「人を解放する力ある御言葉」

(ルカの福音書4章31〜37節)

牧師 広瀬 薫

ルカ 4:31 それからイエスは、ガリラヤの町カペナウムに下られた。そして、安息日ごとに、人々を教えられた。

ルカ 4:32 人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。

ルカ 4:33 また、会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいた。

ルカ 4:34 「ああ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」

ルカ 4:35 イエスは彼をしかって、「黙れ。その人から出て行け。」と言われた。するとその悪霊は人々の真中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。

ルカ 4:36 人々はみな驚いて、互いに話し合った。「今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。」

ルカ 4:37 こうしてイエスのうわさは、回りの地方の至る所に広まった。


  イエス・キリストは、私達クリスチャンにとって、救いというものはすでに実現したのだ、と教えて下さいました。これは、イエス様が教えられたことの非常にユニークなことの一つだと思います。

ルカの福音書4章21節、「イエスは人々にこう言って話し始められた。『きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。』」

 イエス・キリストは、いつか実現するだろうと言われませんでした。

 「きょう、実現しました。」 つまり、私イエスと共に、すでに神の国は来た。すでに神はあなた方と共におられる。すでに救いは実現したのだ、ということです。

 主は、私達が救いのために何かルールを守らなくてはならないとか、功徳を積まなくてはならないとかおっしゃいませんでした。神は一方的な恵みによって、私達を愛して下さり、赦して下さり、苦難を身代わりに負って下さり、共に生きて下さるのです。そういう神の国は、すでに来た、と聖書は言うわけです。

 では、それは具体的には、どのようにして私達に実現するのでしょうか。私達の所に神の国がすでに来ているということを、どのように私達は体験するのでしょうか。またそれを私達はどのように受け止めて行けばよいのでしょうか。

 今日の箇所は、イエス・キリストが実現を宣言した救いの到来が、どのように人々の人生に実現して行ったか、ということを記録しています。

 出来事としては、悪霊につかれた人の癒しです。まず出来事を読んでみましょう。

31〜37節、「それからイエスは、ガリラヤの町カペナウムに下られた。そして、安息日ごとに、人々を教えられた。人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。また、会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいた。『ああ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。』イエスは彼をしかって、『黙れ。その人から出て行け。』と言われた。するとその悪霊は人々の真中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。人々はみな驚いて、互いに話し合った。『今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。』こうしてイエスのうわさは、回りの地方の至る所に広まった。」

 これは、出来事としては、イエス様の救いの力を実証したのですし、人間の側から言うと、それを実体験した、ということになります。

 けれども、ある方は、こう思われるのかも知れません。……そうは言っても、私にはなかなかそれが体験出来ないのです、と。

…もっと奇跡的な癒しを頂きたい、と思うのに、与えられない。

 早くこの逆境から解放されたい、と願っても、そうならない。

 もっと清められた人間になりたい、と祈るのに、実現しない。等々。

 そんな時私達は、何故なんだろうか、と自問するのでしょう。そして、私の信仰が足りないからじゃないか、と自分を責めたり、いや私が悪いんじゃなくて教会に欠けがあるからじゃないか、と回りを責めたり、また牧師がいけないのではないかと思ったりするのではないでしょうか。そして時には、特別な集会を求めたり、特別な人物を求めたり、特別な手法を求めたりするのです。

 もちろんそういうことにも、幾らかの真実はあるのでしょうけれども、しかし本質的なことは何なのでしょうか。

 今日の聖書の箇所からは、その本質的なことが何であるのかが汲み取れると思います。

 場面は、特別な集会ではありませんでした。普段の礼拝です。しかも、それはユダヤ教の礼拝でした。また、癒された人が特別立派な信仰の持ち主であったという感じは、全然ありません。むしろ、彼は大声でわめいて、嫌がっているのです。

34節、「ああ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」

 もちろん、こう言っているのは、この人自身ではなくて、彼の中に巣くっていた悪霊でしたが、しかし私達がイエス様に出会う時にも、この主の恐れを時に感じるのではないでしょうか。

