復活の福音

多磨教会牧師 広瀬 薫

コリント人への手紙第一15章1〜11節

1コリント 15:1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。

1コリント 15:2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

1コリント 15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

1コリント 15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、

1コリント 15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

1コリント 15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

1コリント 15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。

1コリント 15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。

1コリント 15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

1コリント 15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

1コリント 15:11 そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。


 今日イースターに、「復活の章」として知られる、コリント人への手紙第一15章を開きました。

 イエス・キリストの復活とは、今ここで生きる私達にとって、何を意味するのでしょうか。

 それは私達に、神に生かされる人生というものは、どんなことが起きても決して諦める事はない、決してもうダメだということはない、決して絶望はない、ということを教えます。

 人生で、私達を諦めさせるものは何でしょうか。私達にもうダメだと言わせ、絶望させるものは何でしょうか。・・・色々とあるでしょうけれども、その最大最強のものは「死」であります。

 他のことは何とか出来たとしても、金でカタをつけたとしても、死だけはどうにもなりません。

 人間は死を見る時に、「もう諦めよう、死んだのだ」と言うのです。「もうダメだ、死んだものはどうにも出来ない」と言い、「私は死ぬのだ、絶望だ」と言うのです。

 事実、イエス・キリストが十字架上で死んだ時、弟子達は、「諦めよう、もうダメだ、もう絶望だ」と思ったのです。

 あの時、十字架上に死んだのは、イエス・キリストだけではないのです。弟子達の希望も死んだのです。彼らの生きがいも死んだのです。やる気は完全に失せたのです。

 ところが、その彼らの諦めをひっくり返す衝撃的な出来事が起きました。それが、イエス・キリストの復活です。

 私達人類の最大最強の敵である死が打ち破られたのです。ならば、人生には私達を諦めさせるものは無い、もうダメだと言わせるものは無い、絶望は無いのです。だから、あなたは人生を諦めるな…私達に引き寄せて言えば、夫婦の結び付きを諦めるな、仕事がもうダメだと言うな、家庭が絶望だと思うな、ということです。この世でどんなに暗さ苦しさがあっても、たとえ死の中でも、それをひっくり返す神の御業があるのだということです。神の御業により、今の悲しみは必ず喜びに変わる、苦しみは必ず栄光に変わる、絶望は必ず希望に、憎しみは必ず愛に、…変わるのだ、ということ、これがイースターのメッセージです。諦めをひっくり返す力、それがイエス・キリストの復活です。

 今日の聖書の箇所には、人生の諦めをひっくり返された人たちのリストが出てきます。

 では、聖書に入ります。

コリント人への手紙第一15章1節。

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。」

 皆さん、福音とは何でしょうか。

 「福音」という言葉の意味は、「良い知らせ」ということです。世間でもそう使われています。

 例えば、痩せたい方に福音…飲むだけで痩せられる薬、とか、受験生に福音…寝ている間に英単語が覚えられる装置、といった具合に使われます。要するに、問題や困難を抱える人に、あなたのその必要を満たすものがあります、という時、それを良い知らせ「福音」と呼ぶのです。

 ですから、この15章1節でパウロが、「私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。」と言うのは、「私は今、あなた方の必要や困難を満たし解決するものを知らせましょう。」と言っているわけですから、これはすごい言葉です。

 では、この福音は私達に何をもたらしてくれるのでしょうか。先を読みますと、

1節後半〜2節、

「これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」

 要するに、「この福音によって救われる」と言うのです。聖書の「福音」とはこれです。

 逆に言うと、聖書は、人間には「救い」という必要があるのだと言っているわけです。

 「救い」…私達が本当の人生を生きるために、これが必要だと言うのです。

 私達が本当の人生を生きることを妨げるものがあります。・・・罪、過ち、心の傷、孤独、不安、不満、災い、苦しみ、病、…色々なものが私達の人生を縛っています。その最大のものは「死」でしょう。誰も死から逃れることは出来ません。しかし、聖書は、これら全てからの「救い」がある、解放があると言っているわけです。単に楽に痩せられるとか、成績が上がるとかいったちっぽけな御利益ではありません。もっと大きな、私達の全ての問題を解決する真理の力、それが「福音」です。 さてパウロは、救いをもたらす福音なのだ、と切り出し、更に次のように述べます。

3節、

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。」

 いいですか、救いをもたらす福音の中心点、最も大切な点はこれですよ、と念を押して、その内容を確認するわけです。皆さんならば、聖書の中で「最も大切なこと」は何だと思われるでしょうか。ある方は、イエス・キリストの教えだと言うでしょう。ある方は、イエス・キリストの愛に満ちた善行だとおっしゃるでしょう。

