神学校のクラスルームをのぞいてみよう

東京キリスト教学園(東京基督教大学、東京基督神学校、共立基督教研究所)の、過去の「入学案内」より転載


(専門科目)

神学を学ぶということ


 神学科は、聖書を中心として神学の基礎をさまぎまな角度から学びます。

従来、神学とは、教会に仕える学問と考えられてきました。それは正しいと思われますが、神学そのものが教会に仕えるということ自体も広い意味で考えられなくてはならないというのTCUの立場です。おそらく、神学科に入学を希望される方々は、将来直接的なみことばの奉仕を念頭においているかと忠われますが、その幅広い基礎を築くための学びと言えるでしょう。

聖書を理解するとは

 聖書は神のことばであり信仰と生活の唯一の基準であるとは、福音主義的な信仰者が一般に抱く信仰であります。ところが、その聖書の解釈と実践は、思ったほど簡単ではありません。

 まず、聖書そのものの解釈が単純ではありません。聖書は、今日の言語で書かれたものではなく、2千年、あるいは、それ以前に、しかも、今日の日本とは、時代的にだけではなく、文化的にもまったく別の世界で生み出されたものだからです。

 数千年前の書き物がどうして今日の私たちと関係するのか、それは、言うまでもなく、そこに記される出来事や意味が、その時代特有のものというだけではなく、永遠不変の意義をもっているからに他なりません。端的な話、キリストの十字架がその最善の例でしょう。天地を創造された唯一の神が、人間の歴史の中にご自身を現わされたという驚くべき出来事が語られています。いや、聖書は、天地の創造そのものから語り始めています。

 このように、聖書は、旧約聖書であれ、新約聖書であれ、数千年前の文書でありながら、どの時代の人々にも語りかける神のことばであります。

 しかし、その永遠不変のメッセージをどのように読み取るべきでしょうか。

もちろん、明らかなメッセージはありますが、聖書のテキストの多くの個所が、一見理解しやすいようで、実は、難解です。格別、みことばの深い意味に入っていこうとするといろいろな問題に直面します。当時の文化をよく知らない今日の私たちにとって難解なのであって、当時の人々にとってはそうではないという場合も多くあるでしょう。それは、他でもなく、私たちが全く異なった時代と文化の中に生きているためであります。

 ですから、その聖書にある永遠のメッセージに関心を寄せることはすばらしいことですが、その熱心さはまた冷静で客観的な学問によって裏付けられる必要があります。聖書のテキストについて客観的な学びを積み上げないで聖書を読んでいますと、どうしても、ただの読み込みに過ぎない、あるいは、読みたいことだけを読んでいるということになりかねません。

諸学問や文化との関連で

 その聖書を正しく理解するために必要なさまぎまな学問領域があります。

聖書の原典原語であるギリシャ語やヘブル語から始まり、イスラエルの歴史、聖書考古学、聖書緒論、各書研究、聖書釈義、旧約神学、新約神学なとが挙げられるでしょう。これらの領域は、以前と比べますと、近年においては、かなり他の一般的な学問分野、例えば、古代オリエント学、古典学、歴史学、言語学、文学、文化人類学、法学、比較宗教学などとのかかわりで取り扱

われなくてはならないものと考えられています。それらは、聖書を一般的な次元で見るというためだけではなく、真に聖書の独自性や天来性を知るために必要なのです。TCUが、神学の営みを広く捉えようとすることの重要な理由の1つもここにあると言えるでしょう。

 しかし、聖書自体を抜う分野と同じくらい重要なものに解釈学が挙げられます。と言いますのは、聖書を解釈するのは、特定の時代精神の中に生き、さまざまな思想的・哲学的前提をもったある特定の時代の特定の人間だからです。すでに述べましたように、聖書自体が、ある特定の時代の特定の文化の中から生み出されたものです。異なった前提をもった人間が、別の前提に立った聖書を解釈する場合、最大の注意を払っても読み込みが生じます。そこで、解釈者みずからの諸前提自体を再検討する学問も必要となってくるでしょう。こうなりますと、聖書解釈という作業は一般の哲学や思想史とも深くかかわってくることが容易に想像されるわけです。

 さらに、私たちは、たとえ聖書のメッセージが汲み取られたとしても、そのメッセージは、日本の文化という文脈にどのように受容されるべきか、あるいは、伝達すべきかという課題に直面します。言うまでもなく、永遠不変のメッセージとは言え、特定の歴史的・文化的状況の中に生きる私たちですから、そのメッセージがゆがめられることなく、正確に伝達されなくてはなりません。

日本文化、日本の教会の歴史などに関する学びも必須でしょう。聖書の釈義から永遠不変のメッセージを読みとり、それを今日の日本の人々に語るというプロセスを代表するものとして説教が挙げられるでしょう。説教についてはいろいろな立場もありますが、聖書に含まれる永遠不変の真理をいかに正確に力強く効果的に今日の人々に語りうるかという点に、神学の学びの成果の一端を見ることが出来るのではないでしょうか。

知的学びと霊的感動

 例えぼ私自身の担当する「旧約研究II」においては、預言者が研究の対象となりますが、そこでは、預言をどう読むかということと預言者とはなにかという2つの問いを中心に学びを進めていきます。預言をどう読むべきかとは極めて重要な学びですが、異なる立場を提示しながら正しい読み方を模索していきます。特に、新約を意識するあまり旧約独自のメッセージを見逃す危険性を指摘し、旧約のテキスト自体の語るメッセージを読みとることの重要性を強調いたします。また、ややもすれば、今日の信仰者とは無縁と考えられやすい旧約の預言者から、その召命や生き方がいかに今日の信仰者に意義深いものであるかをも学びます。

 今日、福音主義的な信仰者であれば誰でも、信仰的であること、霊的であることを願うでしょう。しかし、霊的であることは、知性と分離してはならないのではないでしょうか。本来、聖書にかかわる学びが、単に知的であるということはありません。対象が聖書である限り、冷静で知的な学びも必ずや感動を呼び起こし、信仰に益することと信じます。いや、そのような学びを、神学科はめざしています。

 日本の宣教も、こうした学びの積み重ねを省略して為され得るものではないでしょう。このような学びに志をもたれる方々が多く起こされ、真に神の国の建設に貢献しうる奉仕者となられることを期待しております。


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