 イエス様が解放して下さるとわかっているのに、もう一方で、イエス様がおっしゃる通りにしたら大変なことになるのではないかと恐れるのです。財産がなくなるかも知れないし、十字架につけられるかも知れない。大変な迫害を雄々しく信仰によって引き受けなければならないかも知れない。

 この人は求めつつ、恐れて動揺しているのであって、特別な信仰があったとは書いてありません。

 つまり、ここで聖書は、人間の側の何かによってこれが起きたのだというニュアンスを全然伝えていないのです。そうではなくて、強調点は、ただイエス様の訪れによってこれが起きたという方にあります。

 イエス様と共に、圧倒的な力で神の国は来たのだ。そこがユダヤ教の礼拝(つまり、旧約聖書に基づいていたとはいえ、いまだ欠け多き礼拝)の場であろうと、人間の側は期待しつつ恐れたり、おろおろしたりしていようと、とにかくまず、神の側から救いは突然やって来たのだということが、ここで強調されていると思います。

 そしてそれは何によってもたらされたかというと、それは、御言葉の権威ある力によってだ、ということを、今日の箇所は強調しています。

 今日の御言葉は、31〜32節、「それからイエスは、ガリラヤの町カペナウムに下られた。そして、安息日ごとに、人々を教えられた。人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。」と、御言葉の権威の強調で始まります。そして、癒しの出来事が起きた後も、36節、「人々はみな驚いて、互いに話し合った。『今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。』」と御言葉の権威を確かめて終わります。

 つまり、イエス様が語る神の御言葉の権威と力によって、ことは起きたのだというのです。何かの儀式によって起きたのではなく、何かのルールを守ることによってでもなく、誤解を恐れずに言うならば、人間の側の信仰的な何かによってですらなく、ただ、イエス・キリストが礼拝で語った神の言葉は、私達人間のただの言葉とは違う生きた力を持っていて、その御言葉の持つ神の権威ある圧倒的な力によって、人々は御言葉の通りに癒され、救われ、赦しを頂き、解放されたというわけです。

 この、御言葉の力、ということを、今日第一のポイントとして、よく確かめたいと思います。

 神の御言葉(聖書の言葉)は、今日もこうして礼拝の中で読まれ、語られ、聴かれているわけですが、その御言葉は、ただの言葉ではないのです。それは力を持っていて、私達の中に、何事かを起こさないではおかない、というものなのです。

イザヤ書55章11節、「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(同じイザヤ書の、46章10節、14章24節、25章1節、等も参照。)

 そういう力ある御言葉が、私達の礼拝の中で語られているのです。また、私達の様々な集まりの中で語られているのです。そこで語られた神の御言葉は、私達の中で何事か神の御心を実現せずにはおかない、ということでしょう。必ず御心が成るのです。成らずには終わらないのです。成らざるを得ないのです。…これを思うと、私達は感謝と安心感を覚えます。

 プロテスタントの伝統的な神学の中では、ご聖霊という方について考える時に、神の御言葉が語られる時、ご聖霊は御言葉と共に必ず働かれる方なのだ、として受け止められて来ました。神の御旨をあらわす御言葉が語られる時、神のご聖霊は、その御旨の実現のために、必ず働かれる。働かないことはない、というわけです。これは、大変に頼もしいことです。

 ですから、プロテスタント教会は、御言葉を大切にしてきました。教会とは、神の御言葉が神の御言葉として語られ聴かれる所です。もしも神の御言葉が無いのならば、そこはどこであっても本当の教会ではない。そして神の御言葉があるのならば、そこはどこであっても、そこに教会があるのだ、という、御言葉への信頼と集中が私達にはあるのです。

 御言葉が無ければ、私達が何をしようとしても駄目なのですし、御言葉があれば、私達は一生懸命にやってもなお不充分な者でありますが、しかしそこには神のみ業が神によって起きるのだ、と私達は信じるのであります。

 そんな、御言葉さえあれば、というのは、余りに脳天気なことではないか、とおっしゃられるのかも知れません。しかし、例えば東京基督教大学の学長M先生の言葉で言えばこれを「御言葉楽観主義」というと言うわけですが、私達プロテスタント教会は、結局突き詰めれば、この「御言葉楽観主義」に立って、神の御言葉に全幅の信頼を置いて、歩んでいるのであります。