 しかし、違うのです。ここで「最も大切なこと」として上げられているのは、イエス・キリストの十字架の受難と復活の出来事なのです。

3〜5節、

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」

・・・まとめれば、二つ、「十字架と復活」です。これが私達を救う力を持っているのです。

 これが大切だとなぜここで強調されているかというと、当時すでにこの点で教えを歪めようとする人達がいたからだと言われています。特に、復活を否定する人達です。それが後にグノーシス主義と呼ばれる異端となり、今日まで尾を引いてリベラリズムの復活否定論の誤りに受け継がれています。また、エホバの証人は復活を否定しますし、統一教会は十字架と復活による救いを否定することからのわかりますが、異端の誤りというのは、皆この点に関係しているのです。

 それでパウロは「最も大切なこと」を再確認しています。「十字架と復活」はキリスト教の中心であり、また、不信仰の入りやすい所なのです。ですから、今日私達は、しっかりと聖書に立った正統的な信仰を確認しておきたいものです。

 さて、復活は、私達に何を意味しているでしょうか。

 教理の本を学びますと、復活は以下のようなことを意味します。

*聖書の救いが完成した。 

*死に対する勝利の現れ。 

*キリスト者もやがて復活して共に神の国に生きることの保証を見せた。 

*新しい永遠の命に私達を生かす。 

*イエス・キリストが救い主なる神であることを示す。

・・・これらは、私達の救いの確実な根拠がここにあるという点で、教理として大切なことです。

 ところでパウロは、今日の箇所で、そういう教理よりも、むしろ復活の私達への訪れを語っています。私達にとっての意味、つまり、復活のキリストと私達一人一人徒の出会いを記しています。

5〜8節、

「また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」

 皆さん、このリストによってパウロは何を言いたいのだと思いますか。

 一つはもちろん、復活がいかに確かな事実であるかを示したいのでしょう。

 そしてもう一つは初めに申し上げたことですが、復活のイエス・キリストに出会う人生には諦めやもうダメだや絶望は無いのだということを言いたいのです。

 順にリストを見ながら考えてみましょう。

「また、ケパに現われ」

 福音書を見ますと、キリストが十字架にかかる頃、弟子達はどうしていたかというと、皆、主であるキリストを見捨てて逃げてしまい、家に閉じこもり隠れておびえていました。特に弟子筆頭格であるペテロ(ケパ)は、主イエスについて行って問い詰められ、三度も主イエスを否定する有り様でした。・・・弱い、その点で全く私達と同じペテロです。我が身大切で主を裏切ったペテロは、もうダメだ、絶望だ、のペテロなのです。

 しかしそのペテロが、突然立ち直り、再び弟子のリーダーとなり、福音宣教を大胆に始め、しかも今度は、迫害されても堂々と苦難を受けて立ち、証しを貫くような人間になったのです。何が彼に起きたのでしょうか。・・・これは、新約聖書を真面目に研究する全ての人々にとっての最大のミステリーです。・・・何が「もうダメだ絶望だ」の彼を変えたのでしょうか。

 聖書の答は、彼は復活のイエス・キリストに出会ったのだ、ということです。

◆次は、「それから十二弟子に現れたことです」

 十二弟子の変化も同じです。何故、彼らは急に変わったのでしょうか。

 弱く、逃げていた彼ら。自己中心、我が身大切の彼ら。トマスのように、イエス様の復活を聞いても、イヤ俺は信じない、この手でイエス様の手のひらの釘の傷、わきの傷に触って見なければ信じない、と言い張っていた弟子もいました。・・・もう諦めろ、もうダメだ、もう絶望だ、の集団です。

 それが何故、イエス・キリストの証人となって、全世界に福音を宣べ伝え、教会をそこら中に立て上げ、最後は死に至るまで忠実な者となったのでしょうか。

 聖書の答は、彼らは復活のイエス・キリストに出会ったということです。

◆その次は、「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」

 弟子達ばかりではない。復活のイエス・キリストに出会った人々は五百人以上いると言うのです。あらから年月が少々たちまして、もう死んだ人もいるけれど、大多数はまだ生きているから、もしあなたがイエス・キリストの復活を嘘だと疑うならば、彼らに聞いてみたらいい、という自信満々のチャレンジがここにあります。ここには、イエス・キリストが生きた直後の時代の、まだ生き証人が沢山いるという力強さがあります。

◆その次は、「その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。」

 ヤコブというのは、イエス・キリストの弟です。しかし福音書を読むとわかることは、イエス・キリストの家族は、イエス様の生前、信じなかったということです。ある時は、イエス様が「気違いになった」と思いこんで、連れ戻しに来たほどです。彼らは、不信仰な、諦められるべき人々に見えたのです。

