリーズは作れない。ただ、神秘主義は多少研究されていたので、叢書が出始めている。(教文館と講談社)

4.公会議主義(Conciliarismus) の発展。教皇至上主義の矛盾の克服の試み。改革会議。

 ローマ・カトリック教会の中には教皇至上主義と公会議主義の二つの考え方があった。近年の第二ヴァティカン会議では後者が大きい力を持って来たが、中世では概ね前者の考えが強い。しかし、対立教皇がローマとアヴィニヨンに立ち、双方が至上の権威を主張するに及んで、教皇至上主義では解決が付かないことが明らかになる。そこで、公会議を開催して決着を付ける考えが強くなる。公会議主義の指導的役割を演じた神学者はジャン・ジェルソンであるが、この思想は一時的な機能を果たしただけで、その後また弱まった。さらに、改革会議が改革の先駆者であるフスを断罪したことは、会議による教会の改革という彼らの考えに限界があるのを物語る。また、宗教改革期のカトリック体制擁護派が公会議主義を用いてトリエント会議を開いたことも見落としてはならない。公会議主義が宗教改革に近いと見るのは誤解である。

 近世カトリックにおいては公会議主義は衰退の一途をたどり、19世紀の第一ヴァティカン会議において教皇権の至上性が認められるが、20世紀になって第二ヴァティカン会議で盛んになる。

 

 * 公会議(concilium) と地方会議(synodus)を権威の点でカトリックは峻別する。それは常識的にも肯定出来るが、実際にどれが本質的に公会議であり、地方会議であるかという問題になるとはっきりしなくなる。公会議の数え方が東方正教会とローマ・カトリック教会では違う。コンキリウムはラテン語で「コン」+「カロー」(共に、呼び集め  る)、シノドゥスはギリシャ語で「シュン」+「ホドス」(道が集まる)で、意味の上から違いを論じることは出来ない。

 * 公会議主義に関しては次の参考書が助けとなる。

 ◎ B.Tierney:Foundation of the Conciliar Theory. 1955

◎ H.J.Sieben:Die Konzelsidee des lateinishen Mittelalters(847-1378).1984.

 ◎ Ders. Die katholische Konzilsidee von der Reformation bis zur Aufklaerung   1988

 ◎ R.Baeumer(Hersgg):Die Entwicklung des Konziliarismus. 1976.

5.人文主義

 i. 人文主義の起源については、東方からの影響よりはヨーロッパ自身の中での思想的成熟を重視したい。中世末期の人文主義は、最初、キリスト教的中世への批判的性格を持つ古代ギリシャ・ラテン文学の復興運動であった。しかし、研究対象としての古典の領域が広がり、キリスト教の古典、すなわち聖書と古代教父が人文研究の枠内で研究されるようになるにおよんで、キリスト教の復古運動となる。

 ii. 古典研究としての人文主義は必ずしも人間主義ではないが、人間主義に通じるものを持っている。したがって、カトリックにおける人間性の抑圧は当然問題にされる。

 iii.中世におけるキリスト教の学問は主として哲学的方法を用いた。哲学的概念を整えることによってキリスト教は他の諸思想に対する優位を確立したが、概念的優位であるに過ぎない。人文主義は概念を駆使するのでなく、生きた言葉を生きたものとして扱おうとする。またそこには哲学的・神学的な考えに対立する文学的発想がある。

 iv. 人文主義は人間を謳歌した楽天的、人間肯定的な思想であると見られるが、この通俗的見解は正確でない。また、当時の時代精神がルネッサンス美術作品によって表わされると見るのも正しくない。ルネッサンスの精神の最も重要な表現形式は文学である。ルネッサンス美術は当時興隆した商人階級の楽天的人生観を反映したものであるにすぎず、一般庶民はむしろペシミスティックな人生観を持っていた。ルネッサンス美術も時期によって、地方によって表現内容が異なる。

6.アウグスティヌス主義の復興

 アウグスティヌスは中世を通じて権威を認められていたが、名が知られるほどには内容は知られていなかった。中世末期にアウグスティヌスの名を掲げる復古運動が幾つも始まる。主に修道会の設立であるが、アウグスティヌスの文書も読まれるようになる。ルターもまたこの傾向から出発する。彼はアウグスティヌス隠修士会に入会し、この教父について学ぶ。

 中世末期のアウグスティヌス復興の特色はアウグスティヌスの諸論争のうちペラギウス論争を重視する傾向に表われる。原罪と恩寵の問題がその焦点になる。これは予定論とも緊密に結び付く。

 * ペラギウス論争から、オランジュ会議までの過程、またオランジュ会議の規定を学んで置くこと。

[3]改革の試みと挫折 

 1.中世における改革運動

i.修道院の改革

 修道院の開設はキリスト教の世俗化の弊を改めようとするものであった。ところが、修道院そのものが世俗化する。そこで修道院内の改革が必要になる。これは修道院の戒律を厳格にすることによって精神的改革を来たらせようとする試みである。この試みが中世を通じて繰り返される。しかし、単に戒律を厳格にするだけでは目的を達し得ないので、敬虔を重視する。