 そのようにして歩んで行くと、どうなるのかというと、決して裏切られることはないのです。何故なら、御言葉を語った神は真実な方であって、必ず、約束された通りに救って下さるからなのです。

 そのことを表現しているのが、今年の標語(先週の教会総会で決めました標語)の前半部分です。

「とこしえに真実な主を知り、…」

 「とこしえに」という意味は、過去において、大きく人類の歴史においても、小さく私の今までの人生においても、常に主は真実であられたということであり、また今も、主は真実な方であり続けておられるということであり、更にまた未来も、必ず真実であり続けて下さるのだということです。

 さてでは、主がそのように一方的な恵みをもって私達を愛し、御言葉によって救い解放して下さるのならば、私達は何もしないでよいのでしょうか、と言うと、もちろんそうではありません。

 私達が持つべき信仰があり、なすべき悔い改めがあり、担うべき務めがあります。

 それは決して神の恵みを勝ち取るための手段ではないのです。そうではなくて、神の恵みが先行するのです。まず神の愛と救いが、私達の所に力を持って来るのです。それに対して、私達は「応答」を求められているということなのです。

 信仰の応答、悔い改めの応答、使命を担う応答、…御言葉は、語られる時、私達の応答を求めます。神の恵みがすでにやって来たという時、私達に求められていることは、その恵みを無駄にしないで応答するということです。

 では、私達は一人一人どのように応答して行くのでしょうか。今日の御言葉から教えられることは、御言葉の権威ある力こそが鍵だということなのですから、私達はまず、その御言葉の恵みを大切に受け止めて行く、ということでしょう。

 では、御言葉の恵みを大切に受け止めるには、どうすればいいのでしょうか。

 それは、私達が、一回一回の礼拝を大切にして行く、そこで御言葉を受け止めて行く、ということに他なりません。そしてまた、毎日毎日のディボーションを大切にしてゆく、そこで御言葉を受け止めて行く、ということでしょう。

 教会には、多くの集会が用意され、そこで御言葉が語られています。…毎朝6時の早天祈祷会では、「日々のみことば」に従って御言葉を頂き、祈りをして、一日をスタートします。日曜日のこの礼拝はもちろんのこと、教会学校でも、その前の聖書を読む会でも、御言葉が語られています。火曜の礼拝もあります。そして、水曜夜の祈祷会、木曜午前の祈祷会、家庭集会、その他数個ある聖書を学ぶクラス、…色々な教会の集会で御言葉が語られています。

 その御言葉は必ず何事かをなすのだという、御言葉楽観主義に立って、私達はその一つ一つを大切にして行きたいのです。

 自分はその時間は参加できない、と簡単に言わないで、月に一度でも、たとえ年に一度でも、またたまに時間が取れた時でも、御言葉にあずかることを大切にするということ、これが、神のみ業が満ちて行く人生の姿だと思います。

 そして、大切なのは教会の集会だけではありません。私達には個人で家庭で御言葉の恵みを頂くことが必要です。

 毎日の個人のディボーションを大切にしたいですし、クリスチャンホームならば夫婦で聖書を開く、親子で聖書を開く、そういう機会も大切でしょう。

 今年私達は、そういうディボーションの充実に取り組もうということを、大切な方針の一つとして掲げています。

 新しくクリスチャンになられる方に、必ずディボーションの大切さ(毎日熱心に聖書を読み、毎日熱心に祈る)をお話しますが、その時申し上げることは、これが大切と思って取り組んでも、誰でも必ずくじけます、ということです。でも何度くじけてもいいのです、諦めないで、必ず再チャレンジして、生涯御言葉と祈りとに取り組んで頂きたいのです、ということです。

 これは人に申し上げるというよりも、私自身が自分に言い聞かせて来たことでもあります。まったく、志して始めたディボーションに何度くじけてきたことでしょうか。しかしそれで諦めるのではなくて、旧約聖書で預言者エリヤが、「壊れていた主の祭壇を立て直した」という記録がありますように、私達は繰り返し、自分の祭壇を立て直すことに取り組んで行くことが大切なのだと思います。