 ところがそのヤコブが、すぐに(使徒の働きを見るとわかりますが)、教会のリーダーの一人になっているのです。これは驚くべき変化です。一体ヤコブに何が起こったのでしょうか。

 聖書の答は、彼は復活のイエス・キリストに出会ったということです。

◆そして極めつけは、その次の8節からのパウロ自身です。

「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」

 パウロは、復活のキリストに出会った多くの証人達を並べて、「彼らを見よ」「彼らの人生の革命的大変化を見よ」と指差したその後で、「私にも」と自分を指差すのです。

 これは、あのダマスコへ向かう道で、復活のイエス・キリストに出会った体験を指しているのでしょう。しかしそれにしても皆さん、「私も復活のイエス・キリストに出会った」と言って自分を指差すパウロの言葉を見て下さい。

8節、「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」

 「月足らずで生まれた者」つまり未熟児という言い方は、当時の言い方としては「できそこないの人間」「人間失格」ということでした。

 そして、9節、「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」

 あのエリート出身のパウロはここで、自分の人生の中での最大の汚点をさらけ出して見せるのです。・・・パウロは使徒です。キリストから任命されたのです。しかし、彼の経歴には大きな傷がありました。彼はクリスチャンとなる前に、キリスト教に反対し、教会を迫害していたのです。

 これは彼にとって、経歴の傷であったばかりではありません。それは、心の傷、良心の傷、後悔、自己嫌悪、コンプレックスとして、深く突き刺さっていたのです。

 出来れば忘れたい。人になど言いたくない。・・・思い出す度に、俺はもうダメだ、俺は神の前に絶望だ、と思いたくなる過去なのです。

 しかも現実には、パウロを辱める人々が教会にもいて、「あいつなんか使徒ではない」「あいつなど、仮に使徒であっても小者であって、価値のないできそこないの男だ」「あいつはかつての敵であり、迫害者ではないか」と攻撃し、後ろ指を指していたのです。

 パウロはここで、何を言いたいのでしょうか。・・・確かに私はできそこないである。価値の無い者である。小者である。かつての迫害者である。…それは全部認めよう。しかし、しかしだ。私はあなた方に知ってもらいたいことがある。それは、こんな私にも復活のイエス・キリストが現れて下さり、全てをひっくり返して救って下さり、私を新しい命にあふれた人生に生かして下さったということなのだ。・・・私は辱められてもよい、いや正に辱められるにふさわしい人間なのだ。それは認めよう。しかし、・・・皆さん、続く10節をご覧下さい。

10節、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」

 復活のキリストは、ケパ(ペテロ)、ヤコブ、使徒達、弟子達を変えたばかりでなく、この私を変えたのだ、とパウロは言うのです。・・・できそこないの私。小さい者、価値の無い者である私。教会を迫害するという、過去の大きな傷を持つ私。ところが、・・・

「神の恵みによって」・・・復活のキリストとの出会いによって、「私は今の私になりました」

 そして、「私に対するこの神の恵みは、むだにはならず」・・・こんな小さな私が、神様の大きな働きをするという意義深い人生を歩むようになりました。誰よりも多く働きました。しかし、「それは私ではなく、私にある神の恵みです。」・・・これはパウロが自分の人生を振り返って述べる感激の言葉なのです。このパウロが、この後の歴史を変えるのです。いや、このパウロをひっくり返した復活のイエス・キリストの、その復活の力が、パウロを通して世界の歴史を変えて行ったのだと言った方がいいでしょう。

 このことが何を意味しているかと言いますと、その復活のキリストが、今日もここに生きておられて、今ここで生きる私達をも変えるということです。この福音を信じる者を救って下さるのです。

「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」(2節)

 彼らを変えたのと同じ力によって、主イエス・キリストはあなたを変えて下さるのです。あなたに新しい命を与え、あなたに神の恵みをあふれさせ、大きな働きをさせて下さるのです。

 あなたはこの復活のイエス・キリストを信じるでしょうか。

 もし信じるとすれば、・・・

 私達はそれぞれ色々な人生を歩んで来たでしょう。それぞれに違った過去を持っています。

 そこには嬉しいことも悲しいことも、心の傷もあるでしょう。

 けれども、10節の言葉、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」・・・これは、私達全てに起こることなのです。私達全てが口に出来る言葉となるのです。こう言える新しい世界が開けるのです。・・・これが聖書の復活のメッセージです。

 今日イースターに、私達は、このパウロが手にしていた世界を、各自のものとして信仰によって確かめ、更にしっかりとそこに立って歩み行けるように祈りましょう。


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