 このような修道院改革からは宗教改革は生じなかった。

ii. 民衆を抱え込んだ異端運動、例えばワルドーの運動。

 中世における異端運動については別個に考察した方が良いであろう。異端と断定したのはローマ・カトリック教会の立場からであって、真に異端と呼べるかどうかは別問題である。

 単に異説派への興味としてでなく、異端派から学び取るべき点も少なくない。これらの異端派に民衆が或る程度の共鳴を示したのは、彼らが宗教の改革を望んでいたことを物語る。

 しかし、宗教改革の直前にこれとつながる異端運動はない。宗教改革の引き金となるべき強力な主張はなかった。ワルドー、フス、ウィクリフの後継者が宗教改革に参加するという形を取った。

iii.公会議の権能を強化することによる教会の機構改革

 対立教皇を解決するに当たって公会議は有効であった。しかし、教会改革のためのコンスタンツ会議が改革者フスを死刑にしているのは、会議による改革の限界を示す象徴的事件である。また、改革の必要が感じられているにもかかわらず、改革会議が開かれなくなったのは公会議主義が頓挫したことを表わしている。

 これらの試みは抜本的な改革に至らなかった。

2.聖書の発見

 聖書は中世では決して隠された書物ではなかった。聖書のメッセージを徹底的に受け止めようとするラディカルな変革運動が起こった時、聖書を信徒が読む事を禁じた場合がある。その件については事情の如何に関わらず、弁護の余地はない。ではあるが、中世全体として見るならば、聖書の普及への努力は重ねられていた。

 グーテンベルクによる印刷術の発明によって聖書が普及したと言われるが、印刷によって大量に普及するようになった訳ではない。印刷本も高価であった。本を読む人はまだ少なかった。しかし、写本によって聖書が普及していた時代と比べて、飛躍的に普及したのは事実である。また、本を読む階層が都市経済と人文主義的教養の進展によって広がった点は聖書の普及にとって重要な要件であった。

* 聖書が歴史を通じて如何に読まれ、如何に作用して来たかについては、次のシリーズがある。いずれも優れた書物である。1は入門的、2は学問的価値が最も高い。3は図版が多い。

  ◎ Cambridge History of the Bible, 3 Vols.

  ◎ Bible de tous les temps. 8 vols.

  ◎ De Bijbel en het Christendom.4 Deel.

 聖書の普及が格段の進歩を見たのは印刷術の発明に負う。しかし、印刷術によって聖書が直ちに民衆の手に渡ったと見ることは出来ない。民衆の多くは文字を知らない。ラテン語を読むことも出来ない。そして聖書は未だ非常に高価である。

 けれども、以前の時代と比べるならば、聖書を読む人の数は遥かに多くなった。聖書そのものが読む人の敬虔を養う。彼らは人文主義の影響で聖書を書物として読む。聖書をカトリック的概念で処理したものを読むのではない。これを読むことによって現実の教会への疑問が生まれる。聖書のメッセージが現実生活の中で生きるように実践が行なわれる。こうして教会に依存しない信仰が生まれる。

 聖書を読む運動が教会全体の動きにならなかったのは、大部分の教会の司祭たちが無学であって、聖書を学ぶことが出来なかったからである。そして、彼らが聖書その他の知識を必要と余り感じなかったのは、信仰がサクラメントによって成り立っているとする教会制度で、サクラメント執行の力の付与はサクラメントとしての叙任にあると考えられていたからである。

3.教会の硬直状態

 公会議主義は中世末期において一定の成果を挙げたけれども、教会全体を活性化することは出来なかった。したがって、初めのうち意欲的に重ねられて来た改革会議は停滞す る。教会は余りにも多くの理論を持ち、全てを理論で説明し、しかし、現実は少しも変わらない。

 教会内部の力学が教会を改革しない方向にしか作用しない。

4.ウイクリフとフスの改革

 宗教改革以前の改革を試みた者として、この2人は特に傑出している。それは彼らが神学的に考察したからである。彼らの影響が比較的小さかったのは、時期尚早であり、彼らの思想に共鳴し、それを増幅する周囲の人材に乏しかったからである。ウイクリフの追随者はロラード運動として残り、フスの追随者はフシーテンとして、チェッコの民族自立運動を推進する。しかし、次の時代の宗教改革を呼び起こしたとは言えない。ルターはそれらの先蹤の影響は受けていない。

 ウイクリフとフスについては好意的認識と評価が必要である。近年はカトリックでもフスを評価する。

* P.de Vooght : Hussiana. Louvain,1960

* P.de Vooght : L'heresie de Jean Huss 2 vols.Louvain,1975

5.機構の改革の限界、内面からの全面的な改革、ルター出現の意味

 改革の試みが全て失敗に終わっていたのは、時期尚早であったからかも知れないが、魂の改革なしに機構の変更を試みる考えに民衆がついて行かなかったからでもある。ルターは人々の心を揺り動かす力を持っていた。