 皆様の今の祭壇はどうでしょうか。ホコリが積もったと思う方は、もう一度ホコリを払って新たな思いで、また、壊れているという方は、もう一度立て直して、神の御言葉と祈りに、今年取り組んで行きたいと思います。

  そのことを表現しているのが、今年の標語(先週の教会総会で決めました標語)の後半部分です。

「とこしえに真実な主を知り、今を御言葉に生かされる。」

 先週教会総会を終えて、今年の標語を掲げた私達は、今日、この基本を再確認して、しっかりと取り組んで行きたいものです。

 さてでは、そのようにして、御言葉と取り組んで行くと、どうなるのでしょうか。

 今日の御言葉にある通りのことが、私達にも起きるのです。

 何が起きたのでしょうか。三つのことを見ます。

 一つ目は、御言葉の権威と力への驚きが引き起こされました。

32節、「人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。」

 私達は、神の御言葉に養われて行く時に、驚かされます。すごいことが書いてあるからです。こんなのは、人間には到底語り得ない。確かにこれは神の言葉だ、と驚かされます。私の人生を変える神の力、この世界をひっくり返す神の力を、あちこちに、色々な場に見て驚きます。

 二つ目は、解放の出来事が起こります。

35節、「イエスは彼をしかって、『黙れ。その人から出て行け。』と言われた。するとその悪霊は人々の真中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。」

 私達は、悪霊につかれてはいないかも知れません。しかし、皆が神の解放を必要としています。私達は色々なものに捕らえられ、縛られているからです。

 私達を捕らえ、縛るものとは何でしょうか。

 私達にとって問題なのは、この人の場合のような悪霊だけではありません。私達の心を内側から捕らえるものがあります。……自己中心の思い、人に対する悪い思い、人を傷付けるあり方、また、自分の心に傷を抱えている、また、私達の弱さ、愚かさ、鈍さ…私達は、そういうもの全てから解放される必要があります。しかし、自分の力では解放されないのです。イエス・キリストの御言葉が、私達を解放する神の力を持っていると、聖書は言うわけです。

 あるいは外から、逆境が、苦難が、圧迫的な状況が、私達を抑え付けています。色々なものが私達を捕らえていますから、私達は多くのストレスを抱えています。気付いているストレスも、気付いてすらいないストレスもあるでしょう。…何がそこから私達を解放してくれるのでしょうか。

 イエス・キリストの御言葉が、私達を解放する力を持っています。真理の御言葉の光に照らされて、私達は目を開かれて、初めて自分のありのままの姿が見えるようになります。自分を取り巻く状況の本当の姿が見えるようになります。そして何よりも大切なことは、神様……全ての支配者であり、解決者、解放者である神様……が、見えるようになるのです。

 自分には出来ない解放、他人に頼っても駄目なことが、神の御言葉の力によってもたらされて来るのです。それが、イエス様が宣言したことであり、聖書が教えていることだと思います。

 その解放の出来事が、まず、礼拝の中で、御言葉の宣教によって解放がもたらされるのです。私達の礼拝は、その解放を頂いて分かち合う、喜びの場なのです。

 三つ目は、そのようにして私達に驚くべき御言葉の力によって解放をもたらす神の国が、私達の回りに広がって行く、ということが起こります。

37節、「こうしてイエスのうわさは、回りの地方の至る所に広まった。」

 どこに広がって行くのかは、また次の箇所に出て来ることですが、とにかく、私達の喜びがこの場に満ちるだけではなくて、神の国はあふれて広がって行く力を持っています。家庭へ、職場へ、地域へと広がって行くのです。その中心に、御言葉の力があるのです。

 私達は、御言葉に接する時に、時には痛い思いもするのでしょう。34節の悪霊のように、恐れの思いに呻くこともあるのかも知れません。しかし、その御言葉の働きの中に、解放の力、救いの力があることを体験して本当の喜びを知り、御言葉を受け止めて、喜びを仲間と共にして行く歩みを、と願っています。


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