神学校のクラスルームをのぞいてみよう

東京キリスト教学園(東京基督教大学、東京基督神学校、共立基督教研究所)の、過去の「入学案内」より転載


(共通基礎科目)

キリスト教哲学概論


問いと答え

「人はなぜ生きるのか?」

 こんな初歩的な質問を投げかけられたら,あなたはどう答えますか。この授業の基調を流れている問いです。

 教室での学びはチャペルとは性格を異にしています。静かに聴いていれば一方的に恵みが与えられるというものではありません。チャペルのときとは正反対の“とき”がそこに出現します。自らこれに参加するのです。絶えず問いを出す場。教師が問いを出し学生が答えます。学生も問いを出し教師が答えます。ときには教師も答えられない問いが出てきます。

「人はなぜ生きるのか?」キリスト者としてのあなたの答えは。「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶためです」。なるほど模範的な答えです。大いに結構。それでは次の質問、「神の栄光をあらわすとはどういうことですか?」「そもそも神が存在するとはどういうことですか?」「そのことがあなたの思考と行為にどう関わるのですか?」質問はだんだんと意地悪くなっていきます。敬虔なクリスチャンの度肝を抜くような質問が次々と飛び出す時間。しかし神学を学ぶものが一度は通らなければならない関門…。

 青から哲学者の出す質問は意地悪いものでした。使徒パウロもギリシャのアテネではこの意地悪たちと論争しました。そして現代のエピクロス派やストア派もまたまた輪をかけたやっかいな連中です。でも世の中は哲学プームとか。「あなたは誰?」という質問で始まる『ソフィーの世界』がベストセラー。こういった世の潮流から離れて、「われ関せず」ということではせっかくの福音を伝えることはできないのです。あなたはソフィーちゃんの質問にチャンと答えられますか。あなたの周囲にたくさんいる悩めるソフィーちゃんたちに向かって、「答えはこれよ」とキチンと提示できますか。それでもう一度その素朴な信仰をふるいにかけ、現代人の真剣な問いに対する真剣な答えを見つけようではありませんか。「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおに」なるために。

日常世界の生の充実

 オウム教団事件のような凶悪な無差別テロが、なぜ日本の社会に起こるのでしょうか。しかも世の多くの若者がこういったカルト集団にひきつけられています。私たちはそのことの意味の深刻さをどれだけ理解しているでしょうか。オウム事件にはある意味では日本社会の抱える矛盾が凝縮されて出てきています。若者が神秘体験を求めてカルトに入信しています。彼らは生きる充足感、生きる意味が見出しえないからです。すっかり管理されてしまった情報化社会。そこに現出しているのはヴァーチャルなもので本当にリアルなものが分からなくなっています。まさにヴァーチヤル・リアリティー(仮想現実)の世界。

 大人たちは経済成長神話にとりつかれて、日々、経済的価値ばかりを追い求め(それもバブルですでに崩壊してしまいましたが)、若者に生きる意味を教えてくれない。

学校の先生も「勉強しろ」というだけで著者に生きる意味を教えてくれない。あげくのはては陰湿ないじめとそして登校拒否、ドロップ・アウト。今の大人たちは若者に

希望ある未来を与えてくれない。八方ふさがりの管理社会…….いきおい、生きる充足を求めて、超能力の開発という言葉にひかれてカルト集団に走っていく。

 しかし日常とはそんなに八方ふさがりで退屈なものでしょうか.いやそんなことはない。目を凝らしてよく見て下さい.足元をよく見よ、脚下照顧!復活の主、命のロゴスがそこに来ておられるではありませんか。あなたの心の扉をたたいておられるのではないですか。「今、ここに神われらと共にいます」.

 生の意味づけ、生の充実、私たちの生き方は十字架を通して静的な惰性から動的な命へ、スタティックなものからダイナミックなものへと変えられます.世の腐敗、世の虚構のカラクリ、それらは変えられるべきなのです.より命に満ちたものへと。誰によってですか。復活の主に出会ったあなたによって。どのようにしてですか。出家して修行して得た異常体験、超能力によってですか。いやいや、ごく平凡な日常の中で、正常な生活体験の中で。徐々に、徐々に、冷静に、しかし熟しつつ.待ちつつ、しかし急ぎつつ……。「わたしが示す地へ行きなさい」と.

21世紀のソフィアを求めて

 時代は世結末、人類はこれからどこへ向かっていくのでしょうか.

 2000年の間、キリスト教はその伝統を築き上げてきました。それは西洋文明の歴史と重なり合っています.しかし今や、キリスト教はその担い手を西洋からアジア・アフリカ・南米等の、これまで第3世界と呼ばれた地域に移しつつあります。キリスト教は今後、過去の西洋キリスト教の遺産をどう引き継ぎ第3世界の文明・宗教との衝突・交流の中で変貌をとげていこうとしているのか。まったく未知の事柄に属します。

 過去の西洋文明の根底にはユダヤ・キリスト教の伝統以外にギリシャに端を発する思惟方法がありました。それは近代哲学・近代科学を生み出す原動力ともなりました。この近代哲学・近代科学のおかげで18世紀以降のキリスト教は大きな変化を被り、それゆえにいわゆる自由主義紳学の台頭となったわけです。しかし自由主義も今や死にました。時代はポスト啓蒙主義、ポスト近代(ポストモダン)です。

「神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました」(エペソ1:8、9).ここで知恵(ソフィア)と同時に思慮深さ(フロネーシス)という言葉が使われているのは興味深いことでナ.アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中でソフィアを理論的知、フロネーシスを実用的知という具合に区別して使っていますが、パウロはキリストの贖いの恵みという観点から、これらの言葉を「みこころの奥義」と関係づけています.驚くべきことです。

ここにキリスト者がこの世の知恵を拒否するのではなく、創造主なる神の恵みとして、キリスト教世界観から批判的に吟味していく糸口があるように思えます。

 アリストテレス(ギリシャ哲学)・デカルト(近代哲学)に代わる新しいソフィアとしてのキリスト教哲学。新しい『ソフィアの世界』のはじまり、はじまり…。


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