[4]ルターの初期の苦闘 

1.死の問題と罪の問題 

 ルターは死の恐怖から出発したらしい。エルフルトの大学生であった時、森の中を友人とともに歩いていて、雷に打たれて友人は死に、彼は非常な恐怖を経験したことがあると言われる。彼はそこで修道院に入る誓願を立てたというが、死の問題を克服するために修道院に入ったと解釈して良いであろう。だが、修道院における勤行の中で問題は解決せ ず、もっと大きくなり、むしろ本質的問題へと発展する。すなわち、罪の問題である。この問題を抱えているルターにとって教会が約束する定式は力を持たない。

 ルターの感じた初期の問題は珍しいものではなかったであろう。多くの人が同じ問題を感じ、その解決を求めて修道院に入った。そして、解決を得て来た。ルターには在来の解決に満足出来ない問題意識がある。これが彼の新しい時代人である所以である。今、教理史の立場からこの点に深入りする余裕はないが、彼と問題意識を共有しないならば、彼の思想的発展を理解することは出来ない。

 罪の問題の把握の深さがルターの宗教改革の力であるが、かれが罪を観念的にでなく、体験的に捉え、かつ実存的に考えた。

 このような内的苦悩を経験するルターにとって解決への指針となったのはパウロ書簡とアウグスティヌスの恩寵論であった。

2.義とする恩寵の発見 

 罪について、神について、恩寵による救いについて、既に神学理論は或る程度出来上がっていて、受け継がれていた。ルターはしかし、理論を学んで受け継ぐことが解決であると考えてはいない。学びを軽んじた訳ではないが、彼が問題にしたのは理論ではなくリアリティーであった。罪のリアリティーと神のリアリティーが明らかになって来る時、普及していたカトリック教会の理論の欠陥が明らかになって来る。

 ルターの初めの理解では神の義とは不義を裁く義であった。自らの罪を見詰めるルターは義なる神を避けようとする。しかし、神の義とは罪人を義とするものであることを発見する。これがルターの転換になる。この体験をルターは「塔体験」と呼ぶ。修道院の塔の中で起こったからである。この体験の年代は1511年から14年までの間であると推定され、宗教改革の始まりに先立つとされるが、宗教改革の初期にはこの体験の成果は必ずしも明白ではない。しかし、聖書講義の中にこの新しい思想を読み取ることは出来る。

 ルターはヴィッテンベルク大学の神学部で聖書講義をしていたが、この時の手稿が古文書として発見され、ルター研究は大いに進展した。これらの講義は出版されたので読むことが出来る。(1513-15 詩篇、1515-16 ローマ書、1516-17 ガラテヤ書、1517-18 ヘブル書、1518-19 詩篇)

3.九十五箇条の提題

 これが宗教改革の発端になったことは良く知られている。しかし、この提題の中に宗教改革の主張は余り盛り込まれていない。

 ルターはキリスト者の生涯が悔い改めでなければならないことをイエス・キリストの言葉に従って確定する。その悔い改めは教会法によって規定されたサクラメントとしてのそれではなく、本来の意味の悔い改めでなければならない。

 本来の意味の悔い改めを阻害しているのが告解制度であり、就中免償の考え、またその制度である。

 * 免償の思想についての解説

 免償(indulgentia)はしばしば「免罪符」と訳されるが、正しくない。ルターが問題にしたのは、免罪の証書の発行でなく、免償という考え方そのものであった。

 免償とは、罪は本来自分で償うべきであるが、本人が弱さその他の事情を持つ時、償罪を免じてもらうことである。それが可能なのは、聖人たちの挙げた余分の功績が教会の宝として蓄積され、「聖徒の交わり」あるいは「諸聖人の通功」(communio sanctorum) の原理によって、功績の不足するものに与えられる。それを、ローマ教皇が鍵の権能を行使することによって与からせる、というものである。

 しかし、ルターは九十五箇条提題においては免償を根本的に問題にすることが出来なかった。彼はむしろ免償の安易さを攻撃する。ここでは、悔い改めの真実を追求する。

 免償は免罪符と訳されることがあるが、この訳語は誤解のもとになる。罪の贖いを金で買い取ることにルターが反対したと取るのは問題の矮小化である。

 * 悔い改めの理解

 カトリック教会は悔い改め(poenitentia)をサクラメントの一つとし、司祭の前で行なう告解を中心として、三つの要素に分けた。

(1)心の痛悔(contritio) 

(2)口の告白 (confessio)

(3)行ないの償罪(satisfactio)

 痛悔と対比される不完全痛悔(atritio)は、刑罰への恐れによる悔いである。

 ルターはコントリティオこそが大切だと言う。それは苦しむこと、十字架を負うことである。                                